鼎春園は矢形川虹の大橋の傍にひっそりとありました
丁度掃除をされている方がいらっしゃいましたので軽く挨拶をしますと・・・それは丁寧に挨拶を返して下さいました
鼎春園の鼎春とは、宮部鼎蔵とその弟宮部春蔵の一字を取って鼎春園と名付けられたそうです
地元の人々によって大正2年(1913)に作られた公園です
最初の写真の正面にあるのが顕彰碑です
その左側に、鼎蔵の歌碑があります。
「いざ子供馬に鞍おけ九重の 御階の桜散らぬそのまに」
この歌は、孝明天皇の「矛とりてまもれ宮人九重の御階の桜そよぐなり」に応えるべく鼎蔵自身の決意が表わされています
右側にあるのが春蔵の歌です
「故里の花を見すてて飛ぶ田鶴は 雲井の空に羽をやうつらむ」
文久2年(1862)春、兄の後を追い、肥後藩を脱藩し京都に上ったとき家に送った歌です
1864年7月、26才の春蔵は幕府軍と戦いに破れ天王山で自決しました
文政3年(1820年)、肥後国の医師の家系に生まれ、山鹿流軍学師範の叔父の養子となる。
嘉永3年(1850年)、藩の山鹿流軍学師範に登用され、九州に遊学していた吉田松陰と知り合い同じ山鹿流の兵学者である吉田と意気投合したそうです
直ぐ裏側に生家があります。
御船町上野口ノ坪2214-2です
宮部鼎蔵は熊本の数少ない幕末の志士だったんですよね。
あの清川八郎とも交流があったんですか。
池田屋の変で、幕末の早い時期に亡くなってしまったのが惜しまれます。
当時の情勢を考えると死ぬ覚悟での脱藩だと思います、昔の日本人の心意気というのはパネエです。
うろ覚えだったので公園の名前では思い出せませんでした
宮部鼎蔵の名前を見てやっと解りました
偉大だったんですね~
毎日掃除に来られているみたいでした
昔は随分山の中だったでしょう
本当に各地に忘れられようとしている偉人が多いですね
虹の大橋を見に行ったとき看板を見てて見つけました