2月14日(月曜日)晴れ
昨夕から心配された雪もここでは雨が降った程度であった。
良かった!
==========================
毎日新聞余禄のコラムには
スペイン内戦下、ドイツ軍の無差別空爆で多くの犠牲者が出た
バスク地方の町の惨状を描いたピカソの大作「ゲルニカ」。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
マドリードにある絵画とは別に
ピカソの指示で制作された3点のタペストリーが存在する。
▲原寸に近い大きさで、糸の色までピカソが指定したというからただの複製ではない。
うち1点は群馬県立近代美術館が所蔵している。
1955年に制作された最初の作品はロックフェラー家が所有し、84年に国連に貸し出された。
▲翌年から安全保障理事会会議場の外に掲げられていたが、
昨年2月にロックフェラー家の求めで返還され、姿を消した。
今月、洗浄や保存処置を終えて元の場所にかけ直され、
理由を知らされていなかった国連関係者をほっとさせた。
▲このタペストリーが青い布に覆われたことがある。
2003年2月の安保理会合で当時のパウエル米国務長官がイラクによる
大量破壊兵器開発の「新証拠」を示す演説を行う直前のことだった。
イラク空爆を準備していた米国への配慮ともいわれた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲結局、「新証拠」も開発情報もウソとわかった。
昨年死去したパウエル氏は「消せない過ち」と演説を後悔していたというが、
「反戦の象徴」が隠された逸話はイラク戦争の不当性と結びつけて語り継がれている。
▲安保理の機能不全が叫ばれて久しい。
ウクライナ情勢の緊迫で新たな戦争の危機が懸念される中での
タペストリーの復帰は何かの因縁か。
~~~~~~~~~~~~~~~
「ゲルニカ」に向き合えないような愚挙を繰り返すべきではない。
★しかし戦争はどこかでいつも怒っているんだなあ~!大きくならなければ良いのだが・・
[パブロ・ピカソの手がけたゲルニカは、世界でもまれに見る最も有名な作品の一つです。
時間を越えたその素晴らしさは、普遍的に過去と関連させています。
ゲルニカの複雑性と隠れたメッセージは、何度と無く繰り返される可能性と私たちが全てを
目にしないかもしれないことを意味しています。
1937年4月26日、ドイツによってバスク国の小都市のゲルニカが空爆を受けた後の同年、
ピカソが巨大な壁に描いた作品です。
町の徹底的な破壊による死傷者は1600人を超え、
紛争の残虐で不当な行為がピカソの心に強く訴えたのでした。
闘牛を描くパリ国際展覧会との契約が完了していたピカソですが急遽予定を変更し、
バスク国に起こった悲劇を描きたいと強く要求したのでした。
~~~~~~~~~~~~~~~~^
強い感情から生まれたゲルニカ。
ピカソは作品と実際に起こった悲劇との強い関連性と重要性を持たせるため、
爆撃後すぐに作製を開始しました。
ピカソの手がけたゲルニカの意味を明らかにすることは非常に難しいことです。
これは、鑑賞者のほとんどがそのように感じるようです。
この作品でゲルニカの爆撃をきっぱりと拒絶した一方、ピカソがより一般的な戦争への認識へ
訴えていることは明らかです。
彼の典型的なキュービズム・スタイルを用いて、ピカソは形を分解、再建したその作品は、
具体的な物とは対照的に感情を表現するようになります。
苦しみ、死、恐れ、戦争、廃墟、そしてほんのわずかな希望が、
永久に関連あるであろう普遍的テーマとしてこの作品には詰まっています。
===========================
●ゲルニカは、目の形をした電球がシーンに光を照らす部屋に置かれているように見えますが、
実は太陽から戦争の支配力まで何もかもを表しているのかもしれません。
●この作品のシーンには、壊れた刀を握る負傷した兵士や、死亡したわが子を抱える女性、
宙に浮く女性、燃えている女性、逃げる女性の姿が確認できます。
しかし、この作品の中で最も有名なイメージはこれら人間ではなく、
丁度電球の真下にいる苦しみ悶える馬なのです。
この他にもスペインを象徴する闘牛と羽の折れた鳩も描かれています。
この作品を目近で見ると人間の頭蓋骨が隠れており、
ぱっと見た絵の印象とは全く異なると分かることでしょう。
各姿のばらばらのパーツは、孤立または集合的にに見ることができ、
鑑賞ごとにこの作品への解釈が変わるのです。
単色の黒、白、納戸色を使用したピカソの選択により、
境界線はより不鮮明になると同時に
新聞に掲載されている写真を連想させます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ゲルニカが爆撃された時パリに居たピカソは、
新聞記事でこの訃報を知ったということは重要な事実です。
母国で何が起こったか知った時、ピカソの心のうちにイメージが
湧き上がったことを示唆しています。
ゲルニカは即座に人目を引き、世界中の人々は、
ピカソの苦しみのシーンと関連付けることができました。
~~~~~~~~~~~~~
ピカソの意思によりマドリードのプラド美術館へ展示されていましたが、
1992年ゲルニカは近くの国立ソフィア王妃芸術センターへ移動され、現在に至ります。
このセンターにはピカソが中心的な壁へゲルニカを描く前に行った数々のスケッチも納められ、
どのようにイメージが形となり、ゲルニカの認識を深めたのかがよく分かります。]
~~~~~~~~~~~~~~~~~
プラド美術館は訪れたことがあるが、凄い大きな街全体が美術館だった。
ゲルニカは既にここにはなく。他の作品を堪能した覚えがある。
昨夕から心配された雪もここでは雨が降った程度であった。
良かった!
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毎日新聞余禄のコラムには
スペイン内戦下、ドイツ軍の無差別空爆で多くの犠牲者が出た
バスク地方の町の惨状を描いたピカソの大作「ゲルニカ」。
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マドリードにある絵画とは別に
ピカソの指示で制作された3点のタペストリーが存在する。
▲原寸に近い大きさで、糸の色までピカソが指定したというからただの複製ではない。
うち1点は群馬県立近代美術館が所蔵している。
1955年に制作された最初の作品はロックフェラー家が所有し、84年に国連に貸し出された。
▲翌年から安全保障理事会会議場の外に掲げられていたが、
昨年2月にロックフェラー家の求めで返還され、姿を消した。
今月、洗浄や保存処置を終えて元の場所にかけ直され、
理由を知らされていなかった国連関係者をほっとさせた。
▲このタペストリーが青い布に覆われたことがある。
2003年2月の安保理会合で当時のパウエル米国務長官がイラクによる
大量破壊兵器開発の「新証拠」を示す演説を行う直前のことだった。
イラク空爆を準備していた米国への配慮ともいわれた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲結局、「新証拠」も開発情報もウソとわかった。
昨年死去したパウエル氏は「消せない過ち」と演説を後悔していたというが、
「反戦の象徴」が隠された逸話はイラク戦争の不当性と結びつけて語り継がれている。
▲安保理の機能不全が叫ばれて久しい。
ウクライナ情勢の緊迫で新たな戦争の危機が懸念される中での
タペストリーの復帰は何かの因縁か。
~~~~~~~~~~~~~~~
「ゲルニカ」に向き合えないような愚挙を繰り返すべきではない。
★しかし戦争はどこかでいつも怒っているんだなあ~!大きくならなければ良いのだが・・
[パブロ・ピカソの手がけたゲルニカは、世界でもまれに見る最も有名な作品の一つです。
時間を越えたその素晴らしさは、普遍的に過去と関連させています。
ゲルニカの複雑性と隠れたメッセージは、何度と無く繰り返される可能性と私たちが全てを
目にしないかもしれないことを意味しています。
1937年4月26日、ドイツによってバスク国の小都市のゲルニカが空爆を受けた後の同年、
ピカソが巨大な壁に描いた作品です。
町の徹底的な破壊による死傷者は1600人を超え、
紛争の残虐で不当な行為がピカソの心に強く訴えたのでした。
闘牛を描くパリ国際展覧会との契約が完了していたピカソですが急遽予定を変更し、
バスク国に起こった悲劇を描きたいと強く要求したのでした。
~~~~~~~~~~~~~~~~^
強い感情から生まれたゲルニカ。
ピカソは作品と実際に起こった悲劇との強い関連性と重要性を持たせるため、
爆撃後すぐに作製を開始しました。
ピカソの手がけたゲルニカの意味を明らかにすることは非常に難しいことです。
これは、鑑賞者のほとんどがそのように感じるようです。
この作品でゲルニカの爆撃をきっぱりと拒絶した一方、ピカソがより一般的な戦争への認識へ
訴えていることは明らかです。
彼の典型的なキュービズム・スタイルを用いて、ピカソは形を分解、再建したその作品は、
具体的な物とは対照的に感情を表現するようになります。
苦しみ、死、恐れ、戦争、廃墟、そしてほんのわずかな希望が、
永久に関連あるであろう普遍的テーマとしてこの作品には詰まっています。
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●ゲルニカは、目の形をした電球がシーンに光を照らす部屋に置かれているように見えますが、
実は太陽から戦争の支配力まで何もかもを表しているのかもしれません。
●この作品のシーンには、壊れた刀を握る負傷した兵士や、死亡したわが子を抱える女性、
宙に浮く女性、燃えている女性、逃げる女性の姿が確認できます。
しかし、この作品の中で最も有名なイメージはこれら人間ではなく、
丁度電球の真下にいる苦しみ悶える馬なのです。
この他にもスペインを象徴する闘牛と羽の折れた鳩も描かれています。
この作品を目近で見ると人間の頭蓋骨が隠れており、
ぱっと見た絵の印象とは全く異なると分かることでしょう。
各姿のばらばらのパーツは、孤立または集合的にに見ることができ、
鑑賞ごとにこの作品への解釈が変わるのです。
単色の黒、白、納戸色を使用したピカソの選択により、
境界線はより不鮮明になると同時に
新聞に掲載されている写真を連想させます。
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ゲルニカが爆撃された時パリに居たピカソは、
新聞記事でこの訃報を知ったということは重要な事実です。
母国で何が起こったか知った時、ピカソの心のうちにイメージが
湧き上がったことを示唆しています。
ゲルニカは即座に人目を引き、世界中の人々は、
ピカソの苦しみのシーンと関連付けることができました。
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ピカソの意思によりマドリードのプラド美術館へ展示されていましたが、
1992年ゲルニカは近くの国立ソフィア王妃芸術センターへ移動され、現在に至ります。
このセンターにはピカソが中心的な壁へゲルニカを描く前に行った数々のスケッチも納められ、
どのようにイメージが形となり、ゲルニカの認識を深めたのかがよく分かります。]
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プラド美術館は訪れたことがあるが、凄い大きな街全体が美術館だった。
ゲルニカは既にここにはなく。他の作品を堪能した覚えがある。
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