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おじいクボマ~ル@青空保育園 since 2023

定年前に大学教授から保育園長に転身した「おじい」のブログです。誰にでも開放していますので、ご投稿も歓迎です!

「子どもの最善の利益」について by 張 順香

2015-08-11 04:12:23 | 自由投稿
 「子どもの最善の利益」に関する自主レポートが届きましたので、以下に若干の加除修正を加えて紹介します。根拠が曖昧だったり、言葉が足りない部分もありますが、その自主性や積極性は評価に値すると思います。


 子どもを保育する上で、「子どもの最善の利益」が一番に考えられなければならないことは言うまでもない。『保育所保育指針』には、「保育所は、児童福祉法(昭22年法律第164号)第39条の規定に基づき、保育に欠ける子どもの保育を行い、その健全な心身の発達を図ることを目的とする児童福祉施設であり、入所する子どもの最善の利益を考慮し、その福祉を積極的に増進することに最もふさわしい生活の場でなければならない。」とされている。
 そもそも、「子どもの最善の利益」とは何であろうか。
 「児童の権利に関する条約」第3条1項によれば、「児童に関するすべての措置をとるに当たっては、公的若しくは私的な社会福祉施設、裁判所、行政当局又は立法機関のいずれによって行われるものであっても、児童の最善の利益が主として考慮されるものとする。」とされている。すべての基本はここにある。何を考える上でも、まずは子どもを考えろということであり、父母や地域や国ではない。子どもの都合だ。それだけ、「子どもの最善の利益」は重要視されている。
 「子どもの最善の利益」とは、「子どもたち一人ひとりが、心身ともに健やかに育つことのできる環境の中で、人から充分に愛され、ありのままの自分でいることを認められ、幸せに暮らすことができること」だと、私は思う。したがって保育者には、一人ひとり異なる感性や個性を持った子どもたちを一人の人間として尊び、子どもが心身ともに健康で安定した生活を送ることができる環境を構成し、その子のありのままを認め、受け入れ、それを愛し共感することで、子どもが幸せを感じることができるように努めることが求められる。中でも、技量のある保育者は、子どもの苦手意識を楽しみに変えることのできるような人だと思う。子どもの気持ちを一番に考え子どもに寄り添うこと、「子どもの最善の利益」を考慮した保育とはこういうものだと思うのだ。
 だが、「子どもの最善の利益」はその時々の状況や一人ひとりの子どもによって変わるものであろう。
 子どもが「やりたい!」と思うことは、その時々で異なる。子どものその瞬間の興味、関心や安全性を考慮した上で、自由に経験させてあげることで、子どもは学びを深めることができる。子どもの喜怒哀楽、怖い、悔しい等のその時々の様々な感情に共感することが「子どもの最善の利益」に繋がる。また、一人ひとりの子どもが求めるものは異なる。外で遊ぶことが大好きで、今まさにこの時間に外で走り回って遊びたいと考える子もあり、外遊びが苦手で、室内で折り紙を折って遊びたいと考えている子もいる。「子ども=外遊びが好き」という固定観念は通じないのだ。外遊びも経験や学びであり、室内で遊ぶのも経験や学びである。強制は許されない。その子が今、何を求めているかを見極め、状況に合った対応応ができることが肝心だ。
 ただ、外遊びが苦手であっても外遊びをさせないのではなく、苦手な子でもそれを楽しめる工夫をする必要がある。歌が苦手であっても、踊りだけやらせるのではなく、歌も楽しめるような工夫が必要だ。それもまた、「子どもの最善の利益」を考慮する上で重要なことである。
 子どもの伸び方には、二つのタイプがあるとされる。一つは、いわゆる「先飴型」。二つ目は「後飴型」である。前者は、褒められて伸びるタイプで、褒められた嬉しさをバネにできるタイプであり、後者は、厳しくされることで伸びるタイプである。褒められるより厳しくされることで、その悔しさを力にできるタイプ、そして、事後に褒めてもらえることを向上する原動力にするタイプだ。
 しかし、「先飴型」と「後飴型」を比べる褒め方や叱り方はすべきではない。ここでもその子に合った保育の仕方で、その子にあった伸ばし方をしていく必要がある。子どもは、大人の言いなりにはならない。大人と同様、一人の人として考えられるべきであり、大人の型にはめるような育て方は決してしてはならない。子どもは、一人ひとりの感性や個性を活かしたその子に合った保育をされるのが望ましい。これこそ、「子どもの最善の利益」であると私は思う。