京都の闇に魅せられて(新館)

2005年の漢字は「殺」だ!

 2005年、今年の漢字は「愛」ということらしい。
 今や年中行事となった、日本漢字能力検定協会主催の「今年の漢字」。その年を象徴する漢字を投票で選ぶというイベントであるが、今年選ばれたのは「愛」だという。
 映画などの純愛ブーム。卓球やゴルフなどのアイちゃんの活躍、紀宮さんの結婚など、確かに「愛」という字が連想できなくもないが……。
 「毒」とか、「戦」、「災」などが選ばれた年よりはましには違いないが……。


 
 だが……私は、今年の漢字に「愛」が選ばれたことに、非常な虚しさというか、白々しさを感じずにはいられなかった。
 昔読んだ本に、「愛とは無償であたえ続けること」だと書いてあったが、今の現状と世相はまるで違う。
 このブログで何度も取り上げてきたが、今や弱肉強食の「新自由主義(=市場原理主義)」が横行し、「稼ぐが勝ち」とか「金さえあれば女もついてくる」と公言する人物が、政界や経済界で大手を振って歩き、マスメディアや大衆もそんな奴をもてはやすようになった。つい先日、東証のシステム・エラーのドサクサに乗じていくつもの証券会社やボロ儲けをしたことが明らかになった。さらには、設計を請け負った建築士、販売会社、コンサルタント会社がグルになって、危ない手抜き工事のマンションを売りつけた耐震強度偽装マンション事件も世間を騒がせた。JR西日本の大事故の背景に、「日勤教育」という名の、経営側による猛烈な職員締め付けがあったことも明らかになった。
 富裕層(勝ち組)と貧困層(負け組)の二極化が進行し、殺伐とした世相になった。女性や幼い女の子など、特に弱者の生命が奪われる凶悪事件が何件も発生した。
 こうして見ると、とてもじゃないが「愛に満ちた世相」とは言い難い。私には、皆が辛い現実を直視できずに、「愛」という幻想に現実逃避しているとしか思えないのだが……。

 私は選ぶ今年の世相を象徴する漢字は……「殺」である。
 「愛」よりも「殺」の方が、今年の世相を表現するにはふさわしい。
 
 まず、奈良の女子小学生誘拐殺人事件や、京都府宇治市の学習塾講師による女子小学生刺殺事件など、幼い女の子が殺されるという事件が何件も発生したことがあげられる。人の生命と尊厳が、こんなにも軽んじられた時期は、戦後あっただろうか?
 尼崎のJR西日本大事故も(これまで私が得た情報をみる限りでは)、明らかに人災、極論すれば、「一種の人殺し」である。利益・効率を最優先し、十分な保安設備も整えないまま、過密なダイヤによる運行をする。さらに、無茶苦茶な労働者の締め付けを行った上に、安全性を無視した運転を運転手に事実上強要、組織内ではそれが当たり前のようになっていた。そこには、乗客や従業員の生命・安全を背負っているのだという意志は全く感じられない。ちなみに、こういう愚劣な利益・効率優先主義を押し進めたあげく、事件の責任をとらされて辞めた井手某という経営幹部は、かつてJR(旧国鉄)民営化の時に、猛烈な労働者締め付け・労働組合潰しを推し進めた人物でもある。
 今なお巷の話題になっている、マンション耐震強度偽装事件。業者、設計士、検査機関がグルになって、何も知らない消費者に、いつ壊れるかわからない殺人マンションを売りつけた事件であるが、これにも顧客の生命や安全を守るという意志は、全く感じられない。「詐欺」とか「建築基準法違反」などという、生やさしいものだけではない。これは「営利目的の殺人未遂」だと見ていい、と私は思う。
 そして実は、刑法にはひっかからないだろうが、静かな大量虐殺が行われている。それが小泉政権やそれを支える自称新自由主義者(=市場原理主義者)による、棄民政策だ。
 村上世彰やホリエモンのような、ほとんど世のプラスにならない、何も生み出さないマネー・ゲームばかりやっている連中をもてはやし、9月の選挙では候補者にまで選ぶ。その一方で、弱者……というより、勝ち組(エリートや大金持ち)以外の圧倒的多数の勤労者・サラリーマンに対しては、大増税や社会保障費の削減などで、今後も恐ろしい勢いでの負担増を押しつけられていく。さらに、リストラという名で、不安定雇用(パート、アルバイトや派遣社員)を増やし、ひどい場合には職を失う場合も増えてきた。
 そんな中で、まともに生活できないどころか、死活問題にまで追い込まれる人も出てくる。年間何万人もの生命が自殺で失われているのも、無関係ではあるまい。これは形こそは自殺であるが、一種の生殺し、大量虐殺でもある。
 銀行を含めた金融機関が、株や保険などあらゆる金融商品を窓口で売りつけることも可能になった。そういった金融商品の中には、リスクの高いものある。無理に勧誘されるままに購入した人が、大損をさせられる場合も出てくるだろう。特に怖いのが、ほとんど年金や預貯金だけで生活しているお年寄りの死活問題にもなりかねないことだ。しかしそういった場合でも「自己責任」だとか「自助努力の不足」で片づけられるのだろうな。これも一種の殺人か、自殺促進ではないか、と私は思うのだが。


 以上、私が「殺」を今年を象徴する漢字に選ぶ理由をいくつか挙げてきたが、そのいずれにも共通することがある。
 それが以下、4つだ。

(1)力や立場の弱い者が、最も犠牲になる。
(2)「自分の利益や快楽のためには何をしてもいい」というエゴイズム。
(3)他者や社会に対する冷酷なまでの無責任。
(4)新自由主義と称した、「利益・効率最優先」「人命軽視」の風潮が背景にある。

 根本的な問題は、そのうち(4)にある。
 だが、一番問題なのは事件を起こした人々に対する表面的な批判はあっても、根本問題……つまり(4)を追求するまでには、なかなか至らないことである。

 例えば、殺人(耐震強度偽装)マンション事件では、背景に建築確認業務の民間業者への開放(つまり、小泉政権の大好きな民営化路線の一環だ!)がある。しかし、構造計算を誤魔化した建築士や販売会社社長の悪相を報道するばかりで、多くのメディアは、建築基準法の民間開放について、検証してないようだが……? 何故? 小泉政権に遠慮? 過激なのを承知で言わせてもらえば、わかっていて報道・批判の声をあげないのは、殺人(よく言っても見殺し)の共犯をしているようなものだぞ。
 残念ながら、「殺」が象徴するような世の混迷はまだ続くだろう。少なくとも、小泉政権のような政権が続き、しかもそれを多くの人々が未だ支持しているような現状では、絶望的な気さえしてくる……。





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