花鳥風月、、2023年からの第二の日記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

受験シーズンの、、寒い冬が来た、、、思い出も凍る冬の初めの恐怖。

2023年11月15日 | 日記
とうとう、、、冬将軍の札幌到来です。
色々と、、、コロナの蔓延で、、、多くの人はとじこめられたり

観光事業に関しても、、、波のあるお客さんの到来には

  経済的な運営の障害に対しても、、、

        今期の首相は「経済のバランスに、、精神を傾けてくれているようですね。」

  税金の事も、、、世論では、、稼ぎまくっているという風に見える,医師の中にも
     coronaでへとへとになりながら、、、ほかの検査などの患者さんが
      病院に行くのを控えたり、、、インフルエンザが追い打ちをかけたり
     看護師さんが辞めてしまったり、、

事務員の人手不足で、、年末調整も、、年金計算も、、パソコンにログインして

 各自で、、お願いという、、、医師の本業のほかに、、いろいろの雑事にお⒥回されているようです。

        
       ふんだりけったりのなかで、

      国は、コロナで、、儲かっているのではと、、、

         勘違いして、、、税金を高くして来る。のは、、、こればかりは、、、、、!

     医師に関する誤解は、、家内にも風当たりが強い。

        ダンナさんは今は週三日、、、出勤で、、
          自前で病院までタクシーで通勤の83歳ですが

             バスと地下鉄とJRと歩きで1時間ちょっとの勤務先に

               83歳のなっているので、、ホームでもみくちゃには、、怪我もするだろうと
           贅沢では無くて、、
        勤務しているだけで、、
      呆けないという方を洗濯しているだけである。

      給料その物が、30万円だから、、、頭脳の維持で採算は考えていない。

     退職金が無いというのも、、、住民税とか、、、前の年の税金がかかってくるので

       まるっきり、、カットされていた年金だけでも、、、どうにかしてほしいと思う事がある。

       東京方面の医師と、月給格差は仕方がないとしても、、、

           民間の病院は、医師がオーナーというのと違って、、
            何日出勤かということで評価されるので、、

              事務系の仕事も似た様な物だろうけど

              予期せぬ時間の延長や、

               仕事のあとの、カルテの症例整理のパソコンワークで

                  夜明かしになる事もあるようです。

           来年は、、もう、、退職なので、、、やれやれ、、、

         家内も、、温泉おひとつにも、、行ける日が来るかもしれません・

           コロナの発生した年から、、、自宅界隈500メートル以上
               遠くには行っていないので、、、

                 病院勤務者の責任上、、家庭から主婦を経由して

                  病院にコロナが持ち込まれるのは、、防がねばなりません

             足腰歩けても、、、ホームの雑踏や、、階段の事を考えると

            勤めることで、、頭脳が使われていれば、、呆けることも無いと

             損得抜きで、、、タクシーに来ていただいています。

                ありがたいことですよね。

               持って死ねないのだから、、、
             貯金の切り崩しは、、社会への恩返しでもあると思いますね。

           月給の半分はタクシー代と、食事代金です。

       生涯、、一年契約の更新の外科医です、
      医師の経営する病院ではなくて、、、
        「会社の経営」で医師が理事長という

      社会音痴の医師が多い部分を会社経営の本部の頭脳が、、
           医学以外の部分を受け持っている様なので

    この病院の医師は、理事長や理事長以外の理事以外は、、、
      ダンナさんの様に、、「医師をすることだけしていればよい」という

        雇われた存在が、、生涯続きますが、、、

           雇われた状態でも、、、
         医局長とか、、同門会長とか、、大きな外科という科で、、雑事に通じていたこともあり

        どの疾患にどの医師がスペシャリストであるとか、、
       どの医師が、、夜中でも,、起きて来て執刀してくれるとか、、

        人事権は一切ないのですが、、、医師同士の腕の方向や、、

      若い医師を動員できる先生かどうか、、、医局長時代に雑用を通してわかった事が

          個人病院だった病院が、急成長してゆく世界に知れ渡った病院になる黎明期には

       参加していた医局の外科医の協力が、、大きな力となって、、

       雇われたまま、、4人だった外科医が20人になるまで、、、
       頼まれ👈、、院長をしていましたが、、、
                その後、
                  アメリカで臨床医をしていたような、、
                      腕利きの医師が入ってきて

            ダンナさんは、、
            若き腕利きの医師のサポーターへと
            チームの総合力を
          大切に、、院長を退き、、、
          名前だけは「名誉院長」という

          称号だけの世界で、、

        「乳がんの手術や、、乳がんの手術でも、温存法と言って

         女性の胸を残しての手術法を学び、、、何人もの患者さんが 生存しています。

              その方たちは、、何十年経っても、

               ことしで、癌の発生から、、、何十年、、、健康で過ごしています。

               御年賀状には、、そう書いていました。

         実際に、昭和の時代は、CTもMRIも超音波も普及して居なくて

              触診で、違和感を感じた場合に、
               細胞をとって、、癌細胞かどうかを判定していたようですね。

          ダンナさん緒様な昭和10年代の生れの医師は

             「魔法の手」と言われるように、、、、触診で体内の異常を充てる医師がほとんどでした。

          私の父も、、のどや 胸を触診したり、、たたいたりしながら

           音で見分けたりする、、不思議な技術者でしたね。

              特に乳がんの場合は、、乳腺炎と区別できる指先の感触は

                 集中力のような、、魔法でしたね。

                流れに乗って首のあたりの、甲状腺の張れも発見して

                 甲状腺がん、、乳がん、、両方があるという

                    患者さんもいて、、

                   早期だったために、、延命に持ち込めたと、、ホッとしていましたね。

            長い間、、胸部外科に、アメリカで腕を磨いた先生が赴任してきてからは

               院長職と、、胸部と言っても「乳がん一筋」のように、、
               温存手術に従事していたと記憶しています。

                その後時代は進んで、、
                     乳がんは、
               「マンもグラフィ」と「超音波」のセットの診断の時代になり

               触診で乳がんを発見するという、、臨床の勉強も無くなり
                若い医師で触診する医師は居なくなったそうです。

               マンモグラフィ、、と超音波、、、細胞診と、、診断方法は変わり

               ダンナさんは、、触診をしていると「やぶ医者と間違われるんだよね」、、と

              苦笑いしながらも、、、札幌に50年以上の診療歴のあるダンナさんは

                触診時代の患者さんが通院してくると

                 「マンモグラフィ]ト触診をすることで

                  若き日に、触診で発見したがん患者の、、晩年の触診で

                     いろいろな事が新たに解る場合があるそうです。

                   患者さんも、、お婆さんになっていて、、、触診により 安心してゆくそうです。

                  細胞診と超音波と、、触診は、、
                  術後どのくらいの年月の患者さんなのかによっても

                 使いわけているようです。

               大学に呼び戻される前は「愛育病院という民間病院で外科医をしながら、、

                 東京に帰る為の腕を磨いた時代がありました。

                その時の患者さんが今なお来てくださるそうで、、、これからも

                来年までは、、ココに居るからね、、、と言っている唐です。

              愛育病院い勤務の頃の患者さんも、、、超音波ではなくて
               触診を希望するそうですね。
                 そして、胸部外科だったこともあり、、

                  あれこれと質問して来て
                 先生は乳がん検診しているけど、、昔は胸部外科に居たでしょうから;

                    札幌までやってきては、、、血管系の質問攻めにして来て、

             検査に来たのか?
              循環器のあれこれを。。聴く為に
                 来たのか
                  解らに程質問をうけて閉口することもあるそうです。

            院長職は、臨床現場に出る道営の
                医学講習会に通い

            院長職と両立は難しいと思ったのでしょう。

             マンモグラフィ「乳がんの画像診断の勉強会に通う日々となり」

              名古屋まで行って《認定試験》をうけて、合格してきました。」

                院長職をしながらの勉強は、、大変だつたと思いますね。

              院長に途頼まれて院長を引き受けた時

                自分は臨床医をしたいので、、、臨床医と両立させたいと言っていました。

                大きな科の医局の講師をしていたのと
                      医局長や同門会長をしていたので

                        創立期の個人病院だった時の院長が
                          次期院長を、、病院の発展期に役立つ人脈を持っていた立場の人間で

                       自分と同じ北海道大学医学部の医師に頼みたいからと

                     院長引退の時、、みんなの前でダンナさんを指名してゆきましたそうです。

                   一旦はお断りして、、三日目まで、、院長を辞めないでくださいと

                  引きとめに行ったらしいのですが、、、

                  地域病院として自治体と医大の基幹病院として地区病院いなっちゅくという流れには

                地域貢献型の医師のダンナさんが似合うと思ったのかもしれません。

                創立期の院長は、、世界に問いかける病院にして、、

                   札幌にもロチェスターのような、、、世界の医療ゾーンが出来ればよいというような

                 インターナショナルな、、ビジョンを持っていらっしゃったようでした。

                  ダンナさんは、、前院長の夢を「大きすぎる夢」と言っていましたが

                  私は、、パソコンの時代になった現代、、そのビジョンは時代の先取りだからと
              ダンナさんの所に来てくれる、、若い先生に、、、世界は医療もネットでつながれて

               北国のような雪というハンデのある場所からは、、世界レベルに医療の交換学習や

               画像の送信ネットで、、世界は繋がれると思いますよ、、と

               外野に意見も、申し上げたことを思い出します。

              札幌医大は、地域色が強くて、、
                   現実的に考える先生が、、地域貢献の地元病院を優先と考えて
                  最も現実的な札幌市や道内貢献型の従来の基幹病院を目指していました。

              医大の医師が働く巨大病院という、、基幹病院を目指していたのかもしれません。

               外野で、、石手は無い、、母ちゃんの視点の私には、、、

                 確かに、、、札幌医大は、、卒業生が腕をふるえる基幹病院があれば

                   地域貢献型と、、母校の研修病院として、、家事をとりたいと思うのは

                TVドラマなら、、そういう筋書きが最も受けるでしょうね。

               現実の医療界は、、偏差値70前後の最優秀な優等生たちが考えるわけだから

                外野の私にはわかるわけは有りません。

                これ以上考えていても、、休むことと変わりないのでやめますが

                  創生期の院長は、、
                ダンナさんを次期院長に指名して、、院長を引退してしまったのでした。

               次期院長の条件は、、大きな科であること、、、北大卒であること

                真摯な医師であること、、この三つであり、、、

                 ダンナさんの政治的手腕の無さは知っていたようですが

         多くの人に支持されやすい性格だと評価してくれたのでしょうね。
           5年間の混乱期を勤めあげて、、名誉院長という、、称号だ明けで
                 83歳まで、、臨床医を勤めています。

                 ダンナさん緒様な正確でない人が、、次期院長になると
                    下剋上と間違われて、、、病院の発展が挫折しても困るから

                 きっと前院長は、、経営や政治には、、昼行燈でも

                時が来れば臨床医に復帰できるダンナさんを指名していったのだと
                 外野の私はかってに思っているのですが

                社会の暗闇は、、まったく見えないのが、、私の欠点でもあることを

                   書いておきます。

                院長に就任したとき、、足が震えましたね、、、

                  緊張と、、、誤解されるのではないかと、、、震えましたね。

                こうして、、個人病院だった先代の院長は

                 もっと自分の思うようになるクリニックを建てて、、

                   自分尾王国の世界を、、2回も開業されたのですから
                     凄腕の実業家でもあり、、名医でもある方だったのですね。

                医師の頭のいい人のスケールは、、
                私ごとき外野では
                想像できないパワーを持っていらっしゃいますね。

              ダンナさんは、、雇われ院長で、、
                 生涯、、開業なんて、、とても出来ないタイプですよね、、、

                 医師と言っても、、いろいろなタイプの人が一杯ですね。

                 偏差値、、70以上の人の考えることは、、、

                   外野で、、平凡な私には、、、その社会の暗闇は、、わかりません。

                   これ以上考えたって、、山崎豊子さんみたいに

                      白い巨塔の、、近代化バ^ジョンになって、、

                        医師の世界を誤解するだけだから、、、

                  私の日記帳は、、私の頭の限界でス。。。おやすみなさい、、、疲れた。。。

            

                 
                         

                 

               臨床医に復帰した旦那さんは、、、幸せそうです。

           「医師をすることが、、、生きがいなのでしょうね!!?」

          その方たちが、、、毎年検査に来てくれているのが

               目下のところの、勤める励みになっているようですね。
          医師は医師をしなくなったら、、、呆けると思いますよ、、、

            不思議な人だと思いますね。

           スマホなんかも、、使いこなしているし、、、大したものですね。

        、世界に名の知れた医師が新聞一杯に報道されて、、当院に勤務してくれたりと

      どう見ても、、ダンナさん個人の力では出来ない展開が、、
        所属だった大学の医局が

      協力して,、医局関連病院として、、民間の経営と、合奏して、

      巨大病院になってゆくのを、、外野の私は、、、一切病院へ行くことはしないで

         見守るつもりで、、病院のHPを見てきました。

      家内は、、全くの外野として、、札幌市民として、、診つづけてきました。

       こんなに大きな病院になると、、、
            院長時代も、、
        ダンナさんの顔を知らない若い医師が一杯だったそうです。

         家庭的なダンナさんではないというのが、、、当たり前のような

               大きな病院の勤務医師の、、孤独かもしれませんね。

         30年以上前の、、病院立ち上げの頃は、、、

             4人の外科医で、、病院が用意してくれた隣の宿舎に泊まり

             土日だけ帰ってきていましたが、、、少ない外科医の結束は強くて

          写真なども、、一杯残っていますね。

         大きな科の外科医の医局の先生方の
            大学医局、関連病院、、、サテライトの開業医の醫院やクリニックの先生方

          ピラミッドのように、、病気の難度によって
            役割を分担しながら、、札幌市民の地域医療を担当している姿は

         山崎豊子の、「白い巨塔」や外側から見た大名行列を
            権力の行列と解釈している作家の目は、、

              ドラマとしては面白いが、、

         開業医さんの地域への貢献があってこそ、、、病院に設備上やスタッフ上の不備の時は

           患者さんは紹介されて、怪魚遺産のデーターをもとに
         大病院では、、かかりつけの患者さんを理解でき☜、
           その続きの高度な治療に入れるという、投球者が居るという事のために

           病原菌を2塁、、一塁、、ダブルのアウトにできるのですから

          ただでさえ、、専門知識の塊の医師を、適材なところに派遣できるのは

        各科の優秀さゆえに生き残った教授が
         新米の若い医師の頃から、、
           医局というチームで教育しながら、
              教科書の役に立たない臨床を実践で教えてゆく時代でしたから、、

            高度な石教育をクリヤーした新米医師が
        実際の病院い勤務してみると、、教科書は役に立ちません、、、とおっしゃいますね。
        海外で臨床医をして来た異郷の先生方や、その頂点まで生き残った実力者の教授が
         ピラミッド状態で、回診を通して、、学んでいたのだと思いますね。
        あのドラマ以後、、世間は、医師の事を
             やぶにらみで見るようになりましたね。

        私の家も開業医でしたから、、、踏んだり蹴ったりの目に遭いましたね。

        2週間も入院していたのに、、退院の前日、、、無断で消えていたㇼ、、

        医師にかかって医師が儲けているのに、、、なんで苦しい病人がお金を払うのよ、、、とか

         あのドラマの開業医の描かれているのは、、山崎豊子の視点であり

         実際の開業は、、一日150人の患者さんを診療して
         お金の支払える人は、、きわめて少ない昭和の30年代でしたね。

        ニワカニで来た保険制度は、、手術後の抗生物質投与にも制限が課されて

        父は自腹で、、こう製剤投与を続けて、創口の化膿を防御していました時代でしたね。

          現代は病院その者の滅菌がしっかりとされており
          空気の循環も、、滅菌空気が循環していっるということから

            抗生剤にあまり頼ることは無くなったと思いますが

            戦後の外科医は、開業そのものが無理を承知で、、

                地域から、、お寺の敷地を安く提供されて

                   外科の無い地域に開業したのでしたね。

         もともと、、戦前は大学病院い残って、、研究の傍ら

             臨床をしていた父が、戦争が勃発した歳に

                大陸の総合病院の院長を命じられて、、海外に渡り

              戦陣外科を経験して、、、心身ともに限界まで苦労したこともあり

          本州に引き上げ命令が出た時は、、疎開地の山村f閣電気を通すためのダム工事が始まるので
            外科医が必要として、山村の粗末なしイリョ所で野勤務を引き受けて

            家族を疎開させたという昭和19年の夏でした。

            開業医は、、白い巨塔のような「金の亡者なんてありえませんよね、、、」
          途とも京都大学の教授の教えを受けていましたので

           心から、セイイパイの応援の医療の為の寄付などはしていたようですが
          娘の私が、、大やけどをさせられた時などは

            手のヒラノ手術の難しいことなど、、指導してくださったと
               父は、、私の手をマッサージしながら。。

               手のヒラノ手術の難しいことを話してくれました。

          開業の山村まで、、手術に立ち会ってくださった、、
            京都大学の教授の
              近藤先生は、、母が、、、娘を外科医に嫁がしたいと思うほど

                 団子だった掌を平らな手の平に形成していったことは

             医学とは「手品のような、、鮮やかさで、、掌の肉塊を切除して
            私は奇形の人生から救われました。

          開業医と、、大学の先生のスーパー治療は

           どこかでつながって、、持ちつ持たれつ共存共栄しているのですね。

          白い巨塔の映画以来、、、学校でも、、すごい虐められ方をしたのを思い出しますね。

          「お前なんか、、自分ちが医者で、、医者が偉いと思っているだろう、、

            医者なんて、、社会からはみ出した技術で、、金もうけしているだけじゃないか!!
            命という人質をとってさ、、、、髙い治療人ってさ、、、

              お前の顔見ると、、イライラするんだよ、、

         どんなに苦しい生活をしているか、、お前らに解ってるんおかよ!!」

           草履をぶっつけられたり、、校庭に通う途中の石段から8回も突き落とされたり

           口の中を8針も縫ったりしました。

            しかし現実は、、戦場から帰還した父の弟やその奥さんなど家庭ごと居候。

           28歳で,、早稲田の理工学部に復学した叔父さんは、、父より10歳も年下だった。

           もう一人の弟さんは最優秀だが、、、海の藻屑と消えた。

          母方の弟さんはシベリアからの帰還兵で、、家族6人が
             開業医の父のもとに居候のように同居していた。

           その他、、大学生が2人、、使用人が台所や、、あちこちに居て

            父の頑張りは、、大所帯を戦後の社会に復活させるための戦いだった。

             開業は、、こぎれいにしているし、、、

             母も、音楽大学を卒業しているので、、ピアノを教えていました。

             植え込みもあり、、駐車場もあり、、車もあり、、、

            大学教授も指導や、手伝いに来てくれるので

             華やかには見えたかもしれないが、、、

           娘の私は、、制服の袖口が切れてきたにもかかわらず。。

                買ってもらえなかったという、、、谷間に居ました。


          どんな団体も
            「虐められて世に出れない存在の人間が居る事で均衡を保つのかもしれませんね。」

          客観的に、、麦手にやけどを負っている妹や娘は、、暗黙に疎外されるという経験もしました。

        「あいつよりは、、まし、、」という存在を
              演じなければならない廻り合わせもあるという事を
                  感じましたね、、、

            やがては出てゆく男尊女卑時代の娘の存在は

               暗黙の疎外の中で、、、 
          人の世の団体が生きるときのガス抜きになっていたのかもしれない。

          医師の家の娘、、医師の家内、、、孤独に強くなければ、、無口になりますよね。

         ダンナさんは戦後の貧困時代の日本全員貧乏な時代の一人でした。

         結婚しても、、ダンナさんの家の人たちは、、一銭を置いて、、仲良くしようとはしませんでしたね。

       頭ごなしに、、好さの娘は贅沢で、、医師のおかげで、、お嬢さんをやっていられるという

         本院の努力など、、医師の大きな評価の前には、、誰も、、取り上げようとはしませんでしたね。

       そんなことは山崎豊子の「白い巨塔」を観trも、、ドラマとして、、「面白いですものね!!」

          踏んだり蹴ったりの世評の中で、、、まっすぐに生きる事だけが、、自分だった。

         ヒトには頼らず、、必要とされるスキルで生きる。

          目立つ講堂には一切参加しないで

         自らの内なる知識欲の為の、、、新発見や、、勘当に生きるという

           NHKのBSが、、、大好きですね、、、

         自分が活きて来た視点と憧れが、、実演した番組ですよね。。

         人間社会の「勝ち気」「嫉妬」「誤解」『虐め」には、、人間の5悪が有って、

         黙ってその人の未来に置いて、、後悔して、、見方を変えてくれるように

         祈ってあげていましたね。

           70歳ごろになるまで、、「私の中の神様と、一も交信していましたね。」

         片方の足が、、黄泉の国、、もう片方がこの世の国

           私には、、見えない世界がいつも見えてしまい、、恐かったですね。

        ダンナさんの事も、、ライオンのオスを飼っていれば

          誰も攻めてこないだろうと、、、そんなような一生でしたね。

          逃げはしないが、、、此の世の開業医が金持ちに見えた時代があったなんて

          Nipponも、、、ぞん底の時代に、、私は生きてきたのですね。

          戦争は、、破壊しかないし、、

          戦後も「勝ち気」「嫉妬」「虐め」「カツアゲ」、「サギ」など

           他人が良く見える人たちばかりが渦巻いていて、、、

           ヒトを避けてきましたね。

        とにかく「勝ち気な周りには、、医師の娘、、医師の家内、、、虐めるには最高の標的だったのでしょう。」

           戦後の貧乏を理解しているだけに、、
           、誤解とはいえ、、
             災難に遭いたくないということが
               ヒトを避ける正確になりましたね。

            笑われるかもしれませんが、、、

              生涯、、ダンナさんとも「キス」はしたことが無いのに

           世の中の「雄ライオンの子供を産む」という事には、、全力で、生き残りをかけましたね。

         ダンナが居れば、、攻めてこない、、それだけで十分でしたね。

           白い巨塔の、、山崎豊子の視点は、、知識をぶら下げた優等生が
           教科書的に世に出て来てということで

           医師の世界は、、インターンの医師になったとき
           「命」を背負うのですよね。

         教科書は役に立たないのですよね。

         息子が、、初めて医師として患者さんを前にしたとき、
            先輩医師が言ったことは
       「いいか、、お前は考えるな!!先輩のやることをひたすら見ていよ、、!」

          「お前が,、かんがえることは、、間違っていると思え!」

          教科書の知識は、、患者さんお前には、、役に立たなかったという事です。

          医師になるよりも、、「

           「医師をすることの難しさを、、思い知って、、泣いていたこともありました。」

          簡単に、、医師をおもちゃにした、、セレブの奥さんや、、ドラマの放映が

           世論を造り。。医師の奥さんを「阻害するという勝気を一般医もたらすという」

          ドラマで医師をおもちゃにすることは、、
             医師の家族を
                 孤独に追いやる
                    世論の勝気を産み出すということかも
                       しれませんね、、、

                  それほどに、、北海道には、、女子大少なくて、、

         医師が「羨望の地位にいたという、、
               後進国並みの、、
                  経済状態の社会が
                      昭和40年頃の北海道だったのですね。
      


         

         ビョインが発展して、、4人尾外科医が20人を超す大所帯になりました。
         外科医の中でも

           若い先生方は、、
             誰も、、ダンナさんのことを知らないでしょう。

         大きな病院いなる事は、、勤務している人たちが疎遠になり、、、

          寂しいものがありますよね。

        創生期の頃は、、、何かとイベントが多くて、、ダンナさんは、、家には帰らないで
                   よその人の様でしたね。
                     大勢のスタッフとのイベントの写真が多くて

                        私の記録は、、何処にもない位
                         私も、、家族とダンナの記録をとり続けましたね。

          アメリカ15日間の学会や、、研修会見学会で
              ロテェスターから、、ボストン、、ニューヨークまでの大移動の研修会の時は

                  財テクに大変でしたね、、、一回の学会に200万のお金を用意して

                    頑張った時期でしたね。

          国家公務員と言っても、、、大学の国家公務員は
                          安定しているのは

                            教授、、助教授までぐらいで

                ダンナさんは講師で止まっていましたので、、、国家公務員〇〇号報酬という

                   当時は30万くらいの月給で、、丸善からは本題の請求が10万円来ましたからね。

           ハッチャ気になって女房も財テクに走って尾ましたね。

               50歳近くになって、、4か月も入院の後、、民間病院で働くようになって

                      初めて、、いきなり、、副院長からとして迎えられて

               異郷でのすったもんだが、、こういう形で、、地位を得るんだと知りましたね。

             公的に世界に打って出れる病院にしたいという、、北大系と

               地域に根差した基幹病院にして、、札幌市に還元第一という、、医大の方針が

                 交叉して、、、

                地域医療の雄にするのには、、世界視野が無いと、、公的病院い負けてしまうと

               北大系の医師と、、医大系の医師の意見が

                   どちらが先に勤務したかというようなことまで

                     発言権を強くして,、イデオロギーの違いに
                         病院は揺れましたね、、、外野の私という、、政治音痴の主婦の視点です。

               アメリカからの大學交流を果たしてきた北大系の医師、、

             医大の医師が院長になって、、その交流は途絶えたかのように、、静かになっている。

               再び北大系の医師が院長になると

             インターナショナルな動きになる。

           大波小波,、ドンブラコ、、、揺れながら、、揺れながら
            ダンナは、、北大系だけれど、、、札幌市に貢献したいという

                地域性を主体に考える方で、、ドクターヘリとか、、、

                救急体制に、、心血注いだ、、病院麻黎明期でしたね。

                 もともとは心臓外科医の指導下に居たダンナさんには

                    指導者に病院生きてもらうことで、、設備を整える話し合いの方へと
                 
                    守備範囲は変わっていきました。

               腕の良い人が手術場に入れる様な、、院長としてのセットアッパーに準じていた時代がありましてね。

            ドクターヘリが導入されて、、道内の救急患者さんが

           札幌の病院で手当てを受けられるという時代が来た時には

          ダンナさんも、、一役、、役に立たせていただけたようで
             高橋知事らと、、ドクターヘリの  テープカットをしていた様子が
                TVに出た時は、、、家に帰ってこないわけだと、、思いましたね。

                   自分尾人生で、、いっぱいいっぱいで、、あったのでしょうね。

          置き去りになっていた家庭にも、、この頃は月給が急に跳ね上がって

           3か所から借りていたローンも順調に返せました。

           やれやれ㎜と持って院長引退の頃、、、国税局が来て、、、

              院長時代の月給分プラスアロファ、、を徴収してゆかれましたね。

           福島が津波に有った時だけに

            「税金を拾年分ぐらい、、、まとめて、、支払いました。」

           若い徴収人がきて、、葉は一人子一人の家庭で、、大学まで出してくれた母と
              一緒に暮らすのには、、今回の聴衆が成功するかどうかにかかっている、、」というので

          貯金も、保険も全部解約して支払いました。

            北海道知事さんから
            「税の徴収にご協力いただき、ご理解していただき、、感謝します。」

            感謝状が届きましたね。

           東北の津波を知っている人は、、、たぶん、、資材がゼロになる寸前まで

          税金徴収に協力したのではないでしょうかね。

            同列経営の病院麻院長さんは
              福島に診療に出たきり、、、何か月も無料奉仕で

             帰ってきませんでしたからね。

            世間がみる「医師の家庭と、、現状は食い違ていますね。」

           息子にも、、雇われ院長という、、その時代だけの案山子のような月給が

          世間に打ち出している行動日になって立場が維持されてゆくという

            実力の必要な医師の世界だけに、、、一般が思っているに譲渡は違いますね。。。

            ともかく、、、勤務医の後ろを勤めるというのは

            稼げる腕と、、働ける体力と、、、ほったらかしに逢う孤独に強くて

            馬車馬のような、、人生であることを承知で結婚したわけではないので

           ダンナという雄ライオンの影で、、、ある種のエサがとれないと
             家内は勤まらないという

                社会の風当たりの方向を感じましたね。

          これからの医師は、、もっと大変いなるのではと思いましたね。

           東京に出て行って息子は医師になった事までは良かったが、、

                  50歳で、、家庭も家も車も無くて、、税金医追いかけられて
               ある種に脅しに有っているので、、

                社会の闇は、、私には見えません、、、

             医師を虐めるのはいい加減いしてほしいですね、

         

   
        

              

       家庭的に目覚めている医師は、、副院長になる一歩手前で、、、
      病院の近くで「サテライトの個人医院」を開業して

        地域に貢献という、、社会性を広く持って生きて行く先生方の家庭は
       お子様方が後継者として、、自の世代で,閉医院しなくていいように

       私立医科大学に進学させる医師が、、どんどん、、雇用を拡大して
       経済界にも貢献していったようですね。

         そして大学や、、病院との連携で、、輪になって必要とされる一環を担って行くから

         私立大学の医学部も、、本院の近くの開業医のお子様を入学させるのは当たり前の成り行きかもしれません。

       医師になっただけでは、、大学にも病院にも生涯のその時その時の役割が果たせないのだと、、

        息子を北海道に呼び戻さなかったことを、、今更ながら、、

          世間知らずな親だったと、、バカな自分を責めていますね。

       北海道から本州に行っても、、働ける40代の後半で、、御用済みになるという事を

          今更ながら、、知りましたね。それには、、社会の闇はわつぃには見えないのですよね。

        あたら才能の有った医師を、、母親の世間音痴が、苦労をさせて仕舞ったと思いましたね。

          医師は、、医者バカの所がありますから、、、周り次第で、、生かすことに導かねば

         孤独な人生を歩み、、もったいないですよね、、、

         子供の時は天才肌だっただけに、、、50歳忍ろうというのに、、

              結婚も出来ていない、、税金医は追いかけられている、、、

              理解できない人生の闇が、、私には見えないのです。

      外科医で、心臓外科のグループに居たダンナさんは

        腕を磨くためにも、、医局の采配で、、国立循環器病院に
      国内留学して、、外国で腕を磨いてきた先生の手技を学ぶという、、
        若い時代は、、家には何か月もいませんでした。
                国立に居るときは、、実家も全力で応援してくれたのですが
        4か月の入院をしてからはもう実家は閉院するから、、
             北海道で暮らしなさいと言う連絡があったきり

               実家が新地になって売りにだれているパソコンの航空写真には
         涙が出ましたね、、、何尾為の雪掻きだったのか、、、?

                何尾為の北海道への結婚だったのか?

                     実家が閉院するぐらいなら、、

             医家大学に合格したとき、、反対を押し切って女医になって、、独身で

           実家をも持った方が、、先が見えたかもしれ無かったですね。

            当時は男尊女卑で、、医科大に生かせてくれなかったばかりか、、
            「お前は実家を乗っ取るつもりか、、!?」と、、奇想天外な反対意見には
             答えが見つかりませんでしたね。父が大好きだったので
            父の医師を告ぎたかっただけでしたね。

          ダンナさんは人としては、、穏やかで、、紳士的に人に接しますが
             医師をすること以外考えないという、、、

                結果としては家庭に冷たい現象が続きましたね。

                     親戚も、、卒業大学も、、友も遠くて
             孤独な北海道の一生でしたね。

                    護らねばならないことが多すぎて、、

               社会参加が出来ない尻切れトンボの苦しみ多かった。

                  
      こんなに留守ばかりするのであれば、、、
       北海道野大学を卒業して、、友人の多い奥さんと結婚することが
         子供達の為なのに、、、何故?

          私の実家にはたらきに来るからと、、母に、結婚話をしたのか??

       母も、、外科医の父に54歳で亡くなられ、、
          内科医の兄がパニックになっていたこともあり

       札幌に、、
               東京の実家に帰る予定の外科医が居るから、、
                        迎えに行ってきなさいと

                    なかば、、母の持ち物の娘のように、、

         母の意図する自宅の経営の為の結婚が、、昭和の時代には

         目づらしくなかったのですよね。

        医家を経営してゆく為の,、医家同志の結婚って、、
             当時は有りだったのですよね、、、

         法的には相続権が有っても、、、娘は除外されて

         スゴイ圧力で、、、娘の未来の夫とのコンビに

           経営の苦しい、上に、、不動産まで相続権を主張されたら

          23人尾職員や、公認会計士の給料は払っていけないというのが

          戦後の復活期に、、開業を余儀なくされた、、勤務医の人生のクレパスでしたね。

         父がだんだん、、無表情になってゆく晩年は

         実家を助けねばならないという、、暗黙の努力が、、私なりに
          受験突破しか、、、思い当たりませんでした。

          おっとりとした人に好かれた次男と、私は

            受験が重なりました、「
            年子の兄は、浪人で、私は現役でした。

          兄も私も同じ大学を受けるのでなければ、、、
          娘のお前は短大で、結婚への修行を強要されるという

         昭和の10年代の生れは、、、生きてゆけるだけでも、、
           女性は良いと思いなさいと言う、、、

            我が家の従軍した日々の、、欠損は

           軍隊並みの「男尊女卑でしたね、、、仕方ないけど、、ね。」

            父だけが、、お前は女医になりなさい、、と

           期待してくれていましたね。。

          兄と同じ大学を受験してゆくと、、、私ばかりが合格して

           母と兄は、、不機嫌でした。

         あのの通っている日大を受けることになったのは

           4年制の大学を許してもらえるとしたら、、、

             同じ大学に通うことだと、、思いましたね。

           外からの合格は難関で、、合格発表は10人以下でしたね。

           発表は自分はいかなかったのですが、、

          兄が、、うきうきして、、合格発表を見にいって、、

          掲示板を写真にとってきました。

           阿納は嬉しそうでした。

            東大一本で2年も浪人して、、日大の医学部に進学した兄は

         ヒトが変りましてね、、いつまでも、、東大にこだわっていて、、

           日大に通学しながらも、、東大受験をして、、ましたね。

             その時代には「東大でなければ、、、」という

           「東大病」がありました。

           妹は何処でもいいが、、自分は東大でなくっちゃという、、、

              可哀想な、、トップ高校卒の、、戦場帰りの兄貴でした。

           「学力だけでは、、、東大は無理でしょうね。」

            「東京を任せられるという、、スケールが大事でしょう、、、」

            うっかり、、言ってしなって、、、拳骨をもらってしまいました。

            そのあとで、、兄は布団いもぐって、、泣いていました。

           当時の両国高校で、、10番以内に居た者の、、先生からも

            東大合格は間違いないと言われながらも、、、落第!!

               8歳まで、、戦場の近くの小学校に通った兄貴は

              軍隊のような、、カリスマ的な上官殿のような、、君臨するという育ちだった。

            その上、、国語が、、いまいちで、、、

            恵という字が書けなかったりした。

             私が、、雪国という文庫本を読むと

            「 Nippon人の国語の心」が良くわかって、、勘当するよ,、、と

            文庫本を渡したら、、、ぱらぱらとめくって

             何々、、???「長いトンネルをくぐると「雪国だった。」」
            当たり前だろう、、、
            裏日本に、、トンネルの出口があっただけだろう、、、
                             というのだから

           兄の頭は東大というより、、東京工大を受けるべきだったと、、思いましたね。

            同年代の父の妹にあたる、、叔母さんお家の「お兄ちゃんは」

             同じ両国高校から、、現役で『東工大に受かりましたからね!」
    
            物理は最優秀だったのに,、工学部なら、、合格も可能だったのに、、、
            不得手な国語の在る東大にこだわるから、、、

             劣等感がひどい、、可哀想な、、兄でしたね。

            東大を落ちた理由を、、あれこれ、、言いながら、、

             だんだんしょんぼりして、、布団いもぐってしまい、、

               起きてきたときには、、、泣きボクロがあり、、、

          男のこだわりに、、、可哀想なものを感じましたね。

           すぐ上の兄は医師になる事を拒み

             「人間が、、人間を、、解剖するなんて、、、僕には出来ない、、、」

            私が正規合格で、、兄が補欠で、、私立医科大を合格しましたが、、

              兄が、、絶対に、、医師にはなりたくないと、、

            父母が、、兄を助けて、医師になってほしいと言っても

              僕は、、ICUを受験したいと言って、、文科系の科目が好きでしたね。

            どちらかというと、、、小松川の男子生徒は、、おとなしい人が多かったですね。

               すったもんだの、、、受験時代に、、

               女の子で、、受験テクに長けていて、、カッタ端から合格する妹を

              母も長兄も、、ニガニガしく。見ているのがわかりましたね

               小松川の女生徒にとって、、本命は千葉大というのは自然でした。

              当日になって、、長兄は、、二人とも、、千葉大に送ってゆくはずだったが

                今日はいけないからと、、、直前逃亡でした。

            兄も、私も、、私立大学に合格していたこともあり、、、

            妹が、、万一国立を合格したら、、、今までのように

             支配できないと思ったのだよネ、、きっと。

              前の日に、、同級生と一緒に、千葉大前の宿をとってあったのに

            「明日は、、お前たち二人を、、京王国道を通り、、千葉まで送る道を調べたから

               宿はキャンセルして、、僕が送って行くから、、、」

            約束したのに、、、ひどい裏切りだと思いました。

             落ちたっていいから、、受験番号125番という、、合格するという番号なのに、、

            私は、、ぬかったと想いました。

             兄を恨む気にはなりませんでした。

             受験上までも行けなかったこの経験は、、、

              兄弟と言えども、、、東大受験射失敗した兄の心のブラックホールは

              私ごときが推測できるような、、、軽いものでは無かったのだと

              身震いしました。

             「東大を落ち手しまった以上、、、

                  父同様に、、国のコマンドとして

                   一生、、税金を支払う道しかない、、、

                       親父がこんなものを、、、残すから、、、!」

                兄に発って、医師のなっての一年目に、、母と弟妹と、、開業施設と

               従業員を預けられた事は、、逃げ場が無かったのでしょうね。

            唯一、、自分尾道を行く為には「東大合格」という

               水戸黄門様の、、印籠のような「東大合格」だけが

                 解散に、、持ち込める、、
                説得力ある「天下の東大合格」が、、必要だったのでしょうね。

               ノイローゼ―のようになりながら、、、

                早逝した父の後をついで,、開業しながらも、、

               「僕は一生、、税金と、、お前たちの為に、、
                    金を儲けなければならない道を行なんて」

              こぼしながらも、、アルバイトの医師を週2日間雇用して

               自分尾勉強ん為に「国立がんセンター」の研究生になって

               胃カメラの指導医を許されると、、晩年は開業を閉院して

                 千葉の大病院の胃カメラ指導者として、、雇っていただき

                ひたすら、、金もうけの道から、、、脱出してゆきました。

                 戦後の開業は、、、すったもんだの、、人生劇でしたね。

                 女性は、、一生面倒を見てくれそうな所に、、嫁に出すのが

               兄にとっては使命だったのでショウウガ、、、

                戦前の昭和10年代の「富国強兵」政策の教育は

                男尊女卑の、、、はなはだしい、、男女の格差を容認する政策のもとに

               女の子が生まれると、、殺されてしまった人もいたというから、、、

             生き残れた、、私は、、インテリの親に生んでもらって、、

                命拾いが出来たのかもしれないというほど、、、

               敗戦まじかの昭和10年代に生れた女子は

                嫁に行って、、嫁として受け取る側は

                「働き手を、、もらったから、、」と、、
              肩身の狭い妻という立場だったのですよね。

             ダンナさんは、、私が社会進出のチャンスをつかむと、、

                    ことごとく、、妨害して、、

                  私物としての、、管理をしてくるという

                     兄と同じ教育を受けた医師でしたね。

                    家の中は、、ダンナさんの物で、、各部屋は

                     全部、、無断で入れるように、、、

                母がくれたピアノの部屋には、、メダカを飼っていて

             餌をやりに入ってくるという、、、クマのマーキングのような、、、

                 我が家には、、、ダンナさんの管理をシャットアウトできるのは

                 日記に、、ぼろくそ吐き出しているときだけですね。

               しかし、、息子達の大學の費用と、、日常の食事代を稼いでくれるダンナには、、

              勝ち目がありませんよね。

               全室、、ダンナさんだらけの物を、、掃除しながら、、、

               自分だけがカギを持っている、、個室が欲しいな^^^蛙、、、と

              生涯、、思いましたね。

               Nipponの女性は、、家で働かないと、、、

               勤務医の給料は、、医師の日進月歩の学問についてゆく、、維持費と

               お金持ちの子弟の多い 医師のお仲間について行くだけで

               女房の家系きり森戸、、必要な時には「お金もうけの為の、、職場復帰」
                 
               深夜調剤の急病センターでのアルバイト、、、
                100万以下の収入を、、自便の精神維持にして

                ダンナさんが「医師をすること」の

                 フアンのように、、サポートをし続けるというのが、、、

                他人の街に嫁いでしまった、、、独りぼっちの、、よそ者の、、女性の活きる道でしたね。

               道が開けそうになると、、、障害物が、、現れるという、、

               男尊女卑が、、いやなら、、、独身を通すことを勧めますね。

                あるいは、、結婚しても、、子供をつくらない、、身軽で居るという事でしょう。

                ずるいかもしれませんが、、、はじめから、、お金持ちと結婚して

              遊びも㋐洒落も上手くなり、、、
               楊貴妃のように、、
                男性の心を奪える女性の生涯を送るのも

                    美貌が必用ですし、、、私には無理な注文ですね。

                      言いたい放題,、吐き出して、、、

                      大きな声で、、、ばか~~~❕!!、、と怒鳴ったら

                 スッキリしました。

               雪の降り始めで、、、生涯雪を掻かないダンナの事が、、腹立って、、

               今日は、、、「王様の耳は、、、馬の耳、、、馬鹿の耳、、、!!」

                少しスッキリしましたね。。。おやすみなさい。。
       

          

************************************************************
            、、
    北海道に嫁に来るなら、、駅前のマンションに住んで、、雪掻きの時間を失わない人生の選択を開勧めします。

       ダンナさんも、、悪い人ではないのですが、、、雪掻き女房を確保できないと
       男は、、働くのに、、支障をきたすところに、、住まない事ですね。

               54年間、、雪を掻きつづけた、、和歌山生れの、、もうすぐ80歳の老婆心より。

       バカヤロウ、、、の私!!、、人生終わってから、、気が付くなんて、、、!!


              ダンナさんの,、黒田勘兵衛ですね!!
              



                 

    

               

          

        
     

              

      息子のように、、忙しさと、、時間貧乏な過密時間を

         生きがいの精神にすり替えられて、、、やがて、、ロボットのように

             医師として働く時間が、、生きている時間として置き換わってゆく、、


     プロとしてのプライドが故に、、、いつしか、、働く事だけが人生と感じるような

       傍から見ると、、異常なまでの時間貧乏な人生を

            本人は、、かんがえるという余裕がないまま、、

       医師は儲けていると、、盲信する、、、アウトㇿーの
             誘導のまま、、、 人生は、、、

       操作されているが如く、、、まるで詐欺の巧妙さに、、気が付く時間が無かったかのごとく

       誰にも見えない、、流れによって、、、時間だけが、、、働くことで忙殺されて

        政治が読めない、、医者バカのタイプの、、理想の医師は
           政治と背かンおクレバスに飲み込まれ、、

          開業より、、閉院んで、、裸になって、、人生を終わる純粋な医師が多いと聴いている

       医師は、、達成感だけで、、、裸で、、死んでゆく。

        税金に追いかけられ、、、自己満足で、、政治にも、、世間にも、、

             働かされて、、時間貧乏で、、かんがえる事を、、奪われて行き、、

                   素っ裸で、、人生の終焉に追い詰められてゆく、、哀しい、、英雄。

             兄貴の例ですが、、、哀しすぎる、、東大病でしたね。
               

最新の画像もっと見る

コメントを投稿