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本質が見える者とされたくて

2024-03-12 19:45:07 | 日記

 今日は一日中穏やかな天気だと思いきや、午後から急変。夕方には稲光とすかさずの雷。作業は無理せず定時で終わりました。昨年から先に現場に入っていた人達曰く、ここで雷は初めてだそうで、日本海側で山の麓なのに冬の間は雷はなかったそうです。やはりクレーン作業での雷は無理したくはないです。冬の日本海側でよく耳にするクレーンのブームとワイヤーをつたっての作業員の感電事故だけは御免です。

 今日も無事に終わったことは感謝なことでした。

 写真は境港市にある図書館です。

 

 【聖書日記】マタイの福音書23章15ー26節

 今日の箇所は、聖書日課の一つの解説書や、そのスケジュールでブログを毎日更新してくださっておられる方の投稿などを通して多くのヒントが与えられたと感じました。聖書は断じて私的解釈するものではありません。しかし神様に頼って祈りつつ傾聴したとしても、分からないことは多いものだと思います。その時々に神様のお許しのなかで理解していき、必要に応じて神様御自身が聖書を通してお語りくださることだと思います。

 今日の箇所でイエス様は、何度も多くの面から「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。」と嘆いておられます。ブログから教わったのは、「わざわいだ」と言う言葉は、他の日本語訳では「不幸だ」、「災いあれ」などの感嘆詞のような意味合いで、「ああっ!」などと表するようです。そして13節から29節までに7回も用いられているとのこと。ここまでイエス様が嘆いているのは、彼らは自称人々を天国へ導く案内人だ、としていても、13節でイエス様は、人々を天国への道を閉ざしているだけでなく、自分達も入らず、また入ろうとしている人々をも入らせないようにしている、とのことでした。

 その他には、神様のみことばよりも、先祖からの言い伝えによって形作られていった自分達の解釈をより重んじて、神様の教えの真意をないがしろにしていたこともイエス様が嘆いている要因です。

 しかし、テキスト「みことばの光」にも書いてあったように、そのような危険性は、人を教える指導的な立場にある方の、本日書いてあった一つの証や、私達にも常に隣り合わせであることを「アーメン(その通りです)」と思わせられました。

 また「目の見えない案内人」と厳しく皮肉られたイエス様のお言葉からは、ヨハネの福音書の9章の目の見えなかった人の癒しの記事を思い出しました。目が見えない人を前にして、弟子たちの心ないイエス様への質問。イエス様の病に関する理解やその方への理解。イエス様と目の見えない人のやり取り。癒されたその人と、パリサイ人とのやり取り。癒された人の両親を呼び出してまでのパリサイ人たちの態度。癒された人本人と更なるパリサイ人とのやり取り! 当時の社会から追放されたその人と、その人を探出したイエス様とその人との、いわゆる神と人との一対一のやり取り。等々、「目が見える」「目が見えない」ということに関して本当に印象深い箇所です。

 私自身は、いつもすぐに分かった気になってばかりで、人の躓きとなったりばかりの者です。しかしイエス様のあわれみによって、自分も人生のなかで生涯抜け出せなかった呪縛から解放してくださったイエス様の物事への眼差し、みことばへの理解、神と人に対して模範を示してくださった生き方にならって、いつも矯正されて、イエス様という色眼鏡を通してこそ「目が見える者」とされて続けていきたいと願い続けます。

そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(ヨハネの福音書 9章 39節)

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【本日の聖書箇所】

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。

わざわいだ、目の見えない案内人たち。おまえたちは言っている。『だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』

愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。

また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』

目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。

祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。

また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。

天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。

目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。
マタイの福音書 23章 26節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

 


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