くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

日々(ひび)徒然(つれづれ) 第三十八話

2020-09-05 20:36:10 | はらだおさむ氏コーナー

二階の書棚

    

  来年の一月十七日は、阪神淡路大震災25周年のメモリアルデー。

 

あのとき倒壊した我が家の跡に、急遽新築した二階の小部屋には、奈良(正確には京都府木津川市)浄瑠璃寺の矜羯羅(こんがら)童子の写真が鎮座している。

  この小部屋は狭いながらもわたしの城になるべきで、窓に向かって机、右は小さな観音開きのケースに続いてがっしりした木製のスライド式五段書棚、左の奥は回転式ハンガーラック、手前は七段の衣類・小物ケースなどで埋まっている。

仕事を終えて、持ち帰ったXPをデンと一階のリビングに据えたため、いつの間にかその周辺に手作りの五段(一部三段)の書棚がならび、大きなテーブルはいまや私専用になってしまって、そこに数年前から置いたノートパソコンの横には、古文書の辞書や図書館から借りてきた本などが雑然と置かれている。

 矜羯羅(こんがら)童子は二階の部屋に鎮座したままだが、寝室が二階にあるため一日に一回は声をかける。もう四十年近くの付き合いになるのか・・・。

 あのとき 元学友たちと猿沢池の近くで宿をとり交歓の宴(うたげ)の翌朝、だれの発案だったかバスで浄瑠璃寺へ向かったのだが、工事中か何かで阿弥陀堂の参観は出来ずに、売店で手にしたのが、この童子の写真であった。

 阪神淡路のあのときまでは、一階の居間の机の上の壁に、中国の大同石窟寺院の仏像写真と並んで飾ってあったが、後者は倒壊したがれきの下にくだけていた(身代わりになってくれたのか・・・)。

 

  こんな話を昨初冬 薬師寺と唐招提寺を参観したとき(<「日々徒然」第27話 初一念>ご参照)、奈良在住の友人に話していたのだろうか、初秋のころ、紅葉と秘仏・吉祥天女立像(重文・鎌倉時代)の開扉日をセットにした交遊プランの案内があった。

前日海外視察から帰国したばかりの参加者もあったが、11月も末、近鉄奈良駅に集合できたのは6名になっていた。

 昼食は奈良町、世界遺産・元興寺を通り過ぎての『玄』(手挽きの十割そば)で。すこしぬる燗の酒の香を残して、タクシーで浄瑠璃寺へと走る。

 

 最後の紅葉を愛でんと集う人波をくぐりぬけ、九体阿弥陀堂(藤原時代)に向かう。なぜか、加古隆の“阿弥陀堂だより”のメロディが浮かぶが、廊下を走りつたう猫のあとを追って、堂内へと足を踏み入れる。薄暗いなか、黄金の阿弥陀如来坐像を横目に、開扉中の秘仏・吉祥天女立像も拝顔中の人波を避け、わたしはひたすら“わたしの” 矜羯羅(こんがら)童子を追い求めるが・・・、ない。もう出口にまで来てしまっている、見落としたのだろうか、もう一度戻ろうかと思案したとき、出口のわきの小さな売店の陰に人影があった。思わず、“請問一下(チンウエン、イシャ)”と出かかった中国語を呑み込み、童子のありかをお尋ねすると、この、目の先、あの薄暗い中におられると。童子は、不動明王の眷属、その左脇の立像であるとは承知していたが、その薄ぐらい闇のなか見透かしてみると、不動明王像そのものが一メートル足らずの立像で、矜羯羅(こんがら)童子像は尺にも及ばないものであった。また、そのお顔がわたしの部屋の額縁に収まって、毎日言葉を交わしている、あの優しいお顔ではない。オメェ~、挨拶に来るのが遅いじゃね~か、と怒っているような顔立ち。わたしは思わず、後ずさりせんばかりに恐れをなして、売店の方に問う。なにか、わたしの持っている写真の主(ぬし)とは、違うような・・・。仏様は、光線の加減や写す人の姿勢、シャッターチャンスなどでそのお顔が変わるらしいですね、・・・と。わたしは心残りしながら、それでももう一度拝眉もせずに、堂宇をあとにした。

 帰宅後、額縁から取り外してわたしの矜羯羅(こんがら)童子の写真の裏を見ると、「永野鹿鳴館」との印字があり、永野太造氏(故人)撮影のものとわかった(添付の写真は比較的わたしのものと相似しているが、永野氏のものではない)。

 念のため、図書館で『入江泰吉写真集 仏像の表情』(新人物往来社・2011年)を手にした。これには、矜羯羅(こんがら)童子像はなかったが、巻末の「佛像と私」(入江泰吉)のつぎの一文には、首肯するものがあった。

 「佛像の表情(この場合は如来、菩薩型)というものは、写真のライトの角度のように、私たちが、佛像にふれるときの心のありかた、うけとりかたによって、その表情もさまざまな、あらわれを示されるのかも、わからない、そうだ、とすると、もともと、佛像の表情とは、無表情の表情、ということになるようである。

 この『佛像の表情』に収録したそれぞれの佛像の表情に、皆さんの心のライトをあてて、見ていただきたい、とねがうものである」

 

 二階の書棚の半分は、仕事のからみで読み、買い集めたものだが、残りの大半は作者や作品にばらつきがあり、出張や旅行の余暇・入院などのすさびに読み続けたものも多い。

 そのなかで、吉村 昭の作品は愛読して全作品、東西緊張時にはフリー・マントルのスパイものに時間を費やし約30冊、わたしのバイブルとでもいえる竹内実先生の『毛沢東 その詩と人生』はもう黄ばんだ箱入り、堀田善衛の晩年の大作『定家名月記私抄』や『ゴヤ』は箱入りで眠ったまま。司馬遼太郎や堺屋太一の作品にはえりごのみがある。藤沢周平は、この二十余年来の病床の付き合いで40冊ほど、棚に入らず床に寝ている。

 いま本文の執筆で二階の机上を覗いたら、読んだふしもない『神権と特権に抗して―ある中国「右派」記者の半生』、いまでも通用しそうな題名だが、03年刊、戴煌著・中国書店刊もほこりにまみれている。

 数年前、若くして天国への階段を駆け上った友人の形見分けにいただいた本のいくつか、『長江文明の探求』(梅原猛・安田喜憲著、04年刊・新思索社)は既に読んで、一階の書棚に来ているが、この本・何清レン(シ+蓮)著『中国 現代化の落とし穴―噴火口上の中国』(02年、草思社)はいま二階から下ろしてきたばかり。故人はかなり読み込んだのか、随所に折り目があるが、大きく折り込んだページの小見出し<黒と白の合流―「赤い帽子」をかぶる黒の親分>に手が止まった(完)。

                                                                                    (2019年12月8日 記)