くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

2016年冬頂きもの

2016-12-27 11:04:49 | 日々の出来事

今年もあとわずか 早すぎる

とりあえず まとめてUP

まずは頂きもの

 

 

 

 

 

 

皆様 いろいろありがとうございました。

まだまだありますが、ついつい賞味してしまったり、写真取り忘れで!!

 

 


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第五話

2016-12-12 09:10:47 | はらだおさむ氏コーナー

あのひとたちのこと

  

  カストロが、逝った。

  毛沢東のときほどの痛哭感はないが、かれは、堀田善衛(『キューバ紀行』)を通じて、わたしのなかで息づいていた。

  堀田善衛がキューバに行ったのは、1964年の7月。

  あの「キューバ危機」の二年後のこと、メキシコシティでトランジットのとき、CIAと思しき連中に取り囲まれフラッシュの放射を浴びた由。

  このときカストロは、36歳。

  30万人の群衆を前に延々四時間の大演説をぶちあげたそうだが、後年

「さすがに閉口しました」と堀田は述懐している(『めぐりあいし人びと』)。

  堀田はこのときの視察で、キューバ経済の問題点として、サトウキビの単作農業にふれている。

 

  わたしはこの年の2月から4月にかけて北京に滞在していた。

  国交未回復のなか、輸入商談締結のための初訪中であった。

  3月ごろであったろうか、滞在の新僑飯店にキューバの民兵姿の少女たちが溢れた。半ズボンの、ムチムチした肢体は、得も言われぬ活気をホテル内に注いだが、彼女たちがいなくなるとホテルの売店に葉巻が山積みとなり、慣れぬ手つきで煙を吹かす人たちが増えた。 

  消息通の話によると、彼女たちはキューバ代表団に随行の歌舞団のメンバーで、葉巻はその置き土産。中国からの支援話もまとまったようだが、「自力更生」による産業多様化のアドバイスもあったらしい。

  その後半世紀、アメリカなどの経済封鎖のなか、キューバは独自の国づくりに成功、中南米諸国の先達となった。教育と医療の、全国民完全無料化は世界に冠たる制度の達成で、アメリカ国内で見放された「9.11」事件の後処理作業で被災・疾病した人たちの治療にも支援の手を差しのべている。

  アメリカは先ほどやっとキューバとの国交正常化を果たし、オバマ大統領のキューバ訪問も終えたが、後任のひとはこの措置を覆すかのような発言もされている。国としての措置をとかくするのは、いかがなものであろうか。

                                                                

  先年わたしは上海の武康路を散策していて、巴金故居の入り口が開いているのに気づいた。記念館になっていたのだ、もう閉館まじかで一階しか見学できなかったが、展示の写真のなかに井上靖との団らんのものもあった。

「敦煌」や「楼蘭」執筆のため、頻繁に中国を訪問していた井上は、61年巴金が中国作家代表団の団長として訪日時に面談して以来の友人であった。

  巴金は四川成都の封建地主の家庭出身だが、中学時代の「五四運動」で目覚めて上海・南京に遊学、1927年~29年にはフランスに留学、執筆活動を始める。1934年末から8か月ほど日本にも来て、日本語学習に取り組んでいる(これは、いままで知らなかった)。

  文革前には前述の61年を皮切りに連続三回、文革後も80,81,84年と三回、中国作家代表団の団長として訪日を繰り返しているが、文革中は「ブルジョワ作家」と糾弾されてこの家から追い出され、「牛小屋」で呻吟している(66~77)。

  わたしは文革後のかれの随想三部作『随想録』『探索集』『真話集』を日本で翻訳出版(石上韶・訳)の都度手にしたが、いま本棚の片隅から『真話集』を探し出し、感動を新たにしている。

  たとえば「六十二 私と読者」に、つぎのようなフレーズがある。

  ・・・「四人組」の上海の「書記」徐景賢はこう言ったそうである―「現在でもまだ巴金に手紙を出す者がいる。してみると批判がまだ不十分で、やつをこてんぱんに叩いていないに違いない」。実際は、一九六七年の十月初めから、私は各方面の手によって三、四年間「ひきまわし」に引っぱり出された。このため、まるまる数年間は手紙を一本も受け取らなかった。・・・

  やがて暗雲が晴れると、うちひしがれていた私も立ち上がった。全く思いがけないことだった。だが、山と積まれた手紙を前にして、私は手の出しようがなかった。十年の大災厄は、私の心にいやしがたい傷を残した。大言壮語してみても、奪い去られた健康は償えなかった。暖かい思いやりと切なる期待を寄せて下さる読者に対して、どんな答えの言葉が書けるというのだろう?

 

  「八十二 真実を語る その四」は、つぎのような一文で終わっている。

  「四人組」はついに退場した。

  彼らが、かくも早く失脚するとは、私は夢想だにしなかった。これは一つのすばらしい教訓だ。砂上の楼閣が堅固なはずはなく、うその上に築き上げた権力も長続きするはずはない。うそを聞きたがり、話したがる人間はいずれも懲罰を受けることになった。そして私も懲罰をのがれなかった。

 

  これらはいずれも81年から82年にかけて、香港『大公報』紙上に発表された。

 

  巴金が81年に提唱した「現代文学館」は、85年北京に「中国現代文学館」として実現した。

  しかし、かれが86年に建設を求めた「“文革”博物館」はまだ陽の目を見ていない。

  2005年10月 “無党派愛国民主人士”(「百度百科」)巴金は105歳の天寿を全うした。

 

  カストロと巴金 その一生の歩みは異なるが、敬して追憶する。

            

        (2016年12月8日 記)