くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

日々(ひび)徒然(つれづれ) 第三十七話

2020-09-03 23:32:29 | はらだおさむ氏コーナー

ジャー・ジャンク―監督の思い

      

  このところ中国映画を観るのはタイヘンだ。

 

  7月下旬 ジャー・ジャンク―監督が妻でもある主演女優チャオ・タオを伴って来日、市村尚三プロデューサーとの座談会で新作「帰れない二人」を語り合ったとき、わたしは監督の処女作「青の稲妻」の01年、名作「長江哀歌」(06年)、そして17年制作の本作が、どのようなかたちで織り込まれていくのかとその上映を待ちわびた。

 

  9月6日 東京から順次公開されるとネットでこの映画の情報が伝わってきた。

 

     =ヤクザ者の男を愛してしまった女の17年に及ぶ愛の旅=

 岩下志麻(女優)

  愛と憎しみの狭間に揺れ動く女の逞しい生き方に胸を打たれました。

 東山彰良(作家)

  彼らの魂の有り様が、見る者の孤独に触れてくる。

 八代亜紀(歌手)

  愛した男性に、何があっても愛し続ける覚悟がある女性がいることを知りました。

  以下好評が続く。

  すでに昨年公開されている中国では、同監督の作品では最高の動員、アメリカでも前作「罪の手ざわり」の倍以上の観客動員であったとか・・・。

  しかし、この公開情報では、毎週1~2の都道府県ごとに1~2館、それも全日上映ではない、どうなるのか・・・。

 

  9月下旬から11月上旬にかけて、わたしの所属コーラスの出演が神戸と宝塚であり、昨今記憶力低下の激しいわが身にとっては六曲の暗譜はまさに苦行のひとこと。しばしこの映画の上映も忘れがちであった。

十月下旬に思い出して検索すると、すでに大阪は通り過ぎたのか、神戸と京都の2上映館。それも午前と夜の最終回とあって、とてもじゃないが足は運べない。

 

 一昨日 思い出して改めてネットサーフィン、大阪の九条で朝と夜の二回上映されることが判った。

 十余年前 何回か出かけたことのあるシネマ、自宅から乗り継いで90分以内に行けるだろうと、ラッシュの後の梅田駅構内を急ぎ足で通り抜け、市営から民営メトロに変わった地下鉄で本町、さらに乗り換えて九条駅に着く。六番出口から商店街、大阪スタジアムへの近道と案内板が、そうか、京セラドームだったなぁ、とつまらぬことを思い出す。

 シネヌーボウXはむかしの風貌で存在していた。

 受付は二番、上映までまだ二十分はある。

 チェックインは十分前からとあって、定員二十五名のこの上映に何名が押し掛けるのか、二階会場の登り口にどう並ぶのかと危惧したが、上映は四名ではじまった。

  2001年 石炭の街・山西省大同。

  掘りつくされたボタ山の街の裏社会で生きる男ビンの恋人チャオは、敵対組織に襲われた彼を助けるため銃を発砲する。

  五年の刑期を終え、釈放されたチャオを迎えるビンの姿はない。

                  

   つぎは06年の名作「長江哀歌」の、奉節のシーンだが、大同から三峡ダムの建設で数年後に埋没する現場に、チャオは大同からの知り合いを訪ねる。

 「ひとの心は変わるもの」とうそぶく知人の妹。一策を演じて、ビンと会うが彼の心は虚ろだ。

  大同に戻るべしで乗った車中の男に誘われて、新疆へ向かう列車に乗り換えるが、途中下車。ふるさとの大同に戻って十余年、父親の最後も見届け、元の雀荘経営で地元の裏社会ともつながっている。

  そこへ車いすでビンが帰ってきた。

  歓迎する元の手下と見下す成り上がりもの。

  チャオは怒り心頭、この成り上がりものに花瓶を投げつけ、ビンの苦境を救う。

  チャオは酒で心身を害してしまった男の治療に、専念する。

  やがてまだ杖を離せないが、二本足で歩けるようになったビン。部屋は別だが同じ屋根の下で過ごせるようになったが、それも束の間。ある朝 胸騒ぎしたチャオは男の部屋のドアを開けると、寝具はきっちりと畳まれて男の姿はなかった。もう男の姿も見えない戸外をじっと見つめるチャオ。涙の一筋もなく、男の去って行った道の彼方を眺め続けていた(ジ・エンド)。

 

  監督ジャー・ジャンク―の思いはどうか。

  処女作「青の稲妻」においても、喫茶店のテレビで「北京五輪開催決定」のニュースを流すように、映画における時代背景は明確に把握している。

  かれは、冒頭の座談会で、2001年は北京五輪開催決定、WTOへの加盟、インターネットの普及をあげているが、同感である。

  わたしもその頃はまだ引退はしていなかった。

  上海市の労働局と総工会の日本の労働関係視察訪日団にアテンド、関西から上京した二日目の夜、北京五輪開催決定のニュースが舞い込み、団員一同と祝杯をあげた。

  WTOの加盟については、時差をうまく使った台湾との同時加盟であったが、わたしはそのときタイペイで、台湾企業の視察を続けていた。台湾企業の対中投資姿勢が非常に明確であった記憶がある。

  わたしは、この映画の冒頭で監督が大同の石炭の露天掘りが斜陽化し始めている、そのカットを示している彼の鋭い歴史感覚に敬意を覚える。

  そしていま、2016年制作・公開の「山河ノスタルジア」(日本公開名)の、ラストシーンで主人公チャオが川原で子犬を散歩させながら、ひとりで踊りつづける、これは何を意味するか・・・と思い返している。

  この映画は、チャオを主人公とする過去・現在・未来の三部作で、最後はまだ数年先の2025年の設定。元の主人は上海で儲けた金を香港でマネー・ダリングしてオーストラリアに居住。息子はいま女性教師と縺れ合ってカナダへと・・・。

  ジャー・ジャンク―の映画は、いつも中国の内面の世界を描いて興味深いが、

 これほど公開環境が厳しく、観客の少ないのには驚き、残念である。

                                     (2019年11月10日 記)


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第三十六話

2020-09-02 17:46:10 | はらだおさむ氏コーナー

世の移ろい

    

 いまから二百年ほどむかし 天保年間のおはなしを先ずご紹介したい。

 

 「この時代は気象上からみれば、小氷期にあたっていた。

  降水は雨でなく、雪となることが比較的多かった」

 

 わたしの小文「“雪の殿様”と天保上知令」はこの一句ではじまる。

 小氷期とは・・・。

 グーグルによると、「期間中の気温低下が一度C未満に留まる」とあり、「北半球における弱冷期」と解説されている。そして以下のような説明が付加されている。

 「日本においても東日本を中心にたびたび飢饉が発生し、これを原因とする農村での一揆の頻発は、幕藩体制の崩壊の一因となった」

 

 わたしの小文の主人公・土井利位(どい・としつら)はいまの地名では愛知県刈谷市にあった二万三千石の刈谷藩主の四男に生まれ、二十五歳のとき本家筋の八万石古河藩(茨城県古河市)の養子となり、十年後養父土井大炊守(おおいのかみ)の死去によりその跡を継いだ。

 天保八年(一八三七)二月 もと大坂東町奉行所与力大塩平八郎が蜂起したとき、土井利位は大坂城代の任にあり、部下の探索方が四十日後に大塩父子の潜伏先を包囲、自爆に追い込んだ。

 土井利位は京都所司代を経て二年後に老中に昇進する。

 かれが雪の観察をいつから始めたのかは定かではないが、天保三年には私家本『雪華図説』を刊行しており、大坂、京都在勤中も「雪が降りそうな寒い夜舞い落ちる雪を黒布で受け、吐息がかからぬよう注意して顕微鏡で観察」し続けていた。

 上方の雪華を描いた『続雪華図説』は、老中就任の翌天保十一年に刊行されている。

 

 世に言う「天保の改革」は水野忠邦の首導によるものとされているが、最後に彼の足を引っ張ったのは、“雪の殿様” 土井利位である。

 天保一四年六月に発令、九月撤廃の「上知令(あげちれい)がそれである。

 「江戸・大坂近傍の知行地を幕府に返上させる政策。関係する領主・領民の反対で撤廃」(広辞苑電子版)。

 忠邦は発令にあたって、先ず幕閣の意思統一をはかり、当然老中・土井利位などの賛同も取り付けた上、将軍へ所領転封の嘆願~形式的却下~再嘆願~許容・下命を受理している。  

 “雪の殿様”は上方の所領二万四千石の内、飛地の半数を「上知(返却)」することになったが、納まらないのは年貢の二年分も借金して「先納」している村方の庄屋や百姓代たち。「御永領」と信じていたから、家や田畑を抵当にやり繰りして「先納」に応じていた。「上知」以前に、証文銀高の返済を「嘆願」するのは当然である。

 無い袖を振れぬ“雪の殿様”は「上知」反対派に与し、撤廃に追い込んだ。

 水野忠邦は失脚、利位は老中首座に就いたが、その任にあらず将軍家慶に疎んぜられ僅々十カ月で退任、国元に帰着して隠居、五年後に病死した。

 

 ダメ政治家であったが、かれの遺した『雪華図説』は着物や印籠、刀の鞘の図案に取り入れられ、“大炊(おおい)模様とも呼ばれ、その美人画や浮世絵がさらにムードを盛り上げたという。

 “天は二物を与えず”、である。

  彼の死後百数十年のいま、彼が居城した茨城県西端の古河市のいたるところに、“雪の華”が舞い、元・日光街道の宿場町のいまを染め出している。

 

 話題を変えて、二〇一九年一〇月一日の中国北京の天安門広場。

 国慶節七〇周年記念祝賀の雛壇に、習近平国家主席を挟んで右に江沢民元主席、左に胡錦涛前主席の姿があった。

 雲ひとつない紺碧の天空が広がっていた、今年の七〇周年の式典。

 

 江沢民元主席の建国五〇周年祭典を控えた週日前、わたしは北京賓館新館で開催されていた国際シンポに参加していた。

 その休憩時にテラスに出て驚いた。

 スモッグで故宮はもちろんのこと、道を挟んだその先も見えない。

 地方から参加の中国の人たちも驚きを隠せない、地元の方の説明では旧式車両の排気ガスが原因、政府はその対策を講じているが新式車両に切り替えを完了するには数年はかかるだろう、とのこと。

 もちろん式典の当日はロケットで晴天を演出、閲兵行進はよどみなく挙行された。

 

 胡錦涛前主席のときは北京五輪に上海万博、そして国慶節六〇周年とロケットによる青空演出の機会は多かったが、それでも二〇一〇年九月末上海万博参観時に、会場の芝生に横たわりながら夕焼に染まる雲の流れを見ることができた。

 そして、今年は正真正銘の北京の秋の紺碧の青空の下、国慶節は挙行された。

 

この数年間 日本の四季は崩れ、春秋の風物が姿を消していく。

 九月末 国連でスウェーデンの16歳の環境保護活動家グレタ・トヮーベルさんが、まなじりを決っして「私たちを裏切った」とその責任を追及した。

 世界各地でも十万人を超える若者たちが、「私たちにも未来がある」とデモ行進をした。

 

 香港では中国製の黒マスクで抗議する青年や市民を逮捕するために、マスク禁止令まで特権で決めた林鄭月娥長官とそれを支持する勢力。

 常識で考えればこの騒ぎの発端は「逃亡犯条例」の起案、香港市民の延べ半分がこの条例の撤廃を求め、最終的にはそれを認めさせた。

 本文の前半部分を読み返して欲しい。

 「天保の改革」を主導した水野忠邦でさえ、上申した「上知令」が失敗に帰すとその責任を取らされている。

 政治の世界はその黒白を明らかにできないようであれば、破滅に進む。

 

 香港のことは、我が身にもあてはまる。

 「ひとは死んでなにを残すか」、古人の教えは厳しい。

           (二〇一九年一〇月一四日 記)