退廃的日々2009/11/12
画像が何かと言うと川に横たわる流木、そう表現するには私には異様に大き過ぎるほど感がある流木である。
それでも流木と言うのだろうが、根こそぎの流木は屍(しかばね)としてしか存在できていない。
幹が折れても根が残っていれば、そこから別の植物が寄生するようにも生えてもくるだろうし、わずかな生命力があたら良い枝伸ばすこともできろう。しかし、生きるに必要な水が溢れかえっているというに流木は死体のままに横たわることしかできない。
こだわることはないのだろう、流木になる以前はすっくと育っていた。ときに持ちえた魂があるかもしれないが今はただの屍である。そういう意味で流木はそのまま流木の墓標となり完結して、なお誰も見向きはいしない。
画像が何かと言うと川に横たわる流木、そう表現するには私には異様に大き過ぎるほど感がある流木である。
それでも流木と言うのだろうが、根こそぎの流木は屍(しかばね)としてしか存在できていない。
幹が折れても根が残っていれば、そこから別の植物が寄生するようにも生えてもくるだろうし、わずかな生命力があたら良い枝伸ばすこともできろう。しかし、生きるに必要な水が溢れかえっているというに流木は死体のままに横たわることしかできない。
こだわることはないのだろう、流木になる以前はすっくと育っていた。ときに持ちえた魂があるかもしれないが今はただの屍である。そういう意味で流木はそのまま流木の墓標となり完結して、なお誰も見向きはいしない。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。 方丈記:鴨長明