心の頑固さという錆は、
たえずきれいに落としておかなくてはいけません。
ほうっておくと、ますます錆びてしまうからです。
心の錆にいちばん効く薬は、慈しみと智慧です。
慈しみと智慧によって、心の錆が消えるだけでなく、
錆びる原因までなくなってしまうのです。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ
心の頑固さという錆は、
たえずきれいに落としておかなくてはいけません。
ほうっておくと、ますます錆びてしまうからです。
心の錆にいちばん効く薬は、慈しみと智慧です。
慈しみと智慧によって、心の錆が消えるだけでなく、
錆びる原因までなくなってしまうのです。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ
あれもこれも、とりとめもなく考えるのは、じつは「考えてない」ということなのです。
深く考えているようでも、それは智慧のある人とは言えません。
智慧のある人は、すぐに答えがみえるので、考える必要がないのです。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ
知識はやがて消えますが、智慧は消えません。
智慧は、主観を破った状態であらわれます。
それは、特別な「何かを得た」ことではないのです。
「なった」世界す。
知識のように「得たもの」は重いし、
智慧のように「なったもの」は重くはないのです。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ
ブッダが安らぎに住しているのは、智慧があるからです。
ブッダがなぜ悩まないのかというと、
智慧によっていつでも正しい答えをもっているからです。
ブッダにとっては、どんなことが起きてもかまわないのです。
瞬時に正しい対応がひらめくからです。
智慧のない人は、
何かあったら「どうしよう、どうしよう」と悩むのです。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ
智慧には主観がありません。
主観のないとき、智慧があらわれるのです。
主観がないと、あるのは、できごとだけ。
そのときには、いつでも唯一の答えがあります。
そこには選択はないのです。
だから、智慧のある人は、いつでも正しい答えが出せるのです。
コーヒーがこぼれたら、「雑巾で拭く」という答えでしょう。
知識で考えると、「いま拭かなくてもいい」とか「ほうっておけばいい」とか、
選択肢がたくさん出てきます。
しかし、どれも唯一の正しい答えではありません。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ
知識は、なくては困ります。
しかし、ありすぎても困るのです。
知識は増えれば増えるほど、人生は重くなります。
そして、その知識はいつか消えてしまいます。
欠かせないのは、知識ではなく、智慧なのです。
智慧とは、その瞬間その瞬間に、
正確に何をなすべきか、ひらめくことです。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ
役に立つ知識は宝になりますが、
何の役にも立たない知識はゴミです。
世の中では、テレビや週刊誌などから、
興味本位に情報が垂れ流されています。
それらは、欲望をあおって不安をかき立てるだけの
無用な残飯のようなものです。
無駄な知識は不要なだけでなく、かえっていのちとりにもなります。
あまりによけいなことを考えすぎて妄想が膨らんでしまいます。
そのため、いまやるべきことがおろそかになって、
いつも不安と焦りで追い立てられるような生き方になってしまうのです。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ
会社では、仕事の段取り、組み立て方、ことばの使い方、
それらを確実に教えなくてはいけません。
ことばづかいには、よく気をつけましょう。
「やってくれますか」と「やりなさい」では、相手の受け取り方が、だいぶちがいます。
人の心をけっして痛めつけてはいけません。
すべての生命は平等です。
上司といっても、部下よりも上等な存在というわけではないのです。
「自分が偉い」というのは、根拠のない妄想です。
そこをかんちがいすると、失敗します。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ
「菜食主義なので、肉は絶対に食べない」とか、
「〇〇を食べれば絶対に健康になる」とか、
食に異様にこだわる人がいます。
それらの考えは、客観的な事実というより、
単なる自分の思い込みであり、いわば妄想です。
主義や観念に引っ張られると、
食事のたびに、体に大きな負担がかかるのです。
食べものに対して、〇〇主義をつくったりグルメに走ったりすると、
執着や嫌悪が生じて、心が汚れてしまいます。
体を維持するために心まで汚すなんて、
無知で愚かなことはないでしょう。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ
すべての人間の苦しみも悲しみも、あらゆる問題は、
「私)という実態がつくりだしています。
その実態は、「私の家族」「私の会社)「私の国」と拡大されて、
他との対立、あつれきをもたらします。
「私」という実態があらわれるたび、人はわがままになって、
物事がみえなくなって、かたくなになってゆくのです。
ほんとうは、「私」は、流れる川のようなもので、
生きるという「流れ」に過ぎないのです。
「私」という実態は、流れる川を止まっていると認識するような、錯覚です。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ