花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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母の日

2024年05月12日 | 日記
  今日は 

                 母の日ですよね

  母の日に、、私は赤いカーネーションを、、、、
  母に送った事はありませんでした。

  私の母は、、7歳の時、、、
  実母を、亡くしています。

  学校の「お裁縫の時間」になると、、、

  お友達は、、

  お母さんが作ってくれた針山だとか

  この中には、、、

  「お母さんの髪の毛を丸めて入れてくれているんだ」
        、、、目を細めて大切にしていた、、、と言った。

   「 こうすると、針が錆びないのよ、、、」と。

   授業の前は、、

   おしゃべりで、盛り上がっていたそうです。

  「小さなチョキチョキ鋏」を使いながら、、

   「母さんが、、「リリヤン、、」、という
   「手芸用の色のついた紐」で

   「自分のモノだとわかるように」、、巻いてくれて、
   
   お友達の鋏と間違わないようにしてくれた、、、とか、

     「小さなチョキチョキ鋏」は、、、今では100円ショップで売っていますが

     大正時代の初めの頃は、「お裁縫の時間に使う、、チョキチョキ鋏」として

     女の子の間では、、、必要不可欠のアイテムだったようでした。


                     


    実母を7歳の時に失った、、私の母は、、、
    実母の死んでゆく間際まで

      「母さん、、、鋏が必用なんです、、、」と

     面会禁止の重病の母の手を握り、、、「母さん、、鋏を買ってほしいの、、、」と

     耳元で懇願したそうです。

     死を目前にした母の実母にとっては、、、
     買ってやれないこともつらかったと思いますが

     母の声が、もはや実母の耳には聞こえていなかったのだと思われました。

     母の実母という女性は、和歌山県の山村にある、、トクヤ(どういう字を書くのか、忘れましtが、、)
     旧家で、あたりではどなたも知っていた家だったそうです。

     幼少より、教育を受ける事の出来た,、、幸か、、、不幸?か

     天才少女のように育って行って、、17歳で、家庭科の先生になり、

     同じ教壇の仕事をしていた、 東京の師範学校から、村に帰って来ていた
     (母の父に当たる)祖父と
     職場結婚をしたという、、、

     当時としては めづらしい、「恋愛結婚だったそうです。」

     和歌山の山奥と、、串本と、、新宮が、、祖父の行動半径だと思って

     田舎のエリートだと、思っていたのですが、、、

     祖父の家は、男兄弟が居て、
     一番上の兄は、、、カリフォルニアの開拓で、、日本を後にして

    当時は「砂漠で植物は、、、サボテン!」という土地を

     砂漠の下に水を通し、緑地帯にしてゆくという、

     移民の仕事場を指導する、、、現代で言えば、、、開墾と言えば良いのか?

    サトウキビ畑や、作物の実る土地にするべく、、派遣されていたそうです。

     戦前は日本から、、、ハワイにも、、東海岸にも、、、多くの開拓者が

     日本の国の肝いりで、、、渡米していた時代です。

      祖父から聞いた幼い私の耳に残っていることは、、、
     「りめんばーパールハーバー、、」

      真珠湾攻撃から、太平洋戦争が始まったが、、、
         真珠湾の奇襲で、、日本人の多くの「サトウキビ農家の農民が死んだという事でした。
         勤勉で従順に、、塊根を繰り返し、、、ハワイのサトウキビ農家は
          低賃金の日本人の農民のおかげで、上質のサトウキビがとれていたという事を
       疎開して、物心ついた私が
       早朝の祖父の農場近くの鶏小屋で
       200羽以上の「レグホン」や「チャボ」や、、、名古屋コーチンの

       V字をした、、、長い木製の餌箱に、、餌を入れる手伝いをしに
        早朝、、マイお茶碗と、、マイ箸を持って、、息せき切って
         鶏の世話が面白くて、、爺ちゃんお家に走って通っていた頃でした。

       世話が終ると、日本では、そのころ目づらしかったダイニングキッチンで

       あsご飯を戴き乍ら、、祖父も、、
                  婆ちゃん(婆ちゃんと呼んでいましたが祖父の兄の奥さんでした)も
        戦争が始まってしまって、、日本に帰国したときのことを、、話してくれました。

        Nipponの農家の「人界作戦んで、、助け合う作付や、収穫が
                   すでに、機械によって大農場が、、少人数の作業で
                       何ヘクタールも,、見渡す限りの作付が終るという事や
                          文化も、社会も、、人種差別が顕著で有ることなど

         do it yourself !
        
         婆ちゃんと呼んでいた爺ちゃんの家族は、
          幼い私に、しばしば英語で何やら言いました。

        「あんたの、、お母さんは、、ピアノばかり弾いていて
         何もデキナイ女性だね。

         診療所(父は疎開で、この村の村営の診療所の所長だった)の人が
                     何でもやってくれるから

                      何もしなくても生きて行けてるけど、

                     ピアノしか弾けない女性には、、生きてゆける場所がない。

         お爺ちゃんいついて、、何でもできる女の子になりなさい、、、

         お婆ちゃんは、、休む事を知らない、、、ごそごそ、、仕事ばかりしている女性でした。
       女も、男も、、自分の事は何でも自分でするから
      カリフォルニアは、、沙漠が農地になったと言っていましたね。

       家のペンキ塗りなども、、皆、自分の家のことは自分でしていたそうです。
       婆ちゃんは、、 
       「あんたの母さんは、女の子を育てるのに、、

           囲炉裏を埋めないで、、やぐらもかけないから、、
     (部屋の真ん中に炭火を置いて暖を取るために、砂場のような半畳をが有る部屋にする事)
      女の子が火傷しない様にと、やぐらを造って持って行ってあげたのに

       邪魔だからと、、使わないで、囲炉裏の向かい側に座っている女中に
        あんたを抱かせて、、、 

         女中があんたを、、火の中におとしたとき、、

          向かい側に座っているんだから、、自分で抱き起せば良いのに、、
          女中さんに
         「子供を早く、、抱き起こして、、、早く、、早く、、!」
           掛け声かけても、、、自分では抱き起そうとしなかったんじゃそうな、、、

              人に命令ばかりして、、自分で動かんから、、、

              いろりの目の前の娘も、、女中に抱かせて
              女中に、、縁談をもちかけ、、、

              女中は、、ぽ^となって、、、あんたを抱いていた手を放したンジャそうな!!

          婆ちゃんが作った、、「やぐらさえ、、、使ってくれていたら」
           、、、あんたの手は、火傷することは無かった、、、!
              あんたのおかさんは、、、あほじゃ!!」

         お婆ちゃんは、、何か事ある毎に、、、母のアンバランスな日常を怒っていた。

           「祭りにも協力せん、、、し、、
             山車に飾る花作りにも,、来ないし、、

               自分尾家の事も出来んで、、女中さんを3人も使って

                女の子に、、火傷させてしまって、、

                  あんたのおかさんは、、、音楽しか能がない、、!「

          婆ちゃんは、、
          「母さんみたいになったら、、一人では生きてゆけなくなる、、」

           そう言いながら、、、いろいろな事を教えてくれました。

             石垣の生えている「ユキノシタの葉っぱ」天ぷらにすること、

              朝早く、、トリ小屋の卵を集める事、

              煉瓦の部屋の上段に、氷の大きな塊を、頼んで入れてもらう事。
              大きなお釜の置いてある台所の灰ガマの灰を搔きだすこと、、

              鶏を追いかけて、、追いかけて、、、

               結果的に、、スープにしてしまうという、、、

               ショッキングな一連の、、アメリカで過ごした女性の日常を見たのでした。

             そして、、梅の実の収穫、洗う事、、干すこと、、梅干をつくる事、、

               田植えまでさせていただきました。

              彼女にはダンナさんがアメリカに残ってしまったという、、、
            寂しさが有ったのかもしれません

             疎開地の存立の診療所の奥さんとして、、、

              ピアノばかり弾いている母のことが、、、

               能無しに見えるのは、、、もっともだと思いながら、、、

               母の、、偏った、、そういうところが、、父が気に行っているのだから

             婆ちゃんも正しいけど、、、母さんは、、あれでいいのだと、、思っていました。

           母の日だけは、、母さんい刃近づかない様にしていました。

             戦争中、軍の御用で外国に7年も居た父のもとにも
             戦場への、、軍医としての出兵の命令が来て

             テンワやんやの最中に、、、3人尾子供を失っている母は

            5月になると、、子供達の数だけ、、鯉のぼりを挙げてもらい

             失った子供たちのお位牌の前で、、座りつくしていたからです。

             子供の頃より、、母の日は、、ソート、、遠巻きをして

            天国から、、母自身に会いに来てくれると信じているように

            母は、、お位牌を並べて、、、壱日中、、、お位牌を眺めていたからでした。

            私は、、お爺ちゃんと、、おばちゃんの家に走って行って

           壱日中、、お手伝いをして、、、一緒にご飯を戴いているという、、、

            本能の井こごちの良い所にいて、、壱日を楽しく過ごしていたことを思い出すのです。

         その、、思い出の中でも、、、
          カリフォルニアの開拓の時代の
             苦難苦労を話して聞かせてくれる 
             通称、、婆ちゃんと呼んでいた人が話してくれることが

             幼い私にとっては、、見たことのない世界の話だけに、、、

             ワクワクしながら聞いていたのでした。
             爺ちゃんと婆ちゃん麻住んでいた洋館は、、
             玄関のドアを開けると

            橋を描いた油絵の額が掛かっていました。

            金門橋??だと言っていました。

            ゲートイン ̪だとも言っていました。

              アメリカから帰国する時は船が揺れて大変だった話や
               電着くを持って来て良かったとか、、、

              昭和20年の初めには、、目づらしかった電蓄で、、

              アメリカの音楽を聞かせてくれました。

           お母さんとお婆ちゃんとでは、、家事に関する限りは
           問題なく、、、婆ちゃんは、、凄腕の主婦でしたね。
   
         勤勉な日本人!低賃金で開拓に従事する日本人!

           理想的な作物がとれるようになった開墾地は
           アメリカに取り上げられて、、
            また、、、次の、
         開拓しなければ農地にならに地区に追いやられるという

         苦難の道を忍耐の毎日が、、、再び新天地として、、迎えてくれたという。

           そして戦争が始まると、、、強制的に、、帰国命令が出て、、、
             帰国という、、、昭和20年前後の日本の有る一場面が
           婆ちゃんの、おはなしから、読み取れます。
         何でも、、先駆者という、、厳しい認定を乗り越えて人のおかげで
        日本とアメリカは、、行ったり来たりができる中になったのだと、、、痛感するのでした。

     そして、、沙漠は、、、緑地帯に生まれ変わって行ったそうです。

     祖父も、、7歳と5歳の子供を、実家に預けて

      27歳で、東海岸に、留学して、大規模農場の農耕などを学んだそうです。
      肉食のアメリカ人にとって、、農学部に関する実際の開拓は
      日本からも、中国からも,、朝鮮からも

      開拓農民として、、、国から奨励された移民が受け入れられていたようです。

      同時に、日本で大学の前身である「師範学校を卒業した祖父」にも
      近代農耕や、畜産などの知識の取得が、仕事の一環として命じられたのだと推測しています。

      祖父の渡米中には、太平洋戦争が起こっているのです。
      ほとんど定住できるほどの、家屋と調度品が、そろっていた時期に
      帰国命令が出て、、、祖父は、3ヶ月もかかって、、、汽船んで帰国したそうです。 
      
      祖父が28歳で渡米する前に
      母の実母に当たる17歳の家庭科の先生だった同僚と結婚して
      二人の子供が居るのに、、日本に家族を残して、
      祖父は、実家の兄が、一足先に、沙漠の緑化事業に渡米していたこともあり

      日本人町をつくるという、、
      アメリカ大陸への日本の第一歩を歩いた人たちだったのではなかろうかと

      私的には、想像しているのですが、、、

     渡米する何年か前に、教員の時代があり、
     祖父が結婚した相手というのは
     いとこ同士の結婚相手であり
     明治生まれに女性としてはめづらしい、、、恋愛結婚だったそうです。

     いとこという、、血族結婚は、、、子供に知恵遅れが出る、、とか

     当時は、、大変な反対にあったらしいです。
     それでも二人は、、結婚して、二人の子供をもうけたのに、、、

     家族を残して、祖父は、カリフォルニアに旅だったのが、、、28歳だったそうです。

     残された、母と姉弟は、親戚の協力をいただきながら

     主人尾帰国を待ちながら、、、学校の先生をしながら

     子供達を育てるという、、、、母の実母は、、、恋愛結婚だっただけに、、、

      胸をわっずらってしまったのが、、、想像できるような気がします。

      それにしても、、、明治生まれで、、キャリアウーマンが居たという驚きと、、

      祖母に当たる女性が、、、男尊女卑の時代を踏破して、、、教員になっていたなんて、、、!

      私的には、、短命であったけれど、、、男尊女卑の時代に

      東京の師範学校を卒業した、、、ソフトの恋愛結婚!
      出産と仕事との両立、、、
      しかし、、夫の渡米で、、、
      育児と、教員という責任ある仕事と、、
      親族の反対を押し切っての、、恋愛結婚と、、、

       ピークの忙しい時に、、、シングルマザー状態になって、、、

       肺病を患ってしまったという、、、

       明治生まれという時代の女性は、、、

       男尊女卑の真っただ中の風評の中で

        後ろ盾のダンナさんが、、、海の向こうのあめりかだなんて、、、
       心の病にならなかっただけでも、、気丈夫な女性だったと思いますね。

      父はアメリカ、、、、母は28歳で早逝、、、

      旧家だったこともあり、、、教育だけは受けられていたようですが

      大切な時期に、、7歳という多感な時期に

      実母を失ってしまった母は、、、旧家だったという救いがありました。

       愛情で持って、厳しく家庭教育をしてくれるはずの両親が居ない状態で
       
       教育費だけは送られてくるという、、、二人だけの兄妹は
       結果として、、、

       ピアノと出会い、、音楽大学をそつぎょうして、、、
       父という、、医師の夫人として、、、激動の戦中を切り抜け乍ら

       生死の境で助かって帰国している母、、、

       父と出会ってからは「音楽は捨てました。」と言いながら

        80歳の最期の最期まで、、、多くのお弟子を教えていた母の最期に、、、

         私は、、間に合っていないのです。

        弟が、、、母の最期をすべて、、、とどこおりなく、、、住ませてくれた所に

        北海道から、、鈍行に乗って、、、秋田を廻って、、、

        母が好きだった「藤田画伯の美術館いたちよって、、、」

         一人で、、見えない母を背負って、、、

        「お母さん、、、いつか来る約束だった、、、藤田画伯の、、美術館だよ、、、」

         私は、、半日を、、美術館ですごし、、、

          鈍行で、、、新潟周りで東京に、、、独りぼっちで、、母の葬儀に向かいました。

        弟が、、がんセンターのお仲間の先生方の協力をえられて、、、
        母のお弟子さんで、、御寺の境内は、、すし詰め状態のお焼香でした。

       「 命の尽きる、、3日目まで、、、母は。現役のピアノ教師だったことを

        僕は尊敬しています、、、、」と。

        弟の挨拶で、、母のお弟子さんたちは、、、、まるで「自分の母を見送る様に暖かく、、、」

        多くの娘たちに囲まれて、、、母親になったお弟子は、、親子でお弟子になっていて

          結婚前の顔見知りのお弟子さんたちは、、、娘を連れて

         母の葬儀に涙を流してくれていました。

        母には、、多くの娘が居たという事です。

         7歳で、、、実母を無くした母だからこそ、、、

          本当の母の愛を、7歳までしか知らない母にとって

         義理の母親の役割が教えてくれた、、、「人を導くという、、、これも愛!」

       母は、、第二の母の愛を受けて、、、血の繋がらない娘たちを

          こんなに多く、、育てたのだと思うと、、、

             母にとって、、、実の娘の存在は、、、「居る!、、生きている!」という事で

          満ち足りているように思えたのでした。

         母は、、肉親の愛には恵まれたのだろうか?

         実の娘の私は、、、あの多くのお弟子さんのように
          涙は出なかった、、、。

          「お母さん、、、お疲れさまでしたね、、、 

             54歳で亡くなった父の若き姿に出逢っても、、

                 80歳のお婆さんだと知ると、、、父は、びっくりしてしまうよ、、、」

        心の中で、、そのような事を話しかけながら、、、

        母が、亡くなる直前まで育てていたという植物を、、紙袋に入れて、、、
        私は羽田空港に向かった。

         弟と兄が居てくれたから、、、本当に良かった!!

         母の日が来るたびに、、、私は、、母にとっては足手まといになっていたのかもしれません。

        母のグランドピアノは、、、お弟子さんお一人に送られました。

        実家からは、、、もらったものは、、、一切ありませんでした。

        葬式の日に、、持ってきた植物も、、、いつの間にか、、庭から消えてしまいました。

         母は、、やっと、、父と出会えたのだと、、、

            母の日が来るたびに、、

               空を眺めながら、、、「母の日として、祝ってくれる息子達に、、感謝ですね」

        
    実母のことは、男尊女卑の時代を活きた、、、自立した女性の障害とかかわっている様な気がして

     自己実現した生き方を選んだ女性は、、、ダンナさんからも、、自立していると思われるのかもしれません。

      男尊女卑の時代の、、女性の教育を推進しない時代に生れた母の実母、、そして、母、、、。
    
     明治生まれの「女性のキャリアウーマン」の,、幸と不幸の同居した、、母とその実母なのかもしれません。

     母のくりことのように、、つぶやいていた事は、、

     クラスの中で、、、たった一人、、、お裁縫の時間には、、、鋏も針山も無くて

     「寂しかった」と、、

      おりにつけて言っていました。

     母の父は、筑波大学の前身の、、師範学校を卒業して、27歳で、アメリカに留学してしまっていました。

     和歌山県の旧家の生れの父母は、、、いとこ同士の結婚だった為、親戚が、親に変わって、

      我が子と同じように、分け隔てなく、
         日常の生活は、
           親戚の家で兄弟姉妹とも、和気へ立たなく      
                 過ごしていたと言っていましたが

      学校の、細かいことは、母の方からは言い出せなくて、、、
      実母の無くなった後は、、、
      お裁縫の時間は、一人だけ、、
       自分が縫った、ワタをいれた針山と
         チョキチョキばさみが手に入らなくて、、、工作用の鋏を使いながら

       糸が切れにくいので、、「同級生と同じ鋏が欲しい」と、、実母の死んでゆく直前まで

       結核で、、やぐらの上に建てられた病室に、、、梯子を這い登って

       「母さん、、、鋏がほしいの、、、」と、、死の直前まで

       「母さん、、死なないで、、、とは、、言えなかったようでした。」

       当時は、結核は村全体に感染しない様に、、、

       やぐらを組んだ上に、病床の部屋のある小屋が建てられ

      死んだときには、、やぐらに火をつけて、、、
         小屋ごと燃やして,、、ダビに伏したそうです。
        7歳だった母は、、、重々、、村のふうふゅうは知って居ましたが、、

          死んでしまう母に、、最後の最後まで、、、

          お友達と同じ、、、鋏がほしい、、、と言い続けたそうです。

      物心ついたころ、、、母から、、この話を聞いたとき

      私は、、「実母の愛」を、、「鋏」というモノに見える形で

          実母が、自分自身の生命の終わりと、、戦うのに精いっぱいで

           結核患者の為に建てられて、、やぐらの上の病床で

             子供が這い登ってくるのを,、制止するのがやっとだと思われました。

        「鋏がほしいのか、、、着物がほしいのか?聞き分けている体力は無かったはずです。」

       「ひたすら」、、、「我慢して、、、」とだけ、、こたえ続けていたそうです。

      「7歳の母にとっては、、、アメリカに行ってしまった父が、

        自分の実家に預けていった家族のことを知るのは、、
        何か月も経過してからの事だったそうです、

        母は、親の愛情以外は、、、不自由なことは無いままに、親戚の子供たちと同様に

        新宮の女学校に進学しました。

       孤独と、友情と、、親戚の厚情の渦の中で、、、
             母はアメリカに行っている父に頼んで送ってもらったピアノを弾くという
             孤独とあたたかな肉親以外の愛情と、、、教育費には困らなかったラッキーと

         母とその弟の人生は、、和歌山の、、田舎から、、新宮経由で、、東京へと向かっていったのでした。

        新宮は、当時から「材木の都」「たんかくじょう」と呼ばれたお城の城下町であったとも言っていた。

       新宮では「佐藤春夫さんと、その妹さん、、、」との出会いがあり、、

         妹さんは同級生だったこともあり、、、家にも御呼ばれしたそうです。

         NHKの音の風景という放送や、音で綴る詩、、とか、、、

              街のあちこちで、、街頭の音をそのまま録音して

                「音の風景」の番組などで

                  「詩心を、、音で伝えたり、、、TVで詩を表現したりしたデレクターが居ましたが

          その方の母上様とも同級で有り、、、その女性の、ハイカラで、、芸術性のあふれた着こなしには

        大正モダンと言われた、、、日本女性の洋装への夜明けの風景だったそうです。

        日大の教養時代に、下北沢の、、、佐藤栄作首相の自宅のある町内の一角に

             私は下宿していたのですが、、、 母の友人宅というので下宿していたのですが

                 私のほかにも,、明治大学の学生さんや、、いろいろな下宿人とは

                   食事のときは、、おばさまを囲んで、、家庭さながらに、、、
              あたたかい夕ご飯をいただいていました。

           そこの長男だったお兄さんを、、私は、「お兄さんと呼んでいました。」

           早朝から、、良いにおいの、、オーデコロンを、吹きかけて

           NHKへ勤務してゆくのですが、、、 当時のNHK は
            「メンタルな面は、やりたいことが山盛りなのだが、、、

                今一つ、、、予算がおりなくて、、、半分も、、思う事が出来ないなどと、、、

             NHKに勤務している自分に、、満足と、、不満と、、、希望と、、不安が同居するような事を
             ふと漏らしながら、、、一人の詩人に興味を示していた、、下宿のお兄さんでしたね。

              この予算内で、、作品を創るのは、、
               ギャラを払わないで済むという条件の状態の
                    世相の、現場の、生の発言がほしい、、等と言いながら、、、

                  店主に了解を得て、、いろいろな店に集まる客の本絵の一言を集めてみるかな?

            理科系の、、話しを聴くだけしか能のない私に、、、

            「詩を書いてみてくれない?」、、、等と、、一学生の心の風景を作品化できないか?

           などと、、、難解な事を言っていましたね。

               「心の風景は、、私の場合、、化学式の亀の甲羅が折り重なっていて、、、

                 お兄さんのような、、魅力ある風景を求めている人には、、無縁の 無機質の山ですね!」

           そのようなお話をしたり、、将棋をしたりしましたが、、、将棋だけは負けたことがなかったですね。

              彼は、、「イタリァ賞」などに耀きましたね。

             野際陽子さんと、先輩後輩の間で、、何かの時、、偶然野際さんとお兄さんが

              NHKにこれから行くから、、見学してゆかない?と言われて、

             巻貝のような階段を登って、、NHKのあちこちを案内していただいたことが、、、ラッキーでした。

            今では、、ご存命なのかどうかも解りませんが、、、 お父様は画家でいらっしゃっただけに

             映像で詩心を表現するのは秀逸だったと思いましたね。

             婆ちゃん荷なって、、、自転車で、、心の風景をめぐる、、「心旅」

             何時も似ていますが、、、この番組の原点が、、、

               私が20歳のt期に出逢った、、下宿屋の坊ちゃんだった「佐々木デレクター?」
         
              彼の机の上に、、、うずたかく、、、積み上げられた原稿が、、

                畳の上に落ちていて、、、触っては内政干渉なので、、、散らかった原稿を

                かいま読んでいたら、、、心の風景、、、、というテーマが描いてあり、、

               街の喫茶店で話す客の心などや、、、街角で聞こえる声を目もしている紙が散らかっていて、、、

               きちんと積まないから、、、隣りの部屋まで音が聞こえるぐらいに、、

               ドサドサ、、、と崩れるんだからね、、、

                崩れたままが、、、貴重な詩心につながるからと、、、

               そのままにしておいた記憶が甦ります。

               「心旅」は、、数少ない、、、詩心の理解者の一人が、、、
                 このような、、心に残る番組を企画したのだと
                思っていますね~~~。

               生きていらっしゃるのか、、亡くなられたのかモ、、解りませんが、、、
              昭一、、、兄さんとは、、「寺山修二の詩について、、、話し合ったことが有りますね、、、」

               天井桟敷というか、、、貧しい青森あたりからの、、、

               ぞん底を知っている人の詩というか、、、

                NHKとは、、真逆の観点を、、、お兄さんは持っていらっしゃいましたね。

                お兄さんから観ると、、、日大の理工学部に通学していて、、、
               人生の目的が「薬剤師の免許をしゅとくすること」、、なんて、、、

               信じられない、、、人生の「あっち向いてホイ!」の大学生に見えたと、思いますね。

              私の母とか、、、佐々木の兄さんとか、、、兄さんのお母さん、、、
               下宿屋の未亡人のおばさんとしての再会ですが、、、
                私があかちゃん麻時に出逢ったはずのおばさまが、、、モダンガールの

               パリジェンヌ,、だったなんて、、、 詩論を話しているときに、、、
                その片鱗が見えましたね。

              秋の日の、、ビオロンの溜息の、、、身に沁みて、、、、

              「この詩は、、、空襲の合図に使われ多なんて、、、知っていた?」

                  下宿屋のおばさまとは、かけ離れたお話を、、時々サレルノデ、、、

                大学生だった私は、、刺激を受けましたね、、、・

                寺山修二を知ったのは、、、この時の下宿のおしゃべりの時でした。

               



              TV放送の度に、、、主役の女性の写真と、、詩のテーマと、、放送日を郵送してくれましたね。

              理科系の私にとっては、、、おばさまとお兄さんンとの、、短い下宿生活で、

             文系の大學に学んだ学生の未来を観るようでしたね。

               まもなく、、大きな人生の波で、、、私は北海道に運ばれてしまいましたから、、、

             お兄さんが送ってくださる「音で表した詩心」の番組の放送日時を知らせてくださる葉書だけが

             便りでしたね、、、ユニークなTV番組でしたね、

             お兄さんのお母様の、、大正モダンの姿や、、羽根のついたお帽子姿の

             パリでの、、我か途の暮らしを通して、、、日本人には、、未だ未だ、、難解なモダンが有りましたね。

              母の日から、、それて、、、それて、、、新宮にまで行って、、、東京は池の上あたりから

              北海道に来てしまった、、私の、、流れ流れの人生をそのまま

               とうとうと、、お話で来たら、、、お兄さんなら、、ひとつの詩の風景として

                 音と、、イメージの画面表現で、、、 私の80歳の心の風景を

              描いてくれたかもしれませんね。

              母の日は、、、そういう訳で、、、実母には、、赤いかーねションを送った事はないのです。

             母には、、赤いカーネーションが、、、縁がなかっただけに、、、

            娘の私も、、母には赤いカーネーションを贈りませんでした。

             北海道に、、、流れ着いたおかげで、、、

               せちがらい受験戦争も無く、、まるっきり、、正常な青春を楽しみながら

            受験も突破した息子達は、、、何処にでもいるスタンダードな社会人になってくれて

              母さん、、僕は、、北海道を出る気が無いから、、、母さんも北海道の気候になれてくれョ、、、(^^)

           普通の家庭で、、普通の質素な生活と、、時々の休日のレジャーと、、、
            勤勉だけが取柄で、、、欲も無くて、、、孫子も、、、お父さんの愛情を受けて
             スポーツも、趣味も、、全てが普通という、、、

               北海道を出なければ、、充分に文化人として通るので、、、

              東京に行くと、、周り獣が天才なので、、、

                     80歳になる婆ちゃんは、、、
                      若き日の出逢った、、おっそろしく優秀な人たちを思い出しては

              北海道という、、大自然に囲まれて、、、食べて行ければ十分という

                 普通の人の中で、普通の感性で、、、人生の終わりまで行けたら、、、

                   ラッキーだと、、思える、、80歳に、、、

                    小さな、、赤いかーねションのついた、、、アップルパイが

                      昨日の夜、、届けてくれました。

                        アップルパイが大好きなのは、、、パパの方ですが

                    息子と、お嫁さんの、、あたたかな、、お届け物に

                       今日の母の日は、、3時に、、アップルパイを食べる、、母の日です

                ありがとう、、ふつうであるという事の幸せと、、

                息子達の、、心の隅に、、私達夫婦の座布団が有るという暖かさを感じる5月12日,、2024年

               日記帳tでした。、、、
               母さん、、、私は、、母さんには、、「赤いカ~ネェションの花」を

                生涯,贈れなかったのは、、、 母さんが、、実母に、、カーネーションを贈るという事が

                   出来なかったのではと思うと、、、とても、、私だけが、母の愛を知っているなんて

                      真っ赤な挑戦状を送るみたいで、、、出来なかった。

                       白いカーネーションは、、勿論、、遅れなかったでしょう!!

                    母の日は、、母の居ない子の為に、、、何をしてあげれるのでしょうか?

                        
     
   

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