切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

豊国神社・方広寺 京都市東山区・・・大仏と梵鐘

2019-07-20 23:18:05 | 撮影

豊国神社



『豊国神社
 豊臣秀吉を祀る神社で、一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。
 慶長三年(一五九八)に六十三歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ヶ峯に葬られ、その麓(現在の豊国廟太閤坦)には、広壮豪華な廟社が造営された。後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長九年(一六〇四)八月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。
 豊臣氏の減亡後、その廟社は徳川幕府により廃祀されたが、明治十三年(一八八〇)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。また、明治三十一年(一八九八)には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ケ峯の頂上に再建された。
 正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の全地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている。また、その両脇の石灯籠は、秀吉恩顧の大名が寄進したものである。
    京 都 市 (駒札より)

 
 沿革は上記駒札の通り。豊臣秀吉の死後に創建されたが、後に豊臣家が滅亡すると同時に、徳川家康によって廃棄されることになる。再建されるのは明治になってから。
 神社は京都国立博物館のすぐ隣。そして方広寺と境目なく繋がっている状態になっている。正面の石造鳥居をくぐると、参道の奧、遠くからでもわかるきらびやかな門が目に入る。豊国神社を代表する国宝の「唐門」だ。
 近づいてみると、さすがに国宝だけあって見事な装飾に彩られており、見るものの目をひきつけて離さない。西本願寺の唐門を彷彿とさせる。あちこちの角度から写真を撮る。元々は伏見城にあったとされている。それが南禅寺の塔頭寺院である金地院へ移され、豊国神社創設の折り、こちらへさらに移されたと言う。
 豊国神社自体は唐門のところに柵があって、普段は境内の内部に入ることができない。唐門から身を乗り出すようにして境内の写真を撮る。神社としては比較的珍しく、国宝の唐門の他に、様々な重要文化財を所有している。公開されることがあるのかどうかは分からないが、是非一度見てみたいと思っている。
 時々この門前でフリーマーケットのようなものが開かれたりして、大勢の人で賑わっている。そのすぐ前に国宝があるというのは、何とも 穏やかで微笑ましいような風景だ。
           


方広寺



『京都市指定有形文化財
方広寺大仏殿遺物 九点

 本遺物は、豊臣秀吉によって造立され、慶長年間末期に豊臣秀頼により再興きれた方広寺
大仏殿および大仏の一部であると考えられるものである。
 大仏殿関連が銅製風鐸、銅製舌各一点、鉄製金輪四点、大仏関連が銅製蓮肉片、銅製蓮弁、鉄製光背金具各一点の計九点からなる。このうち、風鐸と舌には銘文が刻まれており、の文字のある著名な同寺「梵鐘」(昭和四十三年重要文心財指定)を製作した三条釜座の鋳物節名越(名護屋)三昌らによって慶長十七年(一六一二)に製作されたことが判明する。他の七点についても、風鐸や舌と前後する時期の製作と考えられる。
 大仏殿及び大仏は、寬政十年(一七九八)の落雷により大仏、大仏殿ともに焼失している。従って、本遺物は豊臣家建立の寺院として東山に偉容を誇った方広寺大仏殿のありし日の姿を伝える資料として貴重なものである。
  平成十二年四月一日指定
    京都市  (説明書きより)



 方広寺は隣接する豊国神社との関係が深い。本来ならば、奈良の大仏と並ぶ巨大な盧遮那仏がこの地に建っていたはずだ。
 豊臣秀吉が命じて大仏建立に取り掛かるものの、建立を急いだため銅で作るはずのものがそれは一部分となり、本体全体は木造という形になった。もちろん盧遮那仏を収める大仏殿も建立された。その場所は今は豊国神社の境内になっている。
 ようやく完成した大仏だったが、完成翌年の慶長の大地震によってともに崩壊してしまう。江戸末期になって木造で大仏の上半身だけが再建された。しかしこれも昭和に入ってから火災で焼け落ちてしまう。従って今の方広寺は敷地も狭くなり、大仏や大仏殿の跡等もないような状態になっている。
 3年ほど前にこの方広寺を訪れた時に、丁度公開期間で内部に入って上記の説明書きにあるような、当時の盧舎那仏の遺物を拝見することができた。また後に描かれた大仏の図面のようなものも展示されていた。なんとももったいない話ではあるが、京都にもこうしてほんの一時期、奈良の大仏を少し上回る巨大な大仏が聳えていたということだ。
 今の方広寺には大仏こそ一部の遺物しかないが、代わりに巨大な「梵鐘」がある。重さは約83トンに達する巨大なもので、「日本三大釣鐘」と称されている。江戸時代初期の鋳造で、今は国の重要文化財に指定されている。あとの二つは東大寺と知恩院の梵鐘だ。これはこれで見る価値は十分にあるし、境内も完全オープンな状態で自由に出入りできる。豊国神社と共に一緒に拝見しておくべきだと思う。
 ちなみにこの梵鐘には「国家安康・君臣豊楽」と言う文字が刻銘されており、これを知った徳川家康は「家」と「康」という文字の間に他の文字が入って、家康を分断するものだと怒りを表し、この事が引き金になって大阪夏の陣に至ったという話は非常に有名だ。
 なお方広寺という名称については諸説あって、確定したものがない。江戸時代においては人々はただ単に、「大仏」といった呼び名で通っていたようだ。

       
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