おじいクボマ~ル@青空保育園 since 2023

定年前に大学教授から保育園長に転身した「おじい」のブログです。誰にでも開放していますので、ご投稿も歓迎です!

「平成」最後の日は?だらけだ by オジィくぼま~る

2019-04-30 11:19:47 | 自由投稿
 おそらく、今日と明日は「平成の最後」「令和の初日」で、日本中がまたまた大騒ぎするのだろうな。
 何がおめでたいのか、何が嬉しいのかもよくわからないままに、いつものから騒ぎが起きるのだろう。今日から明日への午前0時直前には、これまたカウントダウンなんかしてしまうのだろうな。お正月とほぼ同じ感覚で「令和」を迎えるから、勘違い人間たちの中には「元日」とか「元旦」とか言っちゃう人も出てくるだろう。
 昭和が平成になった時と同じように、またもや国民的議論が湧くこともなく平成が令和に変わる。「西暦で統一してはどうか」とか「天皇・天皇制を継続するか」等の話し合いがないまま、なし崩し的・怒涛のように・まるで土砂崩れのように時代の呼び名が変わるわけだ。
 日本国憲法第1条にある「天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づく」という主権在民・国民主権の大原則は、今回も再びズルズルとスルーされてしまった。
 天皇・天皇制に絶対反対!と言うわけではない。それをキチンと議論し、国民的合意を形成する必要があるのではないかと思うわけだ。「国民全員が」などという神話や幻影を信じるほど、僕たちはおめでたくはない。どのテレビ局も、どの政党も、どの宗教も、こぞって本当に「令和」を歓迎しているのだろうか。



ひまわりさくまであとすこし by オジィくぼま~る

2019-04-29 16:57:42 | 自由投稿
 ACジャパンの意見広告「思い出はニッポンの人」の背景で静かに流されている曲が気になった。
 「ひ~まわりさくま~で・・・」でフェイドアウトされるので不安だったが、調べてみると、竹原ピストルくんの「ひまわりさくまであとすこし」という歌詞そのまんまの曲だった。
 決して美声ではないけど味のあるシャガレ声の人で、以前、「よう そこの若えの」というフレーズに魅かれて検索してみたことがあった。
 「ひまわり~」の中に出てくる「君の上は下手くそだ 僕の絵は上手だよ 比べるな 比べるな 比べるな」という部分に、金子みすずさんを感じた。
 竹原くんと金子みすずさんでは、見かけから何からまるで違うのだが、なぜか底の部分で繋がっているものを感じる。そんなことを思うのはオジィだけだろうか。



琉球のサクラ? by オジィくぼま~る

2019-04-29 16:35:22 | 自由投稿
 「開花宣言!」と言えば、本土では間違いなく「サクラ」のことだろう。しかも、なぜか高知あたりが「一等賞!」のイメージが強く、今真っ盛りの弘前城あたりで毎年「ゴール!」という感がある。≪桜前線≫は、僕たちヤマトゥンチュ(本土民)には毎度おなじみの言葉だ。
 ふと、琉球ではどうなのか、桜のお花見なんぞをするんだろうか?と思った。そう言えば、琉球で桜の木を見かけた記憶がほとんどない。亜熱帯の琉球ゆえ、植生が異なるのかもしれない。
 ちょっと前、仲良くしてもらっている名護市の保育園長さんに「花粉症」について尋ねてみた。「あまり聞いたことないさ~」という、羨ましくなるような返事だった。
 その代わりに何か大変なこともあるのだろうが、とりあえず目の痒みだクシャミだ鼻水だ~がないのには憧れる。花粉症に悩むヤマトゥンチュは、沖縄への移住を本気で考えたらいかがだろう。
 その園長さんから、「子どもたちは半袖・半ズボンで飛び回っています」との便りをいただいた。「琉球新報」という地元紙を読んでいたら、「那覇で30℃」「海開き」の文字を見つけた。何だか凄いな~、琉球は。
 個人的な推測だが、どうも琉球にサクラは似合わない気がする。そして、サクラの代わりにウチナーンチュたちが心底愛でる花があるような気がする。デイゴかな、ハイビスカスかな、ウージかな。誰か、知っている人がいたら教えていただけませんか?



 

「ヴ」をなくしてよいのだろうか? from オジィくぼま~る

2019-04-28 10:19:55 | 自由投稿
 先日、何気なくテレビのニュースを見ていたら、日本語から「ヴ」を排除するようになるのだそうだ。
 「ウ」に「゛」を付けて「v」の発音を表すから、少しは原語に近く聞こえていた言葉が多い。ヴェトナム・ヴァレンタイン・ヴァレンシア・ヴィクトリー・ヴァージニア等など。
 日本語には「v」や「f」の音がないから、「ヴ」や「フィ」はなかなか良くできた標記だと思っていたのだが、これをなくすと心配な事がある。それは、小学校でも正式な教科になる英語の教育のことだ。
 日本人の英語が外国で通じ難いのは、それを無理くりカタカナで書いて憶えているからだと言われる。そうである、「ハウアーユー?」「アイアムファインサンキュウ」の類である。「ハウドゥーユードゥ?」「ナイストゥミーチュー」なんかもそうだろう。
 ただでさえ外国語を日本語の50音にあてはめようとするから無理が生じてきたのに、「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」をなくしてしまったら、さらに通じ難くなるのではないか?
 カタカナ化された文字列を読むのではなく、「聞こえたまんまを口真似せよ」と何かの本に書いてあった。確かにその方が、ネイティヴにはわかり易いようだ。「バカンス」では通じなくても、「ヴァカンス」なら何とかなりそうだ。
 僕は専ら「電子メイル」と記すけれど、どうして僕の周囲は「メール」が主流なんだろう。正しいオリジナル発音は、明らかに「メイル」だと思うんだが・・・
 要するに、「カタカナにする」というのがそもそも無理なのだから、できるだけ原語に近い発音を使うのが王道ではないだろうか。「ヴ」をなくしちゃいかん!



うわわ、遂にゴールデンウィーク突入だ! しかし・・・ by オジィくぼま~る

2019-04-26 06:40:11 | エッセイ
 今日あたり、わけもなくやたらと浮足立ってフワフワしている人が増えるんだろうなぁ。遂に!、十連休に突入である。あなたは何をするのだろうか?
 悲しいかな久保田、まったく予定がない。いや待て、連休明けに実施する試験や自主ゼミの資料や授業用プリントの作成くらいはしなくちゃならないので、「まったく」は大袈裟だったな。しかし、いずれにしても仕事ばかりで、「うわ~い、お休みだぁ。何しよっかな~」感はない。
 今、自宅は僕とお袋(87歳:要介護度1)の二人きりだ。親父(88歳:要介護度4)はショートステイに滞在中で、かみさんはもうすぐ生まれくる五人めの孫のために、福島県会津若松市に出かけている。「くぼま~る、実にノンビリと自由を謳歌!」と言いたいけれど、そう単純にはいかんのだよな~
 この状況になってからまだ十日しか経っていないが、早くも「介護疲れ」が出始めている。同じことをくり返し何度も話しかけてくるお袋の相手をするのは、なかなかに忍耐と達観が(諦観かな?)必要だ。はい回る会話についついイラついてしまう。
 耳が悪く、人の話をちゃんと聴き取っていないのに、とりあえず「あ~、はいはい」と応えてしまうお袋の癖や、「ありがとう」で済むことを、実の息子に「すみません、すみません」と言い続ける癖、二人きりだと一層こたえるな。
 確かに僕を生み育ててくれた人たちだが、「そうか、老いとはこういうものだったか」を痛感しながら、茫然と毎日を重ねている。こりゃマズいな。僕自身も、いずれこういう風になるのか。なりたくはないな。


いのちの花 by 恋さん with くぼま~る

2019-04-26 05:45:17 | 自由投稿
※ いやぁ、良い原稿ですね~。「直す必要なんかないじゃん」と思いつつ、それでは約束が果たせないので、文章のスリム化を目指してみました。いかがでしょう?

 初の10連休がすぐそこまで迫っている。多くの人が訪れるだろう河口湖では芝桜が見頃を迎え、辺り一面を美しいピンク色に染めている。「名もない草も実をつける いのちいっぱいの花を咲かせて」相田みつをのこの詩がよく似合う。確かに、そこに命は咲いているのだ。
 先日、旧優生保護法の下で障害者に対して、強制的に不妊手術が繰り返された問題で、被害者へのおわびと一時金の支給を盛り込んだ救済法が参院本会議で全会一致で可決、成立した。これまで人権侵害だと指摘する被害者らの声に応えてこなかった経緯から見れば大きな前進だ。約50年間も存続したこの法は「不良な子孫の出生防止」を目的として沢山の尊い命の芽をむしり取った。
「おわびとお金」今生きている私たちにはそれが精一杯の「反省」の表し方なのだろう。どんなに謝っても、どんなにお金を払っても、摘み取られた尊い命はもう帰ってこない。お父さんやお母さんがどんなに会いたいと願ってもその命はこの世にはもう、二度と帰ってこない。消えていった命は何を思うのだろう。優生保護法が廃止されてからも「新型出生前診断」が登場するなど「命の選別」は問題になっている。
 芝桜は美しく咲いていた。その命は輝き、人々を魅了する。花畑の中で咲くはずだった「名もなき命」は優生思想の下、まだ芽を出さずして、静かにこの世界から消えていった。

↓≪くぼま~る改稿≫
 河口湖畔では今、芝桜の美しいピンク色が周囲一面を染めている。相田みつをさんの「名もない草も実をつける いのちいっぱいの花を咲かせて」という詩を思い出す。
 先日、旧優生保護法下で強制された不妊手術の被害者である障害者への「お詫び」と「一時金」を定めた救済法が、参議院本会議で可決・成立した。人権侵害を叫ぶ被害者らの声を黙殺し続けてきた経緯からすると、大きな一歩だ。「不良子孫の出生防止」を目的としたこの悪法は、約半世紀の間、膨大数の尊い生命を抹殺し続けた。
 「お詫び」と「一時金」は、今の私たちにできる精一杯の気持ちの表現だが、父母と対面することなく摘み取られ、闇に葬られた小さな命たちは、この世に戻れない。彼らは、あの世で何を思うのか。代わりに「新型出生前診断」が一般化しても、「命の選別」問題は難しいまま残っている。
 美しく咲く芝桜を眺めながら、芽吹く前に消えてしまった幾多の名もなき命を思った。私たちはそれを、決して忘れてはならない。



運転免許状の年齢制限が絶対必要! by オジィくぼま~る

2019-04-21 11:19:37 | エッセイ
 本来は僕たちの知性や理性による自己判断に任せられるべき問題なんだろうけど、もはやそれが僕らの中になくなっているとするのなら、公的権力やら法律やらに頼らざるを得ないのかもしれない。一種の人間の敗北だな。
 87歳の老人が、母子二人を死なせる交通事故を起こした。よりによってここまで生きてきて、まさかの「殺人犯」になったのだ。車そのものに何の異常も見つからなかったというから、運転者のミスであることは明らかだ。
 「高齢者ドライバー」が起こした交通事故については、かなり以前から論争の種になってきた。「運転免許状に年齢制限を設けろ」とか「いやいや、移動の自由を剥奪すべきではない」とか「農村部や過疎地域では、車がないと老人が買い物にも行けない」とか。そして、ウジャウジャしながら結論を先送りしているうちに犠牲者が増え、今回の悲劇が起きた。亡くなった方々には縁もゆかりもないが、本当にお気の毒でご冥福をお祈りするしかない。
 体力や運動能力や運転能力には個人差があるから、機械的かつ一方的に「何歳まで」と決め切るのは難しいだろう。だが、そうすることで少しでも他人の命の危険を減らせるとなれば、やるしかあるまい。例えば、その制限を80歳にするか75歳にするか等の問題は残るが、僕ならそれに従う。その年齢制限をこえたら、徒歩か自転車か歩行器かシニアカー(老人用電動車椅子)でいいし、また、それで移動できる中で生きようと思う。
 「いつまでも若くいたい。若い頃と同じようにしたい。」という、本当は叶う筈のない夢を、僕たちは便利な世の中で見てしまっている。人は老いるし衰える。それは動かせない真実なのであり、従わざるを得ない自然の摂理なのではないか。運転免許状の年齢制限は、喫緊の社会的課題である。
 僕に徹底して「安全運転」を叩き込んでくれた親父の運転に、「?」を感じ始めたのは彼が70歳を過ぎた頃からだった。ブレーキのタイミングが遅れ、ハンドル操作も危うくなった。自宅の庭で、僕やかみさんの車に衝突すること数回、僕は遂に「もう止めなよ」と、運転免許状の返納を進言した。否、命令と言ってもいいだろう。それから親父は「引きこもり」翁になった。年齢制限反対派の人が言う通りだった。
 しかしそれは、運転ができなくなったからではなく、彼という人間の個性のせいだったと僕は断じて思う。事実、運転を止めた高齢者でも活発に動ける範囲内で活動的に人づき合いを楽しんでいる人は多い。その後、わが家の親父は外出や散歩の回数が減り、自室で新聞やテレビにかじりつくだけの生活になった。歩くのは、自室と食堂とトイレ・風呂場の間の往復だけになり、遂には、高齢のせいもあるだろうが歩けなくなり、オムツをしなければならなくなった。風呂にも入らず、洗面所で歯も磨かなくなった。
 運転免許状は、早期に≪年齢制限による返納制≫にすべきだ。そして、その後の人生を少しでも健康のままに過ごせるような「老化回避支援」が充実されることを祈りたい。
 そういう僕61歳自身、最近は運転がかったるくなってきた。自覚はないがきっと、ブレーキやハンドリングの遅れ等が出てきているに違いない。定年までは仕事のために運転は続けるが、それ以降、車と運転はスパッと止めようと思う。



なんでエイサーで涙が出るんだろう by オジィくぼま~る

2019-04-21 07:55:23 | 自由投稿
 久しぶりに You Tubeで琉球のエイサーを観た。バックミュージックはBEGINの「おじぃ自慢のオリオンビール」だから、心が昂揚はするが、おそらく泣くようなものではない。
 にもかかわらず、涙と鼻水が止まらなくなった。こりゃあ一体、なぜなんだろう。
 太鼓やパーランクーを打ち鳴らすお兄ちゃんやお姉ちゃんたちの笑顔と躍動を見ていたら、ウチナーンチュばかりに苦労を強いているこの国を、非常に申し訳なく思った。なのに、彼らの笑顔は眩しかった。
 相変わらず、僕の心の波長はエイサーにシンクロしてしまうようだ。イーヤーサーサーなのだ。



朝からギャアギャア騒ぐんじゃねえよ! by オジィくぼま~る

2019-04-19 10:56:17 | エッセイ
 やさぐれ不勉強の右翼兄ちゃんたちほどではないにしても、朝から大音量でわが家近くの国道を走り回っている車がある。そう、選挙なのだ。
 「何とかかんとか、何とかかんとかでございます。どうぞよろしくお願い申し上げます。」「朝からお騒がせ、ご迷惑をおかけしております。どうぞ皆さまのお力で、議会に〇〇を送り込んでくださいませ!」とか何とか、「名前しか言ってないじゃん!」「ご迷惑と思うなら止めろよ!」「だから、あんたは何がしたいんだよ!」と一人ボヤきながら、音の嵐が過ぎるのを待つ。
 するとまた、別の候補者の選挙カーがやってきては、「〇〇候補、お互いに最後まで頑張りましょう!」!などと、取って付けたような応援コールをブチまけ回っている。
 日本の、とりわけわが町のような田舎部の選挙というのは、どうしてこうも中身がない割に騒がしいのだろうか。病院や学校周囲での拡声器使用は禁じられているにもかかわらず、必死になっている候補者はおかまいなしで騒ぎ立てる。そういう輩に限って、「何をしたい・何をする」の話がないのだ。文字通り、名前を憶えさせるだけの「売名行為」である。
 そして、いつまで経ってもワンパターンの「必勝ハチマキ」に「白手袋」だ。いったい誰に「勝つ!」というのか、そして、たとえ白手袋をしていても、不特定多数の手を握ってきたあんたと握手なんかしたくないですから!
 知り合いの女性が、最寄り駅を通りかかる時に候補につかまり、不気味な笑顔で握手をされそうになったそうだ。彼女はそれを頑強に拒み(偉い!)、「そういう事を平気でする人は絶対に支持しませんっ!」と、伸ばされた手をふりほどいて逃げ去った。そして、「あれって、厳密に言うとパワハラとかセクハラにならないんでしょうか?犯罪じゃないですか?」と、憤っていた。その通りだと思う。
 おそらく、騒ぐだけの選挙戦にしてしまった責任は、僕らの側にある。選挙公報すら読まないから候補者の経歴や考え方も知らず、とりあえず名前を憶えさせられた候補者を書いとけばいいやぁという人が大多数なのだろう。そうなりゃ、候補者は騒ぐはなあ。静かに暮らしたい住人の人権なんか、まったく意に介さない。
 一昔前には「立会演説会」なるものが開催され、そこで各候補者が思いの丈を披露していたのだが、反対派のヤジが下品で見境ないために廃止されたと聞く。自分と意見が異なろうと、とりあえず人の話を傾聴するという最低限のマナーなど、先ずもってオトナたちの中に醸成されていなかったのだ。異なる意見の人には、キチンと筋立てた質問で対応する、あるいは、理路整然とまた異なる考え方をぶつければ良い。それができないのだな、ワシらは。
 アメリカ大統領選挙のように、国をあげてのお祭り騒ぎにする必要なないけれど、お願いだから≪騒音のバラ撒き散らし≫は止めてくれないか。騒ぎたければ、どこか体育館でも公会堂でも借り切って、その中で支持者たちとだけ盛り上がってくださいな。




不気味な「進化」:堀越喜晴のちょいと指触り95

2019-04-19 07:09:29 | エッセイ
 相当昔のことになるが、私は英語の授業で学生たちとヘレン・ケラーが彼らと同じ歳の頃に書いたエッセーを読んだことがあった。良い意味での気負いの感じられる若くみずみずしい文章に感銘を受けながらも、あまりの格調の高さと教養の深さのために、たいへん苦労しながら読んだことを覚えている。
 エッセーは「もし私が自分自身の生まれる環境を選ぶことができたなら」という書き出しで始められていた。そこで私は、みんなに「あなたならどんな環境を選びますか」と聞いてみた。するとある学生が答えた。「私は何も考えなくていい環境を選びたいです」。以後私は、たっぷり1年間は落ち込んだ。
 もしかしたら、この学生はその時、何かよほど深刻な悩みを抱えていて、今は何も考えたくないという状況の中でそんな答えをしたのかもしれない。しかし、それにしても今どきの学生たちは総じて、考えることが嫌なようだ。こちらからの質問に対して、即座に「分かりません」「思いつきません」と答える時の彼らの何と潔いことか。
 ところが最近、これに輪をかけて私は、それこそ深刻に考え込まされることになった。何人かの学生から立て続けに、こんな意見を聞かされたからである。「昔は今より不便だったから肉体と同様、頭脳も労働させなければならず、また人の絆も必要だった。しかし今は、技術が進歩し、そのようなことはITやロボットやAIに任せておけばよい時代になった。つまり『考える』ということは進化のある段階で人類が生き延びるために必要とされた一つの過渡的な手段にすぎない」。さらに彼らは言う。「障害もそんな時代の一時的な現象で、医療やさまざまな技術また代替品によってまったく問題にならなくなるだろう。点字にしても今後は情報が直接脳に送られるようになるから覚える必要もないし、盲導犬だって早晩、もっと便利なロボットに取って代わられるだろう」
 想像するだに薄気味悪い、としか私には思えない。でも考えてみれば確かに、私たち人類は時代を追うごとにサイボーグ化の一途をたどってきたことは事実だ。 いまや私たちは、どんな魚よりも巧みに泳ぎ、チーターよりも速く走り、鳥よりも高く飛び、地球の裏側の人とでも一緒に歌い、さらには(ウサギ以外には)どんな生物もいまだかつて行ったことのない月にまで到達するに至った。私たちの障害のバリアーもその恩恵を受けて限りなく解消された。点字を手書きすることも指で読むことも少なくなっている。
 そして今、私たちは「考える」という行為の産物であるこれらの技術によって、ついに「考える」ことから解放されようとしている、というのだろうか。三宮麻由子さんが本紙に書いておられたように、人間は「考える葦」だと言われる。自然界ではただ風にそよぐばかりのか弱い一本の葦、それを宇宙よりも偉大な存在たらしめている、この「考える」をやめた時、私たちはいったいどうなってしまうのだろうか。「わかりません」、事も無げに一人の学生がそう答えた。「でも仕方ないですよ、進化なんですから」。その声は、私には蕭々と風にそよぐ葦の葉擦れの音のように聞こえた。
 「へえっ」、あるいはそんな私を見て未来人はこんなふうに言うのだろうか。「昔の人ってたいへんだったんだねぇ。本何冊も読んで『人生とはなんぞや』だなんて、眉間にしわ寄せて考えてたんだってね。今ならそんなこと、AIに聞いてみればすぐに答え、出してくれるのにね」。ちょうど私たちが現代の目から昔の人の暮らしぶりを眺めては、ただただ感心しているかのように。



やるやる漢検隊6月班へのエントリーはお早めに 

2019-04-18 07:16:41 | 一般向け連絡
 6月14日(金)夕方実施予定の「やるやる漢検隊6月班」ですが、希望者が多くなりそうなので、エントリーの〆切期限を連休前の4月26日(金)までとします。
 その後、エントリー受付者には個別にメイルで連絡をしています。メイルの受信チェックをお忘れなく!
 なお、ニュース時事能力検定(6/21)については、エントリー受付を続行しています。


「教職教養」&「一般教養」両講座ともに2121にて開きます from 久保田

2019-04-18 07:08:42 | 一般向け連絡
 教職センター提供の標記両講座は、金曜日5&6時限に2121において開きます。
 ちょっと狭いかもしれませんが、熱気ムンムンの方がモチベーションが上がるかも・・・


悲しき怪物たち:堀越喜晴のちょいと指触り90

2019-04-16 15:18:49 | エッセイ
先月のゴールデンウイークを挟んだ本紙の合併号に掲載された、岩手県立盛岡視覚支援学校の高村和人先生による「平昌パラリンピックを戦い終えて」と題する寄稿文を拝読し、深い感銘を受けた。夏季・冬季を通じてパラリンピックに関する報道はまだまだ貧しいと言わざるを得ない。特に、今回の視覚障害選手の活躍について私は何も知らず、とても気になっていた。なので、出場者のこの生の声はたいへんうれしく、心の中で拍手しながら読んだ。もっと一般にも知られるべきだと思う。
 中でも心に響いたのは「これまでに『高村先生だからできるんでしょ』と言われて悲しくなったことがあります。」という一文である。「『できない』と線を引いた時点で可能性はなくなり、成長は止まる」とは、けだし名言だ。
 私もよく言われる。「そんなこと、堀越さんだからできるんですよ。みんながそうだなんて思ってもらっちゃ困る」。「そりゃあんたは(田舎なれども)国立大学を出て、(長すぎるくらい)大学院にまで行ったエリートだから、そんなこと言えるんでしょうけどね」。そんな時私は、せっかく出して差し上げたお菓子をそのまま突っ返された時のような悲しさを覚える。私としては正直「私にできるんだったら、誰だってできるでしょ」と言いたいところなのだけれど……。
 私が新潟盲学校の小学部にいた頃、先生方は毎日のように、私たちにこんなふうに言われたものだった。「普通学校の子供たちはこんなもんじゃありませんよ。そんなことで、いい気になっていてはいけません」。そして、その度ごとに決まって「井の中の蛙大海を知らず」ということわざを聞かされた。だから私にはその頃から、自分のやれていること、知っていることなんてたかだか最低限のことで、誰しも少なくとも私以上にはできるんだという思いがしっかり染みついている。そして、きっと先生方のお導きのたまものなのだろう、それが今に至るまで私の中で伸びしろとして機能しているようだ。「これがマックスじゃない。まだ、行ける。まだまだ知らなければいけないことが山ほどあるんだ」という具合に。
6年生の時、普通校から3人の転校生が来た時に「負けるもんか!」と闘志を燃やすことができたのも、この叱咤(しった)のおかげだろう。大学に入ったばかりの頃はまるで怪物のように見えていた同級生たちに交じって何とかやっていこうと思わせてくれたのも、あの時に培われた心のエネルギーが働いてくれていたからだ。
 今、私はその怪物たちを相手にしている。私のそんな思考法のせいか、どうも私は彼らに「このくらいはできるだろう」と言って、結構過重な課題を出すようだ。気をつけなければいけない。しかし、それにしても彼らは何と安直にこう口にすることか。「先生、それ難しいっすよ」。しかも彼らにとって、この「難しい」はどうやら「できない」「やらない」「やりたくない」のことらしい。こうして彼らはいとも簡単に私との間に線を引く。そして、もうそれ以上こちらへ近づいてきてくれようとはしないのだ。あまりに悲しいではないか!
 言葉には魔法の力がある。「やらなきゃ」から「やりさえすれば」に、「手間だ」を「一手間かければ」に言い換えるだけで、ずいぶんやる気が出てくるものだ。だから私は、彼らに日々、こう魔法をかけ続けている。「みなさん、この授業では『難しい』と言いそうになったら『楽しい』と言い換えるようにしてください。『面倒くさい』と言わずに『面白い』と言ってください。『ややこしい』ではなくて『かわいい』と言いましょう。『点字の分かち書きって超かわいい!』っていうふうにね」。はたして、このささやかな魔法、彼らにはどれほどの効き目があるのだろうか……。


「ほしいけどしない」主義批判 by ヒッシー with オジィくぼま~る

2019-04-15 20:42:00 | 自由投稿
 私は基本的に、連絡が来るとすぐに返信をするタイプだ。相手が早めの連絡を待っているかもしれないし、返信の遅さが原因で、できなくなることがあったら困るからだ。返信をするのは当たり前と思うかもしれないが、実は今「返信をしない若者」が多くいるのだ。
 インターネットの普及によって、連絡の伝達速度が上がり、相手が遠く離れていても、まるで隣にいるかのように話すことができるようになった。一見便利になったように思えるが、「眠い」や「暇すぎ~」などどうでもいいことを言うようになった。もはや「連絡」ツールではなく、「会話」ツールとして使われているのだ。
 誰しも、連絡と分かっていれば必ず返信するはずだが、連絡ツールの中で会話をしてしまうことによって、「返信しなくてもいいもの」が生まれる。
 大事な連絡にも返信をしない若者が増えているのは、連絡よりも「返信をしなくていいもの」が多くなりすぎて、返信が必要か否かを判断できなくなっているのだ。いくら返信の大切さを説いても、返信が必要なものがわからなければ意味がない。
 また、LINEの「既読」という機能が返信をしない若者を増やしているものだと思う。「相手が見ていれば、自分に返信がなくても良い」と思ってしまう原因の一つだ。
 「既読無視」という言葉が一時期流行した。返信が来ないと不安だが、自分は返信をしないなどという、なんとも自己中心的な考え方に、早く気づいてもらいたいものだ。

↓≪くぼま~るのリライト≫
 私は、受けた連絡に即返信する。相手は早く返事がほしいだろうし、返信の遅れが重大な滞りを生むと思うからだ。しかし、「返信しない」若者が増えている。
 インターネットの爆発的普及で、私たちの生活はすごく便利になった。連絡速度が上がり、遠方にも容易に情報伝達ができる。その分、「眠い」や「お腹空いた」等の無意味な発信も増えた。連絡用ツールから「独り言」の道具に成り下がっている。
 それが、「返信しない」若者を増やしている。返事不要の発信が多過ぎて、返信の要不要が判断できない。まさに、LINEの既読機能はその典型で、「既読」の二文字で送受信双方が納得してしまうのだ。
 送り手側として返信を待つ人が、いざ受け手になると返信しない。何という自分勝手な発想と態度だろう。それを、コミュニケーションツールなどとはとても呼べない。




あまり聞きたくない言葉:堀越喜晴のちょいと指触り97

2019-04-14 15:51:28 | エッセイ
 毎年恒例となっている流行語大賞。昨年は「そだねえ」だった。
 いうまでもなくこれは、平昌オリンピックでの女子カーリング競技で話題になった言葉である。私はこれが好きだ。何と言ってもこの言葉は、優れてコミュニケーションに開かれている。人の意見に耳を傾け、自分のとは違った考え方を咀嚼(そしゃく)しようとしていることが感じられる。それでいて、自分の主張はまったく持たず端っから人任せにしっぱなし、というふうでもない。私たちの議論の中でもこのような言葉が聞こえ始めると、何となく解決への希望が見えてくるものだ。それに第一、かわいい!
 さて、それでは今年はいったいどんな言葉を多く耳にすることになるのだろうか。というわけで新年早々、誠に申し訳ないけれど、今回は、今年案外飛び交いそうで、かつ私があまり聞きたくもない言葉について書いてみようと思う。
 それはずばり「障害者でありながら」「障害があっても」「たとえ目は見えなくても」の類いの言葉である。例えば「障害がありながら博士号を取得した」だとか、「障害があっても暮らしやすい街」だとか、「障害者でも楽しめるゲーム」だとか、「たとえ目が見えなくてもおしゃれをしよう」だとか……。こういうのが出てくると、どうも私はドン引きしてしまう。この手のやつが来年の東京パラリンピックに向けてメディアなどを通じて広く世間をにぎわすことを私は懸念する。
 「また始まった! そんなひねくれたことばっかり言ってると……」と、すぐにもそんな声が聞こえてきそうだ。そだねえ。でもね、なぜ私が、それがそんなに気に入らないのかといえばやはり、これらの一連の言葉の中に、どうしても染みついている同情的なトーンのせいなのだ。そう言うんなら「障害があっても無くても」とか「目で見ずに」とかと言ってくれた方がずっと気が楽だ。いや、ただ「でも」を「も」や「が」にするだけでもずいぶん違う。
 「この国では障害を引き算としてしかとらえない傾向がある」とは、『目が見えない人は世界をどう見ているのか』の著者である伊藤亜紗氏の卓見だ。例えば、3本脚の椅子を見れば「三脚」としての積極的な評価を与える前に、さっさと「脚折れ椅子」と決めつけてしまう、という具合に。こうして障害者はどこまでも特別な支援無しには自力で一人前の働きができない集団に留め置かれる。有名なアメリカのADA法がAmericans with Disabilities Act(障害をもつアメリカ人法)であるのに対し、我が国の場合「障害者総合支援法」と銘打たなければならなかったことが、そのあたりの事情を雄弁に語っているように思える。
 英語で「障害者」を意味するthe disabledは、元々は「能力を剥奪された人々」という意味の言葉である。しかし最近では、これに「社会の中で能力を発揮する機会が奪われて不利益を被っている人々」という解釈が与えられている。これが国連の障害者権利条約で打ち出されている「社会モデル」の基(もとい)だと言えよう。これと先にみた「障害者という不利な状況に置かれているにもかかわらず」なんていうただし書きとは、やはりどうしたって相容れないだろう。
 今年こそは私たちがこの何とも窮屈な従属節をしなやかに飛び出して、主語として社会に主体的に貢献する年となってほしいものである。いや私たち自身がそんな年を作り出すよう積極的に働きかけていかなければならないのだ。我が息子をはじめとするパラリンピックアスリート達だってみんな来年への飛躍を期して全力を傾注しているのだから。親父だって負けちゃおらんぞ!