切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

御金神社~白清稲荷・天塚古墳 京都市中京区・・・なんと古墳

2020-06-14 00:16:19 | 撮影
御金神社



 御金神社は中京区、二条城の東側にある。地下鉄などの駅からも近く、交通の便の良いところだ。ただ大通りではなく細い路地に面したところなので、周りはオフィスビルが立ち並んでいる間にある。
 由来については下記の通り。
 元々は明治の始め頃に新興宗教として現れた金光教の信者が、鉄・金属類に関する祈りを込めて創建された神社だ。そのために日本が明治以降、欧米の産業革命の影響を受け国の近代化を進める中で工業が発達し、当然金属製品が様々なところで生産されるようになり、そのようなものに対して発展と無事を祈って祠が建てられた。
 長い間ひっそりとした場所で小さな神社として存続してきたが、戦後の復興の中で日本が再興し、経済発展が著しく進展する中で御金神社という名前に少しずつ注目が集まり、バブル期以降に、本来の金属を祀る神社から、「お金」にご利益がある神社として認識されるようになる。そして鳥居までもが金色に塗られるなど派手な神社として、今や全国的に有名になり訪れる人は極めて多い。
 境内は狭く両サイドをビルに挟まれており、神社としての風情などは全くないが、とにかくご利益を求めて常に大勢の人が訪れる。特に初詣の他、宝くじの当選発表当日とか競馬の大きなレースが行われる日などは、神社は満員状態となる。ホームページも開設しており、金属類というよりは「お金」の神社として、もはや知らない人がいないと言ってもいいほどの超有名神社になってしまった。直接金属のご利益をうたっているのは全国唯一らしい。

『御金神社御由来

一、神社名 御金神社
一、鎮座地 京都市中京区西洞院通押小路下ル押西洞院町
一、御祭神 金山毘古神・天照大神・月読神

伊邪那岐、伊邪那美、御二柱神の皇子にして金山毘古命と稱え奉る五元陽爻(天の位)の 第一位の神で金乃神、金乃類を可り給う神で、昔は民家にあって密かに祭祀せられていたが明治十六年(1883年)今の名を附して社殿を建立し、爾来、金神様の愛称で親しまれ氏子と崇敬者で祀られるようになった。
鉱山、鉱物の神として人間の営みの中で用いられる全ての金属類、昔は鏡や刀剣類の武具、 農耕器具としての鋤や鍬等、現代では鉱工業、農産業の大型機械から家庭の道具類や金属類全てに亘り、特に通貨として用いられる金、銀、銅の御金を護り給う事から、近年は資産運用の神として証券類や不動産、造作、転宅、方位、厄除け、また旅行中の無事安全をも護り給う大神としてひろく崇められております。
金属類を護り給う神を祀る神社は国内唯一です。
御祭礼は、毎年十月の第"一日曜日に氏子の城巽学区民により奉仕される。
 尚、境內西側の銀杏は京都市内有数の大樹です。
 ・樹高 約二十二m  ・幹回り 二m二十五㎝  ・樹齢 約二百年以上
 平成十五年三月吉日
       京都市 御金神社奉贊会』 (説明板より)
   


伯清稲荷・天塚古墳



 地下鉄東西線の太秦天神川駅、嵐電天神川駅から西の方へ少し行ったところにある。大きな工場や住宅が密集している地域で、どこにあるのかがよく分からない。車を適当なコインパークに入れて歩いて探しているうちに、ちょっとした森を見つけた。路地を右に左に歩きようやく伯清稲荷に到着。赤い鳥居が構えていて、そこから丘の小高い所に道が続いている。そこに下記のような説明書きがあった。なんとここは天塚古墳。
 撮影しながら道をずっと進んでいくと、古墳を一周する形になる。ほぼ回りきった手前になんと古墳の石室がそのまま現れる。そしてその石室に入ることができる。本物の古墳の石室に入るなんていうのは初めてのことだし、第一、自由に出入りできるようなら古墳、そして石室何ていうのがあること自体、正直びっくりした。
 つまりこの古墳は全体が伯清稲荷の境内地になっているということになる。そしてこの古墳そのものが京都においては珍しい前方後円墳だ。まさかこういうものが住宅街の中に構えているとは思いもしなかった。

 説明書きにある通り、古墳そのものは6世紀前半に造成されたものらしいので、神社の方はその後ということになる。この神社の創建等の由緒についてはほとんど何もわかっていない。しかしこの一帯は古墳時代以前より、大陸から渡来系の人たちが入り込み開発してきた地域であり、おそらく秦氏による影響が極めて強いものだと考えられている。
 彼らがもたらした農耕や養蚕技術、機織りの技術等がこの地で盛んになり、後に各地の豪族によって認められ、権力の座に登っていくことになる。従って神社の方も稲荷信仰のものであり、やはり秦氏がもたらしたものと関わっているのではないかと思われる。かつては別名、養蚕神社などと言い方もされていたようだ。
 古墳の方は今は国の史跡に指定されている。外から見る古墳ではなく、石室を見て実際に入ったりしてみると、古代の古墳文化、飛鳥文化といった時代を頭に思い浮かべてしまう。非常に貴重な場でもあり、是非とも見ておくことをおすすめする。
 ここは地元の人以外はほとんど知られていないところでもあり、めったに参拝者は来ないようだ。しかしこの太秦地域一帯は、他にもかなり由緒のあるいわくつきの神社等が散在しており、渡来人たちがどのように開発していたのかという点でも、いろんな意味で古代の歴史の勉強になる場でもある。

   

『史跡 天塚古墳(昭和53年3月3日指定)
この古墳は6世紀前半につくられたと推定される前方後円墳で、嵯峨野太秦古墳群のなかで、史跡蛇塚古墳に次ぐ全長70m余りの規模を持っている。墳丘にはめずらしく後円部西側の無袖式、西側くびれ部の片袖式と、2基の横穴式石室がある。
明治20年(1887)の石室発掘調査の際には、銅鏡、馬具、勾玉、鉄鏃など約400点の副葬品が出土した。それらはいま、京都国立博物館や京都大学に保管されている。
近辺の古墳分布や遺物などを考え合わせると、この天塚は近くの蛇塚や甲塚と同じく、大陸から渡来してこの地域をひらいた秦氏一族の墓と推定され、往時の土木技術や一族の勢力圏を探る貴重な手掛かりとなっている。石室内には現在、伯清稲荷大神の祭壇がおかれ、巨岩の組み合わせを見ることができる。
 京都市』  (現地説明書きより)

     
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