おじいクボマ~ル@青空保育園 since 2023

定年前に大学教授から保育園長に転身した「おじい」のブログです。誰にでも開放していますので、ご投稿も歓迎です!

「ハグ」ってできますか? by 久保田

2017-05-30 06:29:56 | 自由投稿
 日本に、外国からヒタヒタと忍び寄る怪しい文化の一つに「ハグ」がある。
 いつの頃からか、色々な場面で「ハグ」する人たちを見かけるようになった。が、しかし、還暦まで9ヶ月世代の田舎育ち久保田には、「ハグ」ができない。照れちゃってできない。万が一「ハグ」攻撃を受けそうになったら、間違いなく逃げる(笑)。
 先日、ゼミの4年生数名と「ハグ」談義する機会があった。僕は、若い世代なら誰でも「ハグ」っちゃうんだと思っていったのだが、あにはからんや、「いやあ、私はダメです。苦手です~」という人もいて、かなり安心した。もち論、日常的に何の抵抗もなくほぼ誰とでも「ハグ」っているゼミ生もいて、どうやら「ハグ」文化は完全に定着しているわけではないらしい。
 もともと日本には、初対面の人に握手だのキスだの、接触型の挨拶をする文化がない。マオリみたいに、鼻と鼻をこすり合わせるなんて、もっての外である。ハッキリいって、僕には今もって握手にも一種の緊張感がともなう。照れ屋さんなのだ。
 男同士の「ハグ」ならまだしも、女性との「ハグ」となると、相手の年齢に関係なく胸が気になってしょうがない。どうしても「ハグ」にともなって胸が当たるじゃん。それっていいの? 「ハグ」する女性は気にならないの? ちなみに、オジさんは大いに照れるんだけど。
 海外渡航経験はあるので、もち論、それなりに「ハグ」経験はある。しかし、それは「された」経験であって「した」経験ではない。しかも、常に身を硬くして緊張のまま「ハグ」されているという情けなさなのだ。
 「ハグ」なあ・・・ これからもっともっと浸透していくんだろうか? これはちょっとヤバい気がする(個人的感想です)。

「長生き」の悲しみ by 久保田

2017-05-28 08:41:09 | 自由投稿
 今年、親父は87歳に、お袋は86歳になる。一つ屋根の下で暮らしている老親を見ていて思うのは、「長生き」は本当におめでたいのか?ということだ。若くして亡くなった娘(つまり、僕の妹)を供養するため、かつて四国八十八ヶ所を巡る「お遍路さん」を三回も完遂した二人組は、既に見る影もないくらいヨレヨレである。
 変形性膝関節症に始まり、今では歩行器での移動もままならなくなった親父と、「円背(えんぱい:背中が丸まる症状)」が進行し、常に真下を向いて歩くお袋は、ともに年齢相応なのか認知症なのかは定かでないが、物忘れ・思い込み・頑固などがますます強まっている。
 確かに自分を育ててくれた両親ではあるのだが、ここまでヘロヘロに衰えた姿を見せられてしまうと、ついつい「長く生きるのも良し悪しだよな」と思ってしまう。「長寿を祝う」とか「長生きしてねお婆ちゃん」等の言葉を耳にすると、「それはさ、『健康であれば』という条件付きでの話だろ?」と、わけもなく嚙みつきたくなる。
 先日、僕にもかみさんにも用事があり、老親二名を二日ほど自宅に置いておかなければならないことがあった。本当はもう一泊する予定だったのだが、とても恐ろしくてそんな冒険はできなかった。過日、お袋が水道の栓を閉め忘れ、ジャージャーと水が流れっ放しの事件があったばかりだし・・・(火関係でなくて良かった)
 僕は、自分の健康状態からしてとても80歳までは生きないし、また、生きる気もない。とりあえず孫の顔は見られたので、「還暦御の字」の心づもりだ。できれば、かみさんや子ども&孫連に余計な心配や世話や迷惑をかけないうちに、焚火か蝋燭がポッと消えるように逝きたいと思っている。やりたい事ややり残している事はあるけれど、どうせやり切れるものではあるまい。
 なまじっか「やれる」と思うから、悔しかったり焦ったり悲しかったりするのだろう。それより僕は、周囲の迷惑にならないうちに消えたい。「もういいかな~」というのが、今の気持ちに最も近い。還暦60歳まで、あと9ヶ月。僕はどこまで、生きなければならないんだろうか。「終活」って、とても大切な人生最後の仕事のような気がする。

キチンと叱られてこなかった輩たち by 久保田

2017-05-28 07:19:19 | 自由投稿
 大阪で、登校中の小・中学生の通学路を猛スピードの車で暴走した兄ちゃん二名が、何と!「殺人未遂」で逮捕された。
 最初は「道路交通法違反じゃないのか?」と思ったが、冷静に考えてみれば確かに、交通死亡事故を生じかねなかったわけだから「殺人未遂」罪なのだろうなと思う。多分に「見せしめ」「懲らしめ」の感がある処分だが、交通事故による無念の被害者をなくすためには、これくらいの厳しさで自動車運転不適格者を取り締まることが必要だということだ。
 兄ちゃんたちの通学路爆走の理由は、「道一杯に広がって歩く小・中学生が邪魔でしょうがなかったから」なのだそうだ。実は久保田、この言い分にはちょっと納得できる部分がある。車を運転するようになってから気づく人もいるだろうが、歩行者やチャリンコ(自転車)族の方にむしろ「無法者」が多いように思うのだがどうだろう。
 狭い道路や歩道であるにもかかわらず二台三台で並走する自転車、複数が横に広がり道を塞ぐ歩行者、しかも、それが歩きスマホだったりするのだ。人の命を奪いかねないような無茶をした兄ちゃんたちが攻め(責め)られなければならないのは当然だ。しかし、通行者(人や自転車やバイク)のマナーやルール違反も厳しく問われなければならないだろう。登下校時の、相模大野駅から本学への歩道の惨状を見よ。守衛さんがわざわざ校外に出て、「広がっちゃダメだよ」「信号が変わるよ」と注意してくれるのはとてもありがたいのだが、ちょっと待て、ワシらは大学生であろう。そんなことは、一々言われなくてもできなければならない。学生の問題だけでなく、歩道をわがもの顔で走るチャリンコ市民たちにも猛省を求めたい。
 暴走兄ちゃんにせよ並列姉ちゃんにせよ、どうして周囲の状況や他人の迷惑が思い遣れないのだろう。前を広がって歩いている人がいたら、「お~い、ちょいとごめんよ~」と言えば良いだけの話ではないか。イラつくのはわかる。だが、一気に「轢き殺すぞ、おらあ!」まで行ってしまうかなぁ、普通。でも、実際に「そんないい方をしなくたって」と思うくらいの勢いでオラついている運転者は多い。
 お互いに交通ルールやマナーが徹底できないのは、幼い頃からキチンと叱られてこなかったからではないか。否、父母や保護者が本気で叱って諭してこなかったからではないか。あるいは、父母や保護者世代がそもそも「お手本」をやって見せられなくなっているのではないかと思う。マナー違反やルール違反は、取り締まりやポスターや罰則では減らせまい。たとえ愚直だとしても、みんなが「はい止まって、右・左・右、よしっ!」の小学校1年生の時代に戻り、模範的行動をとるしかないのだ。
 横に広がった歩行者の後についてしまったら、久保田ならどうするかなぁ。暫くズルズルとついて行った後、クラクションくらいは鳴らすだろうか。「ちょっと~どいてくれませんかね~」くらいは、勇気を出して言うかなぁ。

 と、ここまで書いてきたところで、とんでもないニュース記事を見つけてしまった。
 何と!、小学生の一部で車やバイクや自転車の前にわざと飛び出すというゲームが流行っているのだとか。絶句!である。父母は一体、何を教えているのか。「命(ぬち)どぅ宝」ではないのか。


ミサイルの意味 by Pちゃん with 久保田のリライト

2017-05-26 08:38:30 | 自由投稿
 最近のニュースで一番よく聞くのが、北朝鮮がミサイルを発射した問題である。北朝鮮が、新型ミサイル「北極星2型」を発射した。約500キロ飛行して日本海に落下した。弾道ミサイルの発射は今年、既に11発目であり、前回から1週間後というペースの速さである。固体燃料を使う北極星2型は、発射の兆候を探知しづらいのが特徴である。北朝鮮は常に、自らの戦力を誇大している。これを受け、日本政府は「国際社会の平和的解決に向けた努力を踏みにじるもので、世界に対する挑戦だ」と厳しく非難した。国連安全保障理事会は日米韓3か国の要請で、緊急会合を開き、新たな制裁決議を早期にまとめ、北朝鮮包囲網を強化しなければならない。日米両国の主導で、国際社会が核・ミサイル開発の放棄を迫る体制をつくることが大切である。
 ミサイルを発射して満足しているのは、北朝鮮だけであって、他国は迷惑している。ミサイルを発射することで世界中の人が幸せになるのか。自分の国を大きく見せたいがために多くの人の怒りや不安をかっている。実際に、日本にミサイルが落下してくることも考えられる。不安を抱える国民は、黙って見守る事しかできないのだろうか。一刻も早く解決に導いてもらいたい。

↓ ≪久保田のリライト≫
 北朝鮮が、またぞろミサイルを発射した。今年に入ってから既に11発めの発射であり、前回からはわずか一週間しか経っていない。固体燃料を使う今回のミサイルは約500㌔を飛行し、日本海に落下したそうだ。
 このような北朝鮮による戦力誇示に対して日本政府は、「国際社会の平和的解決に向けた努力を踏みにじり、世界に対する挑戦だ」と厳しく非難した。さらに、日・米・韓三ヶ国の要請を受けた国連安全保障理事会は、緊急会合を開いて新たな制裁決議を早期にまとめ、北朝鮮包囲網を強化しなければならないとの見解を示している。
 北朝鮮の自己満足行為は、他国に多大なる迷惑をかけている。自国を強大に装うことが、どれだけ他国の反感や憤怒を招いているのか、彼らにはどうしてわからないのだろう。
 現実問題としてのミサイル落下の危険に曝されている私たちには、ただ手をこまねいているしかないのだろうか。国際社会全体で北朝鮮に核・ミサイル開発を放棄させるため、私はもっと積極的に日米が協力し合うべきだと思う。


語彙の貧しさを痛感 by おとくちゃん with 久保田のリライト

2017-05-26 08:36:29 | エッセイ
おとくちゃんの投稿をリライトしたら、約400字になってしまった。趣旨は変えていないつもりだが、どんなもんだろうか?

 「やばい」は、私たち世代にとって極めて便利な言葉だ。困る・危険だけでなく、嬉しい・楽しい・悲しい・辛い等の種々雑多な状況や感情を表現可能なため、あまりにも多用され過ぎている。それで良いのだろうか。
 最近、生活の中の色々な場面で自分の語彙の貧弱さを痛感している。先日も、「垂涎」を「すいえん」と読んだ時、先生に「君たちのボキャブラリーにはないだろ?」と言われて返す言葉がなかった。そして、悔しかった。
 「まじか?」や「それな!」も、若者に多用される同類の便利語だ。別の言葉を返していればもっと話題が広がっただろうに、「まじか?」と言った瞬間に会話が終了してしまう。つまり、語彙力不足はコミュニケーション能力不足にも繋がっている。
 先日、語彙・読解力検定の存在を知った。まさに私には、うってつけの有益な検定だ。新聞を読み、現代社会に関心を持つためにも、11月の受検を目指そうと思う。

「天声人語」がちゃんと読めない大学生 by 久保田

2017-05-26 08:13:34 | 自由投稿
 以前、「大学生の日本語が貧弱過ぎる」と彼らの学力不足を指摘したら、同年配・同業者から、「その代わり『優しさ』がある」との反論をいただいた。それはそうだが、この問題はやはりどうしても看過できない。
 漢字力や語彙力の向上を狙い、近年、基礎教育の授業で朝日新聞の「天声人語」を活用している。一月分を事前に配布し、一週間かけて読み込ませた上、小学生よろしく、授業中に一段落ずつ音読させる。そこで何が起きるかおわかりか?
 多くの場合、言葉が口の中にこもって明瞭に聴こえない。発声法に不慣れなのは、小学生時代の「音読」経験が少なかったからのようだ。
 さらに驚くのは、漢検準2級レベル(高校在学程度)の成語や四字熟語が十分に読めないことだ。「森羅万象」を「もりらまんぞう」と読まれた日には、爆笑を超え、むしろ哀れで悲しくなる。読めないから書けないのは、至極当然である。
 時代や社会の変化とともに、大学生も変わってしまった。それに応じ大学教員は、学生指導の内容や方法を工夫し改善し続けなければならない。しかしそれは、「レベルを落とす」「手を抜く」ということではなかろう。次世代を動かす人たちの基礎学力保証は、絶対にわれわれの責任だ。

語彙力不足 by おとくちゃん

2017-05-26 08:10:39 | 一般向け連絡
 「やばい」は良い意味でも悪い意味でも使うことができる実に便利な言葉である。嬉しい、楽しい、悲しい、辛いなどの感情を全て「やばい」で表現することは良くないと分かってはいるが、つい言葉に出してしまう。それだけこの言葉は浸透してしまっているのだろう。
 最近、自分の語彙力の乏しさを痛感するようになった。この500字課題を書く時も、授業で漢字の読みの確認をする時もそうだ。例えば、「垂涎」を「すいえん」と読んでしまった時に先生から「君の中にこのボキャブラリーはないだろ?」と言われ、悔しいが返す言葉がなかった。
 また、「まじか」や「それな」といった言葉も友人との会話で多用してしまう。これらは発言した時点で会話が終了してしまい、後から「他の言葉で返答していたらさらに話題が広がったかもしれない」と後悔する。そして語彙力不足だけでなく、コミュニケーション能力不足も実感する。
 大学生になって、語彙・読解力検定というものを知った。日常生活において新聞を読むことや社会に関心を持つことが大事だという。語彙力のない自分には非常に為になる検定だと思う。今回は受験することができないが、次回は挑戦して語彙力の向上に努めていきたい。


「教育の制度」「保育の原理」採点済み答案の返却について from 久保田

2017-05-26 07:11:52 | 一般向け連絡
 標記二科目の採点済み答案は、本日(5月26日)の授業中に返却します。
 保存期間は6月2日までとし、それまでに取りに来ない場合は廃棄します。予めご了承ください。

民間認可保育園に関する情報提供 from 久保田

2017-05-19 06:44:07 | 一般向け連絡
 久保田ゼミ1期生のコモグチさん、および、木製玩具の専門家トムテさんから紹介された「お薦め民間認可保育園」の情報があります。
 3年生以下は見学や実習園探し、4年生は就職活動の対象としていかがですか?
 とりわけ、「こどもと遊び」問題に興味関心がある方にはピッタンコです。
 資料は久保田研究室にあります。ご希望の方はお早めにどうぞ!(とくに四年生!)

学力差は学習習慣や学習時間の違いから by 久保田(原作:OGあやか)

2017-05-19 05:48:27 | エッセイ
 私は今、市立小学校に併設された放課後児童クラブの指導員として、1~5年生の学習支援をしている。そこで気づいたのは、児童たちの学力に関する個人差の原因だ。
 クラブでは、学校の宿題(2年生以上の漢字や計算問題)をするため、毎日30分の学習時間を設定している。ところが、全員が宿題に取り組むのはたかだか15分であり、多くの子どもはその後、漫画を読んで時間を過ごす。一部には「くもん」等の家庭学習教材を始める子もいて、この学習時間の差が学力差を生んでいるのだと思う。
 家庭学習教材を進める子どもたちは、保護者とその日の学習範囲を決め、それをクラブでやっている。残ってしまった問題は、帰宅後に保護者と一緒に勉強しているようだ。つまり、学習習慣が身についていて、保護者による学習支援がある子とない子の間で学力差が生じるのは当然なのだ。
 学校教員は、基本的に全員平等量の宿題を課すが、それだけで学習内容の完全習得は望めない。児童一人ひとりの学習習慣や学習時間の実際に対応した、もっときめ細やかな宿題の出し方が求められる。

合掌、朴 聖雨先生 by 久保田

2017-05-17 05:04:42 | エッセイ
 「芸術的創作能力はないし、商売っ気もないし、理数系には見えないし・・・ 久保田君は文章を書く人になりなさい。」「人間はね、自分で考えたことを書いたものでしか自分が生きた記録を残せないんだよ。」
 そんな言葉で、新聞記者かニュースキャスターに漠然と憧れていた(まだ若かった)僕の人生を変えてしまった人が、先月下旬に遂に亡くなってしまった。韓国人の 朴 聖雨(Pahg Seong Woo)先生だ。
 いつかは誰にでも来る命の終わりではあるけれど、大学生時代以来40年以上もお世話になった、というよりも、堅苦しい言い方だけどご指導とご鞭撻をいただいてきた唯一無二の恩師だから、僕にとっては「明らかに一つの時代がこれで終わった」という感慨がひとしおだ。朴先生と出会わなかったら、今の久保田はなかった。

 「書きなさい書きなさい、何でもいいから書きなさい」という先生の言葉を、何と今度は僕が、学生たちに向かって発している。それほど彼の存在は、久保田にとって大きい。言い表しようのない喪失感(ロス感覚)はもち論だけど、不思議だけど頭のどこかに、「これでやっと先生から解放された」感もあったりする。最後の最後まで「書きなさい」を言われ続けてきたからだろうか。
 大した才能も能力もない僕を、言葉巧みに「その気」にさせてしまった先生は、大学院を終えて就職した後でも常に、「書きなさい、博士論文を書きなさい」と叱咤激励(より叱責)し続けた。年に一・二回だが、ありがたいことに先生自ら電話をかけてきて、「どうですか、書けそうですか?」と尋ねられた。

 本当にすみません、先生。久保田は相変わらずドタバタアタフタしているだけで、とても博士論文なんか書けていません。遊んでいるわけではありません。学生たちの卒業研究指導や授業を優先しているうち、次から次へと体のあちらこちらの健康を害してしまい、人様の半分しか時間がない生活になってしまいました。先生から出された大きな宿題、博士論文の完成は夢のまた夢のままです。

 卒業研究をめぐる学生と指導教員との関係は、単なる授業における「学生と先生」ではないと思っている。言うならばそれは「弟子と師匠」、一生もんの師弟関係でありたい。卒業研究というものは、それほど大きく重たいものだと僕は思う。さもなくば、40年もの間のおつき合いなんてできなかろう。そういうつき合い方を、僕は今の学生たちにも求めようとしている。

 ところがね、朴先生。世代的な問題なのか今の大学の問題なのかはわかりませんが、現代の女子大生にとってそういう「師弟関係」は、一種のウザったさをもって見られるようです。日常的な報告・連絡・相談も少なければ、卒論提出=卒業後のおつき合いも、ごく一部のマトモな人を除けばまるでありません。下手をすれば、相手が女子学生だったりすると「セクハラ・セクハラ・パワハラ」などと言われかねないんですよ。ひねくれた見方をすると、「指導してもらっている」とか「ありがたい」とかいう感覚がないのかもしれません。実に失礼で無礼千万な人たちだとも思うのですが、それが今の大学であり大学生なのかもしれません。

 40年来の師匠(の教え)を失った久保田が、今後、一体どこへいくのかはわかりません。肉声による叱咤激励はもういただけませんが、
この不肖の弟子の行く末というかラストスパートを、どうか苦笑いしながら見ていてください。合掌。
 

「こども食堂」をやらないか? by 久保田

2017-05-16 06:24:44 | 自由投稿
 毎年11月初旬に行われる学園祭に、ずっと違和感や抵抗感を持ってきた。
 業者さんが建ててくれたテントの中で、業者さんがセットしてくれたガス調理台を使い、当日の朝に買い込んできた材料で「にわか作り」のたこ焼きだのチュロスだのを即席調理し、それをけっこういい値で来客連に売りつける風の模擬店ばかりが目立ち、どうにも「大学祭」という感覚に乏しいからかもしれない。
 中途半端な人気の芸能人によるステージもよし、明るく元気なだけのぱれーどもよいのだが、ワシらは大学に学ぶ大学なのだから、もっと研究とか教育とかの成果を社会に還元する企画があるべきなんじゃないだろうか。
 そんなことを思って、子ども教育学科による「こども食堂」構想をぶち上げてみたのだが、残念ながら、どうも賛同が得られそうにない。「お腹空いている子、寄っといで~」「ただだよ~」という企画に、興味関心がないのだろうか。子どもたちのための音楽&ダンス系ステージばかりが、ワシらの出番ではあるまい。
 年にたった二日だけの「こども食堂」では、大した役に立たないのかもしれない。しかし、それで空腹が満たせる子どもが一人でもいれば、ワシら「子ども教育学科」が立ち上がっても良いのではないか? 子ども6~7人に一人が貧困状態にあるという社会的現実を、ヘラヘラと楽しい側面だけを見て忘れてしまっているのは、極めて残念だと思うんだけどな…


母の日にはネギネーション! by 久保田

2017-05-16 06:07:11 | エッセイ
 沖縄の保育園では、「母の日に園児たちが母親にネギをプレゼントするらしい」という噂を聞きつけ、さっそく仲良していただいている名護市辺野古「クベマール(園の愛称)」のS園長さんに尋ねてみた。
 すると、「確かに2歳児さんはそうしてますね~」「けっこう前からですね~」というお返事があって、何でも、牛乳パックに装飾して作ったポッド(鉢)に葱を移植し、それを贈っているのだそうだ。
 葱は幼児にも育て易いし、また、「労(ねぎら)う」という言葉にも通じるということからきているようで、そう聞くと、花屋さんで買ってきたカーネーションを贈るより母ちゃんたちは喜ぶかもしれないなぁ、と、感じ入った。それに、お蕎麦の薬味にもなるし…(笑)
 「母の日にカーネーション」文化は、アメリカ起源のものだ。考えてみたら、大事なのは「母親への感謝の気持ち」であり、別段、カーネーションに固執することもないのだな。だとすれば、「母の日にお葱」も十分あり得るよね。
 「ネギネーション」はS園長さんの造語だけど、さも本当にありそうな言葉でしょ「ネギネーション」。僕はこいつを、知り合いの保育園に端から広めたいと思うんだけど、どうだろうか?

家庭学習習慣が生む学力差 by OGあやか(自己再推敲版)

2017-05-15 07:45:47 | 自由投稿
OGあやか君から、久保田リライトに対する再推敲が届いた。いいですね~、こうやって何度も書き直すという努力が大事だな。せっかくだから、この作品についての久保田再々リライトはしません。

 私は現在、市立小学校併設の放課後児童クラブで指導員をしている。そこには小学校1~5年生までの児童がいて彼らの学習姿を通じて学力の個人差の大きさに驚いている。
 クラブでは、学校の宿題(2年生以上には漢字と計算の問題)をするために毎日30分の学習時間が設定されているが、全員で取り組むのは精々15分だ。学校の宿題を終えた児童の多くは、漫画を読み余暇を過ごす。しかし一部の児童は「くもん」等の第2の家庭学習課題に向かう。つまり、同じ共働き世帯の子どもにもこんな部分から勉強時間の差が生じ、それが学力差を生んでいる。家庭学習課題をしている児童は保護者と学習範囲を決め、学習後、家庭でわからなかった部分を保護者と共に勉強している。
 学習が確実に定着している子の多くは、宿題とは別に継続した家庭学習をしていること、さらに保護者が家庭学習を見直し学習を補う習慣ができている。学校教員は授業で学習した内容の定着を図るため、全員平等量の宿題を子ども達に毎日課しているが、宿題だけでは学んだ内容が定着せずに後の学習出遅れをとる児童も少なくはない。児童の学力差は、家庭学習の時間や習慣に左右されるのではないかと考えた。

少子高齢化 by おとくちゃん with 久保田のリライト

2017-05-13 05:55:32 | 自由投稿
先日、ある授業で人口減少と少子高齢化に関する資料を提示された。度々取り上げられる話題だが、具体的な数字は初見だった為、驚愕した。
2005年に12777万人いた人口は2050年には9515万人になり、1億人を切る。中国やインドなどは増加していく中、日本は減少し続ける。これは未婚化や晩婚化による出生率の低下が原因だ。
その一方で、高齢化が進んでいる。戦後に生まれた団塊世代が65歳以上となり、ますます増加していく。また、社会保障給付費は1965年には65歳以上に対して9.1人で支えていた状態が、2050年には1.2人になると推計されている。つまり、働く世代の負担増になるということだ。
その解決策として、定年退職の年齢を上げることを考える。厚生労働相によると、日本人の平均寿命は男性80.75歳、女性86.99歳だという。これは医療技術の進歩による成果だ。定年を迎えても、仕事を継続することが可能なのではないか。そして、日本人以外の雇用者を取り入れることも必要だ。この先、日本の人口は確実に減少していく。そうであるならば、外から入れるということも現実的な方法であるのではないか。

↓ ≪久保田のリライト≫
 2005年度に1億2777万人だったわが国の人口は、2050年度に1億人を切り9515万人になるという。少子高齢化による人口減少については何度も耳にしてきたが、このように具体的数字で示されると、その深刻さに改めて驚かされる。
 未婚化や晩婚化による出生率の低下だけが問題ではない。総人口に占める高齢者率の急騰もまた、極めて重要だ、社会保障制度で言えば、1995年度に65歳以上一人を労働者層9.1人で支えていたのが、2050年度には1.2人になるという。この若者層にかかる負担の増加に、はたして私たちは耐えられるのか。
 例えば、定年退職年齢の引き上げを考えてみる。現在、日本人の平均寿命は世界最高水準にある(男性80.75歳 女性86.99歳)。目覚ましい医療の進歩を考えれば、現在の定年年齢を超えて働ける人の数は、今後ますます増えていくはずだ。あるいはまた、外国人労働者の採用もまた、労働力(=税収)確保には繋がるだろう。
 しかし、人口減少の問題を、当面の労働力確保問題とすり替えてみたところで、根本的な解消には繋がらない。私は、人口減少そのものを自然の流れとして受け入れ、それに応じた社会の縮小化の是非から問い直すべきだと思う。