おじいクボマ~ル@青空保育園 since 2023

定年前に大学教授から保育園長に転身した「おじい」のブログです。誰にでも開放していますので、ご投稿も歓迎です!

どうした隣人? by オジィくぼま~る

2018-12-31 12:20:54 | エッセイ
 以下は、決して「ヘイトスピーチ」じゃないですからね。
 最近、隣人韓国が少しヘンですよね。
 竹島問題から従軍慰安婦問題から徴用工問題を経て、今度は自衛隊機へのレーダー照射問題と、既に話し合いでお互いに結論を出している筈の問題を蒸し返したり、客観的な証拠があるのに筋が通らない言い訳(嘘?)をついたり、「どうしちゃったんですか?」と言いたくなるような所業を重ねているというか、何か、心配を通り越して同情したくなるような日本に対する不貞腐れた態度に見えるのだけど・・・
 昨日のニュースでは、「日本の自衛隊から発せられた英語連絡の発音が悪過ぎてさ」みたいな事まで言い出したらしく、こりゃあもう気が済むまでほっとくしかないだろう。
 大学時代以来、40年以上もお世話になってきたのは韓国人のP先生だった。彼を通じて多くの友人や知人を得たし、一週間ほどだがホームステイもしてきた経験もある。だから、韓国の人たちの気質みたいなものは多少なりとも知っているつもりだ。
 確かに、情に厚く、熱し易い。好き嫌いが明確で、気に入れば徹底的に可愛がるが、気に食わないと平気で「死んでしまえ」等とも言う。「早く早く!」を連発するせっかちで、客人に対するもてなしについては完全主義者だ。そんな彼らに昨今見られる、それこそネチネチした日本への言いがかりは何なのだろう。
 P先生は一昨年亡くなったのだが、もしもまだ生きていたら、僕の「どうしちゃったんですか?」の問いに対し、先生はいったい何と言うのだろう。



はい、終わり終わりっ! by オジィくぼま~る

2018-12-31 11:53:03 | 自由投稿
 「えっ、『カ~モンベ~ビ~アメリカ』じゃないの?」と、還暦オジィは驚いたわけですな。ISSA君たちの「U.S.A」以外にヒットした曲なんてあるのかよ、と、思った。
 テレビをほとんど観ず、日常的に音楽も聴かないオジィだって、「カ~モンベ~ビ~」くらいは知っているぞ(踊れないけど)。「欅坂」だか「乃木坂」だか何だか知らないけど、「レコード大賞」って、一体どうやって決めてるわけですか? それにそれに、今時まだ「レコード」を聴いている人っているんですか。選ぶのなら「(これも古いか?)日本CD大賞」とか「日本音楽大賞」なんかじゃないの? 「レコード大賞」なんか、さっさと終われよな~
 ピンからキリまで数えれば数多の楽曲が溢れ返り、昔のようにファンが一極に集中しなくなっているんだから、「誰が一等賞か」なんか決められっこないし、決めたって意味はない時代になっているんじゃないの。「多様性」が第一で、それをいたるところで求める時代じゃないの。あなたは BEGIN が好き。でも、私は美空ひばりが好き! それで良いんじゃないの。
 というわけで、「日本レコード大賞」なんか、はいっ、終わり終わりっ!


県民投票は理想的「直接民主制」ではないか? by くぼま~る

2018-12-31 11:35:09 | 自由投稿
 最近の琉球事情を観察していて、どうしても納得できないのが≪県民投票を拒否する地方自治体がある≫という事だ。≪県民投票≫とは言うまでもない、米軍「普天間基地(宜野湾市)の名護市辺野古移転は是か非か」を問うための沖縄県民全員の民意を問うための投票である。
 これまでの知事選や名護市長選などで示されてきた民意というのは、複数の問題が絡んだ選挙戦で示されてきたものだから、「それはそうだがこれについてはこうだ」という、一種「まぜこぜ」の意見だったかもしれない。だから必ず、「それが県民全体の意見だとは言えない」などという人が出てきては、辺野古への米軍基地移設問題をこじらせてきた。
 過日の知事選では、移設反対派の玉城デニーさんが相手候補に39万票もの大差をつけて当選しているわけだから、「移設反対」が民意であることはとりあえず明らかだ。しかし、それでもなおそれを認めようとしない一部の人たちがいるらしい。
 そこで、論点を一つに絞って(ワンイッシューという)「賛成か反対か」にケリをつけてやろうというのが≪県民投票≫だ。これでやっとグジャグジャしている議論が明確化するだろうと思っていたら、何と何と何と!「いや、うちじゃそんな選挙やらないもんね~」と言い出した所があるんだね。現に普天間基地がある宜野湾市がその一つなんだけど、それはそうだろうなぁ。基地を追っ払うには「どこかに持っていってもらわないと困る」わけだから、≪県民投票≫であまりにハッキリと「辺野古移設反対!」!が示されてしまったら「普天間はそのまんまなんかい!」という事になってしまう。
 もう一ヶ所(奄美大島だったかな)の反対理由は、「県民投票のための費用が工面できない」だったようだ。
 で、愛読している琉球新報を読んでみると、≪県民投票≫に反対しているのは市長さんサイドだけで、大多数の市民は「やはり一回、みんなで投票してハッキリさせるべきじゃないの?」と思っているらしい。市長を選んだのは市民だけど、その市民と市長さんの意見や考え方が違っている場合、僕たちはどうしたら良いんだろう。
 これは間違いなく、「間接民主制」を採っている国では、どこにでも生じる問題だろう。
 「直接民主制」が最もわかり易く本当の民意を表し得ることは言うまでもないが、数多くの問題を全部自分たちで決めたりはできないから、僕たちは代表(議員)を選んで、その人たちに議論をしてもらうのだが(間接民主制)、それが得てして本当の意味での代表になっていないんだよね。
 例えば、国会議員を選んでいるのは僕たちだけど、選ばれた国会議員さんたちは本当に僕たちの意見を代表して国会の場で主張してくれているか?
 さらに総理大臣はその国会議員たちが勝手に(自分たちの都合で)決めているんだから、そりゃあ国民の支持率が半分にも届かいないわけだ。
 「辺野古への移転」に関する≪県民投票≫が終わったら、次は是非、「普天間基地に県外へ出て行ってもらおう!」!の≪県民投票≫をすべきだ。僕はそう思う。国はその時、どう動くのだろう。僕たちを代表して、アメリカにちゃんと「あのさぁ、出てってくれる?」と言えるのだろうか。
 第二次世界大戦が終わってから70年以上が経つ。日本が独立国としての地位を取り戻してからも60年以上が経っている。それでいながらまだ、アメリカに守ってもらうために米軍基地を沖縄に集めておかなくてはならないのだろうか。日本は本当に、「自分で自分を守れない脆弱で非力な国家」なんだろうか。
 ともあれ、≪県民投票≫はやらなきゃいかんでしょ? 「辺野古はダメだよ」をハッキリスッキリさせた後で、「普天間(だけじゃないね、嘉手納もそうだ)をどうするか」を県民で決めるべきだが、もしかすると、「あんまりハッキリと辺野古反対!を言うとなぁ」「昔のように本土に米軍基地を持ってこられてもなぁ」などと思っている人たちが、ウチナーンチュではなく僕たちヤマトゥンチュの中に少なくはないのかもしれない。何だか申し訳ないよなぁ…



気がついたら大晦日だった! by オジィくぼま~る

2018-12-31 06:26:45 | 自由投稿
 気がついたら大晦日になっていた。冬休みをこれ幸いに、心臓冠動脈手術後の自宅静養に専念していたら、何と!明日は元日ではないか。
 2019年度版「シラバス」を作成しなくちゃいかんし、本の校正が二冊分あるし、卒論の指導もあと二週間以上続くし、プライベートはプライベートで何だかんだあるし、焦り出せば焦りまくりの状態なのだが、最近では「まあ、しょうがないじゃん。還暦過ぎの心臓病みだしさ~」という投げやりな気持ちが大きくなってしまっている。
 いかんな、これでは。
 一日一つで良いから、小さい事でいいから、仕事を片付けていく毎日にしなくちゃな。


12/23 は妹の誕生日だった by くぼま~る

2018-12-26 16:50:57 | 自由投稿
 12月23日は、25年以上も前に亡くなった妹の誕生日だった。不思議なことに誕生日は憶えていても、命日については「夏休みの入り口だった」以上の記憶がない。
 ある日の早朝(午前5時過ぎだったか)、電話が鳴った。そんな時間に起きているのは僕だけだから、当然、その報せは僕が受けた。妹の旦那の義母からだった。
 「今すぐ●●病院に来てくれない?」 それ以外は一切知らされなかった。
 とりあえず小学生だった息子を連れて指定された病院へ向かうと、そこには既に胸の上で指を組んでいる妹の姿があった。「は?」以外の言葉が出ない。状況がわからない息子だが、病室の雰囲気に驚き怯えたのか、いつしかシクシク泣き始めていた。
 少し遅れて、親父とお袋が到着。一度妹の名前を呼ぶと、そのまま部屋の片隅で固まってしまった。
 幼い頃に「小児喘息」をかかえていた妹だが、結婚して子どもを生んでからは「膠原病(全身性エリトマトーデス)」という難病を患った。二つの病気が同じものであるのか、あるいは、関連があるのかないのかはわからないが、通院や服薬を続け、何とかそれとつき合っている事は知っていた。重篤な症状であるとは、明るく元気な妹の口から一度も聞いたことがない。
 「昨夕、『お腹が痛い』と言って来院され、たまたまベッドが一つ空いていたので泊ってもらったんです。夜明け前にナースが巡回した時には、静かに休んでおられました。亡くなったのはその後、おそらく『即死』のような状態で亡くなられたのだと思います。」 そうドクターが告げた。
 「自分の急変に気づき、ナースコールを押そうとしたのだと思います。」 
 ドクターの言葉を聴きながら、片手をナースコールに伸ばしたまま固まってしまった妹の姿が思い浮かんだ。その時既に死後硬直があったのかどうかわからなかった。
 こうして妹は、誰にも看取られず、誰にも知らされずに、旦那と小学生の一人娘を遺して30年とちょっとの人生を急いで閉じた。
 悲しい? そういう気持ちが湧いてきたのは、確かかなり後になってからだ。それまではひたすら、「早過ぎる!俺の方が先だろうよ!順番を守れよな!」という怒り系の感情しかなかったように思う。
 もし生きていれば、あいつもそろそろ還暦だ。冗談半分で赤いちゃんちゃんこと帽子を身につけ、「どうだおにい、似合うだろ?」とか言っていた筈だ。ちょっと軽薄で軽率な、明るい妹だった。
 そういうわけで、僕にとって12月はクリスマスでもイルミネーションでもない。とくに今年の12月は、秋に心臓の手術を受けて命拾いをしたせいか、いつもよりも妹や自分の寿命について考えることが多かった。ああいう亡くなり方もあるのだな。



サンタは何者? by ひめ with くぼまーる

2018-12-25 07:17:43 | 自由投稿
 幼い頃、プレゼントがもらえるクリスマスが待ち遠しかった。欲しいプレゼントがありすぎて決められなかった私は、第5希望まで紙に書き、決定権はサンタクロース(以下サンタ)に託していた。何が届くのか、そわそわしながら寝た。翌朝、期待に胸を躍らせながらプレゼントを開封する瞬間が、好きだった。
 小学生になると、クラスで必ず「サンタはいない」と騒ぎ始める人がいた。言われてみれば、存在を疑うようなことが山ほどあった。例えば、煙突がない我が家にどうやって入ってくるのか、悪い行いをしていないかどういう方法で監視しているかなどだ。存在の有無を母に尋ねると、「そんなこと言うならプレゼントはもらえないよ」という一点張りで、真相は不明のままだった。
 ある年のクリスマス間近、母から「中学生になったらプレゼントはもらえない」と告げられた。納得ができない私に対して彼女は、サンタと契約をしていると言いくるめた。咄嗟に出た言葉に、思わず笑ってしまった。そして、架空の人物なのだと悟った。
 一体、私たちにとってサンタは何者なのだろう。純粋だった子どもの頃は、他の誰でもないサンタという人物だった。あの頃は存在を信じていたのに、いつから夢がなくなったのだろう。今年もたくさんの子どもたちが、首を長くして待っている。世の中のサンタは大忙しだ。

↓ ≪クボマール改稿≫
 プレゼントがもらえるクリスマスは、幼い頃最大の楽しみだった。お願いするプレゼントを自分で決め切れなかった私は、何と第5希望までを紙に書き、後はサンタさんに託した。何が届くのかワクワクし、翌朝を待った上で胸を躍らせ、プレゼントを開く瞬間が好きだった。
 小学生になると、クラスには必ずサンタの存在を疑う人がいた。そう言われれば、わが家に煙突はないし、私の行動は誰がいつ監視しているのか等、謎だった。それを母に言うと、「疑う人にはプレゼントはない」と、冷たく突っぱねられた。
 ある日、「中学生にはプレゼントがない」と告げられた。納得しかねる私を、母は咄嗟に「サンタとの契約だ」と言いくるめ、その無理やりさに大笑いしながら私は、サンタが架空の人物であることを知った。
 はたして、キリスト教国でもないこの国や私たちにとって、サンタとは何者なのだろう。「確かにいる」と素直に信じ込んでいた私は、いつしかその夢を失っている。今年もまた、多くの子どもたちがサンタを心待ちにしているが、なぜかどこか虚しい気分だ。


ドア隅の住人 by 浪速の恋さん with くぼま~る

2018-12-25 07:17:28 | 自由投稿
 朝、通勤ラッシュでぎゅうぎゅうになった車内に奴は居た。電車が停車するとドアが開き、車内にいた人が次々と下りていく。ふと横を見ると、人混みに流されまいと必死にドア側の角にへばりつくサラリーマンの姿があった。そう、ドア側の住人である。彼だけではなく、ドア側の角を好んで止まない「ドア側の住人」がこの世にはたくさんいる。彼らは周りを見向きもせずスマートフォンの画面に夢中になり、ドアが開いたことも気にせずその場に居続ける。
 はっきり言って邪魔だ。朝の混雑時、ただでさえ出入りが多い中、邪魔な位置に居続ける彼らの心理はどういったものなのだろう。角の利点として挙げられることは「下車しやすい」「寄っかかることができる」などがある。確かに、満員電車はストレスのかかるものである。楽をしたいと思うことは決して悪いことではない。しかし、迷惑なのだ。
 そして、そんな私たちの気持ちとは裏腹に彼らはさほど罪悪感を感じていない。当然のようにそこに居続け、平然と過ごしている。私は彼らのことを「いい大人が…。」と軽蔑していたが、誰にもみんなに迷惑がられていることを教えて貰えない。とっても可哀想な人達なのだ。彼らの親や友達がこの事を知ったら悲しむに違いない。
 彼らのような迷惑な大人たちも昔は子どもだった。子どもの頃に、公共の場でのマナーを身につけていれば迷惑をかけずに済んだ。多くの人がマナーを守って快適に過ごせるよう、1人の大人として子ども達に行動と態度でマナーを示したい。

↓ ≪クボマール改稿≫
 ギュウギュウ詰めの通勤列車内に奴はいた。電車が駅に到着しドアが開く。車内の人々が一気に吐き出されるその流れに必死に逆らい、ドア横のわずかなスペースにへばりつくサラリーマンだ。私は彼らを、密かに「ドア隅の住人」と呼ぶ。周囲に気を遣わずスマホの画面を見つめ、ドアの開閉に関係なくその場にい続ける。
 邪魔だ。ドア付近に限らず人の出入りが多い時間帯に、そこにい続ける彼らの心理はいかなるものか。確かに満員電車は、極めてストレスフルだ。、「下車し易い」「寄りかかれる」場所で楽をしたい気持ちはわかるが、迷惑なのだ。
 「ドア隅の住人」に、罪悪感はほとんどないようだ。「いい年齢のオトナが!」と軽蔑する人もいるだろうが、それを口にして注意する人はいない。下手をすれば、注意されてもわからない可哀想な人なのかもしれない。
 彼らも昔は子どもだった。その頃に公共の場でのマナーを身につけていれば、周囲に迷惑がられることもなく、恥をかくこともなかった筈だ。子どもたちの「お手本」となるべきオトナとして、「やって見せる」ことの責任を改めて思う。




イルミネーションとカップルばかりでもいい! by 進歩じゃない! with くぼま~る

2018-12-24 09:39:49 | 自由投稿
 せっかくのイルミネーション擁護論なんだけど、いかんせん文章の贅肉が多過ぎると思うんだよな~
 というわけで、極力 600字に近づけてみたんだけどどうだろう? 論旨は変わっていないと思うのだが・・・


 クリスマスに近づくと、町の中はきらきらと輝きだしカップルであふれる。大学内でもクリスマス感を出そうとしているのか、それとも学校の売り出しのためかは分からないが一部分で輝きを放っている。クリスマスについて友人と話しをすると、多くは「光熱費」についての批判や「町中の恋人」についての話になる。なぜ、そんなにも批判的な意見が多いのか。不思議でたまらない。
 クリスマスになっても町中がきらきらしていなかったらどうだろうか。それでもいいという人は多くいると思う。しかし、名前だけのクリスマスなんてちっとも面白くない。イルミネーションには人を引き付ける効果があり、普段は暗い道に光を当てることで安心感を与える。また、青いLEDライトには人の心を落ち着かせる働きがあり防犯効果が期待できる。イルミネーションの色によっても効果は変わるが、ムードが出るのと同時に多くの利点がある。今のイルミネーションはプロジェクションマッピングを使用していて私たちが幼かった頃とは環境が違うが、批判的な人も子どもの頃は純粋にイルミネーションを楽しんでいたのではないか。これから子どもを育てていく教師のたまごが「ただの光」と冷めた目で見ていては、どんどんつまらない大人になるだけだ。
 クリスマスにデートしているカップルに対しても「リア充爆発しろ」という言葉を聞いたことがあるが、クリスマスにデートしてもいいではないか。クリスマスにデートするかしないかでそのカップル間の愛の大きさなんか測れやしないが、お互いを大切にしているからこそ一緒に過ごしたいと思うのではないか。仲良く過ごしているカップルに対してとげのある言葉を放つとはなんと余裕のない人間なのだろうかと、私は思ってしまう。
 光熱費はいったい誰が出しているのか、あんなにきらきらしてなくてもいいのではないか、そろいもそろってカップルであふれなくてもいいじゃないかと、私も思ってしまうことがある。しかし、イルミネーションを見て「きれいだな」とわくわくする気持ちを持てる、仲良く大切な人と過ごしているカップルを見て「素敵なカップルだな」と思える、そんな心に余裕をもった人間のほうが人生楽しいと思う。光熱費を考えられるようになったということはそれだけ、私たちが大人になった証拠だが、まずはイルミネーションがあるという現実を楽しんでみてはどうだろうか。
 とまあ、今まで送られてきたレポートと真っ向から勝負を吹きかけるようなものを書いているものの、私も学校のイルミネーションに関しては批判的な意見に納得してしまう。あれは置く場所をもう少し考えるべきだろう。写真映えを気にして学食前の広場に置いたのか、それともあのツリーを置きたくて置いたのか、学園の考えは定かではないがわざわざ寄り道してから見に行かねばならないところに置くなんて、あれは正直光熱費について文句言われてもしょうがないのではと私も思ってしまった。

↓≪加除修正してみた by くぼま~る≫
 クリスマスが近づくと、街は光とカップルで溢れ返る。クリスマス感を狙っているのか、はたまた単なる宣伝なのか、学内中でもイルミネーションを灯したりする。電気代や「カップルだらけ」について批判的な友人も多いが、私にはむしろそれが不思議だ。
 イルミネーションは暗い道を照らして私たちに安心感を与えるし、青色LEDには人間を落ちつかせる効果もあるようだ。また、プロジェクションマッピングにも使われ、人を魅了する力に優れている。「ただの光」と冷めた目で見ているだけでは、とりわけこれから子どもを育てる世代として、つまらないオトナになりそうで怖い。
 クリスマスのカップルたちにトゲトゲしい言葉を吐く人もいる。だが、仲良く過ごしている人を揶揄するとは何と余裕のない人生だ、と、私は思う。イルミネーションの電気料金を気にする人と同様、楽しさを欠く生き方ではないか。電気料金が気になるのは、オトナになった証拠だとも言えるのだが・・・
 ともあれ、大学のイルミネーションについて言えば不満や疑問が残る。例えば、どうして今まで通りの学生の通り道ではなく、わざわざ寄り道が必要なあの場所なのか。何のため、誰のためのクリスマスツリーやイルミネーションかを、キチンと説明してほしいものだ。



クリスマスは私の誕生日! by メイメイ with オジィくぼま~る

2018-12-19 09:10:02 | 自由投稿
 私はこの課題が出るまで、クリスマスについてなど考えたことがなかった。
 生まれたときから12月25日はクリスマスで、私の誕生日でもあったため、なぜクリスマスが日本にもあるのか、クリスマスはどのような効果を日本にもたらしているのか、今まで考えようと思ったことがなかったのだ。
 この機会に、クリスマスとは何なのか、考えてみようと思う。
 クリスマスと言ったら、恋人とイルミネーションを見に行くのが醍醐味だろう。私には縁のない話であるが、街中にはカップルで溢れている印象がある。こんなにも街中がカップルにあふれる日などあるだろうか。一年を振り返ってみても、いい夫婦の日はあるが、いいカップルの日などは存在しない。記念日などは個々にあるだろうが、恋人の日と世の中のみんなが思っている日はクリスマス以外ない気がする。
 クリスマスは、祝日まではいかないが、世の中の人は祝日のような特別な日という感覚なのだろう。
 今まで日本にそのような日がなかったことが、クリスマスを浸透させた要因の一つになるのではないかと私は考えた。
 話は変わるが、大学にもイルミネーションを数年前から設置しているが、その電気代や設備代は一体どこから出ているのであろうか。そのイルミネーションに、何の意味があるのか謎である。大学はどこを目指し、誰にアピールをしているのだろう。もしあれが、私達が払っている学費から出ているとしたら、私は納得いかない。誰のための学校であるのか、もう一度考えてほしい一心である。

↓ ≪加除修正してみた by くぼま~る≫
 クリスマスのことなど、深く考えたりしてこなかった。実は、12月25日は私の誕生日で、そればかりが頭にあったからだ。なぜクリスマスが日本にあり、いかなる影響をおよぼしているかを考えてみたい。
 クリスマスと言えば、カレシとのイルミネーション観賞が醍醐味だろう。私には無縁の話だが、街にはカップルが溢れている。これほどの多くのカップルが、普段はどこに潜んでいるのか。「いい夫婦の日」はあっても「カップルの日」などない。いっそ、クリスマスをカップル記念日にしてしまったらどうだろう。
 別に祝日にしなくてもいい。既に「祝日」みたいなものだ。逆に、「祝日」になってこなかったからこそ、クリスマスが人々の間に広まっていったのかもしれない。
 大学にもイルミネーションが飾られるが、あの費用は一体どこから出ているのだろう。イルミネーションに何の目的や意味があるのかは謎だ。大学は、誰に何のアピールをしようというのか。私たちの学費からの出費だったとしたら、いったい誰のための大学であるかを、もう一度考えてみたい。それを本気で喜んでいる学生が、果たして何割いるのだろう。



K子さんのシクラメン by くぼま~る

2018-12-19 08:46:35 | エッセイ
 先日、年末恒例の「K子さんのシクラメン」が、今年もまた届いた。親類にお花屋さんだか園芸農家さんだかがいて、そこから送ってきてくれているらしい。
 彼女がまだ看護学校の学生だった頃からだから、かれこれもう30年来のおつき合いになる。
 学生と言っても、お子さんもいる会社勤め経験のある社会人入学生だったから、間違いなく年齢は僕よりも上の筈だ(正確にはわからない)。個人的には、色々と苦労があったのかもしれない。いつしか僕が新茶をプレゼントし、K子さんがシクラメンを送ってくれるという間になっていた。
 と言っても、直接会えるのは二・三年に一度がいいところで、最近では専ら、LINEでの遣り取りをしている。
 K子さんのシクラメンはなぜか強くたくましく(無論、美しいのだ)、年末年始のシーズンを過ぎてわが家の応接間から引退した後も、けっこうわが家の裏手で地植えの生活を続けている。静岡県の伊豆あたりだと、シクラメンもちゃんと戸外で越冬できるのだね。
 国連協会主催のアメリカツアーで、ニューヨークの国連本部を団体旅行しに出かけたこともあるし、静岡の仲間たちと一緒に、ネパールの山の中へ文房具を届けに行ったこともあるのだが、東京住まいのK子さんとは「ほどよい距離感」のまま、還暦過ぎの友人関係(笑)を続けている。
 職種も年齢も異なる、彼女のような友人はありがたいし面白い。あの頃は小学生だった一人息子さんも、今や立派なお父さんになっていて、彼女もまたしっかりと「バァバ」をやっている。それで良いのだな。 



クリスマスの真の意味と無駄遣い by ユイユイ with くぼま~る

2018-12-16 18:35:31 | 自由投稿
 日本人は12月になるとクリスマスツリーを出したり、街中はイルミネーションが施されていたりする。子どもたちはサンタさんにプレゼントをもらい、家族やカップルもクリスマスを楽しむ。クリスマスを楽しむのはいいことだが、クリスマスの本当の意味を知らない人は多いのではないだろうか。
 私もクリスマスの意味をあまり深くは知らなかったため、調べてみるととても興味深かった。クリスマスの意味は「イエス・キリスト」の誕生日を祝う日である。それは誰でも知っているだろう。語源としては、キリストの誕生日を祝うミサ(カトリック教会で礼拝の時に神父が信者にパンを与えること)である。キリスト(Chist)+ミサ(Mass)がつながりクリスマスとなったという。これを知っている人はなかなかいないだろう。
 キリスト教を信仰している人は教会へ行き礼拝をしている。こんなにもクリスマスを楽しんでいるのだから、一度は礼拝してみてもいいと思う。
 この時期になると、私の最寄り駅でもイルミネーションでライトアップされとても綺麗だなと思いながら帰る。だが、そのお金はどこから出ているのだろうか。家全体でライトアップする場合、一か月約2万円ほどである。家でやるよりも規模がでかいためなかなかのお金がかかってしまう。大学でもイルミネーションされているが、それも私たちの学費から払われていると思うと見るのが嫌になる。税金や学費をただ飾るだけのイルミネーションに使われていて、本当にやる意味はあるのかと考える。もっと使うべき場所があるだろうから、もう少し考えて行動してほしいと願う。

↓ ≪加除修正してみた by くぼま~る≫
 街中にクリスマスツリーやイルミネーションが溢れる時期になった。子どもたちはサンタからのプレゼントを期待し、友人や恋人と一緒に過ごす時間を楽しみにする人も多い。しかし、今や単なる馬鹿騒ぎと化したハロウィンと同じく、その真の意味を知らない人が多い。
 「クリスマス」の原義は「イエス・キリストの生誕祭」だ。「キリストのためのミサ(神父が信者にパンを与える儀式)」だから「クリスマス」である。事実、クリスチャンは街中で大騒ぎなどせず、教会で静かに礼拝の時を過ごしている。
 この時期、私の最寄り駅もイルミネーションで輝いている。ところで、あの電気代は誰が払っているのか。自宅での電飾には、月2万円の経費がかかるそうだ。まさか、大学のそれが私たちの学費からということはあるまい。
 税金や学費でクリスマスの装飾が賄われるとしたら、その目的や大義名分はどこにあるのだろう。あまり議論にはならないが、このまま放置するわけにはいくまい。



辺野古映像を観ながら静かな怒りで震える by くぼま~る

2018-12-16 16:33:11 | 自由投稿
 僕でも、そこに知り合いがいなければ「ふ~ん」や「へ~」だけで終わってしまうのか。
 辺野古の海への新基地建設用土砂の投入を報じるニュース映像を観ながら、自分の気持ちをどこへどう持って行ったら良いのかわからず、不快な苛立ちの中にいる。
 日本の安全や平和のために琉球とウチナーンチュを踏み台にしていいのか、琉球は日本ではないのか。たまたまこの問題が名護市辺野古を舞台に燃え上がっているだけで、国と地方との関係は、一触即発のまま残り続けるのだな。
 「地方自治」だの「地方創生!」だなどとほざいているくせに、「いやいや、まぁ、この辺野古問題は特別でね」とかの言い訳を続けるのだな。
 防衛大臣が言った「日米関係のためではなく、日本のためだ」という琉球無視のこのセリフ、深く胸に刻んでやろう。いつか富士山の麓にいる自分にも言われそうだ。
 巨大地震が来るから、津波を避けるため山梨県に転居せよ! 嫌なら電気やガスや水道を止めちゃうぞ!


静岡県東部(とくに御殿場線沿線)出身者へ from 久保田

2018-12-16 12:15:30 | 一般向け連絡
<strong> 通常は世田谷区を中心とする公立保育所への就職をメガプッシュしている久保田ですが、社会福祉法人立(いわゆる「民間」)の認可保育園で、あなたの保育実習や就職の照会ができる所を複数知っています。中には、久保田自身が現在理事を務めている園もあります。
 静岡県出身者、とりわけ御殿場線沿線を中心とする東部エリアの出身者は一度、久保田まで問い合わせられたし。
 学年なんか関係なし。「子どもの最善の利益」をキチンと守ってくれそうな人を、良く知る保育実践の現場に送り込みたいだけです。
 



「世代の歯車」が一つ進んだかな by くぼま~る

2018-12-16 07:52:38 | エッセイ
 先ほど、叔母(母の妹)が亡くなったという報せが入った。認知症からの全身衰弱で、病院に入った時点から覚悟はしていたものの、今の時代、70歳代での死はちょっと早い気がする。
 この秋から冬にかけ、親父の従兄弟たちが立て続けに亡くなっていった。みんな80歳代以上だから「天寿を全う」「大往生」と言えば言えるのだが、周囲の従兄弟連がすべて亡くなってしまった親父(88歳)の、「俺だけになっちゃった」という呟きにはやはり重たいものがある。
 人間誰しもいつかは死ぬのだが、「自分だけ一人残される」というのはさすがに辛いだろうな(いや待て、お袋はまだ生きてるじゃないか!)。ここから一気に衰え、後を追ってしまうのかもしれない。しかし、そうやって「世代の歯車」が一つ、コッツンと進むのだと思う。
 奇妙な感慨だが、「自分の番になった」という思いがする。
 今秋、心臓の不具合で逝きかけたことも関係しているのだろうがが、もう自分の前には誰もいなくなり、後を子や孫たちが追って来てくれているという実感がある。
 不必要な長生きはしたくない。とくに、家族など周囲の人に迷惑をかけながら生きさらばえるのだけは避けたい。何とかきれいに、静かに消えたいものだな。


「教育の方法」形成的評価Ⅱ/採点を完了!

2018-12-16 07:34:22 | 一般向け連絡
 「教育の方法」形成的評価Ⅱの採点を完了しました。
 今回(30点満点)の平均点は 25.0点(平均得点率 83.3%)、これまで(50点満点)の平均点は 39.2点(平均得点率 78.4%)でした。
 祝!バカでき!