僭越なようだけれど、事実として、私が17年の間に静岡大学で主査・副査としてちゃんと読んだ卒業論文、約200本のなかで、「学術論文として」、と言う限定を付けた場合に、私の卒業論文を超えた物があったとは思えない。
それはそれで問題なんだけれど、ある時期から、卒業論文というのは、プチ研究者のガチガチ学術論文を目指すこともないんじゃないのか、と思い始めて、指導方法も変えてしまった。
それは、自分のゼミの卒業論文を眺め渡せば一目瞭然。
矛盾するようだが、インターネットの普及とか、図書館のOPACとか、情報検索が容易になって、学生は「調べる」事をしなくなったような気もしている。
と言うか「調べる」事の意味が変わってしまった。
おまけに、先人の論文を読む、と言うことをしていない。
だから、論文のフォーマットも、約束事も判らないまま、自分の研究に突入してしまう。普段、多少アカデミックな本を読んでいる学生がいたとしても、一般向けの評論は、萩谷の言うような、あるいは私達がしてきたような手続きの部分を飛ばしてしまっているし、言葉の選び方にも難が多い。
私が規範主義を主張するのもおかしな話だが、古典的な規範はやはりあってこそ「型破り」はできるのだと。彦星先生の仰るとおり。
私は、と言うより、私の年代はみんな、論文の書き方など教わっていないと思う。
先行論文の中から、良い所をまね、悪い所を避けて、自分のスタイルを作ってきた。
前に書いたように、書き写すことで、身体化もできた。
実際、憧れてしまう文章を書く研究者がいた。
広末保・野間光辰・松田修・森山重雄・高田衛……、近世文学だけでも数えあげればきりがない。
就職して、教える立場になってから、それではいけないような気がして、まず古書店で斉藤孝『学術論文の技法』(日本エディタースクール出版部 1977)を購入、それから、ご多分に漏れず、遅ればせながら『理科系の作文技術』(木下是雄 中公新書 1981)を買ってみたり。
しかし、一方で、文章表現の授業ではきっちりした学術論文よりも面白い表現、あるいはそもそも言語表現の「(不)可能性」を認識させることをめざしてもいた。
装幀の話を書いた時にも少し触れたけれど、学術論文であっても、見た目の印象は大事だ。
平野雅彦という人を紹介された時、こういう人がアカデミズムとぶつかってくれると面白いな、と直感したので、その場で大学で授業をしてください、と頼んだ。
あとでこの人が松岡正剛の高弟であることを識って、いろんな事が納得できた。
私も学部生時代に『アートジャパネスク』に衝撃を受け、この人の名前を記憶したひとりだ。
彦星先生のおかげで、学生たちの表現に関する意識は変わってきた。
世の中も同じで、教育現場の文章表現に関する本も、『新作文宣言』(梅田卓夫、服部左右一、清水良典、 松川由博 筑摩書房 1989 1996年にちくま学芸文庫)くらいから大きく方向が変わってきた気がしている。
このブログの前の方に、『創作力トレーニング』(岩波ジュニア新書 2005)の原和久先生がコメントをくださっているけれど、こういう表現の授業が可能なっているのは本当に驚くべき事だ。
また、ゼミの卒業生が関わった武田徹『調べる、伝える、魅せる!』(中公新書ラクレ 2004)も、多メディア時代を見据えながら、「見せ方」をちゃんと意識してる。案外そういうのがなかったのだ。
気持ちがあれば表現は稚拙でも伝わる、なんて、とんでもない内向きの発想が論文をダメにしてきた。
こういう本には中身がしっかりある。
なんだけれど、学生たちは、そこから、形だけ、技術だけを学ぼうとするから、応用力も想像力も付かない。
彦星先生にお願いしたのは、最終的に、学生たちからはつまらない物のように見える、基礎的な学問の価値をちゃんと認識させる仕掛けを内包した授業ができる人だと思ったからだ。
私から見たら、期待以上に、そういう授業をされている。
しかし、学生たちが全部それに気づいてくれている、とは言えない状態。
それが、萩谷の言う「空虚な受験指導に堕して」いる学校教育の成果なのかもしれない。
しかし、4年たって、いま、「卒論ミュージアム☆」という企画を、学生が提案してきたことはちゃんと解ってくれたな、と、素直に喜ばしい。
中身は、自分の興味を突き詰めればよい。
しかし、表現は、常に、簡単には解ってくれない他者を見据えること。
そのために必要な「学力」は、深く、広い。
学術論文も変わっていくと思う。
その前に、もっと柔軟に、身近な卒業論文を変えよう。
見せること。
しっかりした中身を持つこと。
おかしなFD活動などせずとも、公開性を高める環境を整えるだけで、授業も論文も、その質は格段に向上する。
その第一歩。
アッパレ会後援・卒論発表会 『卒論ミュージアム』
~音楽を聴くように、アートを見るように、卒論に触れよう~
日時:2月15日(金)18時30分開場~
場所:NAS'H
静岡市葵区鷹匠2-15-10 (新静岡センター徒歩4分)TEL 054-272-5555
会費:社会人3000円 学生2000円
それはそれで問題なんだけれど、ある時期から、卒業論文というのは、プチ研究者のガチガチ学術論文を目指すこともないんじゃないのか、と思い始めて、指導方法も変えてしまった。
それは、自分のゼミの卒業論文を眺め渡せば一目瞭然。
矛盾するようだが、インターネットの普及とか、図書館のOPACとか、情報検索が容易になって、学生は「調べる」事をしなくなったような気もしている。
と言うか「調べる」事の意味が変わってしまった。
おまけに、先人の論文を読む、と言うことをしていない。
だから、論文のフォーマットも、約束事も判らないまま、自分の研究に突入してしまう。普段、多少アカデミックな本を読んでいる学生がいたとしても、一般向けの評論は、萩谷の言うような、あるいは私達がしてきたような手続きの部分を飛ばしてしまっているし、言葉の選び方にも難が多い。
私が規範主義を主張するのもおかしな話だが、古典的な規範はやはりあってこそ「型破り」はできるのだと。彦星先生の仰るとおり。
私は、と言うより、私の年代はみんな、論文の書き方など教わっていないと思う。
先行論文の中から、良い所をまね、悪い所を避けて、自分のスタイルを作ってきた。
前に書いたように、書き写すことで、身体化もできた。
実際、憧れてしまう文章を書く研究者がいた。
広末保・野間光辰・松田修・森山重雄・高田衛……、近世文学だけでも数えあげればきりがない。
就職して、教える立場になってから、それではいけないような気がして、まず古書店で斉藤孝『学術論文の技法』(日本エディタースクール出版部 1977)を購入、それから、ご多分に漏れず、遅ればせながら『理科系の作文技術』(木下是雄 中公新書 1981)を買ってみたり。
しかし、一方で、文章表現の授業ではきっちりした学術論文よりも面白い表現、あるいはそもそも言語表現の「(不)可能性」を認識させることをめざしてもいた。
装幀の話を書いた時にも少し触れたけれど、学術論文であっても、見た目の印象は大事だ。
平野雅彦という人を紹介された時、こういう人がアカデミズムとぶつかってくれると面白いな、と直感したので、その場で大学で授業をしてください、と頼んだ。
あとでこの人が松岡正剛の高弟であることを識って、いろんな事が納得できた。
私も学部生時代に『アートジャパネスク』に衝撃を受け、この人の名前を記憶したひとりだ。
彦星先生のおかげで、学生たちの表現に関する意識は変わってきた。
世の中も同じで、教育現場の文章表現に関する本も、『新作文宣言』(梅田卓夫、服部左右一、清水良典、 松川由博 筑摩書房 1989 1996年にちくま学芸文庫)くらいから大きく方向が変わってきた気がしている。
このブログの前の方に、『創作力トレーニング』(岩波ジュニア新書 2005)の原和久先生がコメントをくださっているけれど、こういう表現の授業が可能なっているのは本当に驚くべき事だ。
また、ゼミの卒業生が関わった武田徹『調べる、伝える、魅せる!』(中公新書ラクレ 2004)も、多メディア時代を見据えながら、「見せ方」をちゃんと意識してる。案外そういうのがなかったのだ。
気持ちがあれば表現は稚拙でも伝わる、なんて、とんでもない内向きの発想が論文をダメにしてきた。
こういう本には中身がしっかりある。
なんだけれど、学生たちは、そこから、形だけ、技術だけを学ぼうとするから、応用力も想像力も付かない。
彦星先生にお願いしたのは、最終的に、学生たちからはつまらない物のように見える、基礎的な学問の価値をちゃんと認識させる仕掛けを内包した授業ができる人だと思ったからだ。
私から見たら、期待以上に、そういう授業をされている。
しかし、学生たちが全部それに気づいてくれている、とは言えない状態。
それが、萩谷の言う「空虚な受験指導に堕して」いる学校教育の成果なのかもしれない。
しかし、4年たって、いま、「卒論ミュージアム☆」という企画を、学生が提案してきたことはちゃんと解ってくれたな、と、素直に喜ばしい。
中身は、自分の興味を突き詰めればよい。
しかし、表現は、常に、簡単には解ってくれない他者を見据えること。
そのために必要な「学力」は、深く、広い。
学術論文も変わっていくと思う。
その前に、もっと柔軟に、身近な卒業論文を変えよう。
見せること。
しっかりした中身を持つこと。
おかしなFD活動などせずとも、公開性を高める環境を整えるだけで、授業も論文も、その質は格段に向上する。
その第一歩。
アッパレ会後援・卒論発表会 『卒論ミュージアム』
~音楽を聴くように、アートを見るように、卒論に触れよう~
日時:2月15日(金)18時30分開場~
場所:NAS'H
静岡市葵区鷹匠2-15-10 (新静岡センター徒歩4分)TEL 054-272-5555
会費:社会人3000円 学生2000円
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