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世界一周の記録

2006年8月から2008年9月まで2年1ヶ月の世界一周放浪の旅をしていました。その旅の記録です。

アジアまとめ

2008年09月22日 01時42分38秒 | アジア

帰国して2週間が経ちましたが、まだ姫路の実家にいます。役所関係の手続きや、荷物や写真の整理などをしていたら意外と忙しくてあっというまに時間が過ぎていってしまいました。そして阪神と巨人のゲーム差もあっという間に縮まってしまいましたね・・・。


◆アジアまとめ内容◆
・国ごとコメント
・食事
・犯罪、テロ
・行きたかったけど行かなかった所
・まとめ所感


滞在日数:316日(旅合計762日)
訪問国数:18カ国(旅合計69カ国)


<国別コメント>

・日本一時帰国(2007/10/13-10/26:姫路、神戸、大阪、京都)

たったの2週間だったけど、いろんな友人とも会うことができたし、寿司・居酒屋・焼肉・日本酒・焼酎を始めとする世界で最も美味しい日本食をたらふく食べれたし、大満足の一時帰国でした。


・トルコ1回目(10/26-11/14:イスタンブール、ギョレメ(カッパドキア))

旅の再スタートの地・イスタンブールでいきなり2週間の停滞。でもその間には多くの出会いや再会があったので納得の停滞でした。安宿ツリー・オブ・ライフは思い出深い宿です。町並みは基本ヨーロッパ的な中にイスラムテイストが随所に見受けられて、なかなか味わい深いです。カッパドキアは寒かったけど、静かでのんびりとした雰囲気が良かったです。物価はやっぱり高かったです。


・シリア1回目(11/14-11/19:アレッポ、ハマ、クラック・デ・シェバリエ、ダマスカス)

ヨーロッパ的先進国のトルコのような国から来ると完全なアラブ世界のシリアはワンダーランドな感じがして良かったです。人がとてもフレンドリーでした。


・ヨルダン1回目(11/19-11/22:アンマン、死海)

評判と違ってただのエロアラブ人だった有名人サーメルさん(安宿の従業員)。評判と違って荒れていてとても浮かんでられなかった死海。でも出会いや再会が多くて滞在は楽しかったです。


・イスラエル&パレスチナ(11/22-12/4:エルサレム、死海、ベツレヘム、ヘブロン、ジェリコ)

見所が多く、独特の雰囲気・オーラが漂うエルサレム。世界中から大勢のバックパッカーが集まるファイサルという安宿は毎晩がどんちゃん騒ぎの宴会でとても楽しかったです。ヘブロンでは、卑劣なユダヤ人達による信じられないほど酷いパレスチナ人いじめを直に見ることができ、強い衝撃を受け、その後の宗教に対する考え方に大きな影響を受けました。


・ヨルダン2回目(12/4-12/7:アンマン、ペトラ)

ペトラ遺跡は期待以上にかなり良かったです。大きいし、広いし、見ごたえありました。


・シリア2回目(12/7-12/8:ダマスカス)

イランを目指して一路北上しました。国境で入国審査をしている間に、それまで乗っていたバスが僕を置いて出発するというまさかのトラブルに遭いました。


・トルコ2回目(12/9-12/10:ガジアンテップ、ドゥバヤジット)

イラン行きのバス乗り場だと言われた場所(汚い広場)で丸一日待ちぼうけを食らわされました。


・イラン(12/10-12/19:テヘラン、エスファハン、マシュハド)

イラン人は、びっくりするほど旅人に親切でした。マシュハドの巨大宗教施設(ハラム)が印象的です。


・アラブ首長国連邦(12/19-12/20:シャルジャ)

びっくりするほどインド人がたくさんいて、みんな親切でした。オイルマネーで潤っている感じがとてもよく伝わってきました。


・インド1回目(12/21-2008/1/15:ジャイプル、デリー、アーグラ、バラナシ、コルカタ)

混沌の国。とにかく疲れます。でも、バラナシのあのガンガー沿いの雰囲気は大好きです。コルカタでは人生で最悪のゲリに苦しめられました。


・バングラデシュ(1/15-1/22:クルナ、ダッカ、シレット、タマビル)

元インドだけにインドと似ていました。貧しい国というイメージがあったけど、アフリカやインドの後に行くとそれほどでもない印象です。名前と違って遅い船・ロケットスチーマーは良かったです。国境で初ワイロを体験しました。


・インド2回目(1/22-1/26:シーロン、グワハティ、シリグリ)

納豆を食べるためにインドの北東部メガラヤ州へ行きました。東南アジア系の人種の人が多く住んでいて、インドの一部のくせにバングラデシュよりもインドらしくなかったです。


・ネパール(1/26-3/19:カーカルビッタ、カトマンドゥ、ポカラ、 エベレスト・トレッキング)

最も好きな国の一つです。瞑想修行やヒマラヤトレッキングなどの一生忘れられないビッグイベントがあったし、印象的な出会いや再会もあったし、日本食は美味しいし、何もかもが素晴らしかったです。


・インド3回目(3/19-4/26:バラナシ、リシュケシュ、アムリトサル)

ホーリーという大きい祭に合わせて三度目のインド入国です。バラナシの久美子ハウスは期待どおり良かったです。リシュケシュの25日間のヨガ修行は、静かで平和で楽しい印象的な滞在となりました。電車移動中に財布を失くしたのですが、平和でスピリチュアルなアムリトサルでその痛手は癒されました。
インドについて、多くの旅人が「インドにいる時はインド大嫌いなんだけど、インドを離れるとなんだか懐かしくなってまた戻りたくなるんだよねー」というようなことをよく言っていますが、僕も今はその気持ちがよくわかります。僕も、旅行中には「インドはとても面白いけれども、どこも混雑していて汚くて疲れるし食事は口に会わないしで、総合的にみるとそれほど好きな国でも無いなあ」と思っていたのが、日本に帰って来てからは、インドのことを暖かく懐かしい、でも切ないような気持ちで思い出すようになってきました。なんでなんだろう。インドのことが好きになってしまったのでしょうか。


・パキスタン(4/26-6/10:ラホール、ラワールピンディー、イスラマバード、ペシャワール、チトラール、カラーシュバレー、マスツージ、ギルギット、フンザ(カリマバード、パスー)、ススト)

暑くてむさ苦しい平野部(ラホール~ペシャワール)と涼しくて風光明媚な北部山岳地帯(チトラール~フンザ)のそれぞれに違った魅力があって面白かったです。人がフレンドリーで親切だったし、色々と面白い出来事も多かったです。特にピンディーでのキャッシュカード到着待ちと、ペシャワールのババジイツアーと、チトラールでのアフガン人とのサッカーと、フンザでの孤独トレッキングが思い出深いです。


・中国(6/10-6/24:カシュガル、敦煌、興海、西寧、北京)

パキスタンとのギャップが凄すぎて入国直後は何もかもが新鮮で衝撃的でした。その先進国ぶりや、料理の美味しさや、人の顔が僕と同じことなどに。独特なトイレ文化にも。興海のチベット寺訪問は、チベット人が面白いし景色も綺麗だしとても印象的でした。


・ドイツ&スイス(6/24-6/26:ミュンヘン、バーゼル)

大学時代の友人なおくんに誘われてはるばるスイスまでサッカーを見に行きました。さすが欧州選手権の準決勝、ものすごく面白かったです。


・中国2回目(6/27-7/8:北京、昆明)

北京では、大気汚染とスイス往復のハードスケジュールのために体調を崩して宿で引きこもっていました。万里の長城は暑かったけど、やっぱり凄かったです。


・ラオス(7/8-7/10:ビエンチャン)

二日だけで駆け抜けました。のんびりとした国でした。中国人がとても多かったです。


・タイ(7/10-7/24:バンコク、コ・タオ(タオ島))

大都会バンコクで美味しいタイ料理を満喫しました。漫画喫茶にも行きました。歯医者にも行きました。タオ島で久しぶりのダイビングもしました。


・カンボジア(7/24-7/30:シェムリアップ、プノンペン)

久しぶりに日本人旅行者に囲まれてテンションが上がりました。凄く楽しかったです。アンコールワット遺跡やトンレサップ湖の水の町も良かったし、素晴らしい滞在になりました。


・ベトナム(7/30-8/6:ホーチミン、ハノイ)

東南アジアの旅のイージーさに旅のモチベーションがちょっと下がっていました。強烈なスコールとバイクの多さが印象的です。


・中国3回目(8/6-9/1:雲南省(河口、昆明、大理、麗江、瀘沽湖、シャングリラ)、四川省(攀枝花、成都)、上海、大連)

中国という刺激的な国でモチベーションも回復し、旅のラストスパートという感じでガンガン移動して観光しました。雲南省の少数民族は風情があってよかったし、成都のパンダは可愛かったし、上海の都会ぶりや雑技団は凄かったし、大連では友達にお世話になったし、やっぱり中国という国は楽しいところでした。ちなみに、この滞在は北京五輪と期間が重なっており、大理にいる時に開幕して上海雑技団見学中に閉幕しました。


・韓国(9/2-9/6:ソウル、釜山)

韓国人の友達のお世話になりました。いろんな意味で日本と最も近い国です。韓国料理が、この旅で食べた料理の中で一番好きです。


・日本帰国(2008/9/6)福岡港 、姫路


ついに帰国しました。帰国して思うことは、僕はやっぱり日本が一番好きな国だということです。



<食事>
アジアの旅は最も食事が楽しい旅でした。中東は味が単調だけど安くて美味しいし、ネパールは日本食・チベット料理・ネパール料理と何を食べても安くて美味しいし、中国は脂っこいけど安い上に味は素晴らしいし、東南アジアは中国以上に日本人好みの美味しさだし、韓国では悲鳴が出て号泣しそうになるほど何を食べても美味でした。
ただし、インドは、、、インドだけは食事で苦戦しました。一食400円くらい出すとかなり美味しいカレーが食べれるのですが、その一方で100円以下で腹いっぱいカレーを食べられるターリーというインド定食があるので、長期旅行者としてはターリーの方を食べるべきであろうと思いターリーを食べていたのですが、3分の1くらいの確立で頭がおかしくなるくらい辛いカレーに当たるのです。マサラ味とか何味とか関係なくただひたすら辛いという。しかもゲリに当たる確立も高いという・・・。なので、インド後半ではカレー恐怖症になり、インドで一番無難なニセ中華ばかり食べていました。



<犯罪やテロなど旅の危険>
アジアは、アフリカや南米のような凶悪な犯罪が少ないらしいので安全なイメージでしたが、実際、全く犯罪には遭わなくて、イメージどおりでした。町は平和な雰囲気だし、夜中一人で出歩いても問題はなさそうです。
一方でテロというイメージは世界で最も大きいと思うのですが、そちらに関しても運良く大丈夫でした。特にパキスタンは、僕が訪れる半年くらい前から総選挙に絡んで暴動などが起きて治安が悪化しており、アフガニスタン国境のテロリスト問題などでも騒がれていました。実際に僕がパキスタンにいるころは旅行者が激減していました。ただ、テロでいうと、パキスタンよりも無差別に頻繁に一般民衆を殺すインドのテロの方が怖いというイメージですが、なぜかそちらはあまりクローズアップされませんよね。なぜなんだろう。
どちらにしろ、旅行者がテロに遭遇するという可能性は低いし、僕が肌で感じた感覚でも、アフリカや南米の方がよっぽど旅行者の身に降りかかる危険は大きいんじゃないかなと思います。


<行きたかったけど行かなかった場所>
なんといってもチベット自治区に行けなかったということが一番大きいです。旅の最初の頃から、チベットにある聖山カイラスに巡礼することが旅の最後にして最大のハイライトになると思っていました。それが、今年3月のチベット暴動で突然チベット自治区に入れなくなってしまい、それはもうかなり残念でした。その代わり青海省チベット自治州に行って楽しめたので、よかったのですが。

その他

・インドの南部:ゴアやムンバイ、アジャンタ&エローラ、バンガロール、カーニャクマリなど見所満載のインド南部を丸ごとスルーしてしまいました。でも、北部だけでインドお腹いっぱいになりました。

・ネパールのアンナプルナトレッキング:たっかい入場券を買ってトレッキング用の装備も準備してパッキングして、さあ出発という前日に発熱してしまい泣く泣く断念しました。

・東南アジア:ラオスのバンガオンやタイのチェンマイ、ベトナムのフエやホイアン・ムイネイなどなど。たった一ヶ月では東南アジアは全然見きれませんでした。

・中国も広すぎるし見所が多すぎるし大変です。2ヶ月近く滞在して忙しく動いたのにも関わらず、香港、九寨溝、黄山、福建省の客家円楼や土楼、広州、などなど行きたかったところが山のように残っています。



<まとめ所感>
世界一周の最後をアジアにしたことは、とても良かったです。物価が安くて金銭的なプレッシャーがほとんど無かったし、どの国に行ってもそれぞれが個性的で刺激が強くて飽きることなく楽しめたし、帰国直前に至るまで旅のモチベーションが落ちることはほとんどありませんでした(もしヨーロッパが最後だったらグダグダの最後になっていたと思います)。特にネパールやインドにいたころは、この旅でも最高に旅への熱意が高まって、強く深い刺激的な経験をすることができました。

また、南北アメリカ編で飛行機を使いすぎて旅が味気なかったことの反省で、極力飛行機を使わずにほとんど陸路と海路で旅ができたこともとても良かったです。特にバス移動では、休憩を何度もしながらゆっくりと長い時間をかけて目的地に向かって行くので、途中で色んなものが見れるので、そこはとても良かったです。

出発前からアジアに最も時間がかかるだろうと予想していたので、11ヶ月という最も長い時間をアジアに割り当てましたが、それでも全然足りなくて、結局最後の方の東南アジアや中国は駆け足になってしまい、多くの見所を見逃してしまいました。そこは少し残念です。

でも、何と言っても結局は、生きて無事日本に帰ってくることができたので、このアジア編は大成功だったということにしたいと思います。


旅の終り

2008年09月13日 02時32分54秒 | アジア


中国の成都からは、電車で一気に上海まで移動しました。1600km、40時間、2泊3日の列車の旅でしたが、中国に長くいるとそれくらいの移動では全然普通に感じてきます。以前の北京から昆明への移動はもっと長かったし、ほんとに広いです、中国は。

上海は想像を遥かに上回る大都会でした。ニューヨークや東京などの世界的大都会にもさほど劣らない都会ぶりには、正直びっくりしました。中国を旅して感じるのは、中国の国力はひょっとしたら一般的に日本人が思っているよりも遥かに凄いのではないのか、ということです。日本人や欧米人の旅行者と中国で会うと必ず話題になるのが”中国って想像以上に発展している”ということです。テレビや新聞などの報道を見ていると”沿海部はそこそこ発展しているが内陸部は貧しい農村である”というようなイメージで語られていることが多いように感じます。急速に発展はしているけれども、貧富の格差は開いているというようなイメージもあります。しかし、僕が訪れた中国の内陸部の町、例えば青海省の省都・西寧なんかは、完全に大都会でした。町に乞食はほとんどいないし、道行く人のほとんどは小奇麗な格好をしているし、それほど貧富の差というようなものは感じません。そこからバスで7時間の草原に囲まれた村・興海でも同様でした。格差の宝庫であるインドやアフリカ諸国に比べると、国民の大部分が中流階級という風に感じます。ある欧米系の雑誌でも”現在の中国は新たに出来た「中流階級」が人口の中で最も高い比率となってきており、経済活動でも社会生活でも中国の中心となってきていて、そのことが今後のさらなる成長への基盤となるであろう”というような論調でした。恐らく僕らは中国のことを過小評価しているんじゃないかと思います。毎年10%の成長を続ける国だから、3年後にはさらに凄い存在になっていることでしょう。そのことを考えると途方に暮れるような気持ちになります。といいながらも、流されていないトイレや街中で痰を吐きまくる中国人やコピー商品の山を見ると、うーん、やっぱり途上国なのか?とも思ってしまいます・・・。

賑わっている歩行者道路


外灘(バンド)から見た対岸の浦東エリア

上海のシンボルの東方明珠塔がロケットのようにそびえ立っていますが、右奥のビルの高さも相当凄かったです(写真では伝わってないですが)。

夜景バージョン


浦東の巨大スクリーン(上の写真の右側部分の望遠写真)

中央のAURORAと書いてあるビルと隣のビルの壁一面はそれぞれ巨大スクリーンとなっていて様々な映像が流されています。このような巨大なビルの壁の一面全体で映像を流しているのは初めて見ました。すごいです。上海すごすぎです。

対岸に渡って外灘側の夜景

こちら側は租界時代の古い建物が多いです。

浦東地区の高層ビル群

まさにコンクリートジャングルでした。

外灘の洋風なエリア

今まで中国の町というと、どこもかしこも似たような建物ばかりで個性が少なくてすぐに飽きてしまうのですが、上海は租界時代(部分的植民地時代)の名残が多く、見ごたえがありました。

古い煉瓦造りの建物が残っていたりして風情もありました。


町の中心地の公園では公開お見合い相手探し市のようなものが。

写真を撮ったら怒られました。この写真はこっそり隠し撮りしたものです。どうやら本人は来ていなくて、親族らしき人達が紙に名前・性別・年齢・学歴・職歴・趣味・結婚相手の条件・希望などを書いてそれを公園に並べて、その情報に興味を示す相手が現れるのを待つというシステムっぽかったです。旅行者でも誰でも普通に立ち寄れるような場所でこういうことを堂々とやっているという中国人の感覚は凄いですね。

上海といえばやっぱり雑技団!これはもう、めちゃくちゃ面白かったです。これに出演している人達は本当に超人です。それぞれのパフォーマンスには何段階かの見せ場があって、まずほんの触りの部分ですら、「すごい!」と唸ってしまうような超人技なのですが、そこからさらにレベルの上がったことをされて、「うわっ!」とか「まじでっ!」とか目の玉が飛び出るような衝撃を受けるのですが、そこからさらにもう一段階上のことをするんですよ、彼らは!もう「ななななななっ!」とか「ままままままじでっ!」とか「ぎょぎょぎょぎょぎょっ!」とか、そういった言葉にならない言葉しか出てこないです。本当に凄かったです。いくつかのパフォーマンスは過去にテレビで見たことがあるはずなのですが、それでも新鮮な驚きでした。

上演中の写真撮影は禁止なので出演者のポスターの写真です。

傘を足などでくるくると回すパフォーマンスです。映画の特殊撮影か?という感じの種も仕掛けも無いとはとうてい信じられない凄まじいパフォーマンスでした。

左はオートバイ・パフォーマンス、右は輪くぐりです。

この日の大トリが左のバイク・パフォーマンスだったのですが、これはもう、生涯決して忘れることが出来ないようなウルトラ・スーパー・パフォーマンスでした。今後見る人がいるでしょうからネタバレ的なことは書きませんが(内容を知らずに見た方が面白いと思います)、とにかく凄かったです。必見です。

上海の宿では、上海から日本へ船で帰るという日本人の旅人に何人か会いました。彼らと「早く日本に帰りたいねえ」なんて話していると、本当に一刻も早く日本に帰りたい気持ちになりました。


上海から大連へは各コンパートメントにテレビが付いている新しい車両の電車で移動しました。大連に日本時代の友人・たぬきさんが語学留学中だったので、たぬきさんに大連を色々と案内してもらうことができました。たぬきさん、体調の悪い中、どうもありがとうございました。


たぬきさんが留学中の大学の敷地内の店でビールを頼むとグラスとして湯飲み茶碗が出てきました。うーむ、、、さすが、中国・・・!


ショッピング中に見かけた中国オリジナルと思われるキャラクターグッズ・ジムとミーナ(JIM&MINA)


久しぶりにカラオケにも行きました。

写真はたぬきさんの大好きなマレーシア人の歌手です(中国語で歌うので中国で人気があるらしい)。さすが、中国に来てから1年経つたぬきさんは、見事に中国語で彼の歌を熱唱していました。僕の方はというと、入っている日本語の曲が1990年前後の曲しかないので、自然とナツメロ大会になってしまいました。それでも久しぶりのカラオケはかなり楽しかったです。

駅前のショッピングモール

ガラス張りの壁だし、スターバックスや吉野家が入っていて、なかなか素晴らしいビルでした。

ドラ焼き屋さん

中国人はドラえもんが大好きなのですが、大連のドラえもん好きは他の地域よりも一段上でした。ドラ焼き屋がいくつかあって、しかも「あん♪あん♪あん♪とっても大好きドラえ~もん~♪」という曲までかかっていました。しかもキャラクターグッズまで売っているし。恐るべし大連。

大連から韓国までは船(大仁号)で行きました。この旅で最後の国・69カ国目の韓国です。以外にも豪華で快適な船旅でした。お客さんは中国人と韓国人が半々くらいでした。

二等のチケットを買ったのですが、なぜか一等船室に入れてくれました。船室内にテレビ、トイレ、シャワーが付いている超快適な部屋でした。


さよなら中国




韓国では、中東のシリアで出会った韓国人の友達にいろいろと案内してもらいました。それにしても、韓国は中国と比べるとかなり日本に近いです。韓国人の友達も「中国と韓国はあまり似てないです。地続きなのに不思議です。日本と韓国は似てますね。」と言っていました。それにしても、街中で痰を吐く人がいないだけで、こんなに気分が良いとは思いませんでした(僕も今後は気をつけます)。道端に落ちているゴミは少ないし、電車やバスで騒ぐ人や音楽を大音量でかける人もいないし、服装も洗練されているし、町の外観に関しても建物の造りや看板の付き方が日本っぽいし、言葉の違い以外は日本にいるのとほとんど違いはなさそうです。

友達曰く”韓国の原宿”

原宿とはちょっと雰囲気は違いますが、観光客や韓国の若者が集まるメジャースポットのようです。日本人観光客がめちゃくちゃたくさんいました。

ソウルの中心を流れる人工の川・チョンゲチョン

現大統領がソウル市長時代に作った人工の川だそうで、市民の憩いスポットらしいです。現大統領は韓国経済が不調のために不人気らしいのですが、ソウル市長時代のこの仕事は市民から好評を得ているそうです。


韓国といえば、何といっても韓国料理が最高でした。この旅で最も料理が美味しい(というか僕の口に合う)国でした。何を食べに行っても数種類のキムチが無料でついてくるし、お米は美味しいし、それだけでもう素晴らしいです。焼肉、冷麺、ビビンバ、チゲ鍋、チヂミなど、何を食べても大満足の美味しさでした。料金はさすがにちょっと高いのですが、日本で韓国料理を食べることを考えると激安です。

友達お勧めの有名店で食べた冷麺

この旅で食べた美味しいものランキングで絶対にベスト5に入るであろう美味しさでした。スープの甘さと酸っぱさと辛さのブレンドが絶妙でした。

韓国風焼肉

見ての通りの美味しさでした。

古い町並みが残る地区・北村韓屋村

実はソウル中心地にある高級住宅街らしく、昔ながらの古めかしい木の門にセコムのマークが貼ってあったりする家が多かったです。でも観光地でもあるらしく、日本人ツアー客なんかが写真をパチパチと撮っていました。もちろん僕も。一般人の住む住宅地なのに。

ナムサン(南山)から見る夕焼



ソウルから釜山へはKTXという韓国版新幹線に乗っていきました。最後の滞在地・210都市目の釜山へ。素晴らしい乗り心地でした。

そして釜山で泊まった最後の宿がこれです。

一泊3500円のシングルルームなのですが、広くて清潔な部屋に、40インチ近い大画面のテレビ(NHKが映りDVDの無料貸し出しまであり)、ネットに繋がるパソコン、無線LAN、冷蔵庫、熱湯も出る給水機、エアコンに扇風機、テーブル、イス、バスタブ付きのシャワールーム、ドライヤー、歯ブラシ、シャンプー、タオル、パジャマ、などという考えられうる最高の設備の部屋でした。しかも駅から徒歩1分で、徒歩3分以内にコンビニが数軒あり、旅の最後の夜は夢のような環境での宿泊となりました。翌日、前回のブログ(帰国直前日記)をアップし、バスで数分乗って港に行き、福岡行きの船に乗りました。

船に乗る直前。鏡に映る自分を撮ってみました。

船の乗客のほとんどは日本人の団体ツアー客でした。みんな荷物はスーツケースで、バックパックを背負っているのは僕一人でした。

出航時の釜山は雨だったのですが、福岡に着く頃には晴れ間が見えてきました。でも、まだ雨はぱらぱらと降っているみたいで、この時の僕の心情のように複雑な空模様でした。



韓国からの船は無事日本に着きました。入国時の荷物検査で、東南アジアに行ったことを言うと別室に連れて行かれて厳しい荷物チェックを受けました。やましいものは何も持っていなかったので別にびびったりはしなかったのですが、やっぱりたった一人汚いバックパックを背負っているのが怪しく見えたのかと、ちょっと自分の身なりが心配になりました。荷物チェックが終り、福岡の中心地・天神に出てみると、町を歩く人のオシャレ度が、韓国なんかとは比べ物にならないほど高くてびっくりしました。ソウルにいる時は、韓国と日本はほとんど同じだと思っていましたが、オシャレに関してはまだまだ日本が数段上のような感じです。それに引きかえ僕の服装は、大連で会ったたぬきさんから「中国人そのもの」と言われるような服装です。長期旅行バックパッカーの割には小奇麗な格好をしているとたまに言われていたのですが、一般人から見るとかなり酷いみたいです。ちょっと恥かしいですが、まあ仕方ないです。家に帰って着替えるまでの我慢です。

中国で出会った何人かの旅人には、「福岡から姫路までヒッチハイクで帰る!」などと吹きまわっていたのですが、日本に着いたとたんに急にヒッチハイクをするのが激しくめんどくさくなったので、大人しく夜行バスで神戸まで帰りました。そこから電車で実家のある姫路市の英賀保駅まで帰りました。電車内で、早朝の通勤・通学している人にまぎれて汚くて大きいバックパックに乞食まがいの中国人的な服装にヒゲという僕の姿は、さすがにちょっと浮いていました。加古川あたりで乗り込んできたおじさんの乗客が、しばらく僕のことをじろじろと見た後で「山にでも行ってきたんですか?」と聞いてきたので「いや、ちょっと海外旅行を・・・」ともごもごと答えると、そのおじさんは海外の山にも詳しくてパキスタンのフンザやネパールのヒマラヤの話で少し盛り上がりました。おじさんが降りた後、近くにいる男子中学生3人組の関西弁の会話が聞こえてきて、それがまるで漫才のようなテンポのよさで面白くて、聞いていてなんだか嬉しくなりました。旅行中は他の乗客の会話は全て意味がわからなくて聞き流していたけど、日本では全部意味がわかるので思わず耳を傾けてしまいます。窓の外の景色は旅行前に何十回と見ている見慣れた景色のはずなのですが、なぜか印象が少し違っていました。こんなに緑が多かったかな?こんなに家はまばらだったかな?まるで、初めて乗る電車に乗ってまだ行ったことのない見知らぬ町へ移動しているような、まだ旅が続いているような錯覚が襲ってきました。でもまあ、また次にこの風景を見るときにはそんな錯覚は消えていることでしょう。




しばらくして僕は家に着きました。バックパックを降ろし、母親に作ってもらった朝食を食べました。そして僕の世界一周の旅は終わりました。


帰国直前日記

2008年09月06日 11時20分39秒 | アジア
今日の午後の船で日本に帰ります。釜山から福岡への船に乗る予定です。たったの3時間で日本に着くそうです。2年と1ヶ月の旅の最後としては、なんかちょっとあっけない感じです。






旅が終わることの寂しさや嬉しさ、日本に帰ることの嬉しさや不安、いろいろと感情の波が押し寄せてきます。全身に押し寄せてきます。感情の整理が難しいです。


日本に帰ったら山のようにしたいことがあります。
友達と飲みに行きたいし(特に居酒屋で)、寿司を食べたいし、漫画喫茶に篭りたいし、図書館で本も読みたいし、新しい自分の部屋を借りたいし、新しい服を買いたいし、サッカーやゴルフやスノーボードなどもしたいし、好きなバンドのライブにも行きたいし、仕事に熱中したいし、お金も稼ぎたい。そして、今度はリッチな短期旅行をしたい。温泉などの国内旅行もしたい。何にせよ全く新しい生活になるのです!

というようなことを考えていると胸が弾んできます。





旅が終わってしまうことはとても寂しいですが、逆にもう旅をしなくていいと考えると嬉しかったりもします。
貴重品の管理に四六時中気をとられることも、強盗やスリに怯えながら昼も夜もびくびくしながら町を歩くこともないのです。日本という世界で最も治安の良い国に住めるです。
もう重い荷物を背負って宿やバスターミナルを探したり、10時間以上もおんぼろバスにすし詰めで揺られたりしなくてもいいのです(日本ではすし詰めの通勤列車に揺られますが)。日本では自分の部屋に定住するのです。
もう刑務所のような最低レベルの部屋に泊まったり、ダニや南京虫の心配をしなくてもいいのです。世界最高レベルのインフラと清潔さの国に住めるのです。
もう怪しげな客引きや売人につきまとわれることも、値段交渉で声を荒げることも、やっぱりボラれてたかとがっかりすることもないのです。フィックスプライスの国だから。
味と衛生面が心配でドキドキしながら食事の注文をしたり、実際に不安的中して激しい下痢に悩まされることもないのです。世界で最も美味しく衛生的な日本食を毎日食べれるのです。
通行人から好奇の目でじろじろ見られたり、子供にチンチョンチャンやジャッキーチェンと言われる事ももう無いのです(中国に来てからはすでに無いけど)。だって周りはみんな日本人なのです。
もう欧米人の英語がよく聞き取れないと悩む必要もないし、英語が通じない国で身振り手振りで必死にコミュニケーションを取る必要もありません。全員流暢な日本語を話すのです!
ああ、嬉しいなあ。
でも、寂しいなあ。

今までの旅の思い出が次々と体の隅々に甦ってきます。









まだまだ色々と書きたいですが、時間が来たのでこれくらいにしておきます。

上海、大連、韓国のブログは帰国後にアップします。


それでは、日本で!

成都(三国志とパンダと麻婆豆腐)

2008年08月30日 20時17分15秒 | アジア




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麗江に昼の12時ごろに到着し、そこのバスターミナルで14時30分発の攀枝花(パンジファ)行きのバスチケットを買いました。ガイドブックの地図でもう一度攀枝花の場所を確認してみると、4日くらい前に麗江からバスで行った瀘沽湖(モソ族)の近くでした。麗江から瀘沽湖まではバスで片道7時間くらいだったので、攀枝花までもだいたいそれくらいの時間がかかって夜の9時半くらいに到着するだろうなと見当をつけました。それくらいの時間帯なら、大きい町ならば宿探しに苦労することもないだろうとも思いました。バスターミナルで運良く成都行きのバスでもあれば、それにそのまま乗れるかもしれないですし。

攀枝花行きのバスはそこそこ大きいバスでした。道は瀘沽湖へ行ったときよりも険しい山道で、カーブがとても多くて道幅も狭く、対向車との行き違いは毎回スレスレなのでかなり怖くて、車内全体に唾をごくりと飲み込むほどの緊張感が漂います。バスが大きいので乗り心地はそれほど悪くはなかったのですが、僕の座席の通路を挟んで隣の座席に座っている若い中国人の男性がずっとゲロを吐き続けていました。出発してからずっとです。それも15分おきくらいにです。しかも通路に置いてあるゴミ箱に向かって思いっきり吐くので、僕のズボンにかからないかとても心配です。車内が揺れるたびにゴミ箱が倒れて彼の吐瀉物が僕の足元に流れ出さないかも心配です。気になって綺麗な山の景色を楽しめません。でも、真っ青な顔一面に脂汗を垂らしながらなので、とても気の毒です。幸いゴミ箱が倒れることは一度もありませんでしたが、その脂汗の彼はその後数時間に渡ってずっとコンスタントに吐き続けていました。バスに乗ってから全く飲み食いをしていないはずなのによくもそれだけ胃の中に吐くものがあるなというのが驚きでした。

逆側の隣の座席は中国人の女の子でした。僕が足元のゲロ満載のゴミ箱のことを苦々しく感じていると、突然、彼女が聞いているウォークマンのイヤホンの片方を僕に貸してくれて「どうぞ、聞いて。」と言うようなニュアンスのことを中国語で言いました。流れているのは中国語の綺麗なメロディのバラードでした。音楽を聴きながら僕は、ゲロゴミ箱のことはすっかり忘れて、「中国ポップスっていいなあ。それにこの女の子優しいなあ。」なんて思って、すっかり楽しいバスの旅になりました。その後の夕食休憩の時には、彼女のお姉さんとそのボーイフレンドと一緒に片言の英語で会話しながら夕食を食べました。隣の女の子は、僕のことを中国人だと思ったので声をかけたのだそうです。食事の最後には、お姉さんのボーイフレンドが「当然だろ!」という感じで奢ってくれました。

そんな親切な三人組


攀枝花に着いたのは夜中の2時でした。しかも僕が降ろされたのはバスターミナルでもなんでもなく、真っ暗な幹線道路の脇で、そこには高そうなホテルが一軒あるだけでした。そのホテルの人に聞くと(筆談)、成都行きはバスではなくて電車があるそうで、駅まではバスで一時間もかかるしこの時間だともちろんバスは無いそうです。仕方なくこの高いホテル(1300円)にチェックインして(でもすごく快適でした)、翌日駅へ行って成都行きの電車チケットを買うために窓口へ行きました。硬臥(寝台)のチケットを買おうと思っていたのですが、硬座(リクライニングなしの座席)しかチケットはありませんでした。攀枝花から成都まではてっきり(いつものように)24時間とかの長時間かかる夜行移動になると思っていたので、「これは相当きついことになりそうだ」と思いながら電車に乗りました。でも、成都に着く時間を確認したら当日の夜11時30分に着くことがわかり、ほっとしました。乗車時間12時間ですが、夜行じゃないのならなんとかなりそうです。僕がなぜ硬座での夜行移動を恐れているのかというと、経験のある旅人からの情報で、硬座は夜の間ずっと電気が明々と点いていて、中国人達は団体でトランプなどをして大騒ぎをしており、乗客は定員オーバーで座席は狭くリクライニングが無いので、とてもじゃないけど寝れる代物ではないと聞いていたからです。でも、昼間だけの移動ならいたって快適なのです。この日も周りの中国人達が僕が日本人だとわかると、言葉が全然通じないのに中国語でどんどん話しかけてきたり、お菓子をもういらないと言っても次々と差し出してきたり、散々お世話になってしまい、あっという間に12時間が経ちました。疲れましたが。

というような感じで、前日の朝6時に始まったシャングリラから成都への長い移動は36時間後の深夜12時過ぎに目的地である成都の超有名宿シムズ・コージーに到着することにより、ようやく完了したのでした。ゆっくりと寝て休みたかったけど、蚊が多くて何度も目を覚まされました。



成都に着いた次の日を完全休養日として体力を回復させてから、成都観光を行いました。僕の中で成都観光といえば、三国志とパンダと麻婆豆腐(四川料理)です。

まずは三国志から。成都は、三国志において、劉備玄徳や諸葛亮孔明が建国した蜀の都です。その蜀の英雄達が祭られている武候嗣というところに行きました。ちなみに、僕が三国志を好きになったきっかけは小学校時代にNHK人形劇を見ていたからなのですが、その物語は蜀びいきの構成となっているので、後に僕がファミコンでゲームの三国志をするようになってからも蜀を使うことが多かったです。なので武候嗣で祭られている蜀の武将達は馴染み深い人物が多くて、懐かしい思いがします。また三国志のゲームをしたくなりました。

各武将達はそれぞれ塑像となって陳列しているのですが、その塑像は下の写真のような感じなのです。

武候嗣の塑像代表例


見ての通りヒゲが長すぎます。それになぜか耳の下から長い毛が生えて・・・。なんか、ちょっと微妙な感じです。NHK人形劇やゲームのグラフィックのようにかっこよくないです。

でも、この武候嗣の主である劉備玄徳はさすがの御威光!慈愛に満ちた眼差しです。さすが人徳が売りの君主です。

ヒゲが不自然に長かろうと、耳の下から不自然な毛が生えていようとも、やっぱり玄徳は素晴らしい!・・・。

当時最強の豪傑の一人だったはずの関羽は、なんだか優しい感じに。

ちなみに、関羽はなぜか中国国内では商売の神様として崇められていて、商店や食堂には悉く彼の像か絵が飾られています。三国志の物語中には、彼が商売上手だったというようなエピソードは無いにもかかわらず。

関羽と違って弟分の張飛は豪傑というイメージ通りでちょっと安心しました。

目をひんむいています。

武候嗣のもう一人の主・諸葛亮孔明は、別格として劉備よりもさらに奥に鎮座していました。


僕の三国志の原点・人形劇の孔明人形も陳列されていました。かっこいい。


小説や漫画でも三国志の物語を読みましたが、何度読んでも後半は物悲しい気持ちになります。前半部分で活躍した英雄達がみんな志半ばで死んでいき、特に蜀に関しては劉禅という愚帝のせいであっけなく滅んでしまうという悲しい結末になるからです(その上、魏も最終的に司馬一族に乗っ取られる)。そんな蜀の2代皇帝であり最後の皇帝となった劉備の息子・劉禅の塑像は、この武候嗣には飾られていませんでした。不自然ですが、当然のようにも思えます。


武候嗣の側の星巴克珈琲(スターバックス)





パンダは、”パンダ基地”というパンダ専門観光施設へ見に行きました。ものすごいたくさんの数のパンダがいました。


施設内の注意書き

「私は国宝です。騒ぐことを恐れるのです。」他に、「私を愛してくれて、怒らせないでください。」などの微妙な表現で観光客をたしなめています。

食後、まどろむパンダ。自分のお腹をぺろぺろなめてます。

このパンダを見た欧米人の第一声は「なんて姿勢が悪いのかしら!」でした。

生後一ヶ月くらいの赤ちゃんパンダもいっぱいいました。写真撮影禁止だったのが残念です。とてもかわいかったです。

そして、自分で食事ができる子供パンダもいっぱいいました。

彼らはぐーたらな大人パンダと違って活発でじゃれあったりして動きがあり、いつまで見てても開きませんでした。

そんな子供パンダをだっこする中国人観光客。

パンダの目がちょっと怖いですが。ちなみに一回16000円という破格のお値段でした。僕もだっこしたかったけど、ちょっと無理です。


成都には串焼き屋が多かったです。

牛や鳥や魚介や野菜など様々な食材があるのですが、いかんせん味が辛すぎて何を食べても辛さしか感じませんでした。辛いのが苦手な僕には四川料理は厳しいです。

そんな四川料理のハイライト・恐る恐る入店した陳麻婆豆腐店

ガイドブックによるとこの店が麻婆豆腐を最初に作った店であるかもしれないとのことです。陳婆さんが作った辛い豆腐ということで、麻婆豆腐という料理名になったと噂されています。(”麻”という中国語は山椒のしびれる感じなのだそうです。)

そんな元祖・麻婆豆腐

これほど大量の山椒が入った食べ物を口にしたのは人生で初めてでした。半分も食べるのが精一杯でした。本当に辛かったです。



ところで、成都には、小さなチベット人街がありました。チベット人向けの、仏像やマニ車やタンカ(仏画)やタルチョ(五色旗)や毛皮やブーツやテンガロンハットなどのチベットグッズがたくさん売っていてテンションが上がりました。いつの日かここでチベットグッズを買い揃えて、チベタンコスプレをしてカイラス山巡礼をしてみたいものです。


中国雲南省の旅・その3(シャングリラ)

2008年08月26日 02時45分41秒 | アジア
麗江(リージャン)からバスで数時間山の中を走って香格里拉(シャングリラ)へやって来ました。それにしてもシャングリラ(理想郷)とは凄い名前ですね。全く中国の地名とは思えないです。案の定、ついこの前までは中甸(ジョンディエン)といういたって中国的な名前だったらしいのです。それが、最近になって地方政府が「ここは”シャングリラ(理想郷)”である!」と突然宣言して町の名前を改名したのだそうです。なんと強引な。ちなみにシャングリラの語源はイギリス人の小説が元らしく、そこでは仏教の理想郷という意味で使われていたのだそうです。そして、ここ香格里拉は、実際に雲南省の中のチベット族自治州の町で、住民の大部分はチベット仏教徒です。なので、地方政府はあながち嘘を言っているわけでは無さそうなのですが、僕が滞在していた時はずっと雨か曇だったので、シャングリラという名前からイメージする美しい風景とは出会うことはできませんでした。残念ながら。ただ、チベット仏教の僧侶達は相変わらずフレンドリーで親切で独特の雰囲気を持っていて、滞在はとても楽しかったです。

シャングリラを代表するチベット仏教寺のスンツェリン・ゴンパ(松賛林寺)



なんと観光客は入場料を払わないと入れないというとてもツーリスティックな場所でした。中国人の団体観光客が大挙してやってきていたりもしてました。「お布施を払えば幸せになること請け合い!」みたいな張り紙と賽銭箱がいたるところに設置してあったりもしていました。でも、寺の内部では僧侶が生活をしていたり修行をしていたりするのが見れるし、僧侶のみなさんは僕が日本人だとわかると「君は良い人だ」とチベット語で何度も言ってくれたり、果てには頭をなでてくれたりと大そうな歓迎ぶりをしてくれたりしました。

寺の周囲を取り囲んでいる僧侶の住居





門のところで待ち構えているチベットの女性達。

写真を撮ると激しくチップ要求をしてきました。ここはエジプトか?と一瞬思います。

道でみかけたチベット人の子供

傘で遊んでいるところを「かわいいなあ」と思って写真を撮ると、まさかのチップ要求をしてきました。断ると僕のカメラのひもをつかんで引きちぎり、泣きながら「お金ちょうだい~」と叫び出しました。周りの観光客がじろじろと見てくるし、仕方なく1元(16円)を払いました。この写真はなかなかお金を渡さない僕に傘で襲い掛かっているところです。チベット人のたくましさは、子供の頃からすさまじいものがあります・・・。

マツタケバーベキュー

香格里拉は松茸の名産地らしく、屋台で松茸を食べました。唐辛子と山椒がかかりすぎていて松茸の風味は無くなっていました。

香格里拉の旧市街にある巨大マニ車

マニ車というのは、チベット仏教に伝わる便利宗教グッズで、わっかの中にお経が書き込まれていてそれを一回まわすと一回読経した事と同じ効果が得られるのだそうです。瀘沽湖の道端で会ったおばちゃんグループも小さいマニ車をそれぞれ手に持って、それを廻しながらのんびりとぽくぽくと歩いていました。この写真はそのマニ車の超巨大バージョンです。高さ10mくらいはありそうです。下のほうに人が持って廻すための手すりがついていたので、実際に廻すことができそうなのですが、一人でひっぱってもうんともすんともいいませんでした。あきらめて立ち去ろうとした時、ちょうどチベット人の老夫婦がやってきて「一緒に廻しましょう」という感じで誘われたので「たった三人でまわるのかなあ」とやってみると、これが簡単に周りました。チベット人老夫婦おそるべしです。これが信仰の力なのでしょうか・・・。後で別のチベット人に聞いたところによると、普通は6人がかりでまわすのだそうです。

軽々とまわす老夫婦(だんな)


シャングリラの古城(旧市街)


その多くがチベット式の建物で、タルチョ(色とりどりの旗)もたくさんはためいていて、チベット風情満点でした。


ライトアップされた巨大マニ車


夕食を食べたレストランで英語を話せるチベット人がいたのでチベット名物のバター茶を飲みながら話を伺うと、チベット人がなぜガタイが良くて強そうなのかというと、毎日バター茶という高カロリーの飲み物を飲んでいるからだと言っていました。バター茶があるから標高が高い厳しい環境の中を生きていけるのだそうです。ちなみにバター茶というのは、その名のとおりお茶にバターを溶かした飲み物です。寒いところで飲むと暖まります。


さて、シャングリラの後は、稲城(ダオチェン)や理糖(リタン)というチベット文化圏を通って成都へ行く予定だったのですが、噂どおりそちら方面のバスのチケットを売ってくれなかったので(オリンピック期間中はチベット関連の地域への外国人旅行者を禁止しているらしい)、仕方なく麗江に戻ってそこから成都を目指すことになりました。写真は、その麗江のバス停で見た女性です。

すごい帽子です。成都については次回のブログで書きたいと思います。


上記のようにオリンピック期間中はチベットには行くことは相当厳しいし不可能に近いと思っていたら、上海で会った日本人の旅人が、なんとオリンピック期間中にパーミット無しで普通に電車でラサと上海を往復して帰ってきていました。びっくりです。電車内で何度もパスポートチェックあったらしいのですが、無事ラサに着いたそうです。中国政府も甘いのか厳しいのかよくわからないですね。



<近況>今、上海なのですが、たまげるくらい大都会です。本当にびっくりするくらい大都会なのです。

中国雲南省の旅・その2(麗江・瀘沽湖)

2008年08月22日 01時59分16秒 | アジア
大理からバスに4時間乗って麗江(リージャン)という町にやって来ました。ここは、昔ながらの街並みがとても美しく残っているということで世界遺産に登録なんかされている雲南省観光のハイライトといえる有名観光地です。ここはナシ族という象形文字を使う少数民族の暮らす町だそうです。

そんな麗江の町並はとても綺麗で、あてなくぶらぶら歩いているだけで胸が高鳴るような素晴らしさでした。

今回は写真多めで紹介いたします。
その1


その2


その3


その4


その5


その6


ただし、中国人の観光客の数がやたらと多くて、彼らの「カーッ、ペッ」という例のあれがしょっちゅう聞こえてきます。もちろん地元のナシ族の人からも。そのたびに気分が萎えますが。

中国人団体ツアーの皆様

町の中心部はどこもかしこもこのような団体で埋め尽くされていました。いたるところで写真撮影をしまくりです。


麗江に着いた初日は、宿探しにとても苦労しました。宿の数はめちゃくちゃ多いのですが聞いても聞いても予算オーバーの宿しかなく、2時間以上かかってヘトヘトになった末、ようやく見つけた予算内の宿が民家に毛の生えたような民宿でした。

掃除中のピンクの人は宿のナシ族のおばちゃんで、右下に見える青いのは猿を飼っている檻です。というか、何ゆえ猿を檻に入れて飼っているのでしょうか。夜中キーキー鳴いてとてもうるさかったです。しかも、宿泊者名簿を見ると僕の前に泊まった人は2007年9月の宿泊でした。うーん、営業は大丈夫なのか非常に心配になります。部屋はとても綺麗で清潔でしたのでオッケーなのですが。しかし、翌日別のユースホステルに移りました。そのユースホステルは前日必死に探して見つからなかったのですが、落ち着いて探せば簡単に見つかりました。

そんな麗江のユースホステル


風情があって大変良かったです。それに毎日入れ替わり立ち代りで新しい旅行者がやって来るので楽しかったです。宿泊客は主に中国人なのですが、ドミトリーの中国人は意外と一人旅の人が多かったです。さらに意外なことに英語を話せる人も多くて、話し相手に困るようなことには全くならなかったです。みんな明るくて楽しい人ばかりで、毎晩夜中の2時や3時までビールを飲んだりして、良い思い出の宿になりました。

街中で踊るナシ族

雲南省の少数民族たちはどの民族もみな歌や踊りが好きなようです。



麗江では近郊の見所として瀘沽湖(ルーグーフー)という所に行きました。ここにはモソ族という可愛らしい名前の民族が住んでいるということです。しかも、ユースホステルで出会った中国人の学生によると、モソ族は女系制と通い婚の文化らしく、女性が家の主人であり、結婚しても一緒に住まずに男性は子作りのために女性の家に通い、子供が出来ても特に男性は世話をするとかは無いのだとか。しかも一人の女性は何人もそういう関係の男性を持っているのだとか。どこまで本当かは知りませんが、凄い話ですね。

そういうわけで近郊というにはあまりにも長い片道7時間の山道バス移動の末にルーグーフーに到着しました。

瀘沽湖


ボートに乗って湖中の島に行ったりもしました。

ボートを漕ぐのはやっぱりモソの人で、モソの歌を歌ってくれたりしました。ちなみに行った先の小さな島にはチベット仏教の寺がありました。モソはチベット文化圏ということらしいです。

モソ族の家


モソ族のダンス


フエの音にあわせて歌って踊っていました。歌が物凄く上手くて感動しました。


瀘沽湖名物のカエル料理に挑戦してみました。カエルに関しては、日本で学生時代にバイトしていた中華料理店でカエルの唐揚がメニューにあって、よくそれを食べていてそれは鳥の唐揚とほとんど同じ味と食感だったのですが、本場中国のカエル料理はいったいどのような味なのでしょうか。

湖で取れたばかりの牛蛙を調理します。

この後、台所で包丁で豪快にぶった切られていました。

出来上がり図


写真ではあまり伝わっていませんが、見た目はかなりグロいです。なぜならカエルの身の部分だけではなく皮膚や骨や内臓がそのままくっついて来ているからです。ぶった切った状態をそのまま調理したみたいです。えいやっと口に入れてみると、これがなかなか白身魚みたいでさっぱりしていて美味しかったです。

そんな感じの瀘沽湖&モソ族観光だったのですが、中国語がさっぱり話せないので結局女系制文化や通い婚については何も判りませんでした。ただ町のあちらこちらに「Girls’ Kingdom」とか「Sisters’ States」といった看板があったので、まあそういう女性中心の文化ではあるんでしょうね。


そして、また7時間バスに乗って山道を揺られて麗江に戻って来ました。そしてビザを延長して、すぐに香格里拉に移動しました。僕は以前中国地図を見ていた時に香格里拉をコウクリラと読んでいたのですが、実はシャングリラと読むのだそうです。なんという中国らしくない名前の町なのでしょうか。そんなシャングリラについては次回にて。


<近況>現在は成都にいます。明日の夜行バスで上海に移動する予定です。

中国雲南省の旅・その1(河口・大理)

2008年08月20日 21時12分06秒 | アジア

前回のブログでベトナムでは蚊に刺されなかったと書きましたが、中国に出国する直前の国境の町ラオカイで、なんと蜂に刺されました。ミツバチのような小さ目の蜂に。20年以上ぶりに蜂に刺されましたが、昔の記憶以上に相当痛かったです。その後、刺された右膝は腫れ上がり痛痒い状態が一週間くらい続きました。

そんなこんなで、痛痒い右膝をぼりぼりと掻きながら国境を越えて中国に戻ってきました。この旅で3度目の中国入国です。パキスタンからの入国時とは違って、大勢の中国人観光客や仕事のベトナム人でごった返す国境なので、係官も忙しそうで荷物検査も適当でした。国境の中国側は河口(フーコー)という小さな町です。ベトナムとの国境なので、”ベトナム市場”というものがありました。そこを覗いてみると入り口を入ってすぐにいきなり”成人用品”の店が正面にどどーんとあり、その奥には同じような店構えの小さな店がいくつも並んでいて、そのほとんどの店が「香水・サンダル・武器」の3種類の品物を取り扱っているのです。香水とサンダルと武器・・・。なんという不思議な取り合わせなのでしょうか。しかも、その成人用品やサンダルや香水や武器とベトナムとの関連性が良く判りません。一応、市場の中の食堂ではベトナム料理を扱っていましたが・・・。

河口のベトナム市場。

武器(左)と香水(右奥)とサンダル(右)。武器には、飾り用の刀や斧から実戦用と思われるナイフや棘つきナックル、警棒、さらには忍者用の手裏剣まで取り扱っていました。

河口では、ベトナム料理の孵化する直前の卵を食べました。

うーーーーん、グロい。
初めはただのゆで卵だと思って注文したのですが、卵を割ると出てきたのが黄身と白身ではなく、ぬめっとした奇妙な物体で、それを屋台のおばちゃんがハサミでジョキジョキと切り、すっぱいスープと香草を加えて、上の写真のような状態にします。味はさっぱりとしていて美味しかったです。

※※※※※※※※※※8月21日追記※※※※※※※※※※
そういえば、河口についた日(8月6日)が旅に出発した日からちょうど2年目にあたります。出発当初は2年以内に帰国予定だったのですが、ちょっと無理でした・・・。ちなみに、もう一つ。河口がこの旅での訪問都市のちょうど200都市目でした。ちょうど2年目の日に200都市目。なんだか切りの良い一日です。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

中国では雲南省を中心に見て周る予定なので、すぐに雲南省の旅の基点・昆明に移動しました。ちなみに雲南省というところは、中国の他の地域とは違って色々な少数民族が暮らしている所で、独特の古い町並みが残っていて、人も良く、外国人旅行者に人気の地域らしいのです。しかも、その少数民族の名前は、ペー族、ナシ族、リス族、モソ族、イ族、ミャオ族、etcとかなり興味深い名前ばかりで、それだけでなんだかそそられます。ということで、雲南省に行くことにしたのです。

昆明への道中は、ずっと山道というか崖沿いの道をうねうねと通るのですが、ところどころ土砂崩れの跡がありました。道路上に崖から落ちてきた土砂が広がっているのです。毎回バスはそれを避けて通ります。雨季だから、まあ、そういうこともあるのだろうなと思って席の横の窓から外を見ていると、バスの真横の崖から大きさ50cmくらいの石がまさにバスに向かって落ちてきていました。僕のまさに目の前でした。幸いその石はバスに当たらなかったのですが、正直かなりびっくりしました。パキスタンのフンザなどでも前方20mくらいのところでの落石現場は見たことがありますが(その時もかなり怖かったですが)、自分の乗っているバスにダイレクトでぶつかりそうな落石を見たのは初めてです。さすが、中国。東南アジアのようなゆるい旅はもうさせないぞ、という警告なのでしょうか。

実際、東南アジアから中国に戻ってくると、いろいろな面で中国はやっぱりスパイスが効いているなと感じることが多いです。まず、英語が全然通じない。そして、屋内や車内でも関係なく床に痰を吐く。最後に、地獄トイレ。(地獄トイレとは、床に穴が数個開いているだけの水洗設備が無く、過去の使用履歴がはっきりと目視でき、鼻が腐るんじゃないかと思うほどの悪臭を放つトイレのことです。バスの休憩所などで遭遇率高いです。食事後に行くと吐き気との壮絶な戦いが必ず起きます。)まあ、英語に関しては、英語が通じない国は今まで幾つも行ってきたのでそれほど苦痛でもないのですが、痰と地獄トイレに関しては、出くわすたびに毎回多大な精神的ダメージを被ります。本当に疲れます。もう、イヤ。

でも、そんな中国に住む中国人たちは親切で、なんというか心があったかいというか広いというかそんな人達が多く、行く先々で嬉しい出来事もたくさん起きるので、そのギャップがなんとも刺激的に感じるのです。なんだかんだ言って中国大好きです。


さて、雲南省の旅はまず大理(ダーリー)からです。ここは、白族(ペー族またはバイ族と読む)の自治州らしく、古いまま残る昔からの町並みに白族が暮らしていました。

大理の町



ペー族の観光用住居にてペー族のガイドと。

北京滞在時、ユースホステルで働いている漢人の女の子が「雲南省は少数民族がたくさんいるから、とても可愛い女の子がおおいわよ♪よかったわね☆」と言っていましたが、確かに雲南省の女の子は北京よりも可愛いような気がします。このガイドの子も可愛かったけど、対応がとてもビジネスライクで逆にちょっと寂しい思いをしました。

ペー族のダンスショーも見ました。

カラフルな衣装。そして明るくてリズミカルな曲でした。しかも美男美女です。写真は、ペー族の結婚式を表現したような感じのダンスです。


大理の田園風景


小さな旧市街を一歩出れば延々と田園風景が広がっていました。大理では自転車をレンタルしてこの風景の中を3時間も走りました。疲れ果てました。


大麻の売人のおばちゃん(青色の長靴)

「ニホンジン?ハッパ?」
大理では何とおばちゃんが大麻を売っていました。普通は男性なのに。めずらしい。


大理で泊まったユースホステルでは、日本語がペラペラで現在はアメリカ留学中の台湾人の女の子とオリンピックの開会式をテレビで見ながら日本語で話をしました。香港の中国返還や台湾の中国併合に関して、当事者の心理を聞けて興味深かったです。香港にも返還賛成派と反対派がいたように、台湾にも併合に肯定的な人もいれば否定的な人もいるのだとか。うーん、どうなるんでしょう。


次回ブログは雲南省のハイライト・麗江についてです。


ベトナム

2008年08月11日 01時18分56秒 | アジア

カンボジアを出て、ベトナムに来ました。前回のブログでも書きましたが、フエやホイアン、ムイネイなどの素晴らしい見所を全部すっ飛ばしてホーチミンとハノイだけ訪問しました。特に観光もせずに宿の近くをぶらぶらと歩くくらいで、他には宿でテレビを見たり、ブログを書いたり、無線LANの繋がるレストランでだらだらとして、時間をつぶしていました。ベトナムは雨季なので毎日雨が降るため、わざわざどこかに出かけるのがおっくうなのです。でも、それ以上に、ベトナムについてから、どうも旅に疲れてきたというか、日本帰国が見えてきて旅へのモチベーションが下がってきたというか、テンションが下がり気味なのでした。せっかく、ベトナムというとても面白い国に来ているのに、残念なことです。(今は中国に戻ってきて、中国の毒のおかげで旅の刺激が復活して、テンションも戻ってきています。やっぱり旅が楽すぎるのは良くないのかも。M旅人としては。)

なので、今回のブログは写真中心でさらっといきたいと思います。

ホーチミン名物・電線

とにかく電線の数が凄かったです。そして、全体的に張られている場所が低いので、場所によっては手を伸ばせば届くようなものもありました。危なくないのか?

ベトナムのヘルメット屋さん

ベトナムの道路はバイクに占領されています。ノーヘル天国の中国とは違ってヘルメット着用が義務付けられているみたいで、みんなヘルメットをしています。そのヘルメットでおしゃれをするのが、ベトナム流です。
ところで、ベトナム人の女の子は全般的に可愛かったです。スタイルもいいです。中国に戻ってきて最初に感じたのは、「むむっ。ベトナムの方が女の子が可愛かったぞ。ほぼ同じ人種なのに。」ということでした。アオザイという民族衣装が、これまたセクシーで可愛くて、そんなベトナム人にとても似合うのです。でも、実際は街中にアオザイを来て歩いているベトナム人がほとんどいません。残念です。アオザイの写真もいいのがありません。とても残念です。

後ろ姿のカフェの店員(アオザイの制服着用)。



上の写真のカフェで無線LANでブログをアップしていると、スコールで道路が川になりました。

写真に写っている道路の向かい側の店は床上浸水しています。
でも、雨が止むとすぐに道路の水ははけていきました。さすが。洪水対策の構造になっているのでしょうね。


ベトナム名物のシクロ(自転車タクシー)

自転車の前に乗客用の座席があるという変わった乗り物です。この後、この運転手とは料金のことで怒鳴りあいになりました。料金について、乗る前の交渉では5千ドン(約40円)と言っておきながら、走り出した途端に5ドルだ、と料金を10倍以上に値上げしてきたので。ベトナム人の観光客向けに商売している人達は、インド人やアラブ人並みに金に汚かったです。


僕の好きな町ハノイ

洋風のオシャレな感じと、東南アジア的な庶民的な感じが、ごっちゃになった魅力的な町でした。町歩きがとても楽しかったです。

ハノイのツーリストエリア。

編み笠をかぶった女性達が、強引に果物を売りつけてきます。押し売りです。僕はライチを買わされました。


ハノイも相変わらずバイクが多いです。


ベトナムといえば屋台食が最高です。レストランで食べてもめちゃくちゃ美味しいけど。

特にベトナム麺のフォーは、何度食べても飽きが来ない感じなので、毎日食べていました。ベトナム人も毎日屋台で麺を食っています。

ここの歩道の屋台はいついっても満員盛況で、歩道を100人ほどのベトナム人が埋め尽くしています。

ここは、フォーだけではなく、ビールとつまみを出す店で、まるで居酒屋のような感じでした。すごい熱気です。

ベトナムの夜は町のあちらこちらで奥様達がエアロビに励んでいます。



他にベトナムについて特筆すべきことは、なぜか蚊が少ないということです。タイやカンボジアで悩まされた蚊に、ベトナムでは全く出会いませんでした。同じような地域の同じような気候の国なのに。とても不思議です。もちろん、もっと田舎に行けば蚊はいるのでしょうけど。ホーチミンやハノイのエアコンの無い安宿では窓にネットが無いので、凄く不安だったのですが一度も蚊にさされることは無かったです。カンボジアでは一日に20箇所とか刺されていたのに。



ということで、東南アジア最後の国ベトナムも終わりました。今回、東南アジアの旅はとても急ぎ足の旅になってしまったのですが、東南アジアの魅力はある程度理解できました。物価が安い割りには十分に発展していて旅行が楽で、食べ物がメチャクチャ美味しくて、文化的にも自然的にも見所が多く、人がマイルドで接しやすく、ショッピングが楽しくて、しかも日本から近いという。いやあ、素晴らしい。リピーターが多いのも納得です。僕も、東南アジアにはきっとまた来たいと思います。その時は、たんまりと金を持って来て、そこそこ良い宿に泊まり、美味しいものを食べまくり、おみやげを買い漁りたいと思います。




今は中国の雲南省・大理(ダーリー)にいます。毎日しとしとと雨が降っていて憂鬱なのですが、今日、オリンピックでサッカー日本代表が負けて予選敗退が決定したので、余計に憂鬱です。中田英寿や俊輔小野稲本の黄金世代以降、長らく谷間世代と言われていますが、次の山が来るのはいったいいつなのでしょうか・・・・・・・・・・。

明日麗江(リージャン)に移動します。


アンコールワットと酒と北朝鮮

2008年08月02日 21時35分14秒 | アジア


タイの次はカンボジアにやって来ました。タイでは、チェンマイ、アユタヤ、ゴーゴーバーなど僕の行っていない見所がまだまだ残っていたのですが、先を急いでカンボジアへ行きました。

カンボジアといえば何といってもアンコールワットですね。この2年の旅で最後に残った超大物観光地です。世界3大遺跡といえば、ピラミッド、マチュピチュ、アンコールワットですが、僕の会った旅行者からの評判が最も良いのがアンコールワットであり、先の二つは会社員時代の短期旅行で既に見ているので、まさにこの旅の終盤を飾るにふさわしい最後の真打ち登場という感じです。

バンコクからアンコールワット(町の名前はシェムリアップ)への陸路の道は悪路として有名ですが、現在はかなり舗装されていて、どちらかといえば快適な移動でした。国境でカンボジア人のツアーエージェントが、カンボジアにはATMが無いとか、1ドル=3300リエルだと嘘の両替レート(実際は1ドル=4000リエル)を教えてきたりとかがあって、うざかったですが。

随分とならされたシェムリアップへの道

周りは360度草原で、空がとても広かったです。

このバスで日本人旅行者二人と知り合い、一緒にタケオ・ゲストハウスという日本人宿へ向かいました。その二人は、ヒロくん(爽やか)とヒデローくん(お笑い)といい、今後のシェムリアップ観光を共にすることになっていきます。ちなみにタケオという宿は武夫という日本人が経営しているわけではなく、オーナーはカンボジア人のおばちゃん(その名もモムさん)でした。名前のタケオというのも、武夫という日本人名とはどうも関係なくカンボジアの地名らしいです・・・。

そのタケオには、多くの日本人が泊まっていて、久しぶりに酒を飲みながら日本人とワイワイ騒ぐという場にめぐり会えました。いやあ、楽しいです。大勢で酒を飲んで騒ぐのなんていつ以来だろう。中国では日本人グループに会わなかったし、欧米人グループと出かけることもなかったし、インドやパキスタンはほぼ禁酒状態なのでそんな機会は無かったし、どうやら去年のイスラエル滞在まで遡らなければならないっぽいです。なるほど。やけに楽しく感じると思ったら、そんなに長く酒を飲んで騒ぐということをしてなかったのですね。そして、そこでは別のヒロくん(エロい)というのがいて、彼がタイのゴーゴーバーの達人で、ゴーゴーバーの話で盛り上がりました。ああ、そんなに楽しい所なのなら、行っておけば良かったと後悔しました。タイでは、あまり他の旅行者との出会いが無くて、「今日はゴーゴーバーへ行こう!」という機運が無かったのです。勝手が分からないのに一人で行くほど、行きたかったわけでもないし・・・。しかし、今思えば無理してでも行っておけば良かったです。そういえば、バングラデシュなどで一緒だったKヘイ・Kスケの関西ドレッド・コンビも「タイの見所はゴーゴーバー」と言い切っていたなあ。しかし、もう遅い・・・。まあ、将来の楽しみに取っておくことにしましょう。

そんなこんなで、Y談で盛り上がっているときに3人目のヒロくん(鬼畜)が現れて(日本人旅行者には本当に”ヒロ”という名前が多いです。この日ヒロ3人目の彼はなかなかの鬼畜でした。でもビールを奢ってくれました。)、明日ベンメリアというちょっと遠い遺跡に車をチャーターしていかないかと誘われました。ここで、ちょっとだけアンコール・ワット観光について説明すると、アンコール・ワットというのはもちろん遺跡の名前なのですが、その周辺には”アンコール遺跡群”と呼ばれる多数の遺跡があるのです。有名なアンコール・トムなどもその一つなのですが、アンコールワットを観光するというのは、そんなアンコール遺跡群をアンコールワットを含めて複数観光するのが一般的なのです。その中で、ベンメリアというのは、ガイドブックのお勧め度はかなり高いものの、シェムリアップから80kmも離れているので僕は行くのを半ば諦めていたのです。しかし、みんなで車をチャーターして行くのなら別です。これ幸いとばかりに、その誘いにみんなで乗っかりました。

翌日、結局参加者は日本人ばかり10人も集まったみたいで、チャーターしたハイエースに乗り込みベンメリアへ行きました。道中、たくさんの選挙カーや選挙バイクと出会いました。翌日がカンボジアの大きい選挙だったみたいで、カンボジア人はみんな大挙して道路へ出てきて自分の応援する政党の選挙活動に励んでるようなのです。そんな車やバイクの列が数キロに渡って続いていて、まるで暴走族のようでした。人数的にはシェムリアップという小さい町の半分くらいの人が参加しているのではと思うような大人数でした。

探検気分のベンメリア観光



森林の中にある遺跡で、自然と遺跡の融合が味わい深かったです。

日中は遺跡観光を満喫し、夜は一緒にベンメリアに行ったナミちゃん(富士の樹海で育った美女)とイトウさん(広告関連の会社に就職予定の野獣。というかオタク)コンビが北朝鮮レストランに行くというので、ベンメリア参加メンバーみんなで一緒に連れて行ってもらうことにしました。カンボジアはどうやら北朝鮮や韓国との繋がりが深いらしく、いたるところに韓国料理屋があります。なかでも平壌レストランというのが、北朝鮮政府直営の店で、あの有名な喜び組の歌と踊りのショーが見れるということらしいのです。

喜び組の華麗なるダンス


しかもビールを注いでもらえる

でれでれ

写真撮影もオッケー

でれでれ

さすが将軍様のお眼鏡にかなっただけあって美女揃いで、男性人はみんなデレデレと鼻の下が伸びっぱなしでした。うふふふふ。でれれれれれ。


この平壌レストランでシコタマ酒を飲み、その勢いで宿に帰ってからもみんなで飲んで騒ぎました。いやあ、ほんっとうに宴会っていいですね。
<8月11日追記>そういえば、平壌レストランでは犬肉を生まれて初めて食べました。割と美味しかったです。



そんなこんなで夜遅くまで飲んだのですが、翌日は朝の4時に起きてアンコールワットの日の出観光に出かけました。バスで出会った一人目ヒロくん(爽やか)とヒデローくんとユリエちゃん(副社長)と4人です。


アンコールワット入口にてナイフを持って人間に凄みを利かせる門番猿


アンコールワットの次はこれもまた有名なアンコールトムへ。

さすが有名なだけあって見応えありました。

最後にタプロームという遺跡へ行きました。

ここは、遺跡が木に侵食されて崩壊しているという面白い場所でした。


夕方はプノン・バケンという遺跡兼夕日観光ポイントへ行く予定だったのですが、この日一日お世話になったサリーという可愛い名前(でも男)の日本語ペラペラのトゥクトゥクドライバー兼ガイドがトンレサップ湖というところの夕日が素晴らしいと猛烈にプッシュしてくるので、渋々そこへサンセットを見に行くことにしたのですが、これが予想外の大ヒットとなりました。

トンレサップ湖に向かう川に浮いている家とそこで生活する人


トンレサップ湖に関する情報が全く持ってなかったので、まさか人が水の上で生活しているところを見れるとは思っても見ませんでした。いや、びっくりです。船と家の中間のような建物が川の両岸にぷかぷかと浮いていて、それが長々と続いているのです。その多くの家が玄関ドアを開けっぱなしなので、中の生活が丸見えなのでした。台所で料理をしていたり、テレビでキックボクシングを見ていたり、ビリヤード台があったり、子供がハンモックで寝ていたり、驚きの光景の連続でした。ガイドが言うには、子供達は中学校までは水の上の学校に通うのだそうです。教会も水の上に浮いていました。生業はだいたい川魚捕りらしいです。家の底に網を張っておけば勝手に魚が捕まるらしいのです。なんて楽な。

中には船そのもののような家に住んでいる人も


移動はもちろん船のみ


水上教会


そして、そんな光景の続く川をひとしきり進んでいくと突然海のような見渡す限り泥水の場所へ出ます。そこがトンレサップ湖です。対岸が全く見えない広さで、まさに海のような感じなのですが、水が青じゃなくて茶色なのが異世界的な感じで痺れました。この時点で感動はかなり高まっていて、サリーの言うとおりにトンレサップ湖に来てよかったと大満足だったのですが、その後、帰り道で見たサンセットがかつて見たことの無い美しさで、感動はさらに高まって最高潮となって、この素晴らしい一日にふさわしい締め括りとなったのでした。



夕食はサリーおすすめの店でカンボジア風・焼肉とカンボジア風・鍋でした。うまかったです。

最初から最後まで本当に幸せな一日でした。




そんな楽しいシェムリアップの次は、首都プノンペンに移動しました。また一人旅です。着いた初日は3人目のヒロくん(鬼畜)と偶然再会して、駐車場のような場所の屋台で深夜まで飲んで、鬼畜トークに花を咲かせて楽しかったのですが、翌日、トゥール・スレーン博物館というポル・ポト派の虐殺について展示してある所へ一人で行きました。シェムリアップでの楽しかったムードは吹き飛び、いきなり重苦しいムードです。この博物館は元クメール・ルージュの強制収容所だった場所で、なんともいえない暗いムードが漂っています。

収容された人の写真が全員分展示されていました。

赤ちゃんと一緒に収容された女性

ポル・ポトは農村で働く人こそが本当の人民であるとして、当時の知識人や都市生活者を社会の悪として決めつけ、その多くを収容所送りにして次々と殺したのですが、ポルポトの経歴を見ると、フランスに留学して帰国後はフランス語教師で働いていたらしい、って完全に都市生活者の知識人やんけ!と思いっきり突っ込みたくなりました。

狂気の理想主義者ポル・ポト(左)


見学中にスコールが来ました。台風のような暴風雨で、窓が開けっ放しのこの博物館内にも激しく吹き込んできました。そして、上記のポル・ポトの写真が風によってばたんっと落ちたのが印象的でした。



雨上がりのプノンペンの町



そんなこんなで、現在はベトナムのホーチミンです。ベトナムではベトナム料理を食べる以外は特に何もする予定は無い(というか何をしたらいいのか良く判らない)ので、さっさと中国に戻ろうかと思います。今夜、2泊3日の夜行列車で首都ハノイに向かいます。


極楽タイ旅行

2008年08月01日 22時04分02秒 | アジア




ビエンチャンからの夜行バスで早朝バンコクに着きました。僕の中ではアンコールワットと並ぶ東南アジア観光の目玉です。それに、初めてのタイ、初めてのバンコクです。超有名都市、そしてバックパッカーの聖地(と僕が勝手に思っている)バンコクはいったいどんなところなのか、ワクワクします。

ところで、バンコク行きの夜行バスでは、アジアでは珍しく長身の黒人男性と席が隣になりました。冷房があまり効いていなくて全身がねっとりするような蒸し暑さのバスの車内で、彼は僕にビスケットを差し出して、話しかけてきました。僕はありがたくビスケットをもらって、日本が大好きだという彼と話をしました。南アフリカ国籍でカメルーン出身の彼はバンコクのサッカーチームでプレーするサッカー選手らしいのです。彼のチームはタイのトップリーグの中でも強豪チームらしく、先日のワールドカップ予選で日本代表と戦ったタイ代表にもチームから何人か代表として参加していたらしいです。そんな彼のタイサッカー界に関する話は興味深かったです。タイのサッカーリーグはプロ化していなくてまだセミプロらしく、とにかくレベルが低いことを嘆いていました。去年はタイの北部の町ウドンターニとかいう所でプレーしていたらしいのですが、そのチームにバックパッカーでふらりと訪れた韓国人学生二人組みがチームに参加するといきなり主力になってしまったそうです。黒人の彼も「韓国人はとにかく体が強いくて運動量があるね。」と言って驚いていて、韓国人は90分間フルに動き続けるけど、タイ人は最初の20分だけ動いたら後はグダグダになるのだそうです。タイではやっぱりムエタイ(タイのキックボクシング)が人気があるスポーツで、サッカーはまだまだ発展途上なのだそうです。(ちなみに彼もやっぱりパクチソンを日本人だと思ってました。)上述のワールドカップ予選を彼はスタジアムに見に行ったらしいのですが、観客席には日本人観客の方が多く、タイ人もタイの応援を特にするでもなく、みんな中村俊輔のプレーばかり見ていたそうです。そんなタイを嘆いていました。そして、そんなタイでプレーする彼は、この後数年間は東南アジアでプレーした後、日本か韓国でプレーし、そこで認められて最終的にはフランスリーグへ行きたいのだそうです(彼はカメルーン出身なのでフランス語が話せる)。ちなみに彼の名前はPatrick Peka(パトリック・ペカ)で、ポジションはフォワード、背番号は27番だそうです。いつか彼が日本に来てJリーグでプレー出来たらいいですね。




前置きが長くなりましたが、タイ・バンコクです。ラオスからタイへ入国した瞬間、発展度合が怖ろしく上がり、北部の名も無き町ですらラオスの首都ビエンチャンを遥かに越える都会ぶりです。どんな地方の町でも日本のコンビニ・セブンイレブンが大量にあるのが印象的です。そんなタイの首都バンコクは、やっぱり物凄い大都会でした。これはもう日本の大都市と比べても全く遜色の無い大都会っぷりです。中国も十分に発展していたので、今までのように発展途上国から突然都会に来れて大喜びの大興奮という感じでは無いのですが、コンビニの多さや(セブンイレブンが日本以上にたくさんある。ファミリーマートもあった。)、ATMの多さや、伊勢丹などの百貨店があったりするところが、なんというか、予想を遥かに超えて洗練されていて便利な感じなので、バンコクってやっぱりすごいな、という印象です。空気が悪いとか、渋滞が酷い、などの噂を聞いていましたが、どちらも北京に比べたら全然マシでした。暑さもラオスに比べたらマシだったし、非常に過ごしやすい場所です。

バックパッカーにとって聖地の中の聖地カオサン


カオサンは屋台やらみやげ物やが密集していて、欧米人バックパッカーや地元タイ人、みやげ物の売り子などで大混雑です。凄い熱気です。日本人は想像していたよりも随分と少なかったです。それに比べて欧米人の多さは凄かったです。何処を見ても白人だらけでした。

タイ飯の屋台

タイといえば、やっぱりタイ料理です。屋台で食べようが、レストランで食べようが、まず間違いなく美味しいです。中華料理も美味しかったけど、タイ料理のほうが、僕個人的には好きです。ほとんど外れが無いし、油っこくないところがいいですね。


そんなタイ料理ですが、当初は虫歯に苦しみながら、柔らかくて噛みやすい焼きソバなどを主に食べていました。しかし、コンビニで買った日本風せんべいを、一瞬油断して虫歯のある左側の歯でがりっと噛んでしまった時に激痛に見舞われ、それ以来、水を飲むだけでも痛むくらいに虫歯は悪化してしまったのでした。日本帰国までは治療せずになんとかごまかしながら残り短い旅の期間を乗り切ろうと思っていました。でも、もう無理です。完全に無理です。歯が痛すぎて食欲が全く無くなってしまいました。気分も悪くなって、外出する気も起きなくなってきました。外国で歯医者か・・・。それは辛い。かといって、歯の治療のために帰国なんて嫌だし。そういえば今は日本の健康保険から外れているので、日本で治療したら凄い治療費がかかりそうだな。うーん、どうしよう・・・。

そういえば、パキスタンのフンザで出会った長旅の女性(なんと日本を出て10年以上)がインドで何度も歯医者に行っていると言っていました。インドで歯医者・・・。でも、その人はインドの歯医者も全然大丈夫だと言っていました。インドで大丈夫ならタイのバンコクなんて、さらに大丈夫に違いないはず。そうして、バンコクで歯医者に行くことを決心し、僕はインターネットでバンコクの歯医者さんについて調べてみました。すると、カオサンにある日本料理店”竹亭”の人が、バンコクの安くて良い歯医者を紹介してくれるみたいなのです。早速、竹亭に行って住所の書いてある名刺をもらいました。その日は日曜日で休みだったので、次の日の朝に早速歯医者に行きました。先生も助手の人も全員女性(それも結構美人orかわいい)の歯医者さんでした。先生は片言の英語しか話せませんでしたが、まあなんとかなりました。診察してもらうと実は4本も虫歯があったみたいで、それらも全部治してもらいました。久しぶりの虫歯の治療は、ちょっと空気を当てられただけで飛び上がるくらい痛かったのですが、あまりにも僕が大げさに痛がるので、見かねた先生にたっぷりと麻酔を打ってもらい、それ以降は痛みを感じることも無く、治療は無事につつがなく終了しました。でも、治療後一時間くらい経って麻酔が切れると、歯が痛み出して不安になりましたが、2日くらい経つと新しい詰め物が歯に馴染んできたのか、痛みも消えて焼きソバはもちろん硬い肉ですら噛み切れるようになりました。いや、ほんと歯が治って良かったです。この一ヶ月くらいは、せっかくの美味しい中華料理やタイ料理も心から楽しめていませんでした。歯にやさしそうなメニューをできるだけ選んで頼むようにしたりしなければならなかったし。でも今は全力100%で楽しめるようになりました。歯医者さんに感謝。竹亭に感謝です。

ショッピングが楽しいMBK


カオサンにある漫画喫茶(さくらゲストハウス内)

バンコクに長期滞在する日本人の気持ちが少し分かりました。読んだのは柔道部物語やワンピースなど。やっぱり漫画っていいですねぇ。早く日本に帰って漫画喫茶に篭りたいものです。



タイのお寺その1(夜景)


お寺その2(お昼)

オレンジのタイル屋根が東南アジアっぽいです。



ムエタイも観戦しました。大枚(6400円)をはたいてリングサイドの最前列で観戦しました。会場は意外にもガラガラで、リングサイドに座っているのはほとんどが外国人観光客でした。日本人も多いです。普段から日本人が多いのでしょうか、場内アナウンスはタイ語、英語、それに日本語でされていました。リングサイドには可愛い日本人のウグイス嬢が座っていました。

8試合くらい試合があったのですが、前座の4試合くらいは体重が40kgそこそこの小学生くらいの子供の試合でした。でも、ちびっこ選手達の技術はきちんとしていて、なにより試合への集中力や勝利への執念が凄くて、会場からの野次(おそらく賭けをしている人たちから)も激しく飛び交い、思いっきり蹴り、思いっきり殴っていました。どの試合も緊張感があり、試合に引き込まれてしまいました。日本のテレビでムエタイを見た時は、派手なKOが少なく、首相撲からの膝蹴りの打ち合いが主体で地味な印象を受けていたのですが、間近で見ると膝蹴りがわき腹にバシンという大きな音を立てて突き刺さるのがリアルに痛そうで迫力があり、それは例え子供の膝蹴りだったとしても相手も子供なので凄い痛そうで、ムエタイという競技の過酷さに驚きました。

ちびっ子戦士


メインイベントは日本人(赤)とタイ人(青)の試合でした。この試合のみ唯一60kgという一般の大人の体重での試合でした。

日本人のハイキックを紙一重でかわすタイ人。スピードとテクニックで勝るタイ人の判定勝ちでした。この試合の後、なんと選手との記念撮影会があり、試合直後の両選手と写真を撮らせてもらいました。ガンガンに蹴り合った直後なのに、両選手ともリングサイド席のお客さん一人一人と笑顔で写真を撮らせてくれて、ムエタイ選手のタフさに驚きました。





タイでは、1年ぶりにスキューバダイビングをしてみました。南国の小さい島・タオ島です。今回は、ダイビング中にどうもトイレが近くなってしまい、不本意ながらも海中での放尿に初チャレンジをしてみました。ウエットスーツ内に広がる液体は、あったかかったです。オ、オホン(咳払い)。もちろん、タオ島の海は素晴らしく、キンセンフエダイの大群(数十万匹?)という今まで見たことの無い素晴らしいものも見れました。視界がキンセンフエダイのキラキラした黄色で埋め尽くされました。巨大なカーテンのようでした。

タオ島のビーチの朝


そして夕焼け



ということで、歯痛も治り今は万全の体調です。タイの次はアンコールワットのカンボジアです!

(現在は、そのカンボジアも終わってベトナムに滞在中です。)

<8月2日追記>
そういえば、なんで「極楽タイ旅行」というタイトルにしたのかを書くのを忘れていました。タイ式マッサージが極楽的に気持ちよかったからです。上述の黒人サッカー選手ペカも良く行くと言っていました。


北京-昆明-ビエンチャン(ラオス)

2008年07月22日 17時17分22秒 | アジア



北京で体調を崩し予定外に長く滞在してしまったので、ここからは大急ぎで東南アジアを目指します。なぜ急ぐのかと言うと、中国のビザ無しでの滞在可能期間がたったの15日間なので、ゆっくりしているとオーバーステイで一日500元(約8000円)という高額の罰金を取られてしまうからです。それに、急ぐ理由はまだあります。全部で2年間という予定で出発したこの旅も気付けば1年と11ヶ月が経ってしまい、帰国予定は2008年8月のはずが、中国と東南アジアを今まで通りのペースで旅を続けていると来年の帰国になってしまいそうなのです。(どんなに急いでもさすがにちょうど2年目となる8月6日の帰国は厳しそうですが・・・。)また、旅の最初の方からじわじわと歯を蝕んできた虫歯がパキスタンあたりから突然酷くなり、食事中に激痛が走るようになったので、早く日本に帰って治療をしたくなったというのもあります。

とにかく、ここからは大急ぎで東南アジア4カ国を周り、中国と韓国経由で陸路帰国を目指すのです。この先のルートで最低限押さえておきたいポイントは、東南アジアでは、タイのバンコク(バックパッカーの聖地ということで)とスキューバダイビング、カンボジアのアンコールワット、そしてベトナム料理、といったところです。東南アジアについては元々大して知識が無い上に、ガイドブックも無いのでそれくらいしか分かりません。まあ、見所を知らないというのは、急いでいるので好都合です。そして、中国に戻って、雲南省や上海などを周り、大連辺りから船で韓国に渡り、釜山から船で日本に帰りたいと思います。


北京からはまず、雲南省の省都・昆明(クンミン)を目指します。どうやらここからラオスへ行けるようなのです。ラオスについては、ほとんど全く情報が無いのですが、東南アジアに行ったことのある旅人は口を揃えて「ラオスはよかった」と言うので、どんなところなのか興味はあります。残念ながら長居はできなさそうですが・・・。

北京西-昆明の列車はなんと580元(9300円)もかかりました。一回の陸路移動で5000円を越えるなんて、アジアの旅では破格の高値ですが、よく考えてみると昆明まで3200km、2泊3日の40時間を快適な寝台車で移動できるのだから、安いものなのかもしれません。

北京では、遅めに宿を出て渋滞に巻き込まれたので、北京西駅に着いたのは出発の10分前でした。バックパックを背負い全身から汗を噴き出しながら全力疾走し、大急ぎで出発ロビーへ行くと、電車の発射時刻は10時間も遅れていたのでした。10分遅れではなくて10時間遅れ。どうやら雲南省で大雨があり、北京まで電車が着かなかったそうなのです。17時発の電車が翌日の深夜3時発に・・・。こればっかりはどうしようもないので、10時間待たなければならないのですが、出発ロビーには既に”俺達は10時間をここで過ごすぞ!”という準備万端の中国人達がそれぞれのグループで新聞紙をひいて寝転んだりして場所を確保し、カップラーメンや弁当や野菜や果物を食べたりしてくつろいでいます。例のごとく床は食べ物のカス等で汚れています。しかし、北京西駅には休憩所という便利なものがあり、25元(約400円)を払えばエアコンの効いた大部屋のソファで寝転がって休めるようなのです。バックパッカーなら待合室で中国人に混ざり雑魚寝をして10時間を過ごすのが、正しい姿だとは思いますが、この日はそんな元気はなかったので大人しく休憩所を利用しました。非常に快適に10時間を過ごせました。

待合室で寝る人たち(深夜2時半)


電車はきちんと深夜3時に無事出発しました。その後の電車の旅も寝台のベッドでゴロゴロしながら本を読んだりしていると、あったいうまに40時間は過ぎて昆明に無事着きました。いやあ、本当に中国の夜行列車移動は快適で楽ですね。車内販売の弁当もおいしいし(歯は痛いけど)。昆明は、ウルムチや西寧などの地方の省都同様、さすがの大都会でした。中国は、どんなに北京や上海から離れている地方に行っても省都に関しては大都会ですね。

昆明の路上マッサージ屋

仕事帰りのお父さん達が頭や肩や足を揉んでもらっていました。


昆明で一泊して翌日夕方発のラオスの首都ビエンチャン行きのバスに乗りました。なんとこのバスも乗車時間40時間の2泊3日バスでした。インターネット情報によると、この昆明発ビエンチャン行の寝台バスは、新しくきれいで乗り心地が良く、その上乗客も少ないという話でしたが、実際乗ってみるとそうでもありませんでした。乗客はめちゃくちゃ多くて車内は人と荷物で溢れかえり、なんと通路にマットを引いて寝ている親子までいました。しかも乗客の大部分はガタイのいい中国人のおっちゃんなので、暑苦しさ・息苦しさ満点です。車内に入ったとたん、汗臭さにムッとします。僕の席(ベッド)は最後尾で、広いベッドに5人が川の字になって寝るスタイルでした。両隣は中国人のおっちゃんと若者なのですが、就寝中は誰かが寝返りをうつ度に体が接触し、その度に眠りが妨げられるし、クーラーは大して効かず蒸し暑いし、とにかく寝苦しかったです。とはいえ一応中国の寝台バスなので、アフリカやインドの夜行バスに比べると天国のように楽でしたが。

寝台バス

老●万象と書いてラオス・ビエンチャンなのだそうです。万象の町ビエンチャン。

おっちゃんで溢れかえる車内

酒やつまみを持ち込んで宴会風になったりもします。

道中でのラオスの風景

泥の色をした川が流れ、ジャングルが広がり、アマゾン川のような雰囲気でした。

そんな寝苦しい夜を二回耐えるとラオスのビエンチャンに到着しました。朝早い時間に到着しましたが、大雨でした。今のラオスは雨季で、僕が滞在している間は毎日、一日のうちに何回も晴れと強い雨を繰り返す典型的な雨季の天候でした。気温は常に高く、めちゃくちゃ蒸し暑いです。今まで訪れた国の中では最も日本的な蒸し暑さを感じさせる国です。

バスの乗客の95%が中国人だったのですが、そのうちの一人がビエンチャンで宿を経営しているおばちゃんで、車で宿まで送ってくれるということだったので、その宿に行くことにしました。ガイドブックも地図も無いし大雨の中で宿探しをする気力も無いので、ちょうど良かったです。その宿は完全な中国人宿で、ラオス語などのラオスを感じさせるものは一切無く、中華料理のレストランが併設され、従業員も宿泊客も全て中国人なのでした。部屋のテレビも中国のチャンネルしか映らないし・・・。昼前に雨が上がったので外へ出てみると、周りの商店やレストラン全てに中国語の看板がかかっていたのでした。もちろんラオス語で書かれている看板も一緒にかかっていることもあるのですが、中国語の方が断然目立っているのです。なんだかあまりラオスに来たという感じがしません。そういえば、ここに来るバスの休憩所は全て中華料理の店でした・・・。どうやらラオスは中国化していっているみたいです。

ラオスラーメン

さっぱり味で非常においしいです。ラオスでは食事に写真右の野菜皿がつくことが多くて、とてもヘルシーな感じです。中国の油ぎった食事の後なので嬉しいです。

のどかなビエンチャン

これでも首都です。

ビエンチャンに着いたのはいいものの、地図が無いし、現在地がどこなのかもわからないし、タイへの行き方も何もかも分からないので、それを調べることから始めました。まず、宿の従業員に尋ねてみますが、言葉が全く通じないので大した情報は得られず、ネットカフェに行って調べることにしました。このネットカフェも中国人経営で、フォントは中国語フォントしか入っていないという驚きの中国人専用ぶりでした。ここで、ビエンチャンの地図を検索して表示し、従業員(英語が話せる中国人)に現在地とバスターミナルの場所を教えてもらいました。現在地は、意外と町の中心部に近かったです。周囲ののどかな光景からして、きっと中心部からだいぶん離れていると予想していたのですが。

ビエンチャンには一泊だけして翌日タイのバンコクに行くことにして、ぶらぶらと宿の周囲を散歩しました。ラオスは仏教国というだけあって、街中にオレンジの袈裟を来たお坊さんがたくさんいるし、仏教寺院もそこら中にありました。寺院の中へは自由に入れるみたいです。中は意外と広く、お坊さん達の居住スペースがあり、金色にぴかぴか光る仏像がたくさんあり、若いお坊さん達が何かしらお勤めをしていました。のんびりとした平和な空気が漂っていました。


黄金の仏像


寺で共同生活をする少年僧侶たち


若いお坊さんの一人が英語を話せるみたいで、僕に話しかけてきました。彼は大学生で寺に住みつつ大学に通っているのだそうです。そこで英語や経済学を勉強しているらしいのですが、卒業後は就職せずに仏門に入るのだとか。



ラオスは、中国化が進みつつも全体としてはのんびりとしていて、中国的な雰囲気はあまりないのどかな落ち着いた国という感じでした。ここに住んでいる中国人達もラオスに馴染んできているのか、不必要な大声で話す人はいないし、「クァーーッ!ペッ!」と何処でも痰を吐く人もいませんでした。中国の旅での疲れを癒すには良い場所かもしれません。ただ、残念ながらここでのんびりする時間があまりないのですぐにタイへと向かってしまいました・・・。

北京

2008年07月19日 15時24分31秒 | アジア

北京は、さすがに世界の新超大国・中国の首都だけあって大都会でした。その上、間近に控えるオリンピックに向けて、観光客が安全に快適に過ごせるようにさらに変化を続けているということです。電車駅の巨大さや、地下鉄や路線バスなど市内交通の便利さ、諸々のインフラ発達度合いには度肝を抜かれるばかりです。ただ、僕のいた時期はとても蒸し暑く、しかも大気汚染で空気が激しく汚れているので、過ごしやすい場所では無かったです。むしろ過ごしにくく辛かった・・・。スイスへの欧州サッカー観戦弾丸ツアーの疲れもあり、すっかり体調を崩し、咳が止まらなくなり、一週間くらい宿で寝込んでしまいました。EURO2008の決勝も寝てしまって見逃してしまいました。くっそう。

北京へ向かう夜行列車で販売されているお弁当

値段はちょっと高いのですが、美味しいので毎食これを食べています。

北京もやっぱりご飯が美味いです。とても辛くてとても美味しい麻婆豆腐

あと、北京ダックも食べました。あいにくカメラが壊れていて写真はありませんが。とても美味しかったけど、一人で食べると量が多すぎますね。

天安門広場にて。

右手前の男性はお腹を出して歩いています。これは中国男性特有の着こなしで、男性は若者からお年寄りまでお腹をぽよよんと出して町を闊歩しています。この写真の男性は小さい子供を連れたお父さんですが、可愛い彼女を連れたデート中の若者もこのようにお腹を出していることがあり、中国では完全にファッションとして認められた着こなしだと思われます。

大気汚染により黄色く霞む北京の空

北京オリンピック参加選手には、北京到着後、まず大気汚染と蒸し暑さとの戦いが待っているようです。



中国的な雰囲気に満ちている北京の安宿(長官飯店)




ショッピングエリア

中国では近代的なビルの屋根の上に中国的な屋根をつけたりしています。僕はこのような無理やり中国的な感じを出す努力をしている中国建築が結構好きです。



北京といえば故宮(紫禁城)。





中国名物どこでも撮影会

なんてことないただの地下通路で長々と時間をかけてポーズを取り写真を撮る中国人カップル。30mほどのこの地下通路だけで3組ものカップルがこのような撮影会に没頭していました。中国人は、良い人ばかりだし好きなのですが、たまにわからなくなることがあります。



下町

北京は、天安門広場などの町の中心部から路地へ入るとすぐにこのような超ローカルエリアに迷い込みます。どこにでも何かしら商店や屋台、食堂があり、中国商人のパワフルさを感じます。



万里の長城

想像以上に長くてうねうねしていました。


この日は猛暑で、長城は長いしアップダウンが激しくて疲れるし日陰が少ないし、とても疲れました。ちょっとでも日陰があるとこのようにへたりこんで休憩をしていました。



ところで、中国で出会う欧米人旅行者には日本にも中国にも行った事があるという人が多く、彼らと両国の違いや共通点などを話すのは面白かったです。観光客の目で見た中国と日本は、以下のような感じみたいです。
・両国とも先進国である。中国の先進ぶりには驚かされる。
・両国とも食事は素晴らしい。日本は寿司が最高。中国は美味しいが時に油っこすぎる。
・両国とも人は親切だ。ただ、日本人の方が礼儀正しい。
(中国人は駅の切符売り場などでちゃんと並ばない、どこでもタバコを吸う、声が必要以上にでかい、など)
・両国とも英語がほとんど通じない。ただ、中国人にはたまにペラペラの人がいるが、日本にはいない。
・中国の方がパワフルだし、物価も安く、見所も多く、長期間滞在しやすい。ただ、日本は全てがとても良く組織されていて旅行は楽である。
・日本の方が清潔である。特にトイレ。
など。概ね僕の意見と一致しています。


それでは、中国と日本の最も大きな文化的違いと言える中国のトイレについて触れたいと思います。

<注意!>お食事中の方、下品な話が好きではない方は、ここから先は読まないでください。

中国のトイレについては以前から噂は聞いていました。個室もドアもなく長い一本の溝が掘っているだけで、その一本の溝に全員がお尻を見せ合いながらまたがり用を足し、前の人の落し物が上流から流れてくるのを眺め、自分の落し物は後ろの人に見られると言う・・・。このことを考えただけで中国に行くのが嫌になりました。昨今はトイレ事情は急速に改善されつつあるとはいえ、僕は本当にびびっていたのです。そして、パキスタン・中国国境の入国審査場のトイレが、このようなトイレだったのです。

僕が何も知らずにこのトイレに入った時、同じバスに乗っていた中国人の青年がこちらを向いて力んでいるところでした。・・・・・・・・・・・。お、おえ~~~(吐き気)。
入国早々いきなり中国トイレの洗礼が来たようです。溝にならんでするのではなかったのがせめてもの救い(?)。せめて国境のトイレくらい個室のトイレにしといてほしいものです。国境を越えて来たパキスタン人もびっくりするだろうに。しかも、このトイレは男女別になってなかったような気がするぞ。中国の人は露出趣味でもあるのでしょうか。なんなんでしょうか。

そして、タシュクルガンからカシュガルへ向かう途中で見た中国入国後二つ目のトイレがこれ。

・・・・・・・。マシにはなってきています。壁による仕切りが出来ていますし。ただ、壁は低いし、トイレの入り口から入ってきた人にはどうしても丸見えです。この中途半端な高さの壁はいったい何のために・・・。ま、まあ見た目は多少マシにはなったのですが、匂いが酷い。トイレに入った瞬間、吐き気に襲われました。僕はどう見ても洗浄の設備が無いこのトイレの穴にどうしても近づくことが出来ず、近くの草むらで用を足しました。

カシュガルで泊まった宿のトイレはちゃんと個室になっていたし清潔だったし、何のストレスもなく用を足せたのですが、カシュガルの町の公衆トイレはこんな感じなのでした。

かなり個室には近づきました。しかし・・・。なぜ完全に個室にしないのだろうか。中国人は誰かに力んでいる姿を見られていないと、きちんと用を足せないのであろうか。いったいなんなんでしょうか。そしてこれが僕の”一本の溝を他人と共有するトイレ”初体験でした。前の人の落し物はばっちり僕の目の前を流れていきました。・・・・・・・。お、おえ~~~(吐き気)。

そしてチベット人の家のトイレ

屋根もなく、ドアもないです。ただ、穴が掘ってあるだけです。このころには、中国スタイルのトイレにもすっかり慣れてきて、中国人とお尻を並べて用を足すことにためらいもなくなってきていましたが、屋根が無いトイレというのは、これはいったい・・・。これはキャンプ場の公衆トイレなどではなく、普段から人が住んでいる民家のトイレなのに・・・。

中国人はトイレを使った後に流さない人が多いです。宿の共用トイレなどは個室であることが多いのですが、入ってみると流されていない、仕方なく隣の個室に行くと、ここも流されていない、その隣も流されていない、ということが良くあります。こういう場合のトイレ内の悪臭は耐え難いものがあります。仕方が無いので、3つの個室全てを吐き気をこらえながら流してまわって、最も汚れがマシな個室を選んで用を足すのです。これだけで朝から多大な精神力の消耗です。この後の朝食が全然おいしくありません。チベット自治州・興海の宿のトイレなんて、夜中にトイレに行くと、3人分のモノが便器に山盛りになっていたことすらありました。ちゃんと洗浄設備があるのにも関わらず。お、おえ~~~~(吐き気)。なんで流してから使わないの?どうして他人のモノの上に用を足せるの?理解できん。悪臭はトイレの周囲10m以上に及んでいました。僕はその日吐き気に悩まされ夜中の2時まで眠れませんでした。


そんな中国トイレ事情なのですが、その中でも最も酷かったのは、夜行バスで敦煌から西寧へ行った時の途中の町のバスステーションのトイレでした。あまりにも酷い状態だったので写真を撮る精神的余裕はありませんでした。そこは、中くらい規模のバスステーションでそこそこ大きいし待合室もあるのですが、トイレは屋内にはなくて屋外にありました。便器のある建物がありその周囲に壁があるという、どこにでもあるスタイルの公衆便所です。大きく「厠所」(中国語のトイレ)と書いてある壁の横の入り口を通ると、そこは地獄絵図でした。便器のある建物とその壁の間に30cmくらいの高さで大量のウ〇〇が積まれているのです。なので建物に入ることができません。というよりも建物の入り口から暗黒のオーラが出てきています。よく見ると入り口付近にもウ〇〇が落ちています。恐らく建物の中の便器がウ〇〇で溢れたので建物の中の便器の外にウ〇〇をし、さらに建物の中全体がウ〇〇で溢れたので、仕方なく建物の外の壁に囲まれている部分でウ〇〇をしたのでしょう。それにしても凄まじい悪臭です。よく見るとウ〇〇の上から何度も小便がかけられているので、汚い何かどろどろとしたものがそこら中に流れ出してきていました。もちろん僕の足元にまで・・・。・・・・・・・・・・・。お、おえ~~~~(吐き気)。
僕は卒倒しそうになるのをようやく堪えて、どうにか壁の内側で、汚い何かどろどろとしたものに最も侵されていないところを見つけ、悪臭に耐えながら用を足したのでした。精神力が限りなく0に近づいた瞬間でした。


以上のように、中国と日本のトイレ文化の違いは大きいです。この点に関してだけは中国人がよく理解できないです。


突然ですがサッカーEURO2008観戦記

2008年07月12日 16時21分16秒 | アジア




前回のブログで”北京に6月23日までに着かないといけないのでチベット族自治州には長くいれなかった”と書きました。それはなぜかというと、パキスタンにいる時に、ドイツ在住の大学時代からの友人なおくん(サッカー狂)からメールで連絡があり、4年に1度のサッカーのビッグイベント・欧州選手権の準決勝のチケットが入手できたので一緒に見ようと誘われていたのです。そして、そのフライトが北京からだったのです。中国からスイスまで行くなんて非常に遠いし時間もお金もかかるけど、それでも行くことにしたのは、ヨーロッパを旅している時に色々と世話になったなおくんの誘いでもあるし、欧州選手権の準決勝なんていうビッグマッチを生で見る機会なんてこれを逃すと一生無いかもしれないし、試合の会場がスイスのバーゼルで、スイスはヨーロッパの中で行かなかった国の一つだし、バーゼルは元日本代表の中田浩二がプレーしていた場所でもあるし、とても興味深かったからでもあるからです。

そんなわけで、西寧(シーニン)から電車に乗って約24時間かけて北京へ向かいました。

西寧の駅前にある巨大屋外ビリヤード場

なんで、ビリヤードを屋外で・・・。しかも、この日は小雨が降っていました。

まるで巨大な城のような北京西駅


北京で、地下の超高湿度ドミトリー部屋のユースホステルで2泊しました。同部屋のルクセンブルク人学生シルバン君がサッカー大好きで、彼と深夜までサッカーやEUROについて談義しました。そして、彼から僕が見に行く準決勝のカードはドイツ対トルコになったと聞かされました。これは完全に予想していなかった組み合わせです。EUROの準決勝といえば、フランス、イタリア、オランダ、ポルトガルといったスター選手を抱える国同士の試合になると思っていたのですが・・・・・・・。いや、まあドイツはそれなりにいいとして、トルコが勝ちあがってくるとは。トルコの準々決勝の相手はクロアチアだったので、どっちが来てもどっちもどっちなのですが・・・。ドイツに関しては、僕の好きなバラックやクローゼといった有名選手を抱えているとはいえ、やっぱり準々決勝の相手であった現在世界No.1選手のクリスティアーノ・ロナウド擁するポルトガルに勝ち上がって来て欲しかった・・・。デコやクアレスマも見たかった・・・。まあ今大会は、開催国のスイスとオーストリアという日本代表が普通にやっても勝てそうな弱い2チームが予選無しで参加してしまっているために、いつもよりは全体のレベルが下がっている印象は否めません。今年のチャンピオンズリーグを席巻したイングランドが予選落ちして出ていないのも残念でした。

ところで、シルバン君はフランスの大学に所属していて、代表チームとしてはフランス代表を応援しているらしく、今大会ではいいところ無く敗退したフランスについてあーだこーだと監督采配を批判しては嘆いていました。また彼は、フランスリーグも欠かさず見ているらしく、フランスのル・マンでプレーする松井大輔について「彼は今年とても良かった。確か来シーズンからストラスブールというより強いチームへ移籍したよ。日本代表には入っているの?彼を是非代表に入れるべきだよ!」と結構良いことを言っていました。同じ日本人として誇らしいですね。


北京から飛行機で10時間のドイツへ飛びました。ドイツに来て最初に思ったことは「ドイツ人はやっぱりでかいなあ」ということでした。ドイツでは再度ミュンヘンのなおくん宅に泊めさせてもらって、翌日なおくんの車でアウトバーンを走り、スイスのバーゼルへ向かいました。バーゼルまでは5時間ちょっとでした。車中では1年半ぶりの再会となるなおくんといろいろと話をしました。特になおくんの会社で働くドイツ人がいかに働かない使えない奴かという話が面白かったです。僕のイメージではドイツ人というのは日本人のように勤勉な民族という感じだったのですが、実際にドイツに住んで働いてみるとドイツ人の怠けっぷりというのは日本人の感覚からするとありえないレベルみたいですね。もちろん個人差はあるんでしょうけど。ドイツ人でそれなのだから、イタリア人やスペイン人なんて、もうすごいんでしょうね。

スイス入国の際、車税のようなものを払わされるのですが、イミグレーションオフィスはなく、当然パスポートチェックは無く、スタンプを押されることも無かったです。なんとも開放的ですね。

スイス・バーゼルののどかな風景

バーゼルは想像していたよりも小さな町でした。ひょっとしたらスタジアム周辺が田舎なだけで、別の場所にバーゼルの都会エリアがあったのかもしれませんが。

スタジアムに着くと、僕らはなおくんの持っているドイツ・サポーター・グッズを着用し、ドイツサポーターに変身しました。

なおくんはドイツのユニフォームとマフラー、僕はドイツ国旗のマント、そして2人ともドイツ帽を被って、いよいよ気分も盛り上がって来ました!

トルコサポーターも負けてはいません。


ムスリム女性サポーター!


僕らの席はトルコサポーター側のゴール裏でした。でもトルコサポーター軍団からは少し離れいていて周りはドイツサポーターでした。スタジアム全体を見ると予想通り8割くらいはドイツの応援のようです。なんせ隣の国ですものね。ところで、ドイツにはトルコ移民がたくさん住んでいます(僕もドイツ旅行中はよくケバブ屋に行きました)。そして、ドイツ人とトルコ移民はあまり仲が良くないらしいのです。この試合の直前にも、ドイツで起きたトルコ移民によるドイツ人暴行殺害事件の初公判が行われたみたいで、それが大きくニュースで扱われたりしていました。スタジアムに来るまでは、観客席にはそういった緊張感があるのかなと予想していましたが、実際はサッカーを楽しもう、という和やかな雰囲気が大勢でした。一部のドイツサポーターはトルコに対して激しいブーイングをしていましたが。

さて、実際の試合ですが、前半から意外にもトルコが試合を優勢に進めます。トルコは、僕の想像していたよりも遥かに強いです。試合前、なおくんも「トルコは意外と強いで。全然ヨーロッパっぽくない異色のサッカーやけどな。ほんまトルコがアジア予選にいなくて良かったで」と言っていました。トルコは、個々の技術とスピードでドイツを上回っています。特にアルティントップという攻撃的MFの選手のスピードと技術は凄まじく、ドイツ守備はほとんど対応できていません。ドイツは自陣でいいようにパスを回され、ドリブルで切り込まれ、次々とピンチを迎えます。しかもドイツは攻撃が全然つながりません。本来中盤のバラックを1.5列目に配しているためにゲームメーカーが不在です。その期待のバラックも体が重く、攻撃のブレーキにしかなっていません。そして、前半のうちにトルコが先制します。センタリングのこぼれ球を詰められたのですが、ドイツ守備は完全に崩されていました。しかし、ドイツの凄いところは、その直後に同点に追いついてしまうところです。それまでほとんどチャンスを作れなかったのに。ポドルスキーがカウンターから左サイドを抜け出し、そのセンタリングを右サイドMFのシュバインシュタイガーがゴール前まで突っ込んできて決めました。そのまま前半終了。

不調のバラック(白の13番)


後半も前半同様、トルコが主導権を握ってチャンスを作り続けます。バラックは相変わらず不調で攻撃のブレーキになっています。しかし、ドイツはボランチの一人をパス回しの上手い選手に交代したので、徐々に攻撃がつながるようにはなってきました。そして、左サイドからのセンタリングをエースストライカーのクローゼが素晴らしいヘディングで叩き込み、逆転しました。クローゼは、ここまでいるかどうかほとんど分からないくらい存在感が無かったのですが、やっぱりやる時はやります。日本にもこういう完全な点取り屋タイプのFWが出てほしいものです。トルコは、次々と選手交代をして同点を狙います。ドイツは次第に完全に押し込まれていき、後半40分、左サイドのポドルスキーとラームが個人技により完全に突破されて失点してしまいます。熱狂するトルコサポーターと消沈するドイツサポーター。完全なコントラストです。この時、TVスクリーンにこれまでの試合のデータが出ました。枠内シュートの数が、トルコ11に対して、ドイツはたったの2でした。ドイツは2回のチャンスを2回とも決めたということなのですが、状況は圧倒的劣勢です。コーナーキックの数もボール支配率も圧倒されていました。ドイツの圧倒的不利・・・。しかし、先ほどの同点ゴールで失態を演じたラームが意地を見せました。左サイドから長いドリブルで相手陣内に切り込み、パス交換してペナルティエリアまで突っ込んでいって、キーパーと一対一に持ち込み、自らが見事にシュートを決めました。今度は熱狂するドイツサポーターと黙り込むトルコサポーター。時計を見ると後半45分を過ぎていました。そのまま試合は終了し、ドイツは3-2でトルコに勝ちました。

点が入り喜ぶドイツサポーター


さすが欧州選手権の準決勝、試合はとてもレベルが高く、試合展開も劇的で面白かったです。予想以上にトルコが強かったことが印象的でした。しかし、ドイツはそれ以上に強かったです。技術やスピードで負けているのを身体能力と精神力で打ち破りました。非常に印象的な試合でした。僕のマン・オブ・ザ・マッチはドイツの1点目を決めたシュバインシュタイガーです。とにかく運動量が多く、右サイドにも左サイドにも前線にも現れて、攻守に効いていました。トルコでは、中盤のアルティントップはいつか世界的な選手になるかもしれません。あと、名前は知らないけど、ボランチの7番もかなり凄かったです。バラックは彼に手も足も出ませんでしたし、パス回しでも技術の高さを見せていました。

体をドイツ国旗色にペイントした気合の入ったドイツサポーター



この日は近くの小さい町で一泊し、翌日なおくんの車でミュンヘンまで戻り、そのまま飛行機に乗って北京に帰りました。2泊3日の弾丸ヨーロッパサッカー観戦ツアーでした。案の定疲れました。


チベット族自治州へ

2008年07月10日 16時24分02秒 | アジア

以前から”僕の旅において最後のハイライトは西チベットの旅・カイラス巡礼だ!”と公言していたのですが、今年3月のチベット動乱などの諸々の不幸な出来事が重なり、西チベットへの旅はあきらめなければならない状況になってしまいました。この事実に僕は打ちひしがれていました。そして、失意の中で、カイラスへ行くためだけにこの半年間ずっと持ち歩いているチベットのガイドブック(旅行人・全チベット文化圏ガイド)を読んではチベットへの思いを無駄に募らせていました。しかし、そのガイドブックをよくよく読んでみると、どうやらチベット文化圏というのは、非開放の”チベット自治区”だけではなく、対外に開放されている地区にも”チベット族自治州”などという形で残されているようなのです。しかも、その開放地区も非開放地区に匹敵するような魅力的な場所がたくさんあるようなのです。なので、僕はそちらを訪れることにしました。(しかし、どうやら6月25日よりチベット自治区は外国人に再開放されたみたいですね。。。今回のブログの話は、それ以前の6月17日から20日までの話です。)

対外開放されているチベット文化圏は主に青海省、四川省、雲南省に集まっています。僕はある事情により6月22日までに北京に行く必要が会ったので、敦煌と北京の間にある青海省を訪れることにしました。よくよく調べてみるとこの青海省は現在のダライラマが生まれた場所でもあるみたいで、なぜチベット自治区ではないのか、それに非開放になっていないのかが不思議なくらいです。

まずは、敦煌から寝台バスに乗って約20時間で青海省の省都・西寧(シーニン)へ行き、そこからさらにバスに7時間揺られて興海(シンハイ)というチベット自治州の町に行きました。

寝台バス

2階建・3列で、寝台と椅子の中間のような座席が並んでいます。この座席はリクライニングで倒れているわけではなくて、常に固定で倒れているので、昼間っからずっと乗客は寝転がっていなければいけないのです。



西寧につくと、住民の大部分が頭に白い帽子を被っている回族という中国のイスラム教徒になり、顔も少し一般的な中国人とは違ってきました。ネパールのエベレスト・トレッキングでたくさん出会ったシェルパ族に近い感じです。目が大きくぱっちりとしていて、肌の色が黒いです。ちらほらとチベット僧の姿も見かけます。彼らもシェルパと同様の顔の特徴を持ち、頬っぺたが若干赤みを帯びています。そして、なぜか体格がいい人が多いです。ネパールにもチベット僧が多くて、その時も思ったのですが、なぜかチベット僧のおっちゃん達って体格が良くて、顔がいかつくて、迫力があるのです。


興海の周りはだだっ広い草原と山です。

海抜3000mくらいだそうです。


興海のバスターミナルについて屋根の上に積んである荷物を下ろしていると、何やら長身の薄汚い男が他の乗客にからんでいるのが見えました。どうやら物乞いのようで、他の人のカバンや服をつかんだりするなどの積極的な行動に出ていて、かなり迷惑な存在になっています。僕は、「うわあ、あいつにからまれたらいややなあ。」と思いながら、自分の荷物を屋根から下ろすと、僕のシャツの袖が引っ張られるのを感じました。振り向くと案の定その物乞いでした。必死に振り払ってもしつこくからみついてくるので、僕はそいつを殴るふりをして追い払おうとしました。すると、そいつは一瞬ひるんだ後、なんと僕の顔めがけて唾を吐きかけてきたのです。僕が唖然としていると、そいつは立ち去っていきました。周りの人達はみんな見て見ぬふりです。どうやら、チベット族自治州の旅は一筋縄ではいかないみたいです。


興海の町

実際来てみると西寧同様、住民の多くは白い帽子をかぶっている回族(イスラム教徒)でした。チベット人は全体の3割くらいでしょうか。

ちらほらいるチベット僧



地獄の悪臭トイレを持つ宿で一泊し、翌日、この興海へ来た唯一の目的といっていいチベット寺のセルゾン・ゴンパ(賽宗寺)へ向かいました。ガイドブックによると、宿のすぐ目の前からゴンパへ行くジープが出ているとのことですが、それらしい車は見当たりません。歩道には暇そうにしている回族の人達が大挙してたむろしているので、その中の一人にゴンパへ行く車を尋ねてみました。すると彼は、その辺にいるチベット僧の服装をしている人達に片っ端から声をかけて僕をゴンパへと連れて行ってもらえるかどうか訪ねてくれているみたいです。それが駄目だとみると走っている車を一台止めて、運転しているチベット人に交渉し、ついに僕をセルゾン・ゴンパまで連れて行ってもらえるように話をつけてくれました。車には2人のチベット人が乗っていました。年齢が40台前後と30台前後のコンビで、例のごとくガタイが良いです。彼ら2人とも英語が全く話せないし、僕は中国語もチベット語も話せないので、「セルゾン・ゴンパ、セルゾン・ゴンパ」と連呼してみると、「うん、わかってる。」というような表情を浮かべて、僕に車の後部座席に座るようにうながしました。車はBMWのセダン、サンタナです。そして、セルゾン・ゴンパを目指す長い長い一日が始まりました。

まず、車は近くの民家の前に停車。そこで、積荷のタイヤを下ろしました。そして次はまた元の場所まで戻って来て、遅めの朝食(時刻は11時ごろ)を食べ、市場でスイカや桃などの果物を購入。次は、そこから5分ほどの所にある大きい民家に入り、そこの家族にご挨拶。そして、挨拶がてら、チベット特有のバター茶とチベットパンをごちそうに。そして、その民家のとなりの洗車場に移動し、洗車屋さんに入念に車を洗ってもらいました。トイレや床は汚くても平気なくせに、車に関してはとてもきれい好きなんですね。。。

ぴかぴかになっていく車を見つめるドライバー(左端)

洗車屋さんは、外だけではなく車内も入念に洗ってました。


この時点で僕が初めに車に乗せてもらってから2時間以上も経過しています。そして、きれいになった車にもう一人チベット人を追加して、ようやく町を出て草原の道を走り始めました。しかし、20分ほど走ると草原のど真ん中に車を止めて、みんな車外へ出て行きます。何が始まるのかと思うと、なんと、昼食を食べるらしいのです。さっき食事をしたばっかりなのに。しかも、昼食のメニューはスイカとパン。スイカといってもパンを食べた後のデザートとして食べるのではなく、パンのおかずとしてパンと一緒にスイカを食べるのです。実際やってみると、これが案外食べれました。スイカもおかずになるんですね。新発見。もう二度としないと思うけど。


おかずスイカとチベット人



そうこうしていると、バイクで別のチベット人がやって来て、バイクの調子が悪いらしく、みんなでバイクをいろいろいじり始めました。しかし治らず、そのうち雨が降り出したので、みんなで車の中に避難したと思ったら、みんないきなり昼寝をし始めました。うわあ。もうチベット人の行動は全く予想がつきません。言葉が通じるのなら、いろいろと彼らの考えを聞いてみたいところなのですが、全く通じないので仕方なく彼らのするのを僕は黙って見ることしかできません。バイクでやってきたチベット人が携帯電話でバイクの修理屋を呼んでいたみたいで、45分後くらいに修理屋さんがやってきてバイクを引き取って去っていきました。バイクで来た人も一緒に車に乗り込み、総勢5人になり、どうやらいよいよ本格的にセルゾン・ゴンパを目指して出発を始めるみたいです。この時、既に午後3時を過ぎており、今日中に興海に戻れるかどうかちょっと不安になって来ました。

バイクを囲んであーだこーだと議論するチベット人たち



そのうち草原の道は終わり、岩山に囲まれた完全なオフロードの道を走り始めました。相当な悪路です。普通のセダン車でこんな道をぶっ飛ばすなんて、さすがチベット人はすごいなあと感心していると、周りには特に岩山しかない場所で突然車を止めました。そして、4人とも車を降りておもむろに岩山を登り始めました。急な斜面を駆け上がっていき、何をするのかと思ったら、どうやら花を摘んで集めているようです。いや、本当にチベット人の行動には驚かされるばかりです。

急な岩山の斜面を登って花を摘むチベット人たち


その後、数十分間そういった彼らの作業は続き、大量の野花が集められてきました。それらをトランクに詰め込み、再出発しました。岩山の間の狭い道を抜けると、大渓谷の素晴らしい景色が広がっていました。



そして、夕方の5時ごろ、ついにセルゾン・ゴンパに到着しました。セルゾン・ゴンパは単なる寺というよりも、小さな村という感じです。岩山の中腹に寺と民家が密集して建てられている小さな集落・生活共同体です。岩山と一体化したようなその姿はとても神秘的で、僕は長い時間をかけてここまで来た甲斐があったと思いました。



一緒に車に乗ってきた人達は、みんなちりぢりに去っていき、残った車を運転していた人が僕をある民家に案内してくれて、”泊まるところは丘の上にあるから後で来い”というようなジェスチャーをして消えていきました。その民家には小柄なチベット人がいて、僕にお茶とパンをごちそうしてくれました。ありがたくそれらをいただいていると、彼は初歩的な英語の教科書を持ち出してきて、それを指差し会話帳のように使って「どこの国から来ましたか?」とか「職業はなんですか?」などの質問をしてきました。一切発音はせずに。僕も回答を教科書を指差しながら静かに行いました。

そんな彼の家


彼にお礼とさよならを言って、セルゾン・ゴンパの集落内をぶらぶらと歩きました。今日中に興海へ戻るかここに泊まるか考えながら。ここに一泊するのはとても魅力的な申し出だし是非泊まりたいけど、もしここに一泊してしまうと期日までに北京に行けないかもしれないという葛藤があります。

そうこうしているうちにお寺に着きました。

お寺


若い僧侶たち


寺の内部

ただでさえ神秘的な内装なのに、中央に読教している僧侶が数人いて、さらに神秘性を高めていました。低くて腹の底に響くような声でした。


その後、寺の内部を見学した時に案内してくれた僧侶たちと道端でばったりと再会し、彼らは僕を彼らの家へ招待してくれました。そして、お茶やパンやヨーグルトをふるまってくれました。それにしてもチベット人はなんて親切なんでしょう。感動しました。
前の民家で英語の教科書を使ってコミュニケーションをとったことから、そういえば僕のチベットのガイドブックに簡単なチベット会話集があって、それがコミュニケーションに使えるのじゃないのか、と思いつき(今更ながら)、今回はチベット人の彼らとはそれなりにコミュニケーションがとれました。もっと早くこの方法に気付いておけば・・・。

チベットガイドブックを熱心に読むチベット人と


おっちゃんチベット僧

やっぱりケンカが強そうです。


その後、また集落をぶらぶら歩いていると車を運転して僕をここまで運んでくれた人に再会しました。摘んできた花を使って何かをしているみたいです。彼はジェスチャーで「夕食を食べたら、宿へ行こう」という風に言ってくれたのですが、僕はやっぱり北京へ行けるか心配になりました。でも、明日中に西寧まで戻れれば北京には予定通りに到着できるので、西寧に明日中に戻れるかどうかを聞きました。周りにいたチベット人達がわらわらと集まってきて議論した結果、「今からジープが出るからそれに乗りなさい」ということになりました。ここに泊まりたいのはやまやまなのですが、仕方ないので諦めて今日中に興海に戻ることにしました。


セルゾン・ゴンパのチベット人はとてもいい人達ばかりでした。しかもみんなかっこいい!

そうして、僕はちょうどやって来たジープに乗せてもらい、興海へ戻りました。行きは何だかんだで7時間くらいかかったのに、帰りはたったの1時間半でした。ジープの運転手の兄ちゃんは、金を受取らずにかっこよく去っていきました。結局、この日は行きも帰りもタダで送ってもらい、食事も全部ごちそうになりました。



こうして僕のちょっとだけチベット観光は終わりました。

たった一日のチベット観光でしたが、なんか一週間分くらいの刺激があったようなそんなような感動が後に残りました。

中国の味

2008年07月03日 00時03分52秒 | アジア


久しぶりの更新になってしまいました。中国入国してからずっと忙しく移動していて、それが落ち着いたとたんに体調を崩したりカメラが何度も壊れたりもして、ブログを書く余裕がないまま時間がいつの間にか過ぎてしまいました。



1ヵ月半も滞在してしまったパキスタンを出国し、ようやく半年間も続いた南アジアの旅が終わって、ついに中国にまでやって来ました。中国と言えば、地域的分類だと東アジアだし、日本のお隣さんの国だし、いよいよこの旅のゴールが見えてきたという感じがしてきました(この後まだ東南アジアにも行くのですが)。入国後、まずはタシュクルガンという中国の最も西にある町に来たのですが、日本との時差4時間のパキスタンと経度はほとんど変わらないのですが、国境をまたいで中国に入ったということで日本との時差はたったの1時間になりました。

ところで、中国に入る前、マスメディアから伝えられる情報や旅人からの評判により、僕は中国に対してかなり強い恐れを抱いていました。根強い反日感情、高まるチベット問題、土壌や河川や大気を激しく汚染している公害問題、インターネット検閲問題、中国製製品の品質問題(今年に入ってからも日本で毒入り冷凍餃子問題がありましたね)、中国人のマナーの悪さやトイレの酷さに関する噂の数々、、、数え切れないほどの多くのマイナスイメージを持っていました。プラスイメージといえば食べ物の美味しさに関することくらいでしょうか(あ、あと、この旅で何度もお世話になった世界中あらゆる国に移住してたくましく暮らしている華僑の人達は素晴らしいと思います)。反日感情に関しては、数年前のサッカーのアジアカップが中国で行われた時に(確か決勝で日本が中国を倒して優勝したはず)、日本代表チームの試合の時に、対戦相手が中国でないにも関わらず、中国人観客から執拗なブーイングが日本に対してあったことがあり、それ以来僕の中で「なんやねん、この中国人のぼけどもが」という感情が根付いていました。

しかし、実際に中国に来てみると、上記のようなマイナスイメージは感じられず、むしろインドやパキスタンを経てから来ると人々の顔が日本人と似ていることもあって、とても親しみやすい国に感じられました。人々は、英語は全然話せないけど、にこやかで親切です。インフラの整備状況もパキスタンやインドなどと比べると格段に良く、道路は広いし、歩道も広いし、ゴミ箱もたくさん設置されていて清潔だし、町歩きがとても楽です。ドライバーの交通マナーも中東や南アジア諸国に比べると随分良いし、バスや電車も新しくてきれいできちんと整備されているし、旅をしている感覚としては完全に先進国という感じです。もちろん北京や上海や広州などの有名大都市は日本や欧米と変わらない先進ぶりだというのは情報として知っていましたが、まさかパキスタン国境に近い西の最果ての町が、このような発展ぶりだとは思いもよりませんでした。

そういえば、パキスタンのラホールで中国人の若い女の子の旅行者と話している時に、中国人の反日感情について尋ねたことがありました。彼女は「そんなの全くないわよ!年をとっている人には多少あるかもしれないけど、若い人達はむしろ日本のことが好きよ。みんな日本の映画やドラマや漫画をよく見るし、ファッションだった真似しているし。あまりメディアの報道にはだまされないことね。それはそうと、あなた”薔薇と牡丹”っていう日本のテレビドラマ知ってる?」なんて言っていました。

それに、なんといってもご飯がめちゃくちゃ美味しいし、僕は中国のことがすぐに好きになりました。これほど良い意味で予想を裏切られた国は初めてです。ただし、トイレだけは例外ですが・・・。(便所についてはまた後ほど改めて書く予定です。)

フンジュラーブ峠


パキスタンから中国へは標高4700mのフンジュラーブ峠を越えて入ります。その峠の上に中国の国境事務所のようなものがあり、そこで過去最も厳しい荷物チェックを受けました。バックパックとサブバッグの中にあるありとあらゆる荷物を外に出して、それら一つ一つを詳細にチェックされました。服も下着も電化製品も本もその他小物も、それぞれ一つ一つを入念に。執拗なチェックは僕の分だけで45分以上は続いたと思います。中でも驚いたのは、ノートパソコンの中の写真データやカメラのメモリカードの写真データをチェックされたことでした。まさか、国境の荷物チェックでパソコンの電源を入れることがあろうとは思いませんでした。そういった厳しいチェックがようやく終わった最後に、さっきまで厳しかった若い係官が、それまで全く英語が話せなかったくせに、急に「ご協力ありがとうございました。」と慣れない英語で照れくさそうに言ってくれたのが印象的でした。きっと彼の覚えている数少ない英語の一つなんでしょう。彼のちょっとした心遣いでイライラしていた心がちょっと晴れました。

そして、イミグレオフィスのある国境の町タシュクルガンへ行きました。そこは、パキスタンから行くと、まるで天国のようにきれいに整備されている小さな町でした。上にも書きましたが、道は広くてきちんと整備されていて、商店や食堂が多く物が豊富で、少し移動しただけですが全く違う国に来たのだという実感が沸きました。しかも、この町は町並みは中国風ですが、住んでいる人はタジキスタン系(中国の西隣の国)の民族みたいで、顔は白人みたい(トルコやイラン系)で、服装も特徴的な民族衣装でした。そういったなかなか興味深いタシュクルガンの町で一泊する予定だったのですが、国境を越えるミニバスに同乗していた中国人の一団に、乗り合いタクシーに乗って今日中にカシュガルまで行こうと誘われたので、そうすることにしました。

タシュクルガンの町


カシュガルへの道。カラクル湖。


夜の12時ごろにカシュガルの町に着いたのですが、その都会ぶりにはまたまた驚きました。ネオンの光る食堂やら商店やらいかがわしい店やらが、広くてきちんと舗装された道路の脇にこれでもかと立ち並んでいる光景を見て、久しぶりに日本っぽい町に来た気がして、なんだか嬉しくなりました。インドやパキスタンのような混沌とした無法地帯的雰囲気はここにはありません。あと、女性が肌を露出した服装で外出しているのを見るのも随分と久しぶりです。テンションあがりますね。

そして、この日チェックインしたカシュガルに来るバックパッカーのほとんどが泊まるといわれる宿のロビーが下の写真です。



僕は最初、完全に場所を間違えたと思いました。こんなところに、バックパッカーが泊まれるはずが無い。でも、ガイドブックに乗っている名前は完全に一致している。駄目もとで、この一見すると高級ホテルのフロントに”ド、ドミトリーはありますか?”と恐る恐る聞いてみると、”あります。一泊30元(約500円)です”との返事が!さすが中国。中国ではバックパッカーはこんなところに泊まれるんだ!と興奮しつつ、部屋に入ると、なんとエアコンとテレビが付いていて、しかもホットシャワーが24h使えて、その上湯沸かし器まで付いていると言う素晴らしい部屋でした。ドミトリー(相部屋)なのに。中国、恐るべし。

カシュガルの町


カシュガルの屋台街


おいしい一人用鍋


そして、次の日からは毎食中華料理が食べられると言う幸せが待っていました。中華料理は本当に美味しいです。ああ、幸せです。本当に幸せです。インドとパキスタンで長らく食に苦労し続けてきただけに、この幸せが本当に身にしみます。ヨーロッパやアフリカや南米を旅している時は中華料理屋を見つけると思わず入って中華料理を食べていました。もちろん、日本料理があれば最高なのですが、日本食は高いし、アフリカや南米などではほとんど見つけられないし、それに比べると中華料理は安いし、どこの国でもだいたいあるし、僕の食生活を随分と助けてくれていたのです。しかし、本場中国の中華料理は世界各地の中華料理とは一味も二味も違っていました。どんなローカル食堂に行ってもメニューが豊富だし、何を頼んでも美味しいし、なんといっても安いし、毎日の食事で何を食べるか考えるのがとても楽しいです。こんなことは、ネパールのカトマンドゥ以来です。
(中国入国当初は、上記のように熱い気持ちでしたが、最近は中華料理もたまに外れることもあるということに気付いたので、この情熱は沈静化しています。)

カシュガルにてしばらく中華料理を堪能した後は、電車に乗って約35時間、一気に敦煌にまで移動しました。これだけ移動してもまだ中国の西の地域から出られないという所が凄いですね。

中国の電車(硬座)

一見すると日本と変わらない中国の電車のクオリティです。インドとは雲泥の差です。でも、客は中国人なので、時間と共に床が絶望的に汚れていきます(容赦なく落とされる食べ物のカスや吐き捨てられる痰により)。まあ、その辺のマナーはトイレの件も含めて、中国人はやっぱり中国人だなあ、という感じです。日本や欧米とは大きな文化の違いですね。そして椅子はその名(硬座)のとおりやっぱり硬めで、リクライニングは無かったです。インドの電車と違うところがもう一つ、英語が全く通じないので、せっかく話しかけられてもほとんど会話が通じないところです。これについては、ちょっと残念です。

硬臥(安い方の寝台車両)にも乗りましたが、こっちも文句のつけようが無い素晴らしいクオリティでした。インドとはやはり雲泥の差です。

敦煌では莫高窟という遺跡と鳴沙山という砂丘を観光しましたが、印象に残ったのは、隋さんという日本語ぺらぺらの中国人の観光ガイドでした。
敦煌に着いたその日に昼食でも食べようかとぶらぶらしていたら、「こんにちは。日本人ですか?」と歩道で声を掛けられました。中年の中国人の男性でした。中国ではこういことは初めてのことだったので初めはびっくりしましたが、話を聞いてみると僕が持っている「旅行人」というガイドブックにも名前が載っている有名な隋さんだったのでした。彼の提携する店で昼食を食べながら、敦煌観光事情についていろいろと教えてもらいました。隋さん曰く「最近は、日本人の旅行者が減っちゃったよ。中国人の旅行者も減ったしね。大変だよ。」とのことでした。

莫高窟の大仏のある所

内部は写真撮影禁止なので。。。

鳴沙山

見事な砂丘でした。しかし、残念なことに砂嵐でカメラが壊れました。上の写真は壊れる前のカメラで撮ったものです。

その後、僕1人で観光に出かけて、莫高窟、鳴沙山という二大観光を終えて、しかもカメラが壊れて打ちひしがれて、とぼとぼと敦煌の町を歩いていると、遠くから「しんいちさーん!」と僕を呼ぶ声がしました。見ると、隋さんが20mくらい離れたところにいる僕を見つけて、声を掛けてくれていたのです。隋さんのところに行くと、早速「ビールでも飲む?」と来ました。隋さんはビールが大好きなのです。毎晩日本人観光客を捕まえてはビールを飲んでいるっぽいです。昼に会った時は前夜飲みすぎのため二日酔いでした。ビールを飲みながら壊れたカメラについて隋さんに相談すると、砂漠ではしょっちゅう観光客がカメラを壊すみたいで、翌朝カメラ屋に直しに連れて行ってくれることになりました。その後、ぐびぐびと冷えたビールを飲みながら(そうです。中国はビールも安くて美味しいのです。)隋さんは、敦煌観光地区の熾烈な客取りの争いの話や、政府が店の看板や張り紙・内装に至るまで細かく指導してくることに困っているという話や、中国の食料品物価がこの1年で2~3倍に上がって困っていると言う話や、僕が顔も名前も知らない日本人旅行者同士の恋の話まで、夜中まで延々と語っていました。ネパール以来、久しぶりに心ゆくまでビールを飲めて、楽しかったです。



翌朝、隋さんのおかげで無事カメラも直り、次の目的地へ行くバスで出発を待っていたら、なんと隋さんがバス停までわざわざ見送りに来てくれていました。ちょっと感動しました。ありがとう、隋さん。隋さんが新しい店(敦煌風味)で商売が上手くいくことを祈っています。


ということで、中国の旅は出足はなかなか好調なのでした。


追伸:ホームページの方を久しぶりに更新しました。そちらもよろしければご覧になってみてください。
http://www.geocities.jp/in_shore_kisimt/index.html