古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

年代推定 応神天皇

2022-04-03 08:00:54 | 古代の日本語

漢字が輸入された時代背景を考察するため、『日本上代史の一研究』を参考にしながら年表を作成していて、今回は応神天皇の時代です。

なお、この年表に登場する阿華王は、三国史記には阿莘王と書かれていますが、日本紀には阿花王と書かれているので、莘は華の誤りなのだそうです。

また、年表の★印は、著者の池内宏氏が歴史的事実と判断した事項です。

統治者
干支
西暦
特記事項
応神天皇 庚寅 390年 応神天皇即位(応神紀元年)
辛卯 391年 ★倭の侵攻(広開土王の碑)
高句麗の百済侵略(三国史記)
壬辰 392年 ★百済の阿華王が即位(三国史記、応神紀3年)
癸巳 393年 ★百済が高句麗と交戦(三国史記)
甲午 394年  
乙未 395年 ★百済が高句麗と交戦(三国史記)
丙申 396年 ★高句麗の百済征伐(広開土王の碑)
丁酉 397年 ★百済が太子の腆支を倭国に人質に出す(三国史記、応神紀8年)
戊戌 398年  
己亥 399年  
庚子 400年 ★高句麗が新羅を救って倭を破る(広開土王の碑)
辛丑 401年  
壬寅 402年  
癸卯 403年  
甲辰 404年 ★高句麗が倭と百済の連合軍を破る(広開土王の碑)
百済が馬2頭を献上(応神紀15年)
乙巳 405年 ★百済の阿華王の没年、腆支王が即位(三国史記、応神紀16年)
百済から王仁が来朝(応神紀16年)
丙午 406年  
丁未 407年  
戊申 408年  
己酉 409年  
庚戊 410年  
辛亥 411年 応神天皇の没年はこれ以前か?

これを見ると、三国史記に書かれている百済王の即位年や没年が応神紀の記述と一致しており、この年表もかなり信頼できるのではないかと思われます。

当時の朝鮮半島では、百済が高句麗に圧迫されていたため、百済には日本との友好関係を深めなければならない理由が存在したわけです。

また、日本も、高句麗には勝てなかったようですから、当時の大国だった中国の後ろ盾を得る必要があると判断して、その手始めとして漢字で書かれた文献と、それを教授できる人材を百済に求めたのでしょう。

そこで、応神天皇の十六年に、百済から王仁が来朝し、漢字の知識を日本人に教えることになったようです。

ここで注目すべきは、その前年に馬二頭が百済から贈られたことで、古事記によるとこの二頭はつがいだったので、このときから日本で馬の繁殖が始まったようです。

前々回ご紹介したように、雄略天皇の時代の歌謡に「うま」という言葉が使われているのは、この繁殖事業が成功して馬の数が増えた結果、この外来語が広く知られるようになったからだと思われます。

なお、応神天皇の没年は、日本紀によると即位から41年目となっていますが、これは神功皇后を魏志倭人伝の卑弥呼に比定したことによる作為で、仁徳天皇や允恭天皇なども在位期間が不自然に延長されています。

実際には、次回ご紹介する倭の五王に関する中国の記録から、応神天皇の没年は西暦411年かそれ以前だと考えられるのです。

次回も年代推定の続きです。

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