東京カートグラフィック株式会社
1985年、大学2年終わりの春休みにアルバイトをしていたこちらの会社に先週水曜日、訪問させていただいた。バレンタインデーを挟んでいたことを覚えているから、年末年始ではなく春休みの期間だったと思う。
週末に27年間お世話になった外資系IT企業を退職し、翌週から次の職場で第二の人生をスタートさせる直前のことだ。気持ち的には、これまでのキャリアの棚卸しのようなもの。短期間のアルバイトとはいえ、僕には青春時代の思い出が詰まった職場だ。これまでの自分を振り返り気持ちを整理して、次の仕事へ望みたい。そのようなタイミングだった。(第二の人生→伊能忠敬→日本地図→東京カートグラフィックのように連想して思い出したのだと思う。)
実をいうと2014年に僕はこの会社のFacebookページを見つけ、ページ管理者の村松さんと連絡をとっていた。そして僕がアルバイトをしていた当時に社員だった高瀬さんが、定年退職後も技術顧問として働いていらっしゃることを知った。20代の頃の写真を送ったら、高瀬さんは僕のことを覚えてくださっていた。
ぜひお会いしたいと思いつつ、平日昼間には時間がとれずに4年が過ぎてしまっていたのである。退職直前に時間的に余裕ができたので、思い切って再び連絡をとり33年ぶりの訪問が実現したのである。高瀬さんにお会いし当時のことをお話してみたかったのと、自分のその後の人生をお話したり、会社はその後どのように発展したのかをうかがいたかった。
東京カートグラフィック株式会社は、ひとことで言えば「地図やその関連商品」を製作・販売する会社で、事業の詳細は「事業内容」のページにあるように、地理情報システム(GIS)、空間情報処理、地図調製、測量・調査、高解像度衛星画像(QuickBird)取扱いなどだ。
東京カートグラフィック株式会社
https://www.tcgmap.jp/
Twitter: @tokyocarto
製品ページ: https://www.tcgmap.jp/product/
製品: Amazonで検索
昨年、藤井四段(現在六段)がらみで話題になった会社だ。
師匠・杉本七段 藤井の誕生日に“地理ずくめプレゼント”
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/07/22/kiji/20170721s000413F2388000c.html
地理好き藤井四段へ師匠からの地図グッズプレゼントで東京カートグラフィックに問い合わせが殺到
https://plaza.rakuten.co.jp/chizulove/diary/201707230000/
荻窪駅を降りるのは何年ぶりだろうか。高校も荻窪にある日大二高だったから、下りた瞬間に過去の記憶が次々と蘇り、頭がくらくらしてきた。
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1985年当時は現在の本社から歩いて10分ほど、四面道のほうに昔の本社ビルがあった。会社が成長するに従い何度か移転し、現在は駅から東側の青梅街道の陸橋に面した場所にある。ドコモショップの2Fだ。ここは高校時代の通学路だった。
アルバイトしていたのは「沿革」のページにある1972年に建てられた「カートビル」である。この建物の2Fで仕事をさせていただいていた。
早めに行って昔の本社ビルの写真を撮ろうとしたのだが、見つけることができなかった。下の写真は、会社訪問をした後にもう一度行って見つけた現在の建物だ。外装だけ全部変わっていたから見つけることができなかったようだ。
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午後2時にうかがい、会議室で高瀬さんとFacebookページの管理をされている村松さんとお会いすることができた。
「ああ、懐かしい。。」
昔のことが次々と蘇ってくる。とはいえ、まずは挨拶とお礼をし、なぜ来社させていただいたかを手短かに説明させていただいた。
当時の社内のコンピュータ環境のこと、仕事のこと、働いていた社員やアルバイトのこと。。。話は尽きない。ここには書けないプライベートなことも含め、「あの人は~だったんですよ。」のような裏話、その後のことなどお話させていただいた。高瀬さんは当時の会社の雰囲気やアルバイトのことなどを村松さんにもわかるように説明されていた。僕は御茶ノ水のアテネフランセで一緒に学んでいた上智大学フランス語学科の女子学生を誘って一緒にアルバイトをしていた。
当時働いていた社員、アルバイトの方々は今ごろどうされているだろうか。。。
1985年に僕らが取り組んでいたのは日本全国の地勢図をもとにして、土地利用がどのように行われているかをデジタル情報として取り出すための作業である。覚えている範囲では大まかな流れは次のとおり。(抜けがあるかもしれないけれど。)
- 地勢図の上に大きなトレーシングペーパーを置き、土地利用の境界線を細いサインペンでなぞる。(ポリゴンと呼ぶ閉曲線でトレーシングペーパーは埋め尽くされる。)
- ポリゴンの中を土地利用の種類に応じて、色付きのサインペンで塗りつぶす。
- ポリゴンの境界と中をデジタイザで座標として読み取る。(社員や特定のアルバイトがしていた。)
地勢図の縮尺は忘れてしまったが、日本全体をカバーし、地域別に100枚以上あったと思うから、大変な作業である。アルバイトは男女あわせて10人くらいいたと思う。(半分くらいの方の顔を覚えている。)
デジタイザは大きな製図板のような装置で、制御や計算のプログラムはアセンブラで社員の方が開発していた。モトローラ社製のMC6809のCPUを2個使ったシステムである。(開発担当者にその当時説明してもらった。)
会議室の僕の後ろの壁には伊能忠敬の日本地図やその関連の資料がたくさん貼られていた。河出書房からでている「デジタル伊能図」も共同企画編集・地図データ製作は東京カートグラフィックである。
デジタル伊能図
200年前の日本地図「伊能図」がデジタル化!江戸と現代をつなぐと何が見えてくるのか?
http://web.kawade.co.jp/bungei/145/
デジタル伊能図プロフェッショナル版v2
デジタル伊能図スタンダード版v2
関連記事: 四千万歩の男 忠敬の生き方:井上ひさし
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/a2107711abc2d8734f2d4774107f454c
楽しくて懐かしい時間はあっという間に過ぎてしまった。高瀬さんや村松さんとお会いして本当によかったと思う。感謝の気持をお伝えして帰ろうとしたところ、なんとお土産をいただいてしまった。いくつか商品を見せてもらって買って帰ろうと思っていたのに、とても恐縮してしまった。少なくとも手ぶらでうかがわなくてよかったと思う。(僕は地元で買った「笹塚ポテト」の詰め合わせを持参していた。)
入口を入ったところには、商品がまとめて飾られている。
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高瀬さん、村松さん、お仕事中にお時間を割いていただき、本当にありがとうございました。
以下がお土産としていただいたものだ。
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荻窪北口駅前通商店街
会社を出て、荻窪駅方面に向かうと高校時代の通学路だったこの商店街が今でもある。当時からあった店の写真を載せておこう。さらに時をさかのぼるタイムスリップだ。
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春木屋(荻窪中華そば)
そしてこの店は忘れられない。高校時代に何度も食べた「春木屋」である。来店するのは実に37年ぶり!昔のままの味を保っていた。
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わんたん麺(大盛)
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とねさんはまさに江戸っ子なのですね。
私は関西出身ですが、関西は実家に帰る以外は仕事で行くだけです。加えて、私の生まれ育った土地 (兵庫県西宮市)は阪神大震災後の復興で、人為的かつ不連続に変化していることもあり、昔の面影を探すにも結構苦労します。
大学時代に過ごした京都は、震災の影響は有りませんが、私の勝手な推測ですが、経済的環境の変化たのめに大きく様変わりしており、昔行きつけだった学生向けの定食屋や喫茶店などは、殆ど無くなっています。
今回の記事に書かれているような経験は、素敵だろうなと羨望のまなざしで読ませて頂きました。
江戸っ子といえばそうなのですが、僕が育った中野は江戸時代は辺鄙な「武蔵野」ですね。江戸時代は田畑しかありませんでした。
日本の大都市だと、自然災害の影響を受けていなくても、個人の店舗は代替わりして、新しいスタイルにどんどん移り変わっていきますね。それは荻窪にしても地元の笹塚にしても同じことです。東京オリンピックまでに、変化はさらに加速することでしょう。
ラーメン屋は春木屋さんも丸福さんも当時はよく行きました。懐かしい。
Facebookに投稿されていた荻窪の古い写真のことですね。
電柱に「山口不動産」と書いてある写真以外は、僕にとって見慣れた風景ですよ。
私も40年近く前に同じ通学路を使っていましたよ。なつかしいですね、銀杏並木、柔道場…
そういえばアインシュタインそっくりな髪型をした数学の先生がいらした。
はじめまして。コメントいただき、ありがとうございました。
40年近く前ということでしたら、おそらく僕と在校時期が重なっているのではないでしょうか?
数年前に二高の「同窓生の集い」に参加したのですが、数学の林先生、物理の相馬先生、生物の藤井先生にご挨拶することができました。高校3年のときの担任は福井慶一先生です。
> アインシュタインそっくりな髪型をした数学の先生
数学をその先生に教わったことはありませんでしたが、そのような髪形の先生がいらしたことは覚えています。
あっという間に時が経ってしまいましたね。