コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌されたものである。

2009-05-03 22:26:05 | 

文字の精共が、一度ある事柄を捉えて、これを己の姿で現すとなると、その事柄はもはや、不滅の生命を得るのじゃ。反対に、文字の精の力ある手に触れなかったものは、いかなるものも、その存在を失わねばならぬ。太古以来のアヌ・エンリルの書に書上げられていない星は、なにゆえに存在せぬか? それは、彼等がアヌ・エンリルの書に文字として載せられなかったからじゃ。大マルズック星(木星)が天界の牧羊者(オリオン)の境を犯せば神々の怒が降るのも、月輪の上部に蝕が現れればフモオル人が禍を蒙るのも、皆、古書に文字として誌されてあればこそじゃ。古代スメリヤ人が馬という獣を知らなんだのも、彼等の間に馬という字が無かったからじゃ。 『文字禍』

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駅南、泉町よりの一角に、石屋さんがあって、そのそばに、石地蔵がある。
いつも使っている駐車場のすぐそばなので、ずっと気になっていたやつだ。

 



きれいな由来解説の石碑も建っている。
“兵庫ヶ浜地蔵”というらしい。 

他にもお地蔵さんが数体。あと、歌碑もあるけどちょっと見づらい。

写真では見づらいが、碑文には以下のようなことが書かれている。

 今から二百数十年前、南安東村足名南方に兵庫頭の馬場があった。周辺は古名豊泉が示す通りの豊富な湧水に恵まれ、これが集まって清冽な小川を作り馬場のを流れていた。或る日、百姓の一妊婦が川水を汚しているのを折しも巡視中の侍が咎めて斬り殺した。あえなく胎児も母親と運命を共にした。里人がこの母子を哀れんで川辺に地蔵尊を建て供養した。これが兵庫ヶ浜地蔵尊の始まりである。
 以来大正時代迄永年に亘って安置された。只当初田圃の中にあったものが川巾の広がりと共に四面が池となりやがてその中州に移った。地蔵尊を浮彫りにした自然石の尊像の傍に柳の枝が首飾りのように垂れ下がっていたという。
 その後都市計画の為移転を重ねて現在地に安置され今日に至った。古来より子授け子育て家内安全交通安全の霊験あらたかとの評判が高く今もなお参詣者が後を絶たない所以である。
昭和六十年五月 少林寺義道 誌


この碑文は、ここに来れば見ることが出来る。
この地蔵を知る人は、この解説を“事実”と見なすだろう。当然。

それに異を唱えた人がいる。

06年1月刊の『しずおか百地蔵』(静岡リビング新聞社)は14頁にこの地蔵を写真入りで載せているが、若干由来が違う。
この記事の「リビング」紙初出は01~03年頃と考えられるので、既に石碑はあった。そのため、本になった時に「この地蔵尊の紹介後、「兵庫浜地蔵尊由来(少林寺義道誌)」と言う資料を届けてくださった方もいました。」と言う但し書きをつけたのだろう。微妙な判断。

リビングの記事は、情報提供者、萩原敦子さんへの取材に基づいている。

萩原さんは、この近くの大きな農家で生まれ、育った。
だから、「樋泉」を「豊泉」と表記するのは許せないし、細かい経緯も違うという。
それで、色々抗議活動を始め、ラジオ局に投書して、放送もされた。

しかし、やっぱりこの石碑は変わらない。

ひょんな事で、萩原さんとお話する機会を得、私自身は、その石碑の説明は間違っているだろうな、と言う見通しは持てた。
しかし、だからといって、彼女の言うことが全部「史実」だと認定したわけではない。

それはまだ、否、永遠に藪の中だ。

東京、と言うか江戸の話だが、地蔵の伝承のこと、歴史と伝説のことは、随分前に書いたことがある。

歴史・伝説・実録・小説--二つの地蔵譚から (特集 近世のネットワーク) -- (近世脱領域)

国文学 解釈と教材の研究 46(7), 107-113, 2001-06


    


こういう縁起というのは、いつも、“科学的”な論証には耐え難いものだ。
しかし、だからといって、今目の前で、新しい“歴史”がまさに“刻まれ”てしまったことを、放置するのはどうにも忍びない。

暫くこつこつ調べてみようかな、と思っている。

案外面白い水脈があるぞ、と私の鼻が教えている。


あ、そうそう。
この辺は湧水池だったそうな。
その痕跡も探したいなぁ。

 

2019/03/14 加筆訂正しました。 この件、追跡調査はしていませんが……。





 真理と虚偽との関係或いは寧ろ連関は、元来極めて弁証法的なものだ。どういう内容が真理で、どういう内容が虚偽かというようなことを、機械的な尺度で決めて了うことは決して出来ない。それに、大きな虚偽や誤謬は通過しなければ、真理の奥行きは却って判らない、とも考えられる。真理はただの肯定ではなくて、真理の否定の否定なのだ。肯定が否定によって媒介されて初めて本当の肯定となるということが、真理の一般的な本性なのである。でこう考えて来ると、真理というものは真理と虚偽との或る何等かの活きた連関そのものの内にあると云った方が、当っているだろう。虚偽から絶対的に純粋な現実的真理などはないのである。――処で、認識とはこういう「真理」の認識以外の何物でもなかったのだ。 戸坂潤「認識論とは何か


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4 コメント

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ポストモダン地蔵 (しぞーか式。)
2009-05-04 09:16:59
面白いですね!

地蔵をめぐる偽史。
しかも、正統争い(?)まである。
石碑を建てた意図が知りたい!!

コニタ先生、「粘土板が乾く」前にこういうのに出会えるのは、日々のフィールドワークの賜物ですね!
でしょ~! (コニタ)
2009-05-04 17:44:45
これ、まさに「水脈」。

一緒にやりませんか??
をを。 (しぞーか式。)
2009-05-05 08:54:18
今度もうすこし状況をお聞かせください。

静岡「水」物語?
少林寺さんって、荻原さんって、どんな人?

ナド、
疑問一杯です。
 戸坂潤「認識論とは何か」 (本人)
2023-03-05 23:44:25
リンクが切れているので、青空文庫を。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000281/files/3599_45591.html

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