退廃的日々2009/11/16
画像が荒いがコンパクトデジカメではデジタルズームを使わないとここまで寄れなかった。
竿を持つは釣り師である。
11月のしばれる川に入り、魚釣りする気持ちは好事家(こうずか)ならではのものなのか頑張っていた。
もし魚が釣られて「痛い!」「水に返してくれ、苦しい」とか喋ったら、多くの釣り師は魚釣りをできないのかもしれない。
けど魚が喋らなくても、魚は動物であるので感覚する器官と脳を持っているのでそこに心が存在することは想像できるので、釣られた魚が”痛い”と叫んでいることは誰にも解ることだろう。
そんな思いがあり、づっと釣りやっていないことではない。
しかし子供の頃の矛盾は矛盾として今もって釣りは別の意味でお休みしている。だいたいそんな気持ちで釣りをしても魚はかからないものだということも十分に知っている。
釣ってやるという欲が無いと、基本的に魚は釣れないのだろうことは最初の釣り糸ひと垂れで解った気がした。
漁師や猟師を別にして(それ以外生きるすべは無さそうだからだ)、趣味で漁をしたくはない。穫れれば生命ためにならないだろうし、生かして離して上げても「痛い!」「水に返してくれ、苦しい」と叫んでいたいのなら、それはそれでいじめに近いのかもしれない。
そういう訳でも無いが私はこうしてカメラで釣り師のように猟をしているのかもしれない。
ともあれどちらも怠っているのは題名通りだ。
画像が荒いがコンパクトデジカメではデジタルズームを使わないとここまで寄れなかった。
竿を持つは釣り師である。
11月のしばれる川に入り、魚釣りする気持ちは好事家(こうずか)ならではのものなのか頑張っていた。
もし魚が釣られて「痛い!」「水に返してくれ、苦しい」とか喋ったら、多くの釣り師は魚釣りをできないのかもしれない。
けど魚が喋らなくても、魚は動物であるので感覚する器官と脳を持っているのでそこに心が存在することは想像できるので、釣られた魚が”痛い”と叫んでいることは誰にも解ることだろう。
そんな思いがあり、づっと釣りやっていないことではない。
しかし子供の頃の矛盾は矛盾として今もって釣りは別の意味でお休みしている。だいたいそんな気持ちで釣りをしても魚はかからないものだということも十分に知っている。
釣ってやるという欲が無いと、基本的に魚は釣れないのだろうことは最初の釣り糸ひと垂れで解った気がした。
漁師や猟師を別にして(それ以外生きるすべは無さそうだからだ)、趣味で漁をしたくはない。穫れれば生命ためにならないだろうし、生かして離して上げても「痛い!」「水に返してくれ、苦しい」と叫んでいたいのなら、それはそれでいじめに近いのかもしれない。
そういう訳でも無いが私はこうしてカメラで釣り師のように猟をしているのかもしれない。
ともあれどちらも怠っているのは題名通りだ。