人生道場

お互いに悩みや考えを述べ合い、それぞれの人生の糧にしませんか。

誰の為に生きるのか

2004-09-29 05:53:58 | Weblog
「誰の為に生きてるの」と問えば、空かさず「そりゃ、自分の為さ、それ以外に
誰のために生きるの、神様じゃないんだから、人の為に生きれるものか」と、
返事が返ってくる。
確かに、多くの人は同じ考えではなかろうか。
そしてそれは、至極当然のことであり、罪でも悪でもない。人の自然体であろう。
誰しも無意識の状態、自然の状態ではそれぞれが自分の為に生きているのである。
私は人の為に生きている、と
自然に口にできる人はいったいどれ位おられるものだろうか。
殆ど皆無なのではなかろうか、それが神でなく人たる所以だろう。

それでは、我々はそれだけでいいのだろうか、自分の為に生きるのはお互い様であるが、
自分の為に生きる人生でいいのだろうか、との疑問を抱かずにはいられないのである。
果たしてそれで満足できるものだろうか。確かに多くは自分の為に生きることで満足を
されておられるのかもしれないけれど。

私は、「人の為に生きる」という意識の必要性を感じてならないのである。
自分の為に生きることは自然であり、自己満足を得られる最も大きなものではあるが、
「人の為に生きる」という意識を育て、人の為に生きれた時、より満足度が増大する
のではないのだろうか。
「自分の為に生きる」を大切にしながらも、「人の為に生きれる自分」を創造して
いきたいものである。




愛の錯覚(その人の為に生きれるのか)【幸せな生活の為に】

2004-09-28 11:52:06 | Weblog
何故、愛して結婚したはずなのに何処かで「幸せさ感」が薄くなるのだろうか。
そのような時、「私はこの人を本当に愛しているのだろうか」と考えたり、
ふと思うようなことはなかろうか。
多くは熱烈に愛し合ったはずなのに、時の流れの中で・・・・ふと。

それを感じた時私は、「愛の錯覚」を考えるのです。
その時は愛していたと思っていたが、実は愛しているつもりであって、
愛してはいなかったのではないのかぁ、と。
求める二人が燃えるよな時が冷め長い残りの人生の中で、互いの人生の生き方に
軋轢が生じるのではないのだろうか。

幸せな生活を送られている方もおいでになるのだが・・・。
そんな幸せな生活をおくるための一つとして、
お互いが「この人の為に生きれるのか」を考えてみる必要があるのではないの
だろうか。
結婚前の色々考える中の一つに加え、結婚後壁にぶつかった時、「この人の為に
生きれる自分」を作る必要はないだろうか。




健康であるということ

2004-09-27 10:23:59 | Weblog
健康については、その大切さを誰もが理解し、望んでいることである。
しかし、常にそれを自覚し、その努力をしている人はどれ位おられるだろうか。
確かに、健康が身近に感じられ年齢におられる方は日々それぞれに努力を
なされていることでしょう。
では、その年頃になってから健康に気をつければいいものなのだろうか。
やはり、若くても健康を害してしまったら自分が思うようには中々動けなく
なるのではなかろうか。
健康は願うだけで維持できるものでもなかろう。
そうなれば、できるだけ早い時期に気が付き自覚し、健康である為の食事を
含めて健康への努力を始め、継続し、健康で元気な人生を過したいものである。

予防介護(若さの維持)

2004-09-25 19:14:58 | Weblog
自分自身が介護状態になることを自覚して生活している人はどれ位いるだろうか。
若い人なら尚のことそんなこと考えにも及ばないことだろう。
親も若く、兄弟姉妹も元気なら、自分が介護をすることすら頭にはないのでは
なかろうか。
しかし、身近な者が介護状態になると、自らが介護に係わらなくても介護の大変さが
身にしみるものである。
そして感じることは、決して介護状態にならないように心がけることの大切さである。
若さの維持をすることの大切さである。
ただ漫然と人生を生きているだけでは若さの維持はできず、その時期がくれば、
介護状態に陥り、身近なものに迷惑を掛けるようになるのである。
気がついたときから脳と体のバランスのとれた若さの維持につながる努力を
していくことが大切だと考える。
寝たまま生きるのか、元気で普通の生活をしながら生をまっとうするのか。
介護を受けることなく人生を終えるよう努力したいものである。



素直に生きる

2004-09-24 11:59:37 | Weblog
「素直に生きる」を実行している人がどれ位いるだろうか。
「素直さ」は「弱さ」に通ずる、と捉えれば尚のことこの競争社会においては,
採用し難いであろう。
そこに「素直に生きる」ことの難しさがあるのかもしれない。
では、「素直に生きる」とは、どんなことだろうか。
自分の思いのまま思い通りに生きる、
これも素直に生きる方法の一つであるかも知れない。
しかし、私は、肩の力を抜き、心のわだかまりを捨て、思考を停止し、
ありのままの自分に立ち返り、その時間を過すことと考えている。
 そこに身を置いたとき、時は止まり、全てが素直に受け入れられ、
心穏やかな世界となる。
人生が全て素直に生きれるに越したことはないが、そうは中々いかない。
日々の生活の中で僅かなりとも「素直に生きる」ことを心がけ、
その時間を育てて生きたいものである。
人生、無理をすべき時も多々ある。
その時は気を入れて頑張らなければならないであろう。
無理があれば疲れる。疲れるということは、何処かに無理がある。
無理をせずに済むところにおいては、疲れない生き方、
即ち「素直に生きる」ことを心がけたいものである。

「愛する」って、どんなこと。

2004-09-23 11:37:18 | Weblog
「愛」、「愛する」って、口にしたり、耳にしたりする言葉である。
そして、「愛」ね。「愛する」ね。と感じている。
しかし、ふと「愛する」って、どんなこと?と考えると必ずしも明確な言葉が、
すらすらと出てこないのではなかろうか。
それでは、「愛する」とはどんなこと。
色んな意味や要素があるなかで、私は「相手に尽くすこと」と解している。
私にとっては、「愛すること」とは「相手に尽くすこと」なのである。
相手に尽くす尽くし方も決して一辺倒ではない。
 ○身を大切にしながら尽くす。
 ○身を捨てて尽くす。
 ○耐え忍び全身全霊で尽くす
等などがあろう。
愛の究極は何であろうか。それは、「慈しみ」即ち「慈愛」ではなかろうか。
母の子に対する「愛」、身を捨てて耐え忍ぶ愛ではなかろうか。
心の砂漠化したこの国においては尚のこと、この慈愛を求めて精進したいものである。


何のために結婚するのか(幸せな結婚生活を続けるために)

2004-09-22 12:34:06 | Weblog
結婚する時に自分は何のために結婚するんだと、考える人は少ないのではなかろうか。
多くは、愛しているから、好きだから、一緒にいたいから、落ち着くから、etc、
ではないのだろうか。
私も愛さえあれば、の口である。何のために結婚するか、なんて考えも及ばなかった。
基本は家系を絶やさないためとか、種の保存とか、子孫繁栄のためとか、であろうか。
しかし、多くはそんなことを意識してはいないのではなかろうか。
考えてみれば結婚生活の期間の長いこと。生涯続くはずの二人の愛も結婚するまで
或いはその当初の愛のまま維持することの困難さは結婚生活を続けてみて理解できる
ものと知った。
一緒にいたい気持ちも結婚と同時に満たされてしまう。
いったい、残りの二人の生涯は、互いにどう過したらいいのだろうか。

安易に愛してるから一緒に暮らしたいからと結婚すれば、結婚後に悩み苦しむこと
になるのではないのだろうか。
これらのことを考えると、僅かなりとも「何のために結婚するのか」を考えてみる
ことも意義あることではないだろうか。

結婚をしないことを望んでいるものではない。先祖から受け継いだ大切な血を子孫に
伝えて行く為にも、この国の繁栄のためにも多いに結婚をしていただきたいと
願っているものであります。
そして尚且つ、幸せな結婚を続けていかれることを願って止みません。

結婚する相手はどんな人

2004-09-21 06:31:41 | Weblog
当然、多くは好きな人や愛する人と結婚する訳だが、
好きだから、愛しているから、一緒にいたいからだけで結婚し、
その二人の生活は上手くいくものだろうか。
互いに愛していることは必要な条件ではあるが、
愛しているからと、若さで突き走り、結婚し、二人の生活を続けているうちに
ふと気付き、これでいいのかぁ、と悩み始めるのではないのだろうか。

結婚する相手は、当然こうでなければならないということではないが。
末永くよき夫婦の関係を維持していく一つの考えとして
お互いが人生の良きパートナーであることが大切ではないだろうか。
愛する故に束縛し合うのではなく、お互いの立場を尊重し、
互いが良きパートナーであることにより、お互いの人生を
謳歌できるのではないだろうか。



離婚を考える予兆

2004-09-20 07:20:51 | Weblog
結婚生活を夢の世界にすることがこんなにも難しいものか、と思い知らされる
のは結婚後間もなくである。
この「間もなく」は人それぞれであるが。
その「間もなく」がやってきた時、「こんなはずではなかった」と悩み始め、
最悪、離婚へとつながる。
愛し合い、二人の生活の夢を描きながら結婚したはずなのに。
こんなはずではなかった、やはり無理だったと離婚を考える時、結婚前に
その予兆はなかったのだろうか。
実は結果論ではあるが、よく考えてみるとあるのである。
例えば
○ 相手の嫌な面をみて悩みながらも何とかなるだろう。
○ 結婚を辞めたい、と思ったがここまできたから何とかなるだろう。
○ 結婚する気はなかったけど、何となく結婚した。
○ 好きな人がいたんだけど、そうなでもない人と結婚した。
等など、少なくとも結婚前に結婚することにためらいがあったり、
なんとなく結婚している場合に結婚後、「結婚しなければよかった」と、
悩んでいるようである。
結婚は互いに人生において大切なこと、結婚後悩まないようよくよく
考えたいものである。


これでいいのか、年金

2004-09-19 06:24:22 | Weblog
年金の取り扱いはこれでいいのだろうか。
誰のための年金なのか。年金を取り扱う人のための年金なのか。
預かり金なのに、その取り扱いにズサンさがあり、それが足りないとなれば、
徴収金額をアップする。誰のためのアップなのか。
財源がなかったら年金は貰えないのだと、半ば脅し的に平気で法案を通す人々。
この国は民主主義国家ではないのか。国民の多くの声にはソッポ向き、
自分の手元に集める金には汲々とし。
年金財源に不足をきたしたのは誰の責任なのか。
国民の知らぬところで使い込み余計な流用をしておきながら。
国は国民に対して誠実であるべきではないのか。

我々一人一人が、人任せにすることなく、感心をもって見守り、
諦めることなく国をよき方向へ変える努力をしていくべきではないのだろうか。
一人の力の大きさを信じて、億も兆も一の集まりであるわけだから。


自殺の多きに思う

2004-09-18 06:39:39 | Weblog
何故なのだろうか。
こんな平和な日本において自殺者の多さが世界でも上位クラスとのこと。
それも45歳から65歳位の年齢層が多いらしいぃ。
人生を歩いているうちには、時として自殺したいと思うこともある。
そう思ったことのある人は、結構多いのではなかろうか。実は私もその一人である。
どんな時にそう思ったかを振り返ってみると、
生活が豊かでもなく。
楽しく遊べるわけでもなく。
毎日毎日あくせくと働き。
将来を見通しても明るさ、豊かさは見えず。
残りの人生に夢もなく。
この状態が死ぬまで続くのか、と思うと何も苦労して生きている甲斐がない。
何も死ぬまで生き長らえることもないなぁ、と考えたこともある。

しかし、人間捨てたものではない。
その時はそうでも生きているうちには多いに状況が変わってくるものである。
自分なりの夢や生甲斐を創造する努力をし、前に僅かなりとも進みたいものである。




情けの枝を大切に

2004-09-17 14:05:32 | Weblog
「折れた情けの枝で死ぬ」と、ある歌の一節にあるが、
私はこの一節が忘れられず、人生を生きるうえで大切にしている。
人は互いの情けの中で生きているのではなかろうか。
情けに泣き、情けに感謝し。
しかし、この情けの枝が折れた時、人は最悪、死に至るのではないだろうか。
その死への手段の多くは「自殺」。
その枝の折り方は様々だろう。相手が一方的に折る、或いは自分自らが折る、
自分が相手に折らせる。
しかし、自分はこの世に一人で生きているんだ、自分は自分だと、自分の
ことだけを考える時、情けの枝は折れ始めるのではなかろうか。
人は人との係わりの中で生きている限り、
「情けの枝」を大切に育てていくべきではないのだろうか。

子供を子供の世界に放置したまま

2004-09-16 02:29:28 | Weblog
誰しもそんなこと、大人と子供が対等だぁなんて、思ってなんか
いないと思います。
しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。

子供にも人権があるんだ。
子供の自主性を尊重しなければいけない。
大人が子供を押さえつけてはいけない。
等など、余りにも子供を尊重し過ぎて、子供は子供の世界、
大人は大人の世界と分かれてしまってはいないのだろうか。

分かれていることが問題とは思わないが、そのことにより
大人達は子供達のことより自分のことだけで精一杯で、
子供達を子供達の世界に放置したままなのではないか。
それが様々な弊害をもたらしているのではなかろうか。

もっと我々大人は、過去にもあったようにある年齢までは
子供達を大人の世界に引き入れて見守り育てていくべき
なのではないだろうか。
子供達の行動に指導を与えるべきものがあったとしても、
何らの手も打てないまま、ただただ立ち尽くして見てるだけの
大人達でいいのだろうか。

子供の命を救うのは誰なのか

2004-09-15 06:23:54 | Weblog
最近、強烈な衝撃となって心を悲しませる出来事として、
小さい命、幼き命、子供の命が虐待され、言われもなきことで
奪われていることである。
そして、又もや2つの幼き命が奪われる出来事が起きた。

幼児や子供にどのような責任があるというのだ。
子供達に命にも値するような責任があるというのだ。

大人達の責任においてこの世に命を与え、縁を得てこの世に
生を得た子供達を心無き身勝手な大人に依って虐待され、命が
奪われる。こもようなことが許されていいものであろうか。

これら子供達を守り育てることが我等大人の責任ではないのか。
ただ単に子供達のそれぞれの親の責任のみならず、誰々の子供と
いうにとどまらず、大人社会として子供達を守り育てていかなければ、
ならないのではないだろうか。
親や大人社会が守り育てることができないならば、国家が子供達を
守り育てるべきではないか。何故なら子供達の命が奪われることは
国家的損失につながるからである。
個人尊重の名のもとに国家機関が守れる命を守れていないのは、
我々国民一人一人が如何にあるべきかを真剣に考えるべきでは
ないのだろうか。
今回も、折角公的機関に保護されながら、親がいながら虐待されて
いるのにも係わらず、親元に返され、結果として大切な幼き命が
奪われている。公的機関の手続きは当然のことだとして。

それでは、この幼き命は、いったい誰が守ってあげれるのか。
幼き者に自分の命は自分で守れと言い放つのか。

生きているうちが花

2004-09-14 04:45:30 | Weblog
「死んで花実は咲かぬ」と言うけれど、誠にそのとおりだと思う。
もし、死後の世界があり、例えその世界が楽園であったとしても、
今現在生きているこの世界で、どんなに苦しかろうと辛かろうと、
死にたいと思うことがあったとしても、
限られた命を大切に生き抜くことこそが大切であり、何時の日か、
大なり小なりの花が咲くことであろう。

今まで、いや今、笑い楽しく語らっていたとしても、死に至れば、
もう現世では笑うことも語らうことできないただの物体と化して
しまうのである。
そのことを考えれば、今、生きているそのものが花であり、
夢を育て、限られた人生を意義あるものとし、生きていることを
謳歌したいものである。