続強子の部屋

思いつくまま、気の向くまま、書いています。

楽しかった

2020-03-17 17:16:48 | よかった

昨日は整形外科の体操教室に行きました。

前の週はお休みしましたが、やっぱりみんなと

一緒に体操がしたくて、マスクをして出掛けました。

マスク、メガネ、補聴器、が耳に掛かって煩わしい。

待合室はいつもと同じ混んでいました。

受付の人、リハビリの先生達もみんなマスクです。

体操のスタジオは窓が少し開いていました。

最初は寒く感じましたが、体操をしているうちに

暖かくなりました。

みんなの元気な姿を見てお互いにニコニコ、やっぱり

家で一人でするより先生の号令でみんなと一緒が

楽しいわね~元気になった私たちでした。

来週の再会を約束しました。

帰りは予定しなかった美容室でカラーリングで

気分が晴れました。

夕方は西風が強く怖くて早々に東側の寝室に

退去しました。今朝は北側のお宅の屋根に

霜が下りました。明日は暖かくなるそうですが、

戸惑います。

今日我が家の庭にはお客様が来ませんでした。

美味しい物のある場所を見つけたのでしょう。

良かった、でも少し寂しい気がしました。


今朝は穏やかな朝でした。

2020-03-13 16:35:10 | うれしい

気難しい白い椿が咲いてくれました。

気難しいのは、私のせい、勝手に枝を切るからです。

アオジくんが久しぶりに来てくれましたが、何か忙しそうで

寒い頃のようにじっとしていません、あちこち飛び跳ねて

何処かへ行きました。

桜草の芽が出ました、うれしい。

蕗の薹の花が開きました。 

山椒が芽を出しました。

お昼過ぎに友人のMちゃんから電話があり、なんかつまらないわね

あのお寿司屋さんに行きましょうか、となりましたが、

珍しく自粛すると言いだし、では・・・またとなりました。

今夜は 美丈夫 をお供に家で蒲焼きを解凍して、乾杯 

 


昨日はじっとしていました

2020-03-12 12:28:36 | 忘れない

夫の従姉妹兄弟たちが、被害に遭いました。

無事かどうかが分からず、しばらくして無事は

確認できましたが、仙台市の高台から、

海の近くに移った従姉妹たちが大変な事になりました。

新築した二軒を除いて近所が皆流されたそうです。

沢山の辛い話を聞きました。

夫が生きていたらどんなに悲しんだろうと思います。

浪江の親戚同様の人たちも、大変な思いをしました。

思い出す度に、辛くなる事ばかりです。

あの日を思いじっとしていました。 

東の空、龍が隠れていそうでした。

西の空も怖い、その後雷注意報が出ました。

すぐに解除になりほっとしました。

  

 

  

 

 

 


9年前の昨日のこと

2020-03-10 17:42:17 | 忘れない

9年前の3月9日、私たちが被災した、江戸川区で

戦災資料館ができて、展示物もあると新聞で見て、

電車を乗り換えバスでと言うのは、無理なので、

少し贅沢して懐かしい江戸川区小松川に行ってきました。

見違えるように整理された町になっていました。

昔の区役所は川向こうに移転してしまい、区の施設が

ありました。唯一焼け残った文書館がありました。

施設の中には、当時の生活を偲ばせる衣服、食器が展示

されていますた。焼ける前の、地図には住んでいた人の

名前調べられてありました。優しい叔父さんの提灯やさん

空気入れを放った米や、大きなお金持ちの乾物やさん、

お世話になったお医者さま、友達の質屋さん、

駄菓子屋さん、煙草屋さん、我が家は履物屋が

分かりました。係の人にお礼を言いました。

これだけ調べるのは大変だったでしょう。

前任者の方が熱心になさったそうですが、昨年

亡くなられたそうです。私たちの避難した経路を

子どもの頃の記憶ですが、お話ししたら、

良くご無事でしたね。と仰いました。

父と母は火に向かって避難したのでした。

大回リしてでも助かりました。

区役所の隣の小松川神社に、お参りしました。

防空壕があったところです。

昔の町内の地図をコピーしてくださいました。

まだ少し見ていたかったのですが、夕方の

混雑に遭わないように帰ってきました。

11日は、同じ運転手さんの当番の日なので

心残りのないようもう一度行こうと思いました。

連絡したら、遠くに行く予定がで来たので、無理

でした。少残念でしたが、家にいることにしました。

11日友達Mちゃんがお菓子を届けてくれました。

おしゃべりしていたところ、もの凄い揺れが来ました。

とても長い揺れでした。北上にいる孫たちの顔が

目の前に浮かびました。すぐメールをしましたが、

繋がりません、その後、家の中が滅茶滅茶です。

とママのメールがあったきり連絡なしでした。

まさかこんな大きな震災だったとは、津浪の凄さに

震えが止まりませんでした。

11日に小松川に行っていたら、帰りは大変なことに

なっていたと思います

当番だった運転手さんは、明け方になっても、

家に帰れなかったそうです。

 

 

 


東京大空襲のこと

2020-03-09 12:24:21 | 怖かった

75年前の空襲を思い出します。

夜中に起こされて、外を見たら、大きな火の粉が

家の前の通りを凄い勢いで飛んでいます。

防空頭巾、小さな袋を斜めがけにして、火の粉を

見ていました。次姉と父がいません、

近所の火を消していると母が言いました。母は

リヤカーに荷物を積んでいます。お米屋さんが

空気入れを貸してと言って空気入れを持って

行きました。

次姉と父がもう駄目だ逃げよう空気入れは?

お米屋さんが・・・お米屋さんはもう避難して

お店の前に空気入れが投げ出されてあったそうです。

それを持ってきて、空気を入れて避難しました。

ご主人が戦地にいる隣の家の小母さんと小さな

三人も一緒に総勢10人が連れ立って避難です。

お隣の6歳の貞雄ちゃんは、しっかり荷物を

背負っていました。真ん中の良子ちゃんは4歳、

姉が背負いました。一番小さいとし坊は小母さん

私はその前に足を挫いてよろよろしとしてい

ました。恥ずかしながら母に背負われました。

強風と、火の粉の中全員助かりました。

私たちが船堀橋を渡りきったところで、

橋は燃えてしまったそうです。

その後は親戚に助けられて無事いままで

生かされて来ました。

お隣の小母さん可愛い三兄妹も無事に小母さんの

実家に戻れましたが、小父さんはハルピンで戦死

しました。有名なお店のコックさんでした。

前線には行かないだろうと父は言っていましたが

残念でした。長兄も3月ニューギニアで戦死。

色々な事を思い出す三月です。

沢山の人が焼死したのに、政府はその後も初期の

消火を勧めていたそうです。正直に消火していて

もう少しで全員死ぬところでした。

リヤカーの空気入れを放り出した、お米さん

は戦後派手に仕事をしていたそうですが、

父はあんな奴がね~と言っていました。

すぐ上の姉には、強子は腰が抜けたんだね、と

いつまでもからかわれていました。

橋のたもとで私たちを、出迎えてくれた、警防団の

人たち、親戚、みんな有り難かったです。