kochikika ノート

旧「こちら某中堅企業企画室」。リーマン話、時事の話、パリーグ話など。ぼちぼちやってます。

「ニートでゲーマー」がいけないのか?に思う話

2008-04-03 23:57:35 | Weblog

自分の子を殺人者にしないためにはどうすれば? 本当に「ニートでゲーマー」がいけないのか(ニュース畑) - goo ニュース

3月末、茨城県土浦市で無差別の連続殺傷事件が起きました。報道では、24歳の容疑者は定職に就かず、ゲーム好き、自室にこもりがち――という、なんだか「ありがち」な人物像が伝えられています。そこで「私も男の子の親です」という投稿者から、もし自分の子どもがそういう行動をとるようになったら、「親として、どうすべきなんでしょう」という問いかけが寄せられました。

当方は親でもなければニートでゲーマーでもないし、「最近の若いの」でもないので、全くのお気楽な居酒屋話だが、もし本当に「ゲーム脳」なるものが科学的にアリということならば、その方面で対処していただくこととして、幼少期に残虐行為に接したという線でいくなら、当方もアウト。

幼稚園か小学生1年くらいだったと思うが、カエルを捕まえては車道に叩きつけて殺し、大人の女性が悲鳴を上げるのを見て、喜んでいたという記憶がある。もっとも、その夜にカエルの夢を見て以来、そういう行為は怖くてできなくなったのだが。

この辺、よくいう「子供の残虐性」という言葉で片付けられていたように思うのだが、どうなのだろう。
やはり当方も異常性を内面に秘めた人間ということになるのだろうか。そういや、同級生には中学1年の夏休み自由研究で、「ザリガニは何度の湯で死ぬか」というテーマを選んだ奴もいた。結果は忘れたが。

カエルやザリガニを殺す子供も潜在的には危険ということなら、それもその方面で科学的に解明していただくとして、そういう子供だった当方がなぜ事件を起こす方向に走らないかといえば、カエルの夢とか後で知った命の重さのような情緒的な面が第一で、罪を犯したときのリスクの大きさの勘案が第二。

男性専用車両を作ってほしいとの声まで上がるのだから、第二のブレーキは情緒に匹敵するくらい大きいと思うのだが、情緒方面の話がメインになるのがこの話題の常。こういう話は、善悪の判断、損得の判断の両感覚が正常だったかどうかで見るべきではないかと。

もしそうだとすれば、例えばゾンビを撃ち殺すゲームが好きな人でも、リアルに撃てば好きなゲームができなくなると考えられる人はブレーキがかかり、ニートでもその瞬間に相手の親の顔が浮かぶような人であれば、やはりブレーキがかかり、セーフということなる。

でもリアルに撃っても完全犯罪をやる確信のある人や、情緒が狂信的なレベルにまで行けばやっちゃうかもしれない。となれば、別にニートだろうがゲーマーだろうが関係ないように思える。というか、情緒に欠けた完全犯罪主義者とか、自分の信じる正義のためには手段を選ばずなんて人、そういないだろうと。集団ではありそうだけど。

むしろ善悪だろうが損得だろうが、判断そのものがつかなくなってしまうような事態、「カッとなって」とか「心神喪失で」とかの方が腑に落ちる。実際によく聞く話でもあるし。ただそういう事態ってのは、精神医学的にどうなのかは知らないけど、陥っても一瞬であるという印象がある。

そこでもっと怖いのが、それこそ精神医学的にあるのかどうかは知らないが、判断そのものをどうでもいいと放棄してしまう事態なのかなと。これだと長持ちしそうでおっかない。
まあ、これも昔から存在する「自暴自棄」という言葉はあるのだが、大量殺人のケースを見ると、上の2つかこのケースが殆どなんではないかと思えてしまう。

で、もしかしたら「どうでもいい」という意思の元ではなく、何らかのはずみで判断装置が意思と反して壊れてしまうってケースもあるかもしれない。
もしそうだとすれば、いやそうでなくとも『バカの壁』で養老先生が言ってたように、凶悪事件を起こした人の脳味噌を医学的に調べてみるというのはアリなんだろうと思ってしまうが、やっぱりまずいのだろうか。

酔っ払い文章でまとまらないが、冒頭の質問にお気楽に答えるなら、ゲーマーだろうがニートだろうがそれは関係なく、善悪、損得の判断基準を適度に持たせることと、それが怪しくなったら病院というかカウンセリングへということなんじゃないかなと。
「あとは野となれ山となれ」ってのは、当方の仕事振りでもよくある場面ではあるのだが。。


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