正しい供養 まちがった供養
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1 幸・不幸の原因は自分自身にある
不幸を先祖のせいにする供養は間違い!
先祖供養には、次のような悩みがよくあります。
「病気や怪我、事業の失敗や受験の失敗など、さまざまな不幸が家庭内に起きるので、あるところで見てもらったところ、
『先祖が浮かばれていないからだ』と言われた」というケースです。
たいていの場合、四代以上前の先祖が浮かばれていないと言われます。そして、「それが原因で不幸が起きているのだから、先祖供養をしっかりやれば運がよくなる」と言われるのです。
これは、先祖供養型の宗教を生業とする人の常套手段だと言ってもよいでしょう。 先祖といっても、二、三代ぐらい前の人は、まだ生きている場合もありますが、四代ぐらい前になれば生きているはずはないので、四代以上前の先祖が迷っていることにするわけです。
そして、不幸の原因をすべて先祖のせいにして、「迷っている先祖の供養さえすれば、幸福になれる」と言います。
このやり方ならば、どのような相談が来ても大丈夫です。あらゆる悩みに対して、「あなたの家には、浮かばれていない先祖がいる」と言えばよいのです。四代前であろうと、十代前であろうと、二十代前であろうと、先祖が浮かばれているかどうかは、相談者には分かりません。したがって、何代か前の先祖のせいにしておけば、それで見料をもらえるのです。
このような〝商売〟が日本各地でどれだけ行われているかを考えたとき、私は愕然とせざるをえません。なかには、本当に浮かばれずに迷っている先祖がいる場合もありますが、その場合でも、積極的に子孫を害してやろうと思っている先祖は、基本的にはいないのです。
ただ、「溺れる者は藁をもつかむ」ということわざどおり、どうしてよいか分からずに、先祖が子孫を頼ってくることはあります。
しかし、この場合でも、彼らは積極的に子孫を害そうとしているわけではありません。それが事実です。 彼らは人間としての正しい生き方が分からずに迷っています。
自分が間違った理由、自分が今苦しんでいる理由が分からないのです。したがって、先祖供養においては、それを教えてあげることが大事です。
彼らは、自分の思いのままに生きたところ、死後、意外な世界に行ってしまったため、どうしたらよいか分からずにいるのですが、そのとき、子孫に祟ったりすれば、罪がさらに重くなって苦しむことになるのです。
本当の意味で先祖を供養し、彼らが浮かばれるようにするためには、遺された子孫が、常に先祖に対する感謝の念を持つとともに、人間としての正しい生き方、光に満ちた生き方をすることが必要です。これが先祖供養の前提なのです。」
供養のつもりが「奪う愛」になっていないか
ただ、「先祖を供養したい」という子孫の念が、愛念として実る場合はよいのですが、そうではない場合があります。
それは、子孫の側、生きている人間の側が、何とか救われたくて供養している場合です。
例えば、「学業が不振である」「事業が不振である」「会社で出世しない」「恋愛が成功しない」「子供に問題が起きた」などということがあると、「これは先祖が迷っているからではないのか」と考え、自分たちが幸福になりたくて一生懸命に先祖供養をしていることが、数多くあります。
ここには、微妙ながら、すり替えの起きる可能性があります。供養というものは、本来は「与える愛」であるにもかかわらず、子孫の側が、わが身かわいさ、浮世の生きやすさのために、「先祖が悪さをしないように」という思いで供養していると、そこに「奪う愛」が生じやすいのです。
その結果、無反省な人間が生まれ、供養される側と供養する側が同質になることがあります。 供養される側が天国に行っている場合であれば、そういう問題は起きませんが、先祖が、あの世で悪霊となり、迷っているような場合は、子孫が欲得の心で先祖供養をすると、両者はほとんど同質なので、完全に通じてしまうのです。
御札や護摩木で先祖が救われるわけではない
これは、たとえ話で言えば、こういうことです。《中略》
「先祖が浮かばれていない」、「地獄で苦しんでいる」ということは、〝借金〟を背負っているのと一緒です。精神的な借金、この世で生きたときの借金を背負っているわけです。 その借金を払うために、子孫がそれを供養し、先祖を成仏させようとするときに、子孫が悪霊に憑かれるような目茶苦茶な生活をしていた場合には、子孫もまた負債を負っているわけです。借金を持っている者が、借金を持つ人の借金を、代わりに返すことはできないのです。その借金を返すことができるためには、自分自身が蓄財をしておかなければならないのです。豊かであればこそ、他人の借金を払うことができるのです。
この「豊かである」ということは何かと言うと、
「今世において徳を積んでいる」ということなのです。それは、
仏法真理に基づいて日々修行をしているということです。
光の徳を積んでいること。
光を蓄積していること。
天の蔵に富を積んでいること。
それがあってこそ、苦しんでいる人に対して、その光を廻向することができるのです。
光を手向けることができるわけです。
これが、先祖を供養する場合の正しいものの考え方なのです。
ですから、御札や護摩木で先祖が救われるわけではないのです。
生きている子孫たち、縁のある人たちが、日々、徳を積むことが大事なのです。
正しい宗教かどうかの見分け方は、生きている人、現実に修行をしている人に、反省をキチッと教えるかどうか、自己責任のところをキチッと教えるかどうか、というところにかかっています。
ですから、先祖供養団体に対しても、ここのところをチェックしてください。
ご先祖様にすべて任せてしまって、
「ご先祖様が悪ければ自分は幸福になれない。ご先祖様がよければ自分は幸福になれる」
というワンパターンの考えをしているところは、ことごとく間違いです。