世界一周の記録

2006年8月から2008年9月まで2年1ヶ月の世界一周放浪の旅をしていました。その旅の記録です。

楽しく疲れるペシャワール

2008年05月28日 15時13分55秒 | アジア

パキスタン北西の街ペシャワールにやってきました。ここは、アフガニスタン国境がすぐ近くにあり、住民のほとんどがアフガニスタン人と同じ系統のパターン人です。言葉もパキスタン公用語のウルドゥーではなくパターン語を話します。彼らは”世界最大の部族”なのだそうです。そして、ここペシャワール最大の特徴は、ここが”部族の掟”が支配する町だということです(旅行者が宿泊するような町の中心部は違うようですが)。政府が定めた法律は意味が無く、警察も無力なのだそうです。(そういった理由から、ここはテロの温床と見られているらしい。)ペシャワールへ向かうバスで、隣の席になったパキスタン人(パンジャーブ地方在住)は、「ペシャワールなんて行かない方がいい。あそこは危ない。パンジャーブ地方で下車しなさい。」と言ってくるほど、パキスタン人にも恐れられているみたいです。
本来なら、このような危ない場所には近づかずに旅をしたいところなのですが、しかし、パキスタンを旅したことある旅行者から、”ペシャワールにはババジイという名の部族出身のじいさんがいて、彼が日本人専門に”部族の掟が支配する地域”をガイドツアーしてくれる。彼なら部族の支配者達にも顔がきく人だから安心だ。”と聞いていたので、これは是非ともその”ババジイツアー”に参加しなければいけないと思い、やってきたのです。

パキスタン人(パターン族)

町並みの写真を撮っていると、必ず周囲のパキスタン人が「ハロー!俺の写真を撮ってくれよ!」と言ってきて、しばらくミニ撮影会みたいになります。



安宿街に着いて、ガイドブック情報から泊まろうと思っていた安宿に行くと、”フル(満室)”と言われてしまいました。その次に目をつけていた宿も”フル”。仕方なく、適当にその辺のホテルを何件か尋ねても、”フル””フル”の繰り返し。インド・アッサムの悪夢が甦ります(20件ホテルを尋ね歩いて全てフルだったので仕方なく宿泊せずに夜行バスで移動した。しかも、その夜行バスが地獄のようにきつかった)。そこで、ガイドブックに乗っているちょっと高めのホテルにトライすることにしました。今日は5月17日。つまり明日(5月18日)が僕の誕生日なのです。せっかくなので、自分へのささやかな誕生日プレゼントとして、ちょっと高めの部屋に泊まることにしました。尋ねてみると幸いここには空き部屋があったので、最初に予定していた宿の2.5倍の値段のテレビ付きのシングルルームにチェックインしました。2.5倍といってもたったの一泊650円ですが。

この日は、ピンディーからの長距離移動とホテル探しで時間が遅くなっていたので、ババジイ探しは翌日にすることにしました。さて、そのババジイの見つけ方なのですが、ピンディーで同じ宿だった日本人旅行者がネットで調べて教えてくれていました。その情報によると、”ペシャワール新市街のサダルストリート沿いのモスクの裏のジュース屋に現れる”とのことでした。たったそれだけの情報で本当に見つかるのかどうか怪しいですが、なんかそういう人探しって地元の人達に聞き込みとかしたりしてちょっと楽しそうですよね。

ペシャワールのメインストリートを無数に走っている超派手なバス。

ラホールにもピンディーにも多少はこんなのはありましたが、ペシャワールにはこんなバスばっかりでした。そのせいもあり、僕の中のペシャワールはとても華やかなイメージです。


予定の2.5倍の料金の部屋。しかもテレビ付き。外は、暑くて空気が汚くて人と車が多すぎる、とくれば部屋でゆっくりとくつろぐしかありません。しかし、やはりここはパキスタン。例のごとく停電問題が待ち受けていました。停電すると、電気はもちろん、テレビも消え、ファン(扇風機)は止まり、蚊が現れ、部屋は温室のようになり、とてもじゃないけどくつろげる状態ではありません。そのような停電時間が1時間続き、その後電気が2時間つき、また1時間の停電、というサイクルが24時間続くのです。ペシャワールは最高気温が40度、最低気温が28度と、ラホールに比べると暑さは多少ましなのですが、僕の泊まっている部屋が残念なことに西向きなので午後の太陽光をたっぷりと吸収しており、夕方から夜にかけての部屋の中の暑さはラホール並みに感じます。こう停電が多いと何もする気が起きないので、さっさと寝ようとするのですが、停電でファンが止まると暑くて寝れません。頭や腕、足に水をかけて、体を冷やしてから寝ようとしてみましたが、ものの5分で濡れていた部分は乾いてしまい、元通りの暑さになってしまいます。そうなると、全然寝れません。そこで、最終手段として、Tシャツとパンツを着たまま全身にシャワーを浴びて服ごと濡らす作戦に挑戦してみました。ひょっとしたら風邪をひくかな、と心配でしたが。しかし、この作戦は見事に成功し、なんとか風邪を引くことなくしばしの安眠を得ることができました。(それでも完全な熟睡は無理ですが)


翌朝、ババジイを探しに新市街のサダルストリートへ向かいました。モスクらしき場所はすぐに見つかり、その裏には情報どおりジュース屋がありました。さあて、聞き込みを始めるぞ、と近づくと、なんと、ジュース屋のおっちゃん達の方から「お、日本人。ババジイか?」と声をかけてくれました。「ここで待っていたら、そのうち現れるよ」と言われました。僕のような日本人がしょっちゅう現れるみたいで、向こうも事情が分かっているみたいでした。ちょっと拍子抜けしましたが、まあ、良かったです。おとなしく待っていると、パキスタン人が次々と話しかけてきます。本当に、パキスタン人は人懐っこくて、外国人と話すのが好きみたいです。そのうちの1人が日本語ぺらぺらでした。どうも7年くらい日本に住んでいたみたいで、色々と仕事を経験した末に新宿や六本木で盗難車の横流しをしていた時に警察に捕まって、パキスタンに送り返されたみたいです。日本では、散々遊んだらしいですが(不良外国人)、今はパキスタンで大学の教師をしているんだそうです(善良国民)。ジュースおごってもらったし、良い人でした。

ババジイ出没ポイントのジュース屋


ということで、1時間ほど待っていたのですが、ババジイは現れず、明日の朝10時にはババジイが来るから、また明日来い、ということになり、とりあえず僕は引き返しました。

外をぶらぶら歩いていると、あまりにも暑いので(本日は快晴)食欲が全く無くなり、パン屋でフルーツサラダとシュークリームとミロ(日本でも売っている緑色のパッケージの飲物)を買って、公園の木陰で食べることにしました。その小さい公園には木陰もベンチも一つしかなく、そこにはパキスタン人二人組の先客がいました。僕があいさつをして隣に腰掛けると、彼らはすぐに話しかけてきました。本当に外国人にオープンな国です。彼らは20歳の大学生で、明日が試験なので、その試験勉強をしているのだそうです(よくこんな暑いところで勉強ができるなあ)。日本人が隣に座ったので、勉強が手に付かなくなってしまったみたいで、なんやかんやと次々と質問して来ました。「名前は?」「日本のどこから来たの?」「兄弟は?」「日本での仕事は?」「宗教は?」「パキスタンをどう思う?」「(僕)暑い。」「ははは!確かに暑い。じゃあ、パキスタン人のことはどう思う?」「(僕)フレンドリーだし、親切だし、好きだ」「うんうん、そうだろう。」

そんなパキスタン人の学生二人組。


あと、”日本では結婚はどうやってするの?”と聞かれて、ちょっとびっくりしました。初めは質問の意味がわからず、しばらく考えた後答えました。
「普通に誰かとどこかで出会って、その人と上手くいけば結婚するよ。」
「へー、簡単なんだね。」
「(笑)まあ、簡単かもね。パキスタンは違うの?難しい?」
「僕らの結婚は親が勝手に決めるからね。自由な恋愛はできないんだ。」
「じゃあ、今彼女いないの?」
「もちろん!!」

そういえば、インドで出会ったインド人(かなり裕福な高カーストの人)も、「インドでは結婚はほとんど親が決めるね」って言ってました。



彼らに「何歳?」と聞かれた時に、あ、そういえば今日から33歳だ、と思って、「今日から33歳。今日が誕生日なんだ。」と言うと、「ハッピーバースデー!」と言ってくれました。このことだけで、なんだか今年の誕生日は満足できました。去年の誕生日は、アルゼンチンの寒風吹きすさむ丘の上で孤独に震え、左右の目の色が違う綺麗な白猫だけに祝ってもらった(実際は祝われてない)ことを考えると、今年の誕生日は(いろいろと)ホットな誕生日になったような気がします。

しかし、誕生日ディナーとしてルームサービスでちょっと豪華にフライドライスでも食べよう(約200円)と思ったら、まさかの停電が起きました。そして、下の写真のような状態に。

一見すると、キャンドルライトでの食事は誕生日っぽい雰囲気ですが、暗いホテルの部屋で1人で汗を垂らしながらの食事は、あまり誕生日っぽい楽しさはなかったです。


翌朝、昨日のジュース屋に行ってみるとババジイはすでに来ていて「おーい。わしがババジイじゃ!」と声をかけてきました。真っ白なあごヒゲを胸の辺りまでたっぷりとふさふさと蓄えている老人でした。噂どおり足が悪いみたいで杖をついてひょこひょこと歩きます。しかし、思ったよりも元気で声には張りがあり、灼熱のペシャワールを僕を先導して歩く姿はなかなか力強かったです。


ババジイと僕は、例の派手なバスに乗ってアフガニスタンとの国境にさらに近い場所へと行きました。そこは、アフガニスタン難民が多くいる地域で、そんなアフガニスタン人によるアフガニスタン人のためのバザールがありました。

アフガンバザール

子供も大人も働いております。

ここでは、小さい子供も大人に負けずに働いており、例えば”段ボール箱を1kg分集めれば2ルピー(約4円)の収入”など、学校も行かずに健気に働いていました。

アフガンバザールの奥からは、いよいよ”部族の掟が支配する地域”です。そこには、スマグラー・バザールという密輸品市場があり、その奥にある小さな家に連れて行かれました。そこには、ただならぬ雰囲気を持った数人の屈強な男達がたむろしていて、そのうちの1人はライフルを肩に下げて鋭い視線を僕に送ってきました。ババジイは、その内の中肉中背の30代半ばに見える1人を「彼が、部族の長だ。」といって僕に紹介してくれました。握手をした時の彼の握力は、僕がこの旅でしてきたいくつもの握手の内で最も強かったです。ババジイは、「ここでは、警察も何も出来ないのじゃ。部族の掟、つまりタリバンの掟がここでは全てなのじゃ!」となぜか誇らしげに言いました。ここで、狙撃銃やマシンガンを持たせてもらい写真を撮ってもらいましたが、どちらもとても重かったです。彼らに「重いね。」と言いながらそれらを返すと、彼らは「弾が入っているからな。」といってマシンガンのマガジンには実は弾が満載されていたのを見せてくれました。うおぉ、こ、こわい。。。

そうした緊張した空気の中、タリバン(?)の男達と緑茶(アフガン人は緑茶を好む)をいただいていると、部屋の外から別な男が「おい、ちょっとこっちへ来て。」と僕を呼んできたので、ババジイを置いて1人で彼についていくと、別室へ連れて行かれました。その部屋はとても埃っぽく、いくつかの棚とベッドが置いてあるだけの簡素な部屋でした。ベッドに座らされると、彼はビニール袋に入った大量のハシシ(マリファナをチョコレート状に加工したもの)や、ペンの形をした銃や、偽札などを僕に売りつけてきました。ペン型銃にだけはちょっと興味があったけど、値段がちょっと高かったので、結局何も買わないことにしました。すると彼は、すぐに諦めたようで「オッケー。じゃあ、またな。」と言って別れの握手を求めてきました。それに答えると、彼は僕に抱きついてきて「日本人は、いいやつだ。また戻って来いよ。」などと僕の耳元に囁きながら、抱いている腕の力を強めて体の密着度を強め、彼のあごヒゲを僕の首筋にこすりつけてきました。その上、息も荒くなり「はぁはぁ」などと言っております。で、でたぁ・・・。ついに、パキスタンのホモに遭遇してしまった・・・。それも、こんな部族の掟が支配するよな場所で。うげえ・・・。さらにそのホモ野郎は、僕の背中をまさぐりながら、あわよくば尻も触ってやろう的な動きを見せ始めたので、僕はなんとか彼から体を離し、ババジイのいる部屋へ慌てて逃げ帰りました。ババジイは、そんな僕の様子を察したのか、すぐに別の場所へと僕を連れ出してくれました。その際に、「あいつはクレイジーだから気をつけろ」と言いましたが、先に言っておいて欲しかったなあ、その言葉。

大量のハシシを売ってくるホモの部族員。目が怖い。


スマグラー・バザール(密輸市場)にて、普通に爆弾を売っている商店(ババジイいわく)

ピンク色をしたたまねぎ状のものが爆弾なんだそうです。ババジイいわく。

密輸市場でぶらぶらと買い物して、次に僕らが向かった場所は銃工場でした。一見すると閑静な住宅街のような雰囲気の一角が、実は銃工場が密集している場所なのでした。そのうちの一つの高級住宅っぽい中に入り、地下室に下りていくと、その思ったよりも広い地下室の中には多数のベッドとゴザが敷いてあり、そこで10人ほどのごろごろとしているパキスタン人がいました。一見すると、全く銃工場には見えないし、銃を造っているという雰囲気も全く感じられない締まらない感じなのですが、近づいてよく見てみると、確かに2、3人のパキスタン人は手作業で銃を造っていましたし、壁には多数の銃が立てかけてありました。

銃工場。なんだか締まらない雰囲気。


完全手作業で銃を造る人。


そして、ライフルと拳銃を撃たせてもらいました。

撃った時の反動の衝撃はとても凄かったです。

次に向かったのは、トラックのペイント工場です。パキスタンでは前述のバスだけではなく、トラックも非常に派手な装飾になっていて、その装飾工場の見学です。

パキ版デコトラ
 
斜め上に突き出している部分は空力上問題がありそうな形状ですよね。

トラックペイント工場では、子供達が主力として働いていました。

みんな真面目に、しかも楽しそうに働いていました。

ツアーの締め括りはアフガン食堂での昼食でした。アフガン料理は、チャパティと肉や野菜の炒めたもの(または煮込んだもの)という感じで、特徴はテーブルやイスが無い中で地べたに座って食べるというスタイルです。

アフガンスタイルの食堂


ババジイ近影

「ぼうず、インターネットでワシのことをよおく宣伝しておいてくれよ!」


というわけで、約4時間に亘るババジイのツアーは終了しました。想像以上に刺激的な体験だったし、暑かったし、寝不足だしで、僕はヘトヘトに疲れてホテルに戻り、全身に水を浴びてベッドに倒れこんだのでした。



ペシャワールは、ギンギラのバスが無数に走っていたり、部族地域があったり、人がひっきりなしにかまってきたりと非常に面白い場所でしたが、同様に非常に疲れる場所でもありました。


今は、ついにパキスタンの暑いエリアを抜け出て北部山岳地帯にいます。涼しくてめちゃくちゃ過ごしやすいです。風景もとても良いです。そして、3週間ぶりにようやく熟睡できました。


憂鬱さと清清しさと。ラワールピンディー(イスラマバード)

2008年05月17日 03時02分39秒 | アジア

ここラワールピンディー(以下ピンディー)には、重要な二つの仕事を片付けるために来ました。日本から送ってもらうキャッシュカードの受取(インドで財布を紛失したため)と中国ビザの取得です。

しかし、ピンディーに来てから毎日ずっと憂鬱でした。重要な二つの仕事が思ったように進まないし、ラホールで体調を崩してからずっと体調が思わしくないし、暑いし、相変わらず停電は多いし。特に体調の方は、喉の痛みがなかなか無くなりません。特に夜寝ている間に悪化することが多く、そのせいで、毎朝起きるたびに少しずつ疲れが溜まっていっている気がします。なぜかたまにゲリになるし。今も唾を飲み込むたびに喉が少し痛みます。こんな状態が、もうかれこれ15日以上続いています。原因は、今いるラワールピンディーの空気の悪さだと思います。なので、こんなところはとっとと出てしまって空気のきれいな別の町に行ってしまえばすぐに治ると思うのです。幸い、ここパキスタンは北部の山岳地帯が風光明媚なことで知られており、旅行者はこんな暑くて空気が汚い町はとっとと出てしまって、空気がきれいで涼しいそちらへ向かい、そこでのんびりするのです。以前、エジプトでも同様の事がありました。カイロ(空気が超汚い)でずっと治らなかった風邪が、バスで9時間かけてダハブ(空気がきれいなビーチリゾート。)へ向かっている途中にすっかり治ってしまったことがありました。

ピンディーは首都イスラマバードと15kmしか離れていないので、ビザ申請の旅行者は宿泊施設の少ないイスラマバードには泊まらずにピンディーに泊まって、そこからイスラマバードに通うことが多いらしく、僕もそうすることしました。日本からのキャッシュカードの送付先として日本大使館に電話でお願いしたところ”テロの危険があるため”あっさりと断られ、仕方なくイスラマバードの中央郵便局宛に送ることにしました。日本大使館いわく「単なる手紙といってもそこには炭素菌が入っているかもしれませんからね。」

まず手始めに、中国ビザの申請と、中央郵便局に局止めの送り方を確認するために、イスラマバードに朝から出かけていきました。ピンディーに着いたのが金曜の夕方だったため土日の二日間は何もできずに待った末にです。ちなみにピンディーには見所と呼べるような場所は全くないです。ただ暑くて空気が汚い町です。ひたすら部屋で1人で本を読んで過ごしました。体調が悪化しました。

ピンディー名物・果物屋台。これはメロンです。


そんな体調が優れない中、バスを3回も乗り継いで1時間半かけて中国大使館に着くと、大使館の建物の外にはすでに中国ビザ申請に来ているパキスタン人たちが行列を作っていました。僕も渋々並んで待っていたのですが、なぜか列はなかなか進みません。ディズニーランドのように待ち行列用の鉄柵が作られているのですが、ディズニーランドのような楽しいアトラクションが行列の先に待っている訳ではありません。残念ながら、待っているのは冷酷な中国大使館員です。

結局、大使館の中に入るだけで1時間半も待たされました。そして、ようやく入れた大使館でビザを申請すると、冷酷中国大使館員が冷たい口調で「何しに中国へ行くの?どのくらい中国にいたいの?3ヶ月?何でそんなに長いの?」などと聞かれ、「もしビザが欲しいなら、中国へ行く飛行機のチケットと中国滞在中のホテルの予約が必要だ。それを持ってもう一度来なさい。」と言われてしまいました。

これは、かなり予想外の反応でした。ここイスラマバードは中国ビザが取りやすい場所と聞いていたし、必要なものはパスポートコピーと写真一枚だけだと聞いていたし、珍しく3ヶ月滞在でダブルエントリーのビザ(一つのビザで2回入出国できる)を発給してくれる優良大使館のと聞いていたのに・・・。僕は、中国入国後にキルギスやウズベキスタンを少し周ってから中国に再入国する予定だったので、最低でもダブルエントリーのビザが欲しかったし、チベットへも行きたいのでビザの期間も3ヶ月は欲しいのです。飛行機のチケットに関しては、陸路で中国へ行くことを説明してバスのチケットでもいいことになりましたが、いったいその二つをどうやって揃えたらよいのか。それに、もしそれらをきちんと揃えて提出しても、すんなりビザを発給してくれるのかどうか・・・。その日、ラホールで同じ宿だったスペイン人と偶然会ったのですが、彼も冷酷中国大使館員から色々と難題をふっかけられて困っている様子でした。この日、僕には中国大使館員が鬼に見えました。

その後、無駄に広々としすぎている灼熱のイスラマバードを歩きまわり、郵便局へ行って局留めの宛先の書き方を教えてもらい、また1時間かけて蒸し風呂のようなミニバスでピンディーの宿に戻ったら、さらに体調が悪化してしまい、翌日は宿のベッドから一日出れませんでした。なんてひ弱なんだ、俺は・・・。

蒸し風呂ミニバス


翌々日、ツーリスト・オフィスでバスのチケットを高額でゲットし、ネットカフェで安い中国のユースホステルを予約しそれをプリントアウトして、ビザ申請の準備は整いました。その翌朝、今度は早朝に出発したので、まだ空いている時間に大使館に着きました。大使館員は、また冷たい口調で(目も合わさずに)「何で90日も滞在するんだ?」と聞いてきました。「中国はとても大きいし見るべきものがたくさんあるので(お世辞)。」「ふーん。ビザは1ヶ月のシングルエントリーのみだよ。有効期間は今日から一ヶ月。」「え!?そんな。中国への入国が1ヶ月後なのに。それじゃあ入国したらすぐにビザ期限が切れるじゃないですか。」「じゃあ、一ヵ月後にもう一度来なさい。はい、次の人。」と言って僕は追い返されてしまいました。途方にくれて宿に帰ると、同じ日にビザを申請に行っていた別の旅行者がビザを取ってきていて、それを見ると1ヶ月の有効期限というのは、入国までの期限が一ヶ月で、入国した後その入国日からさらに1ヶ月の滞在が可能という内容なのでした。僕は誤解していただけなのですね。別に今日申請してもよかったのですね。一日を無駄にしたのですね。僕はなんだか頭まで痛くなってくるのを感じました。

宿の目の前の風景。肉塊と化した同胞の亡骸の目前で食事をする羊たち。


しかし、日本からのキャッシュカードの送付は実家の両親の手際の良い仕事の甲斐もあって順調に進んでいて、どうやら後4日後くらいには届きそうでした。どうせその時に再度イスラマバードには行かなければならないので、同時に中国ビザを申請することにして、それまではひたすら待つことにしました。幸いEMSというサービスで送るとインターネットでどこまで郵便物が届いているのかを追跡することができるので、イスラマバードに届いたことを確認してから取りに行けばよいのです。

そうして、僕はひたすら待ちました。暑いので外に出ることもなく、ひたすら部屋に篭ってパソコンでゲームをしながら(今回は聖剣伝説3)。そしてまたゲリなどで体調を崩しながら。数日後、インターネットで配達状況を確認すると郵便物は無事パキスタンに着いたみたいです。しかし、着いた先はカラチ。まずは首都に着くと思ってイスラマバード宛にしたのに、これは誤算でした。でも、カラチからなら2日もあれば十分イスラマバードに着くでしょう。

この待っている間に、懸案のチベット行きについてインターネットで色々と調べたりもしてみました。分かったことは、「今は外国人のチベット旅行はほぼ無理」ということでした。今年3月のチベット暴動以来、ずっと外国人のチベット入域は禁止されているみたいです。6月下旬の聖火リレーが終わった後、入域許可が出る可能性があるらしいですが、それも未確定です。それに1ヶ月しか滞在できないビザなら、もしチベット入域にチャレンジして成功できたとしてもビザの期限をオーバーする可能性が高そうです。もし期限をオーバーしてしまうと、一日につき7500円相当の罰金らしいです。憧れのチベット・・・。この2年間の旅の最後にして最大のハイライトになるはずだったカイラス巡礼が・・・。ああ、また憂鬱になってきました・・・。


近くのウィグル料理屋のラグメンという麺料理

腰のあるうどんのような食感で、かなりおいしかったです。毎日食べてました。


そして二日後、郵便局に電話して郵便物が届いているか聞いてみました。30分くらい探してくれましたが見つからなかったみたいで、どうやらまだ届いていないみたいです。随分と真剣に探してくれていたみたいなので、きっと本当にまだ届いていないのでしょう。その日は諦めて、部屋に引篭もってゲームをして過ごしました。目と肩と腰が痛くなりました。これはいかんとヨガをすると、体がとても硬くなっていました。


翌日、ドキドキしながら郵便局に電話をしました。
「日本からの郵便物?届いてないよ。」
「え!?でも、3日前にカラチに着いてたんですよ!?なぜなんですか!?」
「俺に聞かれても知らないよ。担当責任者は別の人だから、彼にいいなさい。電話番号は、XXX・・・。」
僕は唖然としながらも、その言われた番号にかけてみました。しかし、何度かけても誰も出ません。僕はまたその日の受取は諦めることにしました。それにしても、いったい何があったのだろう。カラチからイスラマバードまで3日もかかるはずはないのに・・・。(実際に郵便局員も二日で届くと言っていた)ひょっとして、誰かに盗まれたのだろうか。パキスタンなら十分ありうる。発展途上国だし、貧乏そうな人がたくさんいるし。そう思うと、道行くパキスタン人が全員犯罪者に見えてきました。みんなアホそうな顔に見えてきました。そして僕の心はどんどん荒んでいきました。何もかもが憂鬱になってきました。食堂で食事をしている時、僕をじろじろ見てニヤニヤしながら何かを言っている若いパキスタン人の店員がいました。普段ならそんなことは気にならないのですが、この時はそんなことがとても僕を不愉快にさせました。僕はそいつを睨みつけて、何か文句あるのか?と英語と日本語で言いました。そいつは、別に、と言って僕から離れていきました。もうパキスタンなんて嫌いだ。なんなんだこの国は。旅行者の大事な郵便物を盗むし。無礼だし。ご飯はあまり美味しくないし。インドの核ミサイルが誤射してパキスタンに落ちればいいのに。そして、この不愉快な国と僕の憂鬱を一緒くたに吹き飛ばしてくれればいいのに。インターネットで一応郵便物の状況を確認すると、相変わらず3日前にカラチを発送したところで止まっていました。この日、深夜まで部屋でゲームをして過ごしました。目が疲れて充血して真っ赤になりました。

”檜風呂の宿 つるや”

俺をつるやに連れて行ってくれ・・・


翌朝、半ば諦めつつも郵便局に電話をしました。やはり郵便物は届いていないみたいです。電話に出た人がいうには、「是非郵便局に来て責任者に直接訴えなさい。4日もカラチからの郵便物が届かないなんて、ありえない。パキスタンの郵便はベリー・グッド・サービスなんだ。信じられない。とにかくここに来なさい。」とのことでした。は!?何がベリー・グッド・サービスやねん。信じられない、とはこっちが言いたいわ。と思いながらも、直接郵便局へ行くことにしました。幸い、体調(のどの痛み)の方は、外出せずにずっと部屋に引篭もっていたせいか随分と良くなってきています。

すぐに宿を出て、郵便局へ行きました。その配達責任者のオフィスに行くと、そこには彼はいませんでした。同じく待っている人に聞くと会議か何かで30分くらい戻ってこないそうです。そして僕も一緒に待つことにしました。特に他に予定があるわけでもないし、いくらでも待ちますよ。そして、1時間くらい待ちました。さすがにイライラしかけて来た時に、僕の目の前で働いていた別の郵便局員(フレディ・マーキュリー似)が声をかけて来ました。僕が日本からの郵便物を受取りたいということを言うと、彼は僕をパソコンのある部屋に連れて行ってくれました。そこで、郵便物の追跡番号を入れると、僕の郵便物の配達状況が出ました。なんと、僕の郵便物は2日前にはイスラマバードに着いていて、その日のうちに”イスラマバードから発送済み”という全く予想だにしないステータスになっていたのです。驚きの余り僕の顔は埴輪のようになりました。実はイスラマバードには既に着いていて、そこからどこかに発送されていた!?本当にありえない状況です。”郵便局止め”としか宛先を書いていないはずなのに、一体それをさらにどこに送ると言うのか。呆然とする僕をそのフレディ郵便局員は「大丈夫。大丈夫。こっちに来て探そう。そんなに緊張しなくても大丈夫。きっと見つかる。」と言って別室に連れて行きました。その部屋には、たくさんのEMSで送られてきた郵便物が置いてあり、その内の一つは残念ながら僕宛ではなかったですが日本からのものでした。他に、中国や韓国などからの郵便もありました。フレディがそこの担当者と何やら話すと、担当者がロッカーの所へ行き、鍵を開けてその中から一つの封筒を出してきました。なんと、それは実家から送られてきた僕宛の封筒でした。まさか、今日郵便物を受取れるとは思っていなかった僕は、また埴輪のような顔になってしまいました。あまりの目まぐるしい状況の変化に何も考えられなくなりました。電話して届いているかどうか確認しても、誰もこのロッカーまでは調べていなかったということですか。さっきのコンピューターの表示はウソですか。でも、良かった。とにかく本当に良かった。フレディ似の郵便局員に何度もお礼を言って、郵便局を後にしました。

やっぱりパキスタンの郵便はベリー・グッド・サービスでした。疑ってごめんなさい。核ミサイルが落ちればいいのにとか思ってすいません。パキスタン、良い国です。(でも、電話で問い合わせた時に届いている郵便物を届いていないと言った郵便局員は問題だけど)道行くパキスタン人が、みんな賢そうで、優しそうで、深い人生を送っていそうな人達に見えてきました。みんな大好きです。


宿の前の通り

いつも何やら賑わっています。


翌日、中国大使館にビザを取りに行きました。ミニバスの中で若いパキスタン人に話しかけられました。
「中国人?それとも韓国人?」
「いや、日本人だ。」
「日本はとても発展している。でも、パキスタンは発展していない。何が違うのだ。君はどう思う?」
「パキスタンのことは俺にはよくわからないよ。でも、一般的にいって発展途上国が発展する上で一番大事なことは教育なんじゃないの。」
「でもな、パキスタンでは良い教育を受けた人はみんな海外に行ってしまうんだ。ここには安全というものがないからな。」
「君はどうするんだ?」
「俺は今MBAの勉強をしている。これが終わったらもちろん海外へ行くよ。イギリスかマレーシアか日本か、とにかく、どこか海外だ。パキスタンで働いていたら、いったいどうやって家族を守ればいいんだ?誰が守るんだ?」

イスラマバードには各国の大使館が集まっているのですが、そこに入るには安全上の理由で専用のシャトルバスを使わなければいけません。そこの乗り場では荷物を預け、何度もボディチェックを受けてバスに乗ります。今更だけど、やっぱりこの国は安全じゃないんだな、と思いました。


中国大使館では、無事1ヶ月シングルのビザをもらえました。これで、ようやくここでするべき二つの仕事が片付きました。

その帰り道、ある中年のパキスタン人に日本語で話しかけられました。彼は、日本の茨城県に住んでいるらしく、仕事は重機を日本で仕入れてアジアに売っているらしく、奥さんが日本人で、今はパキスタンに一時的に帰省をしているとのことでした。子供は4歳で幼稚園に行っているのだそうです。しばらく話をして打ち解けてきて、バスの乗り場まで戻ってきたとき、彼に一緒にお茶でも飲もうと誘われました。そこには、彼の兄弟と二人の甥が待っていました。僕が、この後モスクの観光に行く予定だと言うと、彼(通称アリババさん)は車で送ってくれると言ってくれました。ありがたく、彼の新しいトヨタ・カローラに乗せてもらいました。彼らは本当に親切でフレンドリーでした。食べ物や飲み物などを僕が言う前に次々と買ってくれたりするし、甥の二人(多分20歳くらい)は片言の英語で必死に僕と話をして楽しませようとしてくれるし、アリババさんは日本語でイスラマバードやモスクについて話をしてくれました。いつの間にか、僕はパキスタンという国がとても好きになっていました。これまでの2週間の憂鬱は、どこかに消えていました。後には、ただ清清しい気分だけが残っていました。


アリババさんと

首から下げている花の輪は礼拝所で祈っていたら係りの人がなぜか僕だけにくれました。
男同士で手をつないでいますが、別に変な意味は無いですよ。無いはずですよ。パキスタンでは男同士で手をつなぐのは、全然普通のことらしいので。

甥っ子二人組

右の髪の毛の長い男前は彼女が4人いるそうです。「そんなの普通だよ。」だそうです。



ラワールピンディーには結局16日間も滞在してしまいました。初めは、この何もない町が嫌で嫌で仕方なかったけど、今はここを出て行くことが少し寂しいです。


この滞在の教訓は、”終わりよければ全てよし”ですね。


宿の屋上からの夕焼け


灼熱のラホールで干物になりかける

2008年05月06日 20時08分40秒 | アジア



インド、バングラデシュ、ネパール、インドと続いている南アジア周遊の最後の一カ国パキスタンにやって来ました。インドとの国境近くの町・ラホールです。人の顔や服装がインドとは違う気がします。インドも、ヒンドゥー色が強いリシュケシュと、シク教が多数いるアムリトサルで、随分と服装や雰囲気が変わりましたが、パキスタンは完全なムスリム国なので、さらに違った雰囲気です。男性はアラブ的な民族衣装を着ており、女性は布で髪の毛を隠しています。モスクからはアザーンが聞こえるし、街中ではケバブが回っています。

とまあ、パキスタンには、そういうインドとのテイストの違いがあるということなのですが、そんなことはもうどうでもいいくらいにラホールは暑いです。そして、暑いだけではなく空気も汚いです。その相乗効果による体力消耗度は、今年の1月に滞在したインドのコルカタに匹敵すると思われます。単純な暑さだけをとっても、過去訪れた国や町の中で最も過酷なような気がします。しかも、ラホールの厳しさはその程度では済みません。なんと、一日に8回も停電するのです。1回の停電は、1時間くらいなのですが、最大の問題は、その間、宿の扇風機が止まることなのです。8回の停電は、朝・昼・夜・深夜とまんべんなく振り分けられており、あらゆる時間帯で、酷暑の中、扇風機が回らない(ましてや冷房などありえない)、テレビもインターネットも使えない(気を紛らわせられない)、冷蔵庫も止まる(飲み物がぬるくなる)、そんな時間をただ日陰で極力体力を使わないようにしてじっと耐えるのです。汗をだらだらと掻きながら耐えるのです。扇風機が止まったことをいいことに集まってきた蚊に刺されて、さらにイライラが頂点に達しようとも耐えるしかないのです。

余りにも暑いので、いったい何度くらいあるのかインターネットで調べてみると、その日の最高気温が42度で、最低気温が35度でした。そりゃ暑いわ・・・。しかし、それにしても、最低気温が35度とは。確かに夜の寝苦しさが尋常ではないと思っていましたが、それほどとは。実際に数字を見て、さらに暑さがひどくなったような気がしました。

こんなラホールなんてとっとと出て早く次の町に移動したかったのですが、そうもいかない事情があったのです。毎週木曜の夜にスーフィー・ナイトというイベントが、ここラホールであるので、それを見ないといけないのです。エジプトのカイロや、トルコのイスタンブールでもスーフィー・ダンスは見れたらしいのですが、僕は諸々の事情により見逃していたのでした。トルコのスーフィーダンスを見た人は、「あれはすごい。」と絶賛していました。ところで、スーフィーが何かというと、実は僕も良く知りません。ガイドブックによると、イスラム神秘主義がなんとかかんとか、と・・・。まあ、とにかく、スーフィーをラホールで見るのは、前々からの楽しみだったということなのですが、ラホールに着いたのは土曜日なので次のスーフィー・ナイトまではなんと5日間もここで待たなければいけないのでした。。。



そして、やはり、この暑さの中、僕は体調を崩したのでした。スーフィーまで後3日となった月曜日の夜、扇風機の強風に至近距離から当たりすぎたため、喉が痛くなりました。鼻水も出るし、どうやら風邪を引いたみたいです。翌日、日中いつもは屋上の共有スペースで他の旅行者達とだらだらとして過ごすのですが、この日は仕方なく、ほかに誰もいないドミトリーのベッドに1人寝転がり、体力の回復を図りました。しかし、これが間違いでした。扇風機が回っている間はまだいいのですが、停電が起こると、ドミトリー内は窓から差し込む強烈な日光による温室効果により恐らく42度を超える気温になるのです。50度を超えていたかもしれません。全身から汗が吹き出て、意識が朦朧とし、体を動かす気力が無くなりかけました。その時、僕は「このままでは干物になる。やばい。」と思い、ふらふらになって部屋の外へ脱出したのでした。そして、風邪を引いて弱っていた僕の体は、温室効果の高温により当然のように発熱したのでした。
親切な他の旅行者達に病状を訴えると数々の薬をもらえました。また、下の階の全く日が当たらない代わりにそこそこ涼しい部屋に移動することができ、そこで薬を飲んで2日間じっと何もせずに寝転んでいると、いつのまにか熱は下がりました。それにしても、ラホールの暑さは殺人的です。

木曜日の夜には外出できるくらいまでは回復でき、めでたくスーフィー・ナイトへと向かうことができたのでした。そして、そこまでして待ったスーフィーは予想とは随分と違うものでした。それは、神秘的な儀式などではなく、華麗なダンスでもなく、せまいスペースにおっさん達や若者達が男ばかりでぎゅうぎゅう詰めになってマリファナを吸いまくりキマリまくり、激しいドラムの音をただ延々と聞きトリップするという、なんとも不可思議なものでした。夜の9時半から深夜まで、ただ同じことが延々と繰り返されました。激しいドラムの音とマリファナを吸いまくりキマリまくる男達。なんて、むさくるしい・・・。全然終わる気配がなかったので、僕らは12時半くらいにそこを出て宿に戻りました。
期待していたものとは全く違うものが見せられたけど、これはこれで6日間も暑さに耐えて待っただけの価値はあったなあと思いました。異様なバイブレーションがあの場を支配していたのは間違いなかったし、それはあれ以外の場所ではなかなか感じることのできないものだったような気がします。(”しょぼかった”と言ってしまうとなんか負けたような気がするので、強がりを言っているだけかも・・・)

スーフィー・ナイト


ラホールで宿泊したのはリーガル・インターネット・インというラホールを訪れる各国のバックパッカーは必ず泊まると言われるほどの宿です。いろんな国籍の旅行者が集まっていて楽しかったです。噂では、ラホールの安宿はここ以外、どこも泥棒宿かホモによるレイプ宿として恐れられており、ここくらいしか選択肢がないらしいので、みんな集まってくるらしいです。それにしても、ホモによるレイプ宿って・・・。そんな噂の立つ町は世界でもここラホールだけでしょうな。



パキスタンではなぜか手相占いが流行ってました。

僕が泊まった宿のオーナー・Mr.マリック氏も、宿泊客相手に怪しげな手相占いをしてました。

ラホール最大の観光名所・ラホール博物館にある”断食する仏陀像”

凄まじい迫力でした。骨と皮だけになっても背筋をきちんと伸ばし、真っ直ぐに前を睨み付け、涅槃の境地を追い求めているシッダールタ。気迫が直に伝わってくるようです。

鶏肉を焼くおっちゃん二人


灼熱のモスク。





現在は、パキスタンの首都イスラマバードからわずか15kmの町ラワールピンディーにいます。ここで、日本からの新キャッシュカードの受取待ちをしています。ついでに中国ビザもここで取れたら取りたいと思っています(状況は厳しそうですが)。暑さが、ラホールよりも幾分マシなので、良かったです。それでも日中は40度近くいっていますが。。。


インドの最後アムリトサル。インド人の優しさ。

2008年05月01日 19時47分43秒 | アジア

夜の10時ごろ、のろのろと発車した夜行列車の三段ベッドの一番上に寝転んでぼんやりしていると頭上をぽろっと何かが通りすぎる気配がし、その直後に床にゴトッという音がしました。何かなあと思って起き上がると、枕元に置いてあるリュックに入れておいたカメラと財布が無くなっていました。それらはいつもズボンのポケットに入れているのですが、寝転がると尻にあたってごつごつするのでリュックに移しておいたのです。しかし、リュックのチャックをきちんと閉めるのを怠っていました。きっとどちらも床に落ちたのだろうと、面倒くさいなと思いながら下に降りて探してみると、ベッドの下の床にカメラだけが落ちていました。財布はどこにも見当たりません。この時、気づいたのですが、窓が全開で開いていました。今は列車はかなりのスピードで走っており、風がそこから吹き込んできています。もし、僕の枕元のカバンから財布が落ちたとしたら、ちょうどその窓から外に飛んで行きそうな角度に窓は開け放たれていました。まさか、財布が窓の外に飛んでいくなんてことが起こるはずは無い、ましてや、この俺にそんな出来事が起こるはずはない、と思いながら、しかし内心は半分絶望しながら、財布の捜索を続けました。
三段ベッドの一番下と真ん中はインド人家族が既に熟睡状態で寝転がっているのですが、ひょっとしたらそこに落ちているかもしれないと思い、慎重に起こさないようにそろそろっと探したのですが、見つかりませんでした。再度、自分のベッドに戻って、気持ちを落ち着けて、リュックの中身を徹底的に調べたのですがやっぱり財布は見つかりませんでした。
そんな僕の様子を見ていた向かいのベッドのインド人の若者が、「どうしたんだ?」と心配そうに話しかけてきたので、「財布を落とした」と答えました。すると、その若者は僕の下のベッドのインド人家族を全員起こして僕の財布を捜してくれました。突然起こされたインド人家族も捜索を手伝ってくれましたが、やっぱり見つかりませんでした。眠たいだろうに、ありがとう・・・。

とにかく、どうやら、僕は財布を無くしてしまったしまったようです。それも、インドの走行中の夜行列車の窓から飛んで行ってしまうという、おかしな無くし方で。
うぅぅおお、ぐうおおお・・・なんてことだああああ(泣)。
財布の中には、現金が3万円分くらいと、国際キャッシュカードと、メキシコで作った国際学生証が入っていました。なんといっても国際キャッシュカードの紛失が痛いです。クレジットカードは残っているので、なんとか当座は凌げるのですが、そのクレジットカードでATMのキャッシングすると利子がめちゃくちゃ高いのでできればそれは使いたく無いです。なので、どこかで再発行したものを実家から送ってもらわなければ。そんなことパキスタンで出来るのか???それに、現金が3万円分もなくなりました。インドで10円や20円を値切るために、奮闘していたのがいったい何だったのかと虚しくなります・・・。

自分のベッドに戻ってしょぼくれていると、向かいのベッドの親切なインド人の若者が、すっとお金を差し出してくれました。悪いので断っても、彼は僕に渡そうとしてきます。とりあえず今はルピーの現金が一文も無いので、ありがたく受け取りました。なんと200ルピー(600円)もありました。すると、彼はさらに100ルピーを追加で渡してくれました。300ルピー(900円)もの大金をあっさりくれるなんて、なんていう優しさ・・・。しかも、彼は翌朝、自分用に持ってきていたお弁当を僕にくれたり、とても親切にしてくれました。ありがとう!インド人大好きです。


そんなこんなで、財布ショックで半分茫然自失となり、アムリトサルに到着しました。ここには、シク教の聖地・黄金寺院があります。シク教というのは、僕ら日本人がイメージするインド人の代表格、あの頭にターバンを巻いている人達です。実際はシク教徒はインド全人口の2~3%くらいしかいないらしいのですが、経済的に成功している人が多く、インド人としては体格が大きく、なんといってもターバンと長いヒゲが外見的インパクトがあって(戒律により髪もヒゲも切らないとか)、存在感は抜群にあります。

黄金寺院(ゴールデン・テンプル)と沐浴するターバンの人

沐浴中もターバンは着用



このゴールデンテンプルの敷地内には巡礼者用の宿があって、その中には外国人用のドミトリーがあり、異教徒であっても無料で泊めさせてもらえるのです。なんという懐の深さなんでしょう!財布を無くした直後の僕には、余計にありがたく感じます。

無料宿の外国人用ドミトリー

今まで泊まった宿の中で、最もベッド密度が高い部屋でした。でも、まあ、無料なんで。(無料といっても出るときにお布施を要求されたので、いくらか払いました。)

そこのトイレの絵。”男性(大)はこちら”


その上、黄金寺院は、なんとなんと、食事も巡礼者用に無料で食べさせているのです。しかも、朝昼晩の3食。メニューはもちろん全部カレーなんですが、リシュケシュのアシュラムで食べていたカレーとは違ってとても美味しかったです。4食連続でここの無料食を食べさせてもらいました。
シク教最高ですか?最高です!

無料食堂


上記の写真の若者3人組は、僕が無料食堂で勝手が分からずにおろおろしていたら、片言の英語で「こっちだよ。一緒に食べよう。」とか言って、案内してくれました。彼らは英語が話せないので、一緒に食べてもたいした会話はできませんでしたが。それでも、嬉しかったです。
ほかにも、黄金寺院の付近をうろうろしていたら、そういうことがしょっちゅうありました。老人や子供や若者が次々といきなり握手を求めて来て、「黄金寺院へようこそ」と言って去っていったり。ここにいる人は、みんな親切でフレンドリーでした。おかげで、財布を失くしたショックで落ち込んでいた気分が随分と癒されました。ありがとう、シク教徒のみなさん。ありがとう、ターバンの人たち。


追記:なんにしてもカメラは窓から飛んでいかずに残って良かったです。パキスタンで新しく買い換えようか、などと思っていましたが、止めました。ずっと君を使い続けるよ!