1月25日に、女性天皇の是非などを検討するため、皇室典範有識者会議が初会合を開いたとのニュースがあった。これは、皇位継承を男系男子にしか認めていない現在の皇室典範では、いずれ継承者が不在になるとの危機感を背景に設けられた。会議では今後、皇位継承権を女性に広げ、女性天皇の子どもが皇位を継ぐ「女系」を認めるかどうかや、皇位継承の順位、結婚した女性皇族の宮家創設の範囲などを検討する見通しだそうだ。
私は、どうせ人間がつくったきまりなんだから、それが不都合になったら、変えれば(゜∀゜)イイ!と思っている。実際に、推古、皇極(=斉明)、持統、元明、元正、孝謙(=称徳)、明正、後桜町と8人の女性天皇が過去に即位している。しかし、「女系」での皇位継承はなかったから問題だということを主張する香具師がいる。だけど、ほんとうなのだろうか?
下の表は、初代の神武天皇から43代の元正天皇までの歴代天皇である。ふつう我々がつかっている天皇の名前は、漢風諡号で、天皇が死んだ後に徳を讃えて贈る称号で、漢字2字からなる。8世紀半ばにつくられたもので、それ以前は存在しなかった。これ以外に、和風諡号というのもあり、こっちは6世紀前半の安閑天皇のころ成立した。
初代の神武天皇は神話上の人物だし、2~9代の天皇は「闕史八代」の天皇といわれ、実在がとてもあやしい。和風諡号も、「ヤマトヒコ」とか「タラシヒコ」とか「ヤマトネコ」といった後世につくられたものである(江戸時代の人別帳に「○○衛門」とか「△兵衛」に混じって「アキラ」とか「タカシ」といった現代風の名前があるようなもの!)。
では、誰が初代の天皇なのか?というと、第10代の崇神天皇ではないかといわれている。この天皇、「記紀(=古事記・日本書紀)」によると、大物主神・倭大国魂神を祀り、北陸・東海・西道・丹波に四道将軍を派遣して領域を拡大し、政権の基礎を固めて御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト=初代天皇)とよばれたという。和風諡号は、御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニヱ)と記され、名前に「イリ」を含む一族が多く、その宮の磯城(しき)瑞籬宮が大神神社や大和盆地で最古の大規模前方後円墳が集中する三輪地方にあったことから、三輪王朝(イリ王朝)の創始者とされている(実在しなかったという説もある)。
このあと、垂仁(イクメイリヒコイサチ)、景行(オホタラシヒコオシロワケ)、成務(ワカタラシヒコ)、仲哀(タラシナカツヒコ)となると、またあやしくなる。垂仁は崇神と同じく「イリ」があるが、景行、成務、仲哀はそれがなくなる。仲哀は、実在があやしいヤマトタケルの子であり、妃はこれまた実在があやしい神功皇后である。
どうも皇位は、崇神→ヤサカノイリヒコ(垂仁の兄弟)→ヤサカノイリヒメ(夫が景行)→イホキノイリヒコ→ホンダマワカ→ナカツヒメ(夫が応神)→仁徳と、女系での継承があったようなのである。
ところで応神天皇(ホムタワケ)は、父の仲哀、母の神功皇后がともに実在があやしいので、皇位を簒奪したのではないかといわれている。実際に、拠点を河内にし、和風諡号も「ワケ」が使われており、河内王朝(ワケ王朝)の創始者なのかもしれない。
この河内王朝も5世紀末ごろの武烈天皇で断絶していまい、継体(ヲホト)が皇位を継承した。継体天皇は、近江の生まれ、越前の育ちで、応神5代の子孫となっているが、それもあやしい。これも、仁賢天皇の娘タシラカノヒメミコを妃にしているので、皇位の簒奪があったかどうかはともかく、女系での継承の可能性がある。継体は、即位後20年してようやく大和の地に入っているので、大和の豪族と対立していたのではないかといわれている。
継体天皇の死後もじつはもめている。継体には、尾張連草香の娘との間に安閑と宣化がおり、タシラカノヒメミコとの間には欽明がいた。欽明が即位したが、それを認めない安閑と宣化が対立し、のち欽明によって統一されたと推定されている。
こうして見てみると、すでに女系で継承されていたわけなんだから、べつに女系だっていいじゃなぁい♪と思うんだが、どーだろう?
私は、どうせ人間がつくったきまりなんだから、それが不都合になったら、変えれば(゜∀゜)イイ!と思っている。実際に、推古、皇極(=斉明)、持統、元明、元正、孝謙(=称徳)、明正、後桜町と8人の女性天皇が過去に即位している。しかし、「女系」での皇位継承はなかったから問題だということを主張する香具師がいる。だけど、ほんとうなのだろうか?
下の表は、初代の神武天皇から43代の元正天皇までの歴代天皇である。ふつう我々がつかっている天皇の名前は、漢風諡号で、天皇が死んだ後に徳を讃えて贈る称号で、漢字2字からなる。8世紀半ばにつくられたもので、それ以前は存在しなかった。これ以外に、和風諡号というのもあり、こっちは6世紀前半の安閑天皇のころ成立した。
代 | 漢風 諡号 | 和 風 諡 号 |
---|---|---|
1 | 神武 | カムヤマトイワレヒコ |
2 | 綏靖 | カムヌナカハミミ |
3 | 安寧 | シキツヒコタマテミ |
4 | 懿徳 | オホヤマトヒコスキトモ |
5 | 孝昭 | ミマツヒコカヱシネ |
6 | 孝安 | オホヤマトタラシヒコクニオシヒト |
7 | 孝霊 | オホヤマトネコヒコフトニ |
8 | 孝元 | オホヤマトネコヒコクニクル |
9 | 開化 | ワカヤマトネコヒコオホヒヒ |
10 | 崇神 | ミマキイリヒコイニヱ |
11 | 垂仁 | イクメイリヒコイサチ |
12 | 景行 | オホタラシヒコオシロワケ |
13 | 成務 | ワカタラシヒコ |
14 | 仲哀 | タラシナカツヒコ |
― | (神功) | オキナガタラシヒメ |
15 | 応神 | ホムタワケ |
16 | 仁徳 | オホサザキ |
17 | 履中 | イザホワケ |
18 | 反正 | タヂヒノミズハワケ |
19 | 允恭 | ヲアサヅマワクゴノスクネ |
20 | 安康 | アナホ |
21 | 雄略 | オホハツセノワカタケ |
22 | 清寧 | シラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコヒコ |
23 | 顕宗 | ヲケ |
24 | 仁賢 | オケ |
25 | 武烈 | ヲハツセノワカサザキ |
26 | 継体 | ヲホト |
27 | 安閑 | ヒロクニオシタケカナヒ |
28 | 宣化 | クケヲヒロクニオシタテ |
29 | 欽明 | アメクニオシハルキヒロニハ |
30 | 敏達 | ヌナクラフトクマシキ |
31 | 用明 | タチバナノトヨヒ |
32 | 崇峻 | ハツンセベノワカサザキ |
33 | 推古 | トヨミケカシキヤヒメ |
34 | 舒明 | オキナガタラシヒヒロヌカ |
35 | 皇極 | アメトヨクカライカシヒタラシヒメ |
37 | (斉明) | |
36 | 孝徳 | アメヨロズトヨヒ |
38 | 天智 | アメミコトヒラカスワケ |
39 | 天武 | アマノヌナハラオキノマヒト |
40 | 持統 | オホヤマトネコアメノヒロノヒメ |
41 | 文武 | ヤマトネコトヨオホヂ |
42 | 元明 | ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ |
43 | 元正 | ヤマトネコタカミズキヨタラシヒメ |
初代の神武天皇は神話上の人物だし、2~9代の天皇は「闕史八代」の天皇といわれ、実在がとてもあやしい。和風諡号も、「ヤマトヒコ」とか「タラシヒコ」とか「ヤマトネコ」といった後世につくられたものである(江戸時代の人別帳に「○○衛門」とか「△兵衛」に混じって「アキラ」とか「タカシ」といった現代風の名前があるようなもの!)。
では、誰が初代の天皇なのか?というと、第10代の崇神天皇ではないかといわれている。この天皇、「記紀(=古事記・日本書紀)」によると、大物主神・倭大国魂神を祀り、北陸・東海・西道・丹波に四道将軍を派遣して領域を拡大し、政権の基礎を固めて御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト=初代天皇)とよばれたという。和風諡号は、御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニヱ)と記され、名前に「イリ」を含む一族が多く、その宮の磯城(しき)瑞籬宮が大神神社や大和盆地で最古の大規模前方後円墳が集中する三輪地方にあったことから、三輪王朝(イリ王朝)の創始者とされている(実在しなかったという説もある)。
このあと、垂仁(イクメイリヒコイサチ)、景行(オホタラシヒコオシロワケ)、成務(ワカタラシヒコ)、仲哀(タラシナカツヒコ)となると、またあやしくなる。垂仁は崇神と同じく「イリ」があるが、景行、成務、仲哀はそれがなくなる。仲哀は、実在があやしいヤマトタケルの子であり、妃はこれまた実在があやしい神功皇后である。
どうも皇位は、崇神→ヤサカノイリヒコ(垂仁の兄弟)→ヤサカノイリヒメ(夫が景行)→イホキノイリヒコ→ホンダマワカ→ナカツヒメ(夫が応神)→仁徳と、女系での継承があったようなのである。
ところで応神天皇(ホムタワケ)は、父の仲哀、母の神功皇后がともに実在があやしいので、皇位を簒奪したのではないかといわれている。実際に、拠点を河内にし、和風諡号も「ワケ」が使われており、河内王朝(ワケ王朝)の創始者なのかもしれない。
この河内王朝も5世紀末ごろの武烈天皇で断絶していまい、継体(ヲホト)が皇位を継承した。継体天皇は、近江の生まれ、越前の育ちで、応神5代の子孫となっているが、それもあやしい。これも、仁賢天皇の娘タシラカノヒメミコを妃にしているので、皇位の簒奪があったかどうかはともかく、女系での継承の可能性がある。継体は、即位後20年してようやく大和の地に入っているので、大和の豪族と対立していたのではないかといわれている。
継体天皇の死後もじつはもめている。継体には、尾張連草香の娘との間に安閑と宣化がおり、タシラカノヒメミコとの間には欽明がいた。欽明が即位したが、それを認めない安閑と宣化が対立し、のち欽明によって統一されたと推定されている。
こうして見てみると、すでに女系で継承されていたわけなんだから、べつに女系だっていいじゃなぁい♪と思うんだが、どーだろう?
『記紀』も非常に怪しい。
天武朝(=新羅寄り外交)を正当化する為に編纂され、
辻褄が合わない旧辞など焚書した可能性大。
男系にこだわる理由として、
遺伝上の染色体が、女系だと万世一系がとぎれちゃうんだそうです。
あくまでも、生物学的な理由で、決して女性蔑視じゃないそうですが…
大昔にそんな理屈があったとは思えないんですが?
六世の玄孫までで勝手に相続争いして下さって結構です。
「そんな事より、大秦伝國御璽と大元伝國御璽が欲しい」
ジークフリード von アンゴルモア
たまに(←シャレじゃないよ!)まちがってX遺伝子に転写されちゃうそうです。
だから、XXの男性、XYの女性もいて、オリンピックなどのスポーツ競技のSEXテストに引っかかってしまうとか。。。
万世一系なんていうけど、核DNAレベルではまったく意味がないそうです。
明仁天皇の70代前が神武天皇(←この方がすでにフィクション)なんですが、
2^70=1180591620717411303424←すでに地球人口を突破しています。
1180591620717411303424分の1の遺伝情報です。w
むしろ確実に遺伝するのはミトコンドリアDNAですが、こっちは母系でしか遺伝しません。
生物としては、♀のほうがプロトタイプで、♂はその変種です。
だから、♂の方が弱く、早死してしまいます。
>臣下に下って居様が、先例に拠り
>六世の玄孫までで勝手に相続争いして下さって結構です。
妹の知人(皇太子のハトコ←ただし母系で/父系だともっと遠い)の息子さんが狙われているのですが。。。