ケバル川のほとり日本でも

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ことばの重みについて

2024-01-10 22:20:12 | 日記

きょう感謝だったこと。

 

今朝の祈祷会は、牧師先生のご両親がわざわざ私に会いに来てくださり、一緒に聖書に耳を傾け、お祈り出来たことが嬉しかったです。

 

先生のお母様はお若い頃、私と同じようにラジオ「世の光」を聞かれて教会に来られるようになったそうです。

 

また先生のお父様は、私の通っている教会と深い繋がりのある教会の洗礼者第一号の方で、洗礼式は私が通う教会の昔の会堂で行われたそうです。

 

お父様はその教会の記念誌と何枚かの写真を持って来られ、嬉しそうに思い出話をしてくださいました。

 

写真には義理の父や、生前お会いすることは出来なかったですが、その信仰の歩みには見習いたいと思っていた方の写真も拝見し、在りし日のお話も伺うことができ感謝でした。

 

今を共に生かされている牧師先生のご両親もそうですが、先に天国へ凱旋された方々も、私にとっては日本の地でも神様に従って来られた方々で、神様の御前には「公同の教会」を共に歩ませて頂いている、と思います。

そしてお祈りでは、隣でいつも祈っておられる方の息子さんが、自衛隊員としていち早く能登半島の被災地へと向かわれたので、その活動と守り、また被災地のためにも心合わせて共に祈りつつ。

 

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。

マタイの福音書 22章 32節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

昨年末から始めたブログには「みことばの光」の聖書通読スケジュールから教えられたことを簡単に書き始めております。

 

朝に教えられたことを夜にも思い巡らし、まとめの時として。

また、祈りに覚えている方との分かち合いとして。

たとえ乱筆乱文であっても無理なく日記として等です。

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★きょうの聖書日記

(マタイの福音書 5章33~42節)

 

きょうは、引き続きイエス様の“山上の説教”などと言われる箇所で、当時の人々が特に先人達から受け継いできた、誓いについての考え方や、報復の刑罰についての考え方が教えられています。

 

私にとっては少し難解な箇所ですが、聖書通読のテキスト「みことばの光」と「みことばの光的毎日」というブログと、今朝の早天祈祷会などからも教わり、今回こそは理解出来たような思いが!? しています…。

 

ここでイエス様が教えられているように、そもそも誓うこと自体が間違いなのではなく、人が口にする言葉や、約束に対する誠実さが問われているようです。

 

当時の人々は、先祖が授かった律法という神様の教えのなかで、「あなたがたは、わたしの名によって偽って誓ってはならない」(レビ記19章12節)、と教えてられていたので、自分よりも大きな神様以外の存在に向けて誓うようになってしまったのでしょう。

 

ここでも誓いそのものが悪いのではなく、「偽って」とあるように、誓いをおろそかにしてしまうこと自体が問題なのでしょう。

 

ブログにも、『「イエス様は決して誓ってはいけません」…はじめから言い逃れできるような抜け道を考えて誓うことをしてはならないということなのです。』、とありました。

 

それは、今の社会や自分自身を見ても難しく、言葉や約束の重みはあまり感じられないように思えます。

 

しかし、イエス様が誓いなどの言葉に対して警鐘を鳴らしているのを重く受け止めたいと思います。

 

神様の助けによって、言葉に責任を持って歩む者とされたい、と願います。

 

イエス様ご自身の十字架に至るまでの生き様が然りですし、また自らの罪を嘆きつつも、神様を畏れ歩んでいた二人の人物の言葉と神様の御前に生きる姿を思い出しました。

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主よだれがあなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれがあなたの聖なる山に住むのでしょうか。

全き者として歩み義を行い心の中の真実を語る人。

舌をもって中傷せず友人に悪を行わず隣人へのそしりを口にしない人。

その目は主に捨てられた者を蔑み主を恐れる者を彼は尊ぶ。損になっても誓ったことは変えない。

利息をつけて金を貸すことはせず潔白な人を不利にする賄賂を受け取らない。このように行う人は決して揺るがされない。

詩篇 15篇 1〜5節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

私たちは、多くの人たちのように、神のことばに混ぜ物をして売ったりせず、誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。

コリント人への手紙第二 2章 17節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

このように願った私は軽率だったのでしょうか。それとも、私が計画することは人間的な計画であって、そのため私には、「はい、はい」は同時に「いいえ、いいえ」になるのでしょうか。

神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「はい」であると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。

私たち、すなわち、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません。この方においては「はい」だけがあるのです。

神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。

コリント人への手紙第二 1章 17〜20節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


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