古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

志賀島の金印

2023-10-22 08:28:32 | 古代の日本語

日本に漢字が伝来したことを示す最古の物的証拠は、福岡県の志賀島(しかのしま)から出土した「漢委奴国王」と書かれた金印だと思われます。

これは、西暦57年に後漢の光武帝が倭奴国の使者に与えたとされるもので、古代の日本語と直接関係はありませんが、日本に関する非常に古い情報なので、このブログで取り上げてみることにしました。

まず、『大日本全史 上巻』(大森金五郎:著、冨山房:1921年刊)という本に掲載されている金印の図をご覧ください。


【志賀島の金印】(『大日本全史 上巻』より)

この図の上部は、金印を横から見た図で、下部が印影になります。これを見ると、最後の「国王」は読めますが、残りの部分は判読が困難です。

この書体は「篆書」(てんしょ)とよばれるそうですが、『新撰篆書字典』(安本春湖:著、春湖書屋:1924刊)という本に、「漢、委、奴」の篆書が載っていたので、両者を見比べてみると、細部は若干異なるものの、確かに「漢委奴国王」と書かれているようです。


【漢、委、奴の篆書】(『新撰篆書字典』より)

次に、「漢委奴国王」の読み方ですが、私が学校で習ったのは「漢(かん)の倭(わ)の奴(な)の国王(こくおう)」であり、本ブログの「壱岐から奴国へ」でご紹介した奴国がこの金印を受領したという考え方でした。

しかし、私はこのとき、漢が北方の異民族を匈奴とよんだことから類推して、委奴は匈奴に対する呼称ではないかと思った記憶があります。

今回、金印のことを書くにあたって、私と同じ考えを持っている人がいないか調べたところ、『旬刊国税解説速報 第1090号』(国税解説協会:1987年9月28日刊)という雑誌に、ジャーナリストの庵原清氏が次のようなことを書いていました。

1.金印は、奴国といった一小国に与えられる品ではなく、当然倭の地を統轄する大王に与えられたものと理解しなければならない。

2.中国漢代において夷蛮として対照的に採り上げられているのが「匈奴」と「委奴」であり、誰も「匈奴」を「匈の奴国」といった変な読み方はしない。

3.匈が猛々しいの意であるのに対し、委は穏やかに従うの意であり、対照的かつ同様の実力を持つ外部集団として認識されていることは間違いない。

4.「委奴」の「奴」は卑称として付されたもので、「委」は日本語で読めば「い」又は「ゐ」。当時「委」と「倭」が共用されていたことからすると「倭」も「い」と読む必要がある。

さすがにジャーナリストだけあって、主張が理路整然としていて、とても理解しやすいですね。

私はこの説に大賛成なのですが、歴史学者の先生方は、庵原氏の主張に対してどのように反論するつもりなのでしょうか?

最後に、委奴の発音ですが、匈奴については、『匈奴研究史』(イノストランツェフ:著、蒙古研究所:訳、生活社:1942年刊)という本に次の様な説が紹介されています。

・白鳥庫吉氏の説:クンヌー
・B.A.パノフ氏の説:シュン=ヌー

すると、委は「ゐ」すなわち「ウィ」ですから、これらの説から類推して、委奴は「ウィ=ヌー」と発音されていたのかもしれません。

つまり、約2000年前の日本には、日本語を話す大集団がいて、近隣諸国から「ウィ」あるいは「ウィ=ヌー」とよばれていたということなのでしょう。

また、本ブログの「邪馬台国の正体」でご紹介したように、神武天皇が日本を統一したのは二世紀の初めだと思われますから、それまでは日本に国王はいなかったことになります。

そのため、金印が日本に到着した際に、当時もっとも外交的に便利な位置にあった奴国がこの金印を保管し、後漢に使節を派遣する度にこれを使用したのではないかと考えられます。

そして、西暦220年に後漢が滅んでからは、金印が使用できなくなったため、盗難や紛失を恐れた関係者がこれを志賀島に隠したということなのかもしれません。

来年は、金印が発見されて240年目に当たるそうです。この金印は、福岡市博物館に常設展示されているそうですから、福岡市に立ち寄る機会があれば、ぜひ見学したいものですね。

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漢字の音訳に関する訂正

2023-09-24 08:26:28 | 古代の日本語

本ブログの「漢字の音訳が意味するもの」という記事に一部誤りがありましたので訂正させていただきます。

この記事では、水(sui)を「すゐ」(suwi)、類(rui)を「るゐ」(ruwi)などと音訳したとお伝えしましたが、『国語学辞典』(国語学会国語学辞典編集委員会:編、東京堂:1955年刊)という本には次のようなことが書かれています。

1.字音の歴史的かなづかいは、江戸時代後期に理論的に定められたものであること。(本居宣長の『字音仮字用格』で定まり、白井寛蔭の『音韻仮字用例』で補正され、大成した。)

2.しかし、その後の研究で、平安時代中期以前(「い」と「ゐ」の区別が保たれていた時代)の文献に、衰・瑞・墜・維・涙が「すい・ずい・つい・ゆい・るい」と記されていることが新たに判明した。

したがって、水・類についても「すい・るい」とするのが正しいと思われ、実際、『明解古語辞典』(三省堂:1962年刊)にもそう書かれているので、この部分の記述を削除させていただきました。

また、本ブログの「その他の漢字音訳例」という記事についても、同様の理由で該当する部分の記述を削除させていただきましたのでご確認ください。

以上、よろしくお願いいたします。

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棒を意味する古語

2023-08-27 09:54:25 | 古代の日本語

日本語は同音異義語が多い言語だそうですが、これは外来語である漢字の熟語だけでなく、純然たる大和言葉についても言えることで、例えば、「はな」には花と鼻、「かき」には柿と牡蠣の二種類の意味がそれぞれあります。

同様に、「はし」にも、食事の際に使う箸と河川に掛けられた橋の二種類の意味があり、これらは形も大きさも異なるので、一見すると共通点はなさそうに思えます。

これについて、ミクロネシアの言語や風俗に詳しい言語学者の松岡静雄氏は、『日本古語大辞典』に、ハシのハは椰子(やし)の葉柄(ようへい=葉と幹をつなぐ柄の部分)を意味するポナペ語パと同源で、シはサ(状)に通ずると書いています。

つまり、椰子の葉柄のような細長い棒状のものが「はし」だったということです。

確かに、箸は細長い2本の棒ですし、橋も昔は丸木橋だったはずですから、棒を意味する古語が「はし」だったという説には説得力があるように思われます。

この「はし」という言葉が使われている歌が万葉集にあるので、『万葉集全註釈 七』(武田祐吉:著、改造社:1949年刊)という本を参考にしてご紹介します。

【万葉集第九巻 1804番の歌】(弟が死んでしまったことを悲しむ歌)

原文
読み
意味
父母賀 ちちははが 父母が
成乃任爾 なしのまにまに 生みなしたままに
箸向 はしむかふ 食事を共にする
弟乃命者 おとのみことは 弟の君は
朝露乃 あさつゆの 朝露のように
銷易杵壽 けやすきいのち 消えやすい命を
(以下省略)    

この本では、箸向(はしむかふ)という部分を「食事を共にする」と訳していますが、なぜ箸が向かい合うのかが不明なため、この訳ではどうもしっくりこないように感じます。

一方、松岡氏によると、「はし」は円い材木の意にも転用されて、接尾語ラを付加して「はしら」(柱)とも言ったそうです。

そして、古代においては、座席を標識するために柱を建てるか、もしくは屋内の柱を長幼の順に従って族人の座席に割り当てることが一般的であり、この習俗は今も南方民族間に存在することを指摘して、兄弟の柱は対向していたのであろうと推測しています。

(ちなみに、神や貴人を数える際に「はしら」(柱)という語を使うのも、このことが理由なのだそうです。)

確かに、柱を背にして着座する習慣があったとすれば、兄弟が向かい合わせに座ることは自然ですから、当然ながら兄弟の柱も対向することになるため、「はし(柱)むかふおと(弟)」と表現したことも納得できます。

したがって、「はしむかふ」は「向かい合って座っていた」と訳すのがよいようです。

次に、「はし」から派生した言葉には、箸や橋、柱以外にも次のようなものがあるそうです。

1.はしご(梯=2本の「はし」に横木(こ)を渡したもの)

2.きざはし(階=昇降に用いるため、「はし」に刻(きざ)を設けて足がかりとしたもの)

参考までに、『日本古俗誌』(松岡静雄:著、刀江書院:1926年刊)という本に古代の住居図があって、そこに「きざはし」が描かれているのでご覧ください。(下図右下部分)

古代の住居図に描かれている「きざはし」
【古代の住居図に描かれている「きざはし」】(『日本古俗誌』より)

なお、端も「はし」と発音しますが、これは単に「は」とも言い、こちらの方が古い言葉のようなので、これは棒とは無関係な言葉だと思われます。

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あ行の「え」のまとめ

2023-07-22 10:50:53 | 古代の日本語

前回、前々回と、あ行の「え」が存在しなかったということを述べてきましたが、この主張の締めくくりとして、『国語・国文 第五巻第十号』(京都帝国大学国文学会:編、星野書店:1935年刊)という雑誌に掲載された「ア行のエの発生」(窪田寿子:著)という論文を簡単にご紹介します。

それによると、「え」を含むあらゆる語について逐一研究した結果、あ行と思われていた衣・依も含めてすべてがや行に属するものであるということを証明することができたので、「純粋な工といふ母韻は国語にはなかった」と結論付けています。

したがって、この論文は、本ブログの当初からの主張が正しかったことを証明してくれていると考えられます。

それでは、あ行の「え」に関するこれまでの考察をまとめておきましょう。

1.奈良時代の初頭には、あ行の「え」(母音の〔e〕)がなかった
 参考:本ブログの「古代の五十音図」~「日本紀の「愛」

2.平安時代初期の二つの「え」は、〔ye〕の甲乙二種類に相当し、平安時代にもあ行の「え」がなかった
 参考:本ブログの「あ行の「え」は存在しなかった」、「あめつちの詞

3.室町時代にもあ行の「え」がなかったことは確実で、江戸時代にあ行の「え」が誕生した
 参考:本ブログの「音韻の変遷

なお、甲乙二種類の区別について、『国語学概説』(阿部三郎:著、明玄書房:1966年刊)という本には、「当時も帰化人またはその子孫が学間の最高の指導者であったので、いわゆる百済音、呉音で現代では古音という観点からの区別ではないだろうか。」と書かれています。

これを私なりに解釈すると、日本語の音を漢字(万葉仮名)で記録する場合には、各自が好きな漢字を勝手に使ったわけではなく、帰化人またはその子孫が規則を定めていたということのようです。

そして、日本人が認識する一つの音韻が、帰化人には音声学的に二種類の異なる音として聴こえる場合があったため、それを甲乙二種類の漢字群で書き分けたということのようです。

最後に、「え」という平仮名の字源について興味深い説をご紹介します。

「え」は、一般的には衣の草書体からつくられたとされていますが、『女学講義 第三回後期第七巻』(大日本女学会:1902年5月刊)という雑誌の「文法」(今泉定介:講述)という記事には次のようなことが書かれています。

「・・・みづのえ(壬)のえは、兄の義にて、兄はえの仮字なれば、これを用ふべし。」

つまり、「え」の字源は兄という漢字だというのです。

ちなみに、干支(えと)は、厳密には十二支ではなく十干(じっかん)を意味し、五行の木・火・ 土・金・水(き・ひ・つち・かね・みづ)を兄(え)と弟(と)に分けて次のように表わします。

【十干】
甲(きのえ) 丙(ひのえ) 戊(つちのえ) 庚(かのえ) 壬(みづのえ)
乙(きのと) 丁(ひのと) 己(つちのと) 辛(かのと) 癸(みづのと)

したがって、みづのえ(壬)は水の兄という意味になるわけです。

さて、本題に戻って、『和漢五名家対照三体千字文集成』(書道普及会:編、大洋社出版部:1938年刊)という本で兄の書体を調べてみると次のようになりました。

兄の楷書体・行書体・草書体
【兄の楷書体・行書体・草書体】(『和漢五名家対照三体千字文集成』より)

これを見ると、確かに兄の草書体は平仮名の「え」に似ていますね。

これに対して、衣の書体は次のようなものです。

衣の楷書体・行書体・草書体
【衣の楷書体・行書体・草書体】(『和漢五名家対照三体千字文集成』より)

これらを見比べてみると、衣の草書体は最後の一画が余っていて、しかも、その直前の縦棒が長すぎるので、私には「え」の字源は兄の草書体だと思われるのです。

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あめつちの詞

2023-06-24 08:31:59 | 古代の日本語

前回は、あ行の「え」(母音の〔e〕)が誕生したのは江戸時代になってからだということを論じました。

しかし、多くの国語学者は、あ行の「え」が古くから存在したと考えており、当然ながら、それには動かしがたい証拠がありました。

それは、平安時代の初期には使われていたとされる手習い詞(ことば)、「あめつちの詞」です。

これは、『国語学史』(三木幸信・福永静哉:共著、風間書房:1966年刊)という本によると、次のような48音の文字列で、音の重複がないとされています。

【あめつちの詞】

読み
解釈
あめ つち ほし そら 天 地 星 空
やま かは みね たに 山 河 峯 谷
くも きり むろ こけ 雲 霧 室 苔
ひと いぬ うへ すゑ 人 犬 上 末
ゆわ さる おふせよ 硫黄 猿 生ふせよ
を なれゐて 榎の枝を 馴れ居て

これを見ると、最後の行に「え」が2つあり、先頭の「え」はあ行、末尾の「え」はや行と考えて、これが、あ行の「え」が古くから存在した証拠だとされているのです。

これに対して、『国語学の諸問題』では、その後の時代に手習いに使われるようになった「太為爾(たゐに)の歌」と「いろは歌」を例に挙げて、「え」が時代と共に次のように変化していることを指摘しています。

手習い詞歌
あ行
や行
あめつちの詞
え(榎)
え(枝)
太為爾の歌
え(衣)
いろは歌
え(江)

つまりこれは、平安時代の初期にあ行とや行に存在した二種類の「え」が、その後あ行だけになり、さらにその後や行だけになった(あるいは、あ行の〔e〕が〔ye〕になった)ことを意味していますから、これが本当なら、なぜそうなったのか説明する必要があります。

これについて、『国語学の諸問題』の著者の小林氏は、その説明が困難であることを指摘し、もともとあ行の「え」が存在せず、〔ye〕が二種類あったと考えるのが正しいと主張しているのです。

なお、〔ye〕が二種類あったと言うと、何を言っているのかと思われるかもしれませんが、『古代国語の音韻に就いて』(橋本進吉:著、明世堂書店:1942年刊)という本によると、実は奈良時代には「き、け、こ、そ、と、の、ひ、へ、み、め、よ、ろ」の12音(濁音まで含めると19音)が甲乙二種類に書き分けられており、発音が異なっていたと考えられるそうです。

これは、万葉集などにおいて、日本語の発音を表記するのに使われた漢字(万葉仮名)を分析して明らかになったそうで、例えば「の」は、「怒、弩、努」(甲類)と「能、乃、廼、笶、箆」(乙類)の区別があったそうです。

また、飛鳥時代の後期に編纂が開始された古事記には、「も」の音も甲乙二種類に書き分けられているので、もっと古い時代にはさらに多くの音が甲乙二種類に分かれていたかもしれないそうです。

そして、「え」については、「愛、哀、埃、衣、依、榎、可愛、荏、得」(あ行)と「延、曳、睿、叡、遥、要、縁、裔、兄、柄、枝、吉、江」(や行)の区別があったと書かれています。

これに対して、小林氏は、それはあ行の「え」が存在したはずだという先入観によるもので、実は〔ye〕の甲乙二種類の違いなのだと言っているわけです。

確かに、この小林氏の主張は論理的であり、説得力がありますね。

次回は、あ行の「え」に関するまとめです。

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