見見楽楽 ~九州ぶらり放浪記~

おむすびころころ
鹿児島を中心にあちこち出歩いております。

西郷さんのお墓

2009年04月18日 11時16分42秒 | 訪ねたイイ所…鹿児島編
上町方面にちょっと私用で行った際に西郷さんのお墓を訪ねました。
ココ上町地区は、篤姫が幼少期を過ごした今和泉島津家のお屋敷など上級武士の武家屋敷があった場所。
明治政府と戦った“国賊”の西郷隆盛がこのように手厚く葬られているのは、彼の功績と人柄に寄るものだと我々鹿児島県民は教えられました。


急な階段を登ると大きな鳥居が立ち、その奥に西郷さんを始めとする西南戦争で亡くなった薩摩軍の武士達のお墓があります。


西郷さんの介錯後に自刀した別府晋介の墓。
負傷した西郷が別府晋介に「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」
別府は「御免なったもんし=お許しください)」と叫び介錯した。
余りにも有名なお話です。


こちらが南洲神社のお社。


西郷さんの教え?
我が家の近くの甲南中学校横にある三方限慰霊石碑にも同じ教えがあります。
西郷さんの教えと言うより「三方限の教え」だと思います。


西郷軍6765名の戦没者の名が刻まれています。


東京都から贈られた常夜燈
西郷隆盛と勝海舟の会談で江戸城が無血開城され、江戸庶民を兵火から救ったことへの感謝を込めて東京都が建立した常夜燈。
その無血開城には篤姫の存在は大きかったことも忘れてはなりません。


南洲墓地へと続く南洲門前通り
僅かに桜島の裾野が見えます。


実は南洲墓地を訪ねたのは初めて。
下級武士から明治維新を成し遂げ、そしてまた政府(天皇)と戦った西郷隆盛とはどんな人物だったのでしょう。
征韓論や西南の役の挙兵についても西郷の真意は未だにはっきりとはしていないようです。
西郷が夢見た「新しい日本」とはどんな国だったのでしょうか?






最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんばんわ (403)
2009-04-18 18:27:31
おぉ~、是非行って見たいデス

篤姫以来、鹿児島スイッチが入りっぱなしなんですが、なかなか行けないんです・・・

GWはとてもぢゃないけど多そうだし、これから先はちょっと忙しいし・・・

仕方ないから、もうちょっと先に・・・
返信する
郷中教育 (genesislife)
2009-04-18 22:15:48
『大久保利通生い立ちの地』にある石のベンチには「うそをつくな…」の文言があり郷中での一般的な教えだったそうですが…私も詳しい事は分りません。

西郷さんの本心は分りませんが勝海舟が西郷さんと篤姫を厚く信頼していたのは確かですね。

西郷さんの死を惜しんで勝が詠んだ句が刻まれた歌碑が常夜灯横にありますが、それによると「頼られて仕方なく…」といった感が否めません。
返信する
403さんへ (BuraBura)
2009-04-18 23:13:18
今年のGWはどこも渋滞でしょうね
忙しいのは何よりでございます
ただし、2年間のETC割引き期間においでくださいませ

私は明日の日曜日、ETC割引き使って南小国まで行ってきます。
時間があれば、御輿来海岸まで足を伸ばそうかと思っております。




返信する
genesislifeさんへ (BuraBura)
2009-04-18 23:27:05
確かに篤姫と勝海舟の信頼関係は大きいですね。二人が居なかったら江戸は火の海だったと思います。

鹿児島では、英雄扱いの西郷隆盛ですが、何かの本で「西郷悪人説」を読んだ事があります。
どうも私には西郷隆盛の人物像が見えません。

返信する
西郷悪人説 (genesislife)
2009-04-19 05:58:27
西郷さんと大久保さんは鹿児島の英雄ですが明治新政府が立ち上がった当初は2人とも地元薩摩では『裏切り者』扱いされていたようですね。

というのも新政府立ち上げに貢献した薩摩藩の武士たちですが、その恩恵に預かれたのは極極一部。その反動が出世頭の2人に集中したようです。しかも2人は下級武士(郷士)ですから旧薩摩藩の重臣たち(及び元藩主)の妬みは強かったようです。

東京市(当時)から感謝された西郷さんですが島津久光の命で手下を使って江戸の街に火をつけたこともありました(それがきっかけで戊辰戦争が始まったわけですが)

そんな訳で人から頼まれると『嫌』といえない良い人だったのは確かです。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。