世界一周の記録

2006年8月から2008年9月まで2年1ヶ月の世界一周放浪の旅をしていました。その旅の記録です。

こうして睡眠薬強盗にあいました。

2007年03月20日 21時55分56秒 | アフリカ
更新がまた遅くなってしまいました。
今は、タンザニアのザンジバル島というところにいます。ここのパジェビーチは静かで綺麗でとても素晴らしかったです。今からダルエスサラームへ戻り、ザンビアへ向けて移動する予定です。
ちなみにキリマンジャロ登山は頂上(5895m)目前にして強風のため引き返しました。5750m地点までは行けました。
それでは、以下に睡眠薬強盗の話を長々と書きますので、我慢して読んでみてください。


2月19日(月)の夜にあいました。

<被害の概要>
財布二つ、現金全額(約6万円)、トラベラーズチェック(これは返金できました)、ノートパソコン、デジカメ、腕時計3つ、クレジットカード、国際キャッシュカード、ウォークマン、電子辞書、アーミーナイフ、などを盗られました。
なかなか強烈な睡眠薬だったみたいで、丸1日の間、昏睡したり目覚めたりの繰り返し状態で翌日は入院しました。

幸い、パスポートは盗られておらず、バックパックや着替えもそのまま残っていました。クレジットカードも1枚だけ見つけにくいところに隠しておいたのが残っていました。


2月18日(土)

ルワンダの首都キガリからミニバスを乗り継いで国境へ。滝が印象的な国境でした。国境を越えたとたんに、山と谷ばかりのルワンダの風景から、サバンナ平原広がるタンザニアの風景に、急に変化しました。開放的で気分良かったです。
べナコという国境近くの町に一泊しました。この町は500mくらいの一本道の両側に民家がぽつぽつとあるだけの町で、僕が今まで訪れた中で最も小さい町です。ここのバーでビールを飲んでいると、地元のおばちゃん連中にビールと夕食をおごってもらいました。(その代わりに、追加のビールを払わされたので完全におごられたわけではない)若い男にステージみたいなところに連れて行かれて、そいつと二人で音楽にあわせて踊るというがらにもないことをしたりもしました。この時から、「タンザニア人って、気さくで親切で良い感じだなあ」と油断ができていたのだと思います。
夜、空を見上げると星がものすごく綺麗でした。

2月19日(月)

一気にサファリツアーの町アルーシャに向けて移動する予定だったのですが、アルーシャまではかなり時間がかかるみたいで、一旦カハマという途中の町までバスで行くことになっていました。このバスで隣の席だったのが、忘れもしない自称タンザニア人のアロイースです。どんくさそうな顔をした体の大きい黒人です。彼もアルーシャという町を目指しており、僕とルートが一緒でした。彼は英語があまり話せないのですが、ぽつぽつと会話したり、バナナをおごってくれたりしました。とても親切で、途中休憩の町でもトイレまで連れて行ってくれたり、トイレ料金を払ってくれたり、お茶やドーナツをおごってくれたり、いろいろとしてくれました。今思うと、妙に僕につきまといすぎだなあと思います。ちなみにバスにはそのアロイースの連れが一人乗っていたのですが、なぜか席は離れて座っており、会話は携帯電話でしていました。もちろんスワヒリ語で。その連れの名前は忘れたのですが、彼は頭が良さそうなムスリムです。
カハマに着いたのですが、アルーシャ行きのバスが2日後ということなので、シニャンガという少しアルーシャに近い町まで行ったほうがいいと、アロイースに言われ、バス会社の人間も同じように言ってたので、アロイース達とシニャンガに行きました。シニャンガでは彼らに連れて行かれて同じ宿にチェックインしました。部屋は隣です。
タンザニアの通貨シリングが少なくなってきていたので、アロイースと二人で闇両替を探して暑い中20分くらい歩きました。そこそこ良いレートの所が見つかり、二人で喜びました。その後、昼ごはんをおごってもらいました。スワヒリ語のメニューの読み方を教えてもらいながら。その頃には僕は彼を「なんていい奴なんだ」と完全に信頼しており、彼と偶然こうして出会えたことを嬉しく思っていました。バスのチケットも彼が買ってきてくれました。
汲み置き水のシャワーを浴び、洗濯をして、宿の中庭でほっと一息ついていたところ、アロイースの連れにビールを飲まないかと誘われました。シニャンガは蒸し暑いところなので、喜んで彼の誘いに応じて、彼らの部屋に遊びに行きました。二人は英語があまり話せないので、会話はそんなに弾まなかったのですが、ビールをおごってもらってることもあり、気分良くビールを飲んでいました。そのビールは彼らが部屋の外で栓を開けて持って入ってきた瓶ビールです。銘柄はたしか「サファリ」だったと思います。ビールを一人2本くらい飲みました。特に酔っ払ってはいなかったと思います。外が暗くなってきたし、部屋でルワンダ分のブログ記事をPCで書きたかったこともあり、そろそろ帰ろうかなと思っていたら、彼らの顔が2重3重に見え始めました。この日の記憶はここで途絶えました。

2月20日(火)

睡眠薬の影響でこの日の記憶はかなり断片的です。人から聞いた話を元に書きたいと思います。

「朝8時出発のバスに遅れる!」という焦りから目を覚ましました。外はかなり明るかったです。時間はわかりませんが、昼を過ぎていたのかもしれません。ぼんやりする頭で荷造りしようとして、ノートパソコンがないことに気づきました。大慌てで隣のアロイースの部屋に行きました。足元がふらついて壁に頭をぶつけたことを覚えています。おそらく這いつくばるようにして移動していたと思います。彼らの部屋はからっぽでした。なぜか空のブリーフだけが残されていました。やられたと気づきました。「ポリス!ポリス!」と叫びながら、部屋の外に出ました。この時はノートPCをとられたショックでかなり取り乱していたと思います。まさか、それ以外の貴重品もあらかた盗られているとは思っていませんでした。宿の人の「ホスピタル、ホスピタル」と言っていた事が記憶に残っています。そして、僕はまた気を失いました。

次に気がついたときはどこかに寝転んでいました。後で聞いた話では病院のベッドで警察と話をしていたところみたいです。ベッドの脇にOさんが立っていたことにとても驚きました。(Oさんは、エジプトのアスワンからエチオピアまで一緒に旅をして、その後もケニヤ、ウガンダ、ルワンダ、タンザニア、と同じルートを辿りながら、出会ったり別れたりを繰り返していた日本人男性旅行者です。)Oさんは、偶然バスの乗り継ぎの関係で、来るはずの無かったシニャンガに僕が来た次の日にやって来たそうです。そして、次の目的地へのバスチケットを買う時に、数あるチケットオフィスの中から僕が前日にチケットを買ったのと同じオフィスへ行って、そこで日本人が一人強盗か何かにあって病院で寝ているということを聞いたそうです。チケットの控えを見ると僕の名前だったので、そのままチケットは買わずに病院へ来てくれたのです。なんという偶然。そしてなんという親切さ。この後、Oさんは仏様のような親切さを立て続けに連発して、僕のこの未曾有の窮地を救ってくれるのでした。まずはクレジットカードやキャッシュカードの停止手続きをしてくれたことから始まり、病院での治療費や入院費用の立替、退院後の宿の手配と支払い、当座必要なお金を貸してくれたり、食事に連れて行ってくれたり、本当に何から何までお世話になったのでした。当時、無一文の病人であり、タンザニアという発展途上国の中の無名な小さい町シニャンガで、もし一人きりだったら、いったいどれくらい困っていたのか想像もつきません。今、旅行をこうして続けられているのは大部分がOさんのおかげなのです。

この日、ポリス達と何かを話しましたが、混乱していて、「早くアロイースを捕まえろ」みたいなことを連呼していたのじゃないかなと思います。この事件の担当のポリスはミーカという親切なやつでした。後でミーカから聞いた話だと、「ノートPCが無いなら、もう俺は生きられない。自殺する。」などと言っていたみたいです。それくらい、当時の僕にとってノートPCを盗られたことは精神的ショックが大きかったのでしょう。ノートPCは、重くてかさ張るにもかかわらず、この6ヶ月間、観光のときや移動のときなども、ほとんどずっとデイパックに入れて持ち歩いていました。シングルの部屋に泊まったときは、ずっとノートPCに向かっていたこともあります。アフリカを旅することは最初から決まっていたので、ノートPCを買うとき当然盗られることは覚悟していました。それでも、6ヶ月間一緒に旅をしてきて、アフリカも半分を過ぎ、一緒に日本に帰ろう、という思いを強くしていた時だけに、悔しさや寂しさが大きかったのだと思います。バックアップは、エジプトで一回取っていたので、それ以降の写真データ、家計簿データ、その他もろもろ旅データ、が消えてしまいました。特に、エチオピアの写真は、美しい風景や憎たらしくて可愛らしい子供達など思い出深い写真が多かっただけに悔しいです。

ミーカは「今、必死に探している」とかなんとか言っているのですが、あんまりそのような気配はありませんでした。しかし、朦朧とした頭では上手くポリス達を説得して捜査させることなど難しく、前日にアロイースと交換したアドレスを見せて「早く、ここへ行って!」とか言うことしかできません。今考えると、そのアドレスや名前など全てウソに決まってるのですが、その時はそんなことは思いもしませんでした。警察は適当なことを言って僕をあしらっていました。
この日は意識が途切れては戻りの繰り返しだったようです。そんな中、Oさんと二人で病院を抜け出して晩飯を食べに行ったらしいです。僕自身の記憶は全く無いのですが。そのことで、警察は大騒ぎになったらしく、ミーカに「どこかで死んでるんじゃないかと思ったぞ」と後で言われました。

夜になっても意識は半分混濁したままだったので、病院で一泊入院することになりました。ベッドに寝転がって点滴を受けているだけなのですが。この時、注射針が新しいものかどうかが、気になっていたのですが、朦朧とした意識ではそれを訴えることはできませんでした。(後日Oさんに、新しい針を使っていたことを聞いて、とても安心しました。)

2月21日(水)~23日(金)

この日の朝は、手首がものすごく痒いので目が覚めました。肘から手のひらにかけて無数の小さいぶつぶつができていて痒かったのです。多分、病院のベッドに虫が居たのでしょう。でも当時は、この病院で変な病気でももらったのかも、などと変に心配になりました。ベッドから起きて改めて病院の様子をみると、まるで野戦病院のようでした。また、不気味に静かでした。広い部屋の中には医療設備のようなものはほとんど見当たらなく、ただ蚊帳つきのベッドがそこらじゅうに並べているだけの病室でした。ベッドはほとんど黒人たちでうまっていて、蚊帳から除く彼らの眼光が不気味だったことを覚えています。

アロイース達が捕まって、僕のPCやカメラが無事帰ってきたという報せが、きっとあるだろうという無根拠な期待と共にすぐに警察署に行きました。お金を全く持っていないのに自転車タクシーなどを使ったそうです。(これも覚えていないです。料金はOさんが後で払ってくれました。)2日たってもまだ意識は完全に回復してなかったようです。警察署について、ミーカを探し出しましたが、もちろん犯人たちは捕まっておらず、荷物も発見されていません。今冷静に考えると、とっくにどこかに姿をくらましている犯人がそう簡単に捕まるわけがありません。しかも警察は捜査らしい捜査はほとんどしていなかったと思います。

この後は、薬の影響がほとんど無くなっていき、実家に電話したり、トラベラーズチェックの再発行、大使館への連絡など、事後処理のためにずっと電話をかけつづけていました。シニャンガには電話屋が無いので、コピー&FAX屋さんに3日間こもりっぱなしだったのですが、そこの親父さんが快く電話機の前を明け渡してくれました。おかげで、無事事後処理は全て完了しました。Oさんは、なんと用も無いのにこの間ずっとシニャンガに滞在し続けてくれて、アルーシャまで一緒に行ってくれました。

以上が、睡眠薬強盗前後のあらましです。

書いていて、なんと初歩的な手口に引っかかったのだろうと自分自身に腹が立ちます。もちろん強盗たちにもそれ以上に腹が立ちます。

最後に、Oさん、本当にありがとうございました。この御恩は一生忘れません。
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睡眠薬強盗に会いました(とりあえず連絡)

2007年03月03日 19時07分37秒 | アフリカ
更新がとても遅くなってしまいすいません。


実は10日くらい前にタンザニアで睡眠薬強盗にあっていたのでブログの更新が遅くなってしまいました。有り金全部やクレジットカード、キャッシュカード、ノートパソコン、デジタルカメラ、電子辞書、トラベラーズチェックなどなどをとられました。

いろいろな人たちの親切のおかげで、今は事後処理もだいたい終わっていて、旅行も続けられそうです。体もいたって健康です。(ただし、ノミダニ南京の総攻撃で全身数百カ所さされており、尋常じゃないくらいのかゆみに必至に耐えていますが)その後サファリツアーにも参加しました。

強盗の話はとても詳しく書きたいのですが、今はネット環境が悪いので、また時を改めて書く予定です。カメラは新しく買ったのですが、ノートパソコンは買っていないので、今後ブログの更新は以前よりも難しくなりそうです。特に、長い文章を宿でかけなくなるのと、写真のアップに支障が出そうです。
書きたいことが山ほどあるので、そのうちノートパソコンを買うかもしれません。(めんどくさいので買わないかもしれません。)それまでこのブログは細々と続けていく予定です。(強盗の話だけは、とても書きたいので近日中にアップしたいと思います。)

それでは、皆さん、今後ともよろしくお願いします。強盗にはお互い気をつけましょう!
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