道東の狼!驀進 新鮮組

動乱の幕末を想わせる薄野。新鮮組は動乱の薄野を驀進します!

小林賢太郎プロデュース公演「うるう」

2012-03-15 05:17:37 | 本・DVD・音楽そして妄想
本日はホワイトデーでしたね
だからといって何があったわけでもなく
今年に入ってから、一番の暇な日として歴史を刻んでしまいました

まぁしゃぁない

2月の29日うるう日を終えたこともあり
ことしは
「舞台をできるだけみよう!!」
ということで見に行った

小林賢太郎のKKPについて
ようやく・・・

どうやら今回の葉DVDにならないようなので
内容についてかいてもいいのかな?
っておもいまして

でも、それでも内容を知りたくない人は
きょうはここまで!!
さらに、素直に、感想を書くために怒っちゃう人もいるかも?
そういう人も今日はここまで!

それでは・・・・
















まず、今回見に行った舞台のタイトルが
「うるう」
うるう年に関する童話チックな物語で
芝居自体は小林賢太郎一人芝居
音響効果のほとんどを、チェロの生演奏で行うものでした

まぁ会場に入ってから思ったのは
本当に若い女の子が多かったですね
ちょっと押されるものを感じてしまいましたね
中年の僕としては・・・

そしていつ始まるんだろうか?
とおもいながら待っていると
暗転なく舞台がスタートいたしました

もし考えられるとしたなら・・・
昔話や御伽噺を聞いているかのように
チェロの音色とともにお話の中に入っていく
そんな空間をつくりたかったんだろうか?

それはそれで一つの演出としてよかったのかとも思うんですが
僕としては、暗転をつくってからでも同様の感覚は作れたのではないにだろうか?
そう思うし、実際観客の状態が整ってなくて
スタートとしては入っていきずらかったなぁ?

そうやって始まっていったうるうだったけれど
満足できた部分と、行かなかった部分と・・・・
もともとが小林賢太郎に興味を持って見に行ったので
彼のパフォーマンスを見れたことに対する満足感はものすごかったでした

でも、僕が見に行ったのは芝居だったので
その部分に対しては

大きく持って2つの部分があって
一つは「なぜ一人芝居であるのか?」
もう一つは「内容について」

ただこれはどちらも内容を見てから僕が個人で思ったことだから
作品自体が良い悪いということではなく・・・
言い方を変えると、個人的に意見を持つことが出来た段階で
よいものだったんだろうなぁとも思うわけです

一つ目に関してですが
これは僕が小林賢太郎のパフォーマンス・演出に対し期待していたものと言ってもいいと思います

今回の芝居に関しては
一人芝居と言う形を取っていました
感激前に持つのが
「なぜ一人芝居であるのか?」
そして、その先にあるのが「それをやるからには・・・」
僕が気体を持っていたのは後者でした

そのまえに・・・
チェロに関しては結果として良いものだったんですが
それ自体はまったく新しい試みでもなんでもないので
演出的にはどうだとはならなかったです。効果でしかありません
結局はものすごく良かったんですが

なぜ一人芝居であるのか?
僕が感じたことは、童話と言う部分が大きかったのだと思います

連想ゲームではないですが
童話⇒お話⇒きかせる⇒だれが?
ということなんだと思います

ただ・・・
それは解るのですが、あまりにも普通すぎたというか・・・

一人芝居の基本的なものとして
①朗読的な展開を中心としたもの
②物語の動きを基本としながら、語り部分を導入することで展開させるもの
③会話のみで展開するもの

①②にかんしては、一般的なものであって
③はほとんど存在しません
あるとした場合、イッセーさんのようなショートなものです

そして、うるうは②のスタイルでした
ということは、実際普通の一人芝居を見に来たって事でした

小林賢太郎が独りで何かをする場合
魅力の半分以上がクリエイター的な部分だと思います
だからこそ、8割以上を会話で〆る一人芝居を見せて欲しかったんです

これって本当に難しいことなんですよ
実は、ポツネンなんかはこれに近いものだったりするのですが
複数のお話で構成されているので、結局はショートの積み重ねなんです

それを一つの物語で
いろんな手法やいろんな想像をつかってなしえて欲しかった

でも結果的には普通の一人芝居だった

これって、小林賢太郎を見るに当たって大きいことで
その芝居が良いのか悪いのか?
その一点で見るのだったら、なにも出演は小林賢太郎でなくていいんですよ
感情を伝えることだけなら
相方の片桐仁のほうが・・・

そして
芝居というか物語を一点で追った時に内容について疑問がでたんです

完全に内容の話になりますが

4年間の中でのあまり1日に生まれた、4年に一度しか成長しない主人公が
つねに社会の中で余らされてきた中で、一人森の中に閉じこもった

主人公の悲しみはなんなのか?
となったときに、それは散々一人だけ余ってきたということではなく
お友達が出来なかったということではなく

友達や愛する人を作ってもみな先に逝ってしまい
そこで出来る悲しみを克服出来ない事で、人との付き合いを求めなくなった

絶対に問題はここなんです!
普通の人と比べ、その大きすぎる別れへの悲しみ
これ以外にはないんです
成長がなんだのとか、一人余らされるなんて言うのは
そこに向かうもりあげや設定であって
絶対に主は、別れの悲しみの克服、または受け入れなんです

最後にカウンターが0から1になりました
「こんなにも年が違う友達なんて・・・」
そんなような台詞からながれて
言い換えた時に、4倍のスピードで年を取るマジルと同い年になった時に
これで一緒だよ
と言う形を持って、ヨイチの友達として再会を果たしたところで物語りは終了しました

常に0だったお友達カウンターが1になったんです

でもこの数字に対して誰もお友達を数えていたカウンターだなんていってないんです
見ている人たちが想像しただけなんです
じゃぁ、このカウンターがもし違う意味合いの数字だったら?

マジルとお友達になったことで
いままで余っていた1と言う数字が、余らずに0になった
そして・・・
時が流れて、その数字がまた1に
それはマジルとのお別れのことです

他に見ていた人はどうだったんだろうか?
みんな再開を果たしてうれしかったんだろうか・・・
ぼくは、再会することは目に見えていたから
終盤は哀しくて哀しくてしょうがなかった

その哀しさを覚悟して
ヨイチが出す答えをまっていたんです
きっとその時に、ヨイチの人生に対して笑えるんだろうと期待して

僕の想像ではその時に答えは出てなかった
だから小林賢太郎の答えを待っていたんです

そしたらハッピーエンドで終わっちゃった

だから
うるうは僕の中でとっても哀しいお話で止まっている
更に言うと、前に向けないままで止まっているんです

このままだとヨイチはまた森に閉じこもっています
まぁ、童話って言うものはそういうものだって流れならしょうがないんですが

グリム童話や、ムーミンとかだって
本来はものすごく怖い話だったりするので
だってそれが真だよって言われたら終わっちゃう話だけど・・・

僕はいやだなぁ
だって哀しくなるために行った訳じゃないから