BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

文字表記と発音

2021-09-24 | #日本語教育

文字はことばのことだと気付くには漢字と仮名とそして記号との関係を思い合わせることになる。この記号というのは文字記号とする考えになって言語記号との差異がある。文字が言葉であるから言語そのものであって、記号として議論されるところの記号学、記号論と言語研究の捉え方に比せられる。記号を翻訳語と見るとその意味範囲は拡大する。

sematology の訳語
semiotics semiologie の訳語
semiotics の訳語

さて文字において日本語ではどうか。わたしたちが日常に漢字と仮名を交えて時にはアラビア数字にラテン文字まで、仮名には2種の文字があり、あわせて5種類もの文字を使い分けているのは言語を用いる語によってかき分けるという特異なことである。ほかの言語にも同様のことがあるかどうか、数字を表記することで少なくとも2種類は用いているし、大文字小文字の区別であらわすことがある。
日本語を発音で表記すればカタカナで書くことが行われる。したがって片仮名で書くことはいまでは外来語発音となるが、ひらがなでずべてを表記して。発音に基づいての文字表記とすることもできる。そしてそこには音韻であらわす日本語が見える。仮名文字でなくてローマ字表記にすると、その様式に規則性を与えて、ヘボン式、訓令式という書式ですべてをスペース開けを採用して書くこともできる。
文字を発音表記にしてすべてをかきあらわすのに、ローマ字、かな文字と3通りがある。漢字は表記に役割があってきまりをもって用いている。



記号論
きごうろん
semiotics 英語
Semiotik ドイツ語
sémiotique フランス語
>ここでは記号をめぐるいくつかの哲学的問題をあげておくにとどめる。
(1)記号ということばは、特定の書物の特定のコピーの特定の箇所に印刷されている一つの文字、といった、特定の物体をさすのに使われることもあり、それと似た形をしている文字すべてをさすのに使われることもあり、そういった文字をみた人の心中に引き起こされるものと想定されている心像をさすのに使われることもある。論理学においては、もっと抽象的に、集合の元を記号と考え、たとえば実数をすべて記号として扱うこともある。このような、記号のさまざまなレベルの違いを分類し、その間の関係を定めようとすると、個と普遍者との関係をめぐる、古来の普遍問題に巻き込まれる。この問題は現在でも活発な論議の対象となっているものである。
(2)「記号の意味」という表現は、日常なにげなしに使われることばである。しかし、開き直って「意味とは何か」と聞かれると、答えることはけっしてたやすくはない。固有名詞的な記号については、それが指示する対象であるとする答えがよく行われているが、それでは架空の人物の名前には意味がなくなってしまう。また普通名詞的なものでは、その適用範囲(外延(がいえん))が同じ二つのことばが意味が違うとされることが多い。このような場合を説明するために、記号によって指示されるものと、記号の意味になっているものとを区別しようとする哲学者は多いが、この区別の必要は指摘できても、意味そのものについての説明は十分にできずに苦しんでいる者が多い。そこでクワインのように、意味という概念そのものを記号に関する論議から締め出そうと提唱する哲学者も出てくる。とにかく、意味をめぐる問題は、哲学界で当分の間、だれをも満足させるような解答は出そうもないものである。
(3)言語学のほうから記号について論じようとする人は、世界観が記号体系によって変わってくることは十分認めながらも、記号によって表現される世界とか感情とかいったものについては、いちおう常識的な了解を前提にして話を進めることが多いようである。しかし、哲学的には、この常識的な了解そのものが検討の対象となる。記号を操る人間の存在は認めても、心の存在は否定し、行動主義的に記号現象を分析しようとする哲学もある。心身二元論と、唯物論と、行動主義とのうちのどれが正しいかは、まだ論争の主題の一つなのである。
(4)心の存在を認める立場をとる人でも、記号から、これに対応しているはずの、心のなかの現象を、一義的に決定できるかどうかについては、疑問に思う人もいる。事実、論理学での不完全性定理やモデル論の成果を援用すれば、この決定は不可能であると考えるほうが妥当なようである。また、これは、心のなかの事柄に限らず、一般に、記号とその表現しているはずの内容との間の関係について成り立つ。また、この考え方を広げていくと、翻訳の不確定性にも突き当たる。このように、記号には、いわば宿命的な多義性が付きまとうにもかかわらず、一方では、記号とそれによって表現される事柄との関係についての議論を行うことに、十分な意味があるように思われる局面のあることも事実である。そこで、この多義性と、表現が可能であるように思われる事態との間にどう折り合いをつけるかという問題が生ずる。一つの記号が同時に多数の世界の事物と関連しているのだとする多世界説が哲学のほうで流行するのも、この問題と関連のあることである。
(5)超越的なものを記号によって表現しようとすることは昔から行われてきたことであるが、もしこの表現が本当に可能なら、超越者は超越者ではなくなる。この逆理をどう解決したらよいのか。これは古来、宗教―哲学のほうで問題になってきたことだが、この問題も、実は(3)、(4)の問題とつながっているのである。
[吉田夏彦]
『吉田夏彦著『記号と人間』(1983・旺文社)』


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