BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

言語論

2021-09-23 | 日々新た

日本語を使うわたしたちが普通にしていることに改めて気づくことである。
書記という言葉を聞いて使い慣れないのでショキは書記長の書記ですかなどと確かめようとする。初期点検の初期ですと聞いて始めの文字を書きますねといった具合になる。
ここで書記言語と言われる、書記体系と用いる書記のことになると、会の記録係りではない書記のこと、文字を書き記すことそのもののこというように確かめるようなことになる。書記作品などという造語もできそうであるから、わたしたちにとっての文字は言語そのものである、言語の書記の側面は文字である、その文字について日本語が持つようになった現象を知ることになる。
書記に対して表記というのは少し考えればわかることであってもその行動となると言語行為のことであって表記行動をする日本語とはどういう言語であろうかと興味を持つことになる。表記行動に対して、書記行動とはあまり使わない。書道のような、習字という練習に国語問題の書き取り、日本語のディクテーション、そして現代のワープロによる文書作成をするときに、さまざま脳の働きに及ぶようなことになる日本語修得である。日本語は漢語を取りれ英語を学び続けるという仮説を持つわたしには漢語を学ぶことが行われなくった時代にこの仮説にはさきとちがって漢語を学び英語を学び言語を学び続けることと修正しなくてはならないようである。





1 コメント

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書記 (Maria)
2021-09-28 17:02:17
「書記」というと、メソポタミアの古代バビロニア(「バベルの塔」のネブカドネザル王の時代ではなく、「ハンムラビ法典」のハンムラビ王の治世です)には、当時の行政機関である神殿に属していた事務官(神官)がいらっしゃって、その方々が、現在では「書記」と呼ばれています。
文化的によってカテゴライズの範疇は異なるので、たとえば「親指」は「フィンガー」ではないとか、「足の指」は一緒くたに「爪先」と認識されているとか、いろいろと議論の余地はあると思います。
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