くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

 日々(ひび)徒然(つれづれ) 第三話

2020-07-31 13:40:03 | はらだおさむ氏コーナー

ソウリー、タイピーオンリー

 

  先日「デモで苦境を訴える観光業者(9月14日、台北市)」の写真とその新聞記事を読んで、あのときの光景を思い出した。

 

  もう数年前のことになるか、前から計画していた「阿里山観光」のため  雨の桃浦空港から市内へ向かう途次立ち寄った「陶磁器の町」鶯歌でのこと。

陶磁のマグカップでおいしそうにコーフィーを飲んでいるカップルを目にして、思わず可憐なウェイトレスに「レンミンピ、クウイマ?」と声をかけたとき、「ソウリー、タイピーオンリー」とすまなさそうに言われた。

 もう日本でもお目にかかれない大正ロマン風―竹久夢二の描く少女の風情であった。

  国民党の馬英九総統が政権を握り、海峡両岸の交流が拡大し始めていた。   わたしもその現場を確認しようと、その前の年にはアモイから金門島まで日本人団体旅行第一陣として船で渡ったが、そのとき大勢の中国人ツアーも船を連ねて金門島に押しかけていた。現地情報によると、大陸からの船便は一日32便、乗客九千人/日とのことであったが、今後は蒋介石のふるさと・浙江省からは三千人/月の到来が見込まれているとのこと。いまから思えばまだ政策的ツアーであったか、金門島の土産物店に群がる観光客はレンミンピー(毛沢東)を振りかざして買い物に熱中していた。

 タイペイでは、孫文か蒋介石の台幣しか使用できない商店(両替は可)で、正価販売に食って掛かる大陸のツアー客相手にウンザリして、わたしたちにウインクする店員たちの姿があった。まだ台湾観光がはしりの、大陸からのツアーであった。

 

 この記事(「日経」朝、10月17日)の見出しは、横に二本「中国との直接対話停止」「台湾、民間交流に波及」縦に「中国人客減、観光に影」とこのデモの背景を紹介している。

 たしかにこの数年の中国からの訪台者は、台湾の観光地を埋め尽くし、美術館や歴史建造物などでは、他の参観者にもお構いなしに大声で叫びあう人たちのむれは、まさに顰蹙の対象にもなっていた。

 しかし、昨15年の統計をみると中国からの訪台者414万人のうち、その

80%は観光目的であるが、その4割が個人旅行に変化していた。これは注目すべき発見であった―言葉の不自由も感じない~リピーターも増えて来ているのかも知れない。

 この記事では「親中路線の馬英九・前政権下の8年間で(大陸からの訪台者は)13倍近くに膨らんだ。だが今年5月の蔡政権発足後は減少に転じ、8 月は前年同月比3割も減った」とあるが、実数で見るとそれでも25万人の中国人が台湾を訪れている。観光業者は騒ぐだろうが、この数字は見落としてはいけないだろう。

 

 わたしは数年前、ある会合で「台湾が中国を変える」と題して私見を述べたことがある。

 それは独断と偏見の私見に過ぎないが、中国の改革開放が始まって中国の保守派長老が「窓を開ければハエが入る」と反対したとき、ある人が「金網を張ればいい」と押し切った由。それでも、テレサテンの歌声はその金網を越えて中国人のこころをつかんだ。

 八十年代前半、ある経済視察団を案内して深圳に行ったとき、女性服務員(と当時呼んでいた)に当時の習慣で“同志(トンジィ)”と声をかけたら見向きもしなかったが、“小姐(シャオジエ)と呼び変えると、いそいそと用を達してくれた思い出がある(いまはまた、この小姐は禁句のようだが・・)。

 同後半、田舎の駅ではじめて中国製ラーメン(「康師傅」)を食べた。出迎えの人も同行の通訳も、これが台湾企業の、メイドインチャイナであるとは知らなかった(たしかに中国製であるが・・・)。  九十年代になると、対中投資がブームになる。

 上海の閔行経済開発区には台湾企業の進出が多く、そのなかには日系企業がバックアップまたはタイアップしている製造業も多かった。

 李登輝総統の民選時、中国は台湾を威嚇したが、そのころ中国のエライ人の子弟が台湾企業のトップに居座っていたと後で聞いて、驚いたことがある 。   

台湾企業は製造業から第三次産業も抑え、夜の社会にも食い込んでいた。

 その闇の後始末は、どうなっているか・・・。

 

 台湾の民進党政権が発足して、中国からの訪台者が減ったとデモ行進した裏には、蔡政権を揺さぶろうとする中国の意図が感じられる。

 しかし、”爆買い”の訪日が減っても、毛丹青さん責任編集の『在日本』が綴っている〝中国人がハマった!ニッポンのツボ″が語るように、台湾の魅力にとらわれた人たちは、同じような感動を台湾に見つけるだろう。そして同じ「中華民族意識」のなかで、いろんな発見をしていくものと思われる。

「毛沢東」と「孫文」のことも、そしてこれからのことも・・・。

 

                  (2016年10月18日 記)

 


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第二話 (2016.10.3)

2020-07-30 16:08:18 | はらだおさむ氏コーナー

隠 し 田

  かくしだ(またはオンデンとも)の存在は、古来より支配者の苛酷な収奪に対応する庶民の抵抗を示すものであったが、発見されれば見せしめに厳罰が科せられた。しかし、江戸中期以降にもなると荒地の開墾や新田の開発などを奨励するため、有期の無上納や低額の献納策をとる領主も出現、新田開発が進行した。

 

  八十年代のはじめ、「改革開放」が称えられはじめた中国ではあったが、中央財政の三分の一以上は、上海からの上納金で支えられ、地元ではその住宅難、交通難などに対処するにも、鐚(びた)一文のカネもなかった。

  わたしは82年から対中投資諮詢の仕事をはじめ、頻繁に上海を訪問していた。市内を貫流する黄浦江は上流まで3千トンクラスの貨物船が往来するため橋が架けられず、対岸の浦東地区へは艀しか交通手段がなく、広大な未開発地が横たわっていた。

  当時の上海では、「都会戸籍」を持つ「上海市民」は旧市街地の数百万人のみで、操業を始めた宝山製鉄所のある「宝山県」ですら地元の住民は「農村戸籍」であった。非農業収入が80%以上になって、はじめて「県」から「区」

 となり、住民もはれて「都会戸籍」を持つ「上海市民」となる。いまでは長江下流に浮かぶ崇明島のみが上海での唯一の「県」で、他はすべて「区」(16)となった。

  88年の秋、上海で開催した「日中中小企業経済シンポジウム」のとき、見学に案内された「シンドラー・エレベーター」の工場は、「閔行分区」にあった。90年代初期に認知される「閔行経済開発区」の前身、上海の“隠し田”であった。

  後日、オールド・シャンハイ、むかしは城壁に囲まれていた南市区はのちに上海万博の会場にもなった黄浦江の対岸に「分区」を持っており、文革時の“屯田兵”は金山県に星光(イスクラ)工業区を形成していたことを知る。

 

  「6・4」のあと、どのような経緯でまとめられたのか、いまだ明らかにされていないが、上海市の関係者が中央に上申していた「浦東開発」が当事者の具申をはるかに上まわる内容になっていたー「国有地の有償譲渡」である。日本を含む西側諸国は、またまた大風呂敷をと冷笑したが、華僑・華商の琴線に触れるものがあった。

  土地の有償譲渡が国有地にとどまらず、農村の集団所有の「耕作地」まで

 その対象となるのに二年も要しなかった。虹橋空港に隣接する農村での合弁契約の手付け金に人民元(現金)を要求され、その入手に苦労したことを思い出す(外貨兌換券が廃止されたのは95年1月である)。

 

  あれから二十余年が経った。

  農村であった「県」に合弁企業を設立、採用した地元出身の従業員もいまや集団所有の農地を活用、マンションや商・工業団地への出資者となって左うちわのご身分であるが、それでもマイカーでご出勤。工場の片隅で雑談にふける。数年後の退職金と年金がたのしみの、ゴッドマザーたちである。

  “隠し田”が金の卵になったのか、政府主導のベースアップに“骨抜き”になったのか・・・。

  

  「衣食足りて、礼節を知る」⇔「衣食足りて、尚、礼節を知らず」(了)

 

                 (2016年9月28日 記)

 


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第一話

2020-07-29 19:15:24 | はらだおさむ氏コーナー

信長 焰上

♪夏がくれば 思い出す・・・♪と口ずさむと、わたしには、♪・・・はるかな尾瀬 遠い空♪(「夏の思い出」)の風景ではない、「墨でぬりつぶした」あの教科書のことが頭に浮かぶ。

 

 1945年の8月は、暑い夏であった。

 疎開先で迎えた国民学校五年生のわたしは、農繁期休暇(農作業手伝い)の振替による授業再開(二学期の始業)で、20日過ぎに登校すると、先生から教科書の“国産み”神話のページなどを墨で塗りつぶすように言われた。

 後年病床にあったとき、それはわたしの“しみ”のひとつとして、作詩のワンフレーズになったが、敗戦直後のこのできごとは、「教科書の歴史」をそのまま読み通せない習性を、植えつけてしまうことになったのかもしれない。

 新制中学(一期生)では「国のあゆみ」という薄っぺらな教科書があったが、なにひとつ頭に残っていない。むしろ静岡の登呂遺跡見学や大峰山登山、奈良の寺社めぐりなどは、いまでも鮮明に記憶している。

高一の夏、炎天下の発掘調査に誘われて参加したが、滴る汗に眼鏡も曇ってギブアップ。図書室で手にした羽仁五郎の『日本人民の歴史』に、刮眼した思い出がある。

 

古文書を勉強しはじめてから、10年が過ぎた。

根が飽き性で、すこし読めるようになると、ほかのことに関心が移る。

誘われて、日本史(中世)の読書会に参加して三年ほどになる。

網野善彦『日本中世の百姓と職能民』(平凡社)はむつかしかったが、先達のリードでそれなりに興味が湧いた。

ついでとりあげられたテキストは、天野忠幸『戦国期三好政権の研究』(清文堂出版)。戦国前期の、昨日の敵は今日の友といえるか、混沌とした合戦における主導権争いの、その政治経済史的観点の学術書であったが、これはのっけから拒絶反応。辛うじて席についていたが、わたしの貧弱な知識のなかで、この戦乱の時代、天皇は歴史の表面から消えていたと思いきや、著述の正親町(おおぎまち)天皇(第106代)が、わたしの頭に食い込んできた。

 

弘治三年(1557)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚(就任)した正親町天皇であったが、財政難のため、即位の礼が挙げられたのは三年後のことであった(西国の雄、毛利元就の献金などによる)。天皇には、元号の制定(改元)・官位の授与・書状(綸旨)の発給・暦(太陰暦)の改正などの職務・権限があり、戦国大名は上京し、位階(栄典)の授与を享けることでその勢威を明らかにしようとしていた。

信長は、どうであったのか。

尾張時代 かれは上総介と名乗っていたが、これは私称。

早くから「天下布武」を唱え、上京を繰りかえしていた信長は、足利義昭を傀儡に「室町幕府」を再興、朝廷にも財政支援する。「政敵」対抗には天皇の勅旨を求めて、石山本願寺などを排除、意に従わない義昭をのちに追放、天皇に「征夷大将軍」の官名を求めるが拒否される(まだ関東の武田や北条を平伏していない)。

天正10年(1582)5月 朝廷は信長に三職(征夷大将軍・太政大臣・関白)を推認するが、信長は天皇の安土城行啓時に返すると。暗に正親町天皇の譲位をも求めていた信長の態度に、朝廷側(太政大臣近衛前久など)は憮然とする。

6月2日の「本能寺の変」の直接の下手人は、明智光秀であるが、信長に追放された義昭の「鞆幕府」とそれに繋がる毛利輝元、光秀と同盟の長宗我部元親、光秀の筆頭家老・斎藤利三の暗躍など、「信長包囲網」が形成されていた(藤田達生『謎とき本能寺の変』講談社現代新書)。

貧すといえども、朝廷の権威が朝野に存していたのである。

 

秀吉は光秀軍を一蹴、のちに捕らえた斎藤利三を六条河原で磔刑に処し、その威を天下に示す。

天正16年4月 後陽成天皇(正親町天皇の孫)は、秀吉(太政大臣)の築いた聚楽第を行幸する。「本能寺の変」後、わずか六年で天下を平定、すべての領主が秀吉に臣従していた。

 

二年後の文禄2年 戦国後期の31年の長き亘り在位されていた正親町天皇が崩御された、没年75歳であった。

 

夜も長くなるこれからの季節 「歴史を反芻する」ことも、また一興であろう。

 

              (2016年9月8日 記)