「アートと学びの企画 Vol.3」“SERENDIPITY” ―写真,人,サイト
講師 古池大介(アーティスト)
古池さんとは、まだ数ヶ月のつきあい。
現代のアーティストといわれてもイマイチピンと来なかったんだけれど、常葉でやっている授業「思い出し方のつくりかた―街の記録・街の記録」(ここから、全学共通科目・古池で検索!)が妙に面白そうだし、スノドカフェ企画での発言が、常になかなかピンポイントで“来る”お方なので、気になるわけです。
で、今回の講座は、彼のやってること、やろうとしてること、の話。
演題は“SERENDIPITY” ―写真,人,サイト
キーワードは、場・ポテンシャル・メディア・関係性
そして、前半の主な話は、彼を勇気づける“Site-specific Art”の先達たち(Robert Smithson/Dani Karavan/Krzysztof Wodicziko/PH STUDIO)の紹介にあてられ、休憩後に若干意見交換の後、古池さんの作品解説。特に、現在展示中の「rules」のことなど。
写真のことになると他にもましてさっぱり解らないんだけれど、一回性・偶然性とか、場の論理、ルール、関係性、といったキーワードを拾ってみると、古池さんがやろうとしていることは、多分、私が歴史学/文学との関わりの中で考えてることとかなり近いんだろう、と思う。
というのは、やっぱり我々が、大きな時空の文脈からは易々と踏み外せないということなんだろうな。
脱“作家性”という、ある種のコンテクスト依存のありかたも、浮遊する私と、妙に親和性が高い。
さて、一番議論が活発になったのは、サイトスペシフィックの作品が“再発見”する“場”の論理と、地域社会との関わりみたいな話。
私が最近地場産業史の掘り起こしみたいなことをやっているせいもあって、いきなり振られてまた話をずらしてしまいました。反省。
まぁ、罪滅ぼしに、“私の”論点整理を試みようかな、と。
えーと、私が最初に言おうとしたのは“他者性”ということでしたね。
すごく身近な例え話にしてしまえば、“名物”というのはヨソ者向けだ、という話になるわけですが、もう少し“場のルール”という話に持っていきたかったのですよねぇ。
主に空間の話にします。
その“場”が、何か“意味”を潜ませているというのはどういうことなんだろうかと。
神聖な物を感じるにしても、実用のためでも、適材適所、というような選定方法がある。風水も含め、そこが、そうである根拠というのはちゃんとある。
勿論、ある事件の現場とか、偉人の生誕地とかは“理由”はないかも知れないけれど(でも、きっと、モノガタリは作られる)。
それに対して、「そこが、それだ」と言挙げするのは、その当事者ではないだろう、という話をしたのです。
だから、地域共同体の中の人でも良い。
中の人であっても、それは“調べる”という行為、聞き取る、という行為を経て、それを対象化出来て初めて、そこが“場”として浮上する。
逆に、そこが特別な場所として生きている……例えば、いつから続いてるのか判らないようなお祭りがちゃんとある……なら内部的には問題化しないし、それを疑問に思った時点でその人は“他者性”を獲得している(それを“内省”だと思いこんでしまうかも知れないけれど)。
それが「だったんだ」という感覚につながるのかな、と。
そうやって、記憶はあとから作られる……“捏造”。
で、この辺から、“史観”や“プロパガンダ”の問題に流れ始めてしまい……。
それは、私が「アイデンティティやナショナリズムも同じような力学で」てなことを口走ったせいやも知れず……。
“モニュメント”という物には、そういう政治的な仕掛けが潜んでいるのは確かで、紹介されたアーティストたちも、どっちに付くかは別として、やっぱり政治的なメッセージを抱え込んでいる印象はある。
土曜のことを思い出しながら、今朝『記憶のかたち―コメモレイションの文化史』を引っ張り出してパラパラ(実際、10年前に買ってもまともに読んでないわけですな)。
物的証拠と歴史の危うい関係については、こちらも参照。
もう一つ、後半で私が言ったのは、環境への親和性ということ。
この辺は、提示された実例と、見せて戴いた図録などとを見比べてみると、はっきりしたことが言えなくなるんだけれど、話の流れは、その“場のルール”にふさわしいアート、というような方向性を是としている感じがした。
それこそ、木の中にあらかじめある仏像を彫りだしていくように、そこにある何か、ポテンシャルを、顕在化するという。
それはそうなんだけれど、私が居心地悪く感じるのは、アートが、常に“ファイン”である必要はないだろうに、ということで。
それで、まぁ適切かどうか判らないけれど、“まことちゃんハウス”の話を持ち出したわけです。
ウィキペディアで「サイトスペシフィック・アート」を見たらクリストがリンクされていて、なんだか懐かしい思いをしつつ、梱包だけじゃないんだぁ、と再認識。むしろ、環境を異化する力……それもまた、その“場のルール”を浮上、顕在化させる仕掛けなんだろうけれど……として肯ける。
「こんなところに、こんなものを!」という感覚が“こんな所”に意味を与える。
それは、発見なのか、創造なのか。
文学も含めて、“芸術”が、“真・善・美”であるという、キリスト教的(?)美学にはどうもなじめない。
大昔(多分15年前、そして自分で没にした)に書いた文章を思い出してみたり。
私は昔っから倫理が嫌いなんだ(道徳教育の賜物だな)。
む~~~。
長くなってる割に、全然古池さんにたどり着けない……。
多分、古池さんは、名古屋港のインスタレーションみたいなサイトスペシフィックなアートワークからも離れて、来歴や記憶のモノガタリよりも、“場”の持つ偶発的な力学に身を置こうとして、“セレンディピティ”って言ったんじゃないのかなぁ、なんて考えたりしているのだけれど、どうなんでしょう。
そして我々は、そこに“古池大介”というモノガタリを“発見”しようと言葉を重ねるわけだね。
それはともかく、8/11の話の持って行き方に対して、かなりヒントを戴けました。
感謝。
講師 古池大介(アーティスト)
古池さんとは、まだ数ヶ月のつきあい。
現代のアーティストといわれてもイマイチピンと来なかったんだけれど、常葉でやっている授業「思い出し方のつくりかた―街の記録・街の記録」(ここから、全学共通科目・古池で検索!)が妙に面白そうだし、スノドカフェ企画での発言が、常になかなかピンポイントで“来る”お方なので、気になるわけです。
で、今回の講座は、彼のやってること、やろうとしてること、の話。
演題は“SERENDIPITY” ―写真,人,サイト
キーワードは、場・ポテンシャル・メディア・関係性
そして、前半の主な話は、彼を勇気づける“Site-specific Art”の先達たち(Robert Smithson/Dani Karavan/Krzysztof Wodicziko/PH STUDIO)の紹介にあてられ、休憩後に若干意見交換の後、古池さんの作品解説。特に、現在展示中の「rules」のことなど。
写真のことになると他にもましてさっぱり解らないんだけれど、一回性・偶然性とか、場の論理、ルール、関係性、といったキーワードを拾ってみると、古池さんがやろうとしていることは、多分、私が歴史学/文学との関わりの中で考えてることとかなり近いんだろう、と思う。
というのは、やっぱり我々が、大きな時空の文脈からは易々と踏み外せないということなんだろうな。
脱“作家性”という、ある種のコンテクスト依存のありかたも、浮遊する私と、妙に親和性が高い。
さて、一番議論が活発になったのは、サイトスペシフィックの作品が“再発見”する“場”の論理と、地域社会との関わりみたいな話。
私が最近地場産業史の掘り起こしみたいなことをやっているせいもあって、いきなり振られてまた話をずらしてしまいました。反省。
まぁ、罪滅ぼしに、“私の”論点整理を試みようかな、と。
えーと、私が最初に言おうとしたのは“他者性”ということでしたね。
すごく身近な例え話にしてしまえば、“名物”というのはヨソ者向けだ、という話になるわけですが、もう少し“場のルール”という話に持っていきたかったのですよねぇ。
主に空間の話にします。
その“場”が、何か“意味”を潜ませているというのはどういうことなんだろうかと。
神聖な物を感じるにしても、実用のためでも、適材適所、というような選定方法がある。風水も含め、そこが、そうである根拠というのはちゃんとある。
勿論、ある事件の現場とか、偉人の生誕地とかは“理由”はないかも知れないけれど(でも、きっと、モノガタリは作られる)。
それに対して、「そこが、それだ」と言挙げするのは、その当事者ではないだろう、という話をしたのです。
だから、地域共同体の中の人でも良い。
中の人であっても、それは“調べる”という行為、聞き取る、という行為を経て、それを対象化出来て初めて、そこが“場”として浮上する。
逆に、そこが特別な場所として生きている……例えば、いつから続いてるのか判らないようなお祭りがちゃんとある……なら内部的には問題化しないし、それを疑問に思った時点でその人は“他者性”を獲得している(それを“内省”だと思いこんでしまうかも知れないけれど)。
それが「だったんだ」という感覚につながるのかな、と。
そうやって、記憶はあとから作られる……“捏造”。
で、この辺から、“史観”や“プロパガンダ”の問題に流れ始めてしまい……。
それは、私が「アイデンティティやナショナリズムも同じような力学で」てなことを口走ったせいやも知れず……。
“モニュメント”という物には、そういう政治的な仕掛けが潜んでいるのは確かで、紹介されたアーティストたちも、どっちに付くかは別として、やっぱり政治的なメッセージを抱え込んでいる印象はある。
土曜のことを思い出しながら、今朝『記憶のかたち―コメモレイションの文化史』を引っ張り出してパラパラ(実際、10年前に買ってもまともに読んでないわけですな)。
物的証拠と歴史の危うい関係については、こちらも参照。
もう一つ、後半で私が言ったのは、環境への親和性ということ。
この辺は、提示された実例と、見せて戴いた図録などとを見比べてみると、はっきりしたことが言えなくなるんだけれど、話の流れは、その“場のルール”にふさわしいアート、というような方向性を是としている感じがした。
それこそ、木の中にあらかじめある仏像を彫りだしていくように、そこにある何か、ポテンシャルを、顕在化するという。
それはそうなんだけれど、私が居心地悪く感じるのは、アートが、常に“ファイン”である必要はないだろうに、ということで。
それで、まぁ適切かどうか判らないけれど、“まことちゃんハウス”の話を持ち出したわけです。
ウィキペディアで「サイトスペシフィック・アート」を見たらクリストがリンクされていて、なんだか懐かしい思いをしつつ、梱包だけじゃないんだぁ、と再認識。むしろ、環境を異化する力……それもまた、その“場のルール”を浮上、顕在化させる仕掛けなんだろうけれど……として肯ける。
「こんなところに、こんなものを!」という感覚が“こんな所”に意味を与える。
それは、発見なのか、創造なのか。
文学も含めて、“芸術”が、“真・善・美”であるという、キリスト教的(?)美学にはどうもなじめない。
大昔(多分15年前、そして自分で没にした)に書いた文章を思い出してみたり。
私は昔っから倫理が嫌いなんだ(道徳教育の賜物だな)。
む~~~。
長くなってる割に、全然古池さんにたどり着けない……。
多分、古池さんは、名古屋港のインスタレーションみたいなサイトスペシフィックなアートワークからも離れて、来歴や記憶のモノガタリよりも、“場”の持つ偶発的な力学に身を置こうとして、“セレンディピティ”って言ったんじゃないのかなぁ、なんて考えたりしているのだけれど、どうなんでしょう。
そして我々は、そこに“古池大介”というモノガタリを“発見”しようと言葉を重ねるわけだね。
それはともかく、8/11の話の持って行き方に対して、かなりヒントを戴けました。
感謝。
内容というより,議論の形式について述べたいのですが,前回の際の議論では,少なからず誘導尋問的な圧力を感じました.発表後の発表者は,ぶっ続けて喋ったため,あたまが沸騰状態です.トークイベントには,観客に話を持ってく”ワザ師”の発表者もいるかもしれませんが,さすがにあの状態ではそれはできません.なので,会場のあり方は,進行者にバトンタッチとなるわけです.
他のブログでも,今後の議論のあり方についての考察の推奨という内容を拝見いたしました.発表者として次のようなことを言うのは無責任かもしれませんが,議論の場のまとめ方っていうのは,やはり我田引水でない方向が望ましいです.
今日は十分な時間が取れないので、明日にでももう一度この話題の整理を試みます。
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/878.html
http://yakkiri.eshizuoka.jp/e377020.html
拝読済みです。