続強子の部屋

思いつくまま、気の向くまま、書いています。

東日本大震災

2018-03-12 19:14:22 | 怖かった
あの日は友人のMちゃんがお菓子を持ってきてくれて
玄関先でおしゃべりしていた時です。強くとても長い揺れでした。Mちゃんが
ドアーを抑えてくれて、私はダウンのコートを着てバッグを抱えました。
揺れが収まって、Mちゃんは家に戻りまたその時強い揺れが来ました。
遠い所で大きな地震が起きたなと思いました。
でもこんなに大きな災害とは思ってもみませんでした。

夫の従兄従妹たちが津波の被害に遭いました。怖い思いをして、
避難所も辛くて、大変な思いをしました。
夫が生きていたら、どんなに気を揉んだことかしら。

地震が起きる一月前頃、夫のネクタイピンや、私の指輪ネックレス
もう使わなくなった物を、貴金属買い取り店に行って、換金しました。
Mちゃんに5万円ぐらいだったらイタリアン。なんて言いました
何と26万円になりました。温泉ねなんて言いましたが。

このお金は被害に遭った、従兄従妹たちの御見舞金になりました。
御見舞金は倍以上かかりましたが、少し役に立ったかなと
思っています。
今は元気になったみんなですが、忘れられないことが沢山
あるそうです。

子どもたちが小さい頃行った。野蒜の民宿の懐かしい人たち
金華山、鮎川、浄土ヶ浜、奥松嶋、大鷹森、
穴子のてんぷらの美味しかった石巻のお店、
みんな被害に遭ったのです。悲しいです。
まだまだ元には戻れませんね。頑張ってほしいです。



東京大空襲

2018-03-10 17:11:49 | 怖かった
わすれられない日東京大空襲です。
ブログでは何回もつぶやいていますが、恐ろしい思いをしました。
ぐっすり寝ていた私は、母に起こされて身支度をさせられました。
外は大風が吹いていました。道路は大きな火の粉が物凄い勢いで
流れるように飛んでいきます。
隣の小父さんは満州に出征中です。子供たちと小母さんも一緒に
逃げました。両親姉三人私総勢10人です。
近くの神社の防空壕に私たちを置いて、両親は家に戻り何かを
取りに戻りました。私は大声で 行っちゃダメだと叫びました。
姉たちの声もなにも聞こえません、私だけが叫んだんでしょうか
間もなく二人は戻ってきました。家まで行けなかったそうです。
防空壕の中にいても、周りが熱くなってきました。
私は熱い熱いと叫びました。みんなですぐそばの橋を渡りました。
何と向こうから大勢の人がこちらに向かって来ます。
火を見て興奮した馬が駆けてきたのが怖かったです。

両親は驚いたことでしょう。みんな川沿いを下りました。
橋を渡りました。橋の欄干が燃えていました。
花火のようでした。風に飛ばされないようみんな掴まりあって
無事渡り切りました。間もなく橋は焼け落ちたそうです。
後の人たちは川に落ちてしまったのでしょうか。
両親が戻ってくるのが遅かったら、川に落ちて
いたかもしれません。

どうして両親は、江東区に向かって避難したのか
荒川放水路の立派な橋を渡らず、逆行したのか、
生きているうちに聞いておけばよかったと思います。
今も風の轟々とした音、火に驚いた馬の蹄のの音を
思い出します。

亡くなった沢山の人たちのご冥福をお祈りいたします。

大震災から6年

2017-03-11 17:15:51 | 怖かった
今日14時46分に黙祷しました。大変な災害でした。
あの日友人のMちゃんがお菓子を持ってきてくれました。玄関先でおしゃべりをしていたら
大きな揺れが来ました。私はダウンコート着てバッグを持ってふらふらして玄関に行きました。
Mちゃんは動く玄関の扉を抑えてくれていました。どうしたら良いか二人で玄関の柱に
しがみついていました。
揺れが治まって、Mちゃんは家に帰りました。長い揺れでした。北上市に住んでいる次男の家族が心配になり、
すぐにメールしましたが、返事はありませんでした。その後家の中はめちゃめちゃです。とだけ返信がありました。
後でわかったことですが、子供たちを学校に迎えに行き、帰ったらマンションが立ち入り禁止になっていたそうです。
一日目は車の中で、後は公民館にいたそうです。すぐに部屋に戻れたのですが、あと片付けが大変だったそうです。
都内に住んでいた長男は学校へ子どもを迎えに行くのが大変だったそうです。でも皆無事でした。
夫の従兄従妹たちは津波の被害に遭いました。命は助かりましたが、怖ろしい目に遭ったそうです。
夫が生きていたら、気を揉んだことでしょう。
元の生活に戻れない人たちがたくさんいます。どうか体に気をつけてくださいとしか言えなくて、申し訳ないです。