花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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戦後の医師の家庭の一例

2024年06月27日 | 日記
戦争の激戦区で、
   お国に奉公していた父が、
       54歳の若さで、過労死してしまうまでの

   戦後の復興期の、、医師の家庭の、それぞれの家族が体験したであろう感情を

         「吾輩は猫である、、、」ではありませんが

               子供としては、天から操作されていたスマホのように


               自動的に入る、、、メッセージを、記録してみました。

     戦地では、、早朝、
            激戦地区への「野戦病院の軍医としての命令に従って」
                      迎えのトラックを待っていたということです。

         新聞は軍の戦況を正確に伝える資材も、人材も戦禍に消えて

            日本が 優位の状況だけを切り取って報道しているという

            最後の時がまじかに迫っているのでした。

     アメリカ兵は、、日本を壊滅させる最後の掃討作戦で、、、
               最後の日本兵の掃討掃討作戦で

                   島に残った兵隊は、最後の時を迎えていました。

     どの島も、、、玉砕していました。

     サイパン島では、、、日本女性は、、
     「日本、、、万歳!!」と、、、、、天に叫んで

     断崖絶壁の上から、怒涛の海に身を投げて

     日本人の最後の誇りを守って、、、天皇陛下万歳、、、、

        80歳になって、、、天皇陛下万歳と、、、

              日本人が戦地で、自らの命と別れるとき

            どこで死んでも、、、心は、、日本人として、
                        
            魂を日本に還らせる、、、言葉だったのかもしれませんね。    

     「天皇陛下、、、万歳!!」と叫んで、、
     海の藻屑になることを選んだそうです。

      父が54歳で死んでしまった後、
      母は、、一人で

      「万歳岬を訪ねて行き、、、この話を、
            娘の私に話して聞かせてくれました。」

       早朝の、、、軍医としての野戦病院に出発する、、、

      トラックが来なかったと、、、

      日本には 軍医の必要な戦場はもはや無くなり
       迎えのトラックの一台すら、、、ないのか?!!

       入れ替わりに、
         日本から、、
           政治家の末端で、、町長をしていた祖父が

       若き日に、アメリカに留学していた師範学校卒業生だったことや
        和歌山の、、旧家の出身であったことなどから、、、

         当時は選挙というより、、、町長も、、校長も、、、古座川奥の村長も

       すべて、、頼まれ引き受けた「長だったそうです。」

        アメリカに留学をしていた祖父が、
        太平洋戦争の勃発の時点で
        日本に帰るということになり
        アメリカの日本人町に残って働いていた兄夫婦の奥さんだけを連れて
        日本に引きあげてきました。

        祖父にとったら、、、日本に帰ることになった女性は
        義理の姉にあたることになりますが

        祖父の兄は、、、、アメリカに残るほうを選んだ以上
        祖父の兄の奥さんは、
        持てるものをできるだけ日本まで船に乗せて帰ってきたようでした

        昭和24年ごろには、、他家では見たこともない
        、電蓄や
           オーディオセットや、
                レコード盤がありましたね。
         銀の懐中時計と、、三つ揃えは、、祖父の制服のようでしたね。
  

        英語が聞き取れたということが、
       多岐にわたる方面の役を引き受けざるを得なかった

          英語の普及していなかった時代の、頼まれ町長
                            頼まれ校長
                             頼まれ、、役場の東京との連絡係
           仕方のない、、一人多役の頼まれ雑用が
                配線ンを目の前にして
                英語が必要なことが多かったのでしょうね、、、きっと!

       今なら、、原子力のエネルギーにと、
        軍の発想が行くのでショウね、、、きっと。

      当時は、、敗戦の兆しが見えて、、
           マスコミは嘘八百の報道が始まるさなか

      祖父は最後の連絡船の出向の情報を知って、
       軍医の日本引き上げのために
        戦地入りしてくれたそうです。

       最後の連絡船に乗るための状況は、、
         たぶん、
         、どこかの記録ニュースに残っているといいですね。

      船中に入ると、、どの窓も閉ざされて、、外は見えなかったそうです。
          護衛船が付くので窓を閉めて、下さいという放送だったそうですが
            10歳だった兄は、、窓から外を見ていたが

                   護衛船などはなかったといっていました。

       あとからわかったことですが、、、これが最後の連絡船だったそうです。

          昭和19年、、8月のことでした。

                     

        5人の子供のうち、、3人は他国の地、、、
            戦場近くの病院宿舎で死んでしまったと
                母にとって

             子供たちを殺して、自分も死のうかと思った頃だったそうです。
   
      10歳の長男と,
      一才の4男にあたる兄と、、
        臨月を迎えた私をおなかに入れての

     戦場地と隣接の臨床病院の医師住宅を脱出できたのでした。

               

                       

      一握りの、外科の手術道具と、、死んでいった患者だった将校から手渡された日本がの絹絵、、一枚。

        「正兆、、」と読める、、
         筆のサインが入っている

     
 
               穏やかな谷川と自然の空間の、日本画であるが

                   折跡があるために、、、美術品としては残念な絵である。

     父が亡くなった時、、、だれもほしがらなかった、、捨てられた絵を

      父の形見と思って、、私は大切に保管している。

        この世で、、私を愛してくれたのは、
         、父の医療に従事する真摯な心だけが

          戦後、、、筆舌に尽くせない、、、
         医師の幼い娘に運ばれてきた大やけどを

              17年間、、、なくなる2年前まで、、、
                気長に治療してくれt外科医の父でした。


        

            戦争をはさんで、、引上げ、、疎開、、、


  



                     



      一億国民,、全員が、、明日のコメも無いという、、、戦争貧困の中で

       疎開先の、、、七か村、、無医村に、、一人、、、、戦陣外科を体験してきた

          オールマイティの、、、おごり水額の外科を取得して
              東京では、宮様方の健康をお守りしてきた慈恵会病院のそつぎょうの医師が

                   疎開地の電気のない山奥に、ダムを造る計画で、
                   村営の公的診療所に
                   町長をしていた祖父が、
                   娘婿を、敗戦まじかに迫った戦場から、、
                   ダム建設のための外科医の必要性を仕事として

                   戦地まで.娘家族全員を、、引き揚げさせて、、疎開地まで連れてきたのでした。

                家族愛なのかz・。。。公務なのか。。。・


      子供心に、、、ダムが完成近くなった、、、昭和30年前後

                   早川崇、、、こういう字かどうか知りませんが

                   祖父の経営していた旅館によく来ていました。

               間もなくダムは完成して、、父も、東京に帰る日がやってきました。

          戦場での経験は、、、外科と言わず、、内科、、婦人科、、、産婦人科、、、耳鼻科、、、眼科

         なんでも、、兵士のために、、現地の医療班、、看護師、、漢方医,、、衛生兵、、とともに

       生死の中で、、、切り抜けた父は、、七か村のただ一人の、、、なんでもできる医師として

      疎開先がにわかに、、、3000人も住む街になった中で

          ダム工事のけが人が出る村の健康を守るべく

               日夜問わずに診療と手術の激務にこたえていました。

        珍重に、、尊敬されるという、、、しかし、、時間のすべては診療という

         激務の戦後が始まりました。

          村のほうから察するには
          この山奥に、外科手術も、、すべての課において診療してくれる医師が来たということは

      敗戦の日本のニワカニできた疎開村に、、ダム建設のために
      外科医として、、、帰国を許されたという、、
         運の良い配置換えといえそうです。
            父の家族にとっても、九死に一生の生還だったそうです。

       ダムの建設のために、、、疎開先のニワカニ町になった村落が

        一部ダムの湖底に沈むという、、、避けられない悲劇も起きました。


       かけがえのない、、医師本人には村人は感謝こそ示しても

        家族への風当たりは、、、慇懃な中に、、、ある種の幼すぎる嫉妬が向けられてきました。

        学校では、、自分の親類の家が湖底に沈んだのは
        お前らが村にやってきて、、、ダムの建設が始まったからだと
        逆恨みのいじめ集団も現れて、、、

            小学校に通う途中の階段から

            8回も突き落とされて、、、

           口の中を8針も、、父に縫ってもらいました。

           「ダムの底に家が沈んだのは、、我が家のせいでもないし、、祖父のせいでもない。」
            父は、けがをさせた生徒と親に、、誤解だと説明してくれました。

         しかし、、、湖底に沈んだ家の親戚だという、、、一級上の女生徒は

         70歳過ぎても、、「あんたらのせいで、、親戚の家がこていにしずんだ、、、」と

           私が結婚して、姓がかわっても、、電話で、、恨み言を言い続けてきましたね。

     父が医師だとか、、ダンナが、医師だと、、
          枝葉の女房子供まで、、風評う被害のとばっちりを受けるから

        私本院が医師にならねば、、、すべては解決できないと考えて時期がありました。

       医師の奥さんや、、医師の子供の受けるやきもちや、、勝ち気からくる排除の感情は
       半端なものではないと、、、いつも、、目立たないように、、実力をつけることに集中しましたね。

        強く、、自分が強くなれば、、、理不尽な行動に出る輩はいなくなるはずだと考える時代でしたね。

        ある日、、、  

       父母と招待された餅つき大会の日のことでした。

         弟と、私は、、うれしくて、、走って、走って、、一足早く、、会場につきました。

        村の人たちは、、、
         「こいつらは、、親のおかげで、、とくばかりしている奴らだ、、 ほおっておけ、、、」と、、

                  冷やかに、、、扱われて、、
                  会場には入れませんでした。

          そのあと、、、村人の、、餅つき大会の発起人の役員に引っ張られて

           父と母が、、遅れて会場に姿を現しました。

         さっきまで、、、アッチ行け!、、お前らは来るな!、、
         いじわるの限りをしていた人が

        「 親のおかげで、、、お前らまで、、得ばかりしやがって、、、」

          口をトンガラしていた、、村の人たちが、、、

          父母の姿が見えたとたんに、、、手のひらを返したように

           「お嬢ちゃん、、、坊ちゃん、、、お手手を洗おうね、、、」

             桶に入った水を持ってきてくれたり、、、

             タオルで手を拭いてくれたり、、、

             さあさ、、、、、ここに座って、、餅つきを見て、、、

           気持ちが悪いほど、、、優しくなって、、、
           つきたての餅も、いっぱいくれました。

         「弟は、、小さかったのですが、、、今でもそのことを覚えていて、、、」 
 
           お姉ちゃん、、、
             本人に力がないのに、、、
                父母の力で、、なんでも手に入る僕らの立場て
                   怖いものがあるね、、、、と、、、

               大人になっても、、しばしば話したことでした。

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            中学生になっていた長男は、、

              私や、弟のような差別は、、直接受けなかったようですが、、、

                医者の坊ちゃんだというだけで、、、

                特別待遇を受けることがあり、、

            性格は、、、人の心の裏が、読み切れなくて

            特別待遇の優位な立場を、、、自分の実力だと思い込むことが

            晩年になって、、、どんでん返しの「自尊心が傷つくという未熟」に

            現実を認めたくない症候群になり、、、

            現実の自分の実力どうりの社会の待遇に、、納得がいかないという


            自己顕示の欲望がシャットアウトされて、、、

            弟妹や、父母にも、、当たり散らすという、、

                青春時代に,、

                劇的な性格の変貌がありましたね。

             

     10歳のころまでには、、大陸の近くで、小学生だった兄

             「東京の、、昭和30年ごろには名門高校だった「都立両国高校」。

         兄はその高校では10番以内にいた常連だった。

           学校からも優等生として「東大受験を勧められていた。」

          当の本人も、、「東大入学後の計画ばかりしていた。」

            そのころは、、、「お父様、お母様、、おやすみなさい」、、、と

           詰襟の学生服のまま、、受験勉強に励み、、父母にも座って挨拶をしていた。

         一年目、、、二年目、、東大を失敗して、、、

         私立大学の医学部に進み、、、絶望の通学拒否の状態から
           3か月かかって、、やっと通学できるようになったかと思うと

          東大の衛生看護科だったような学部に合格して、、そこにはゆかずに

           兄と同じ私立医大に来ていた女子医大生に、、恋をした。

          彼女は,、キュートな小柄な才媛で、
        家庭はお金持ちの住む住宅街のお屋敷に住んでいた。

         彼女を射止めたい一心の兄は、、人が変わったように

          通学するときには、、生き生きとして、、、親を説得して

             晩年の父には荷が重いと思えるような高級車であったと思うような

               彼女の気持ちを引きたいという願いで買ってもらい、、、ましたね、、、

      本来なら、、開業医の父の病院車として役立つはずが

         通学用のお車として、、、兄の専用車になっていった。

           ある日、、

        その才媛んを家に連れてきた、、兄は

           とても幸せそうだった。

         そのころ、、、
        都立小松川高校の生徒だった私は、、
        日本の女性だって、自己実現すべきだと

        卒業生の先輩の、、
          「山口シズエ衆議院議員の、、母校への講演会」にすっかり洗脳?されていていました。

        兄が連れてきた、、女医さんを目指していたため、、
          東大合格であっても衛生看護科を振って、「東大」という

            名誉の、、水戸黄門の印籠のような
                「東大生」ということを捨てたいきさつに、、

         兄ごときの、、一開業医の長男に、、、
                  捕まる相手ではありえないという

           女性の中でも、、、
            「自己実現を目指すタイプの女性だから、、
                    、恋の相手にはならないよ。。」

         一目でわかった。

          彼女は、、、女性の自己実現のためにも、、

          人生を通して、、
          スポンサーになりうる背景を、、ごく自然に持っているという

           大金持ちの社会的地位のある家庭の長男という、、、
            自分の人生に必要な条件以外は 
            単なるクラスメートという、、持ち駒の域を出ないよ、、、と。

         家に連れてきたことは、、、大失敗だね、、、と思っていました。

           兄は、、本気で彼女に恋をしている。。。。

           自分が受からなかった東京大学を受かっている。
           しかも、、彼女は、、自分と同じ私立医科大学のほうを選んだ。

           兄にとれば、、この女性に認められることが、、
           高校時代に、、絶対合格組と言われながら
           外国で10歳まで育ったという、、軍医の父のさすらいの人生は
           東京を任せてくれる人選を選ぶのと同じに思える東大受験は

         父は東京の旧家であっても、、兄は、、占領地の病院の宿舎で育っているから

          国語という科目において、、受験勉強では得られない国語のセンスが足りなかった。

         妹の目から見ると、、、日本独特の古文や古典の心が理解できていないと思っていた。

        す」さす シム、、るらる、、、などと、、空で案じてはいるが、、、

             短歌も長歌も、、反歌も、、、心のやり取りを考える前に
        暗記して、、文法を当てはめて、、、理論的に形ある形を扱うごとく、、、

         国語の考え方そのものが、、、物理的であり、、理論的であったと、、思いましたね。

         外国で育つということの、、、ある種の欠落した国語力が
            東大不合格の原因だと、、、私的には推測していました。

        男女間の心のやり取りも,、、岡目八目の見方で言うならば

        心の出会いというのが、、あるのでしょうか?

           彼女は、、、これからの自己実現という、、、自分の夢のための

          必要な知人やスタッフの準備ぐらいの、、軽いノリであることが

         妹という、、、男女の仲ではありえない視点から、、、
         自己実現したいという、、、彼女と同じ夢を持つ私には、、
                             すぐにわかった。

         彼女には、やがては医師になる同級生は、、、
         自己実現ンを目指す彼女の大切な、、、コマにすぎないのだと、、思えた。

         兄の恋は、、どんどん深みに入って行った、、、、

         片思いでした。


          突然、、彼女はクラスメートの、、大金持ちの、、大病院の息子と

             電撃結婚をして、、、学生夫婦となり

            彼の家から出勤するように、、通学してくるようになりました。

          彼は、、嬉しそうに、、、ブックバンドでまとめられた彼女の教科書まで抱えて

       彼女が、、ハンドバックひとつで、、彼の前を歩いて,、登校している姿に

        兄は、、ノックアウトになりました。

       兄は、、その他大勢の一人だったのですね。


        彼女は、、兄を振ったとか、、好きとか嫌いとかのジャンルにも数えていなかったことに
        妹の私は、、、すぐに理解できた。

        通っていた都立小松川高校の女性には、、、結婚願望より

        自己実現のための,、生涯を通してクラスメートでいたいような相棒としての
        話のできる友達を求める同級生が多かったことも、

        自己実現に生きる女性の傾向だと、、、なんとなく感じていた。
        純情で、、ねっこが田舎者の兄には、、気が付かなかったのでしょうね。。。

        本気で恋をしていた兄は、、精神的にも、、、自分の一人よがりの夢を見ていた。

         青春の若き純情な恋心的にも、、、男女を、、男と女としか見ない兄は、
         清少納言の古文を読んで、、、理解できるのかと、、、考え込んでしまった。

         自己実現を目指す女性は、、、男性の友人を必要とするのだと、、、言いたかった。
         
          兄は、オンナを、、女性と、女子学生と、
         自立した自己実現を目指している
              生き方を持った、女医の卵のご婦人とを、、混同させてしまい
                   惚れてしまって、、、自爆しましたね、、、

       人間が変わって、、、しまいましたね。


         振られたのと混同してしまい、
              事故否定にも、、どこか通じる、、孤独に落ちて、、人が変わり、、、

          初恋に敗れて,、信条が変わるという、、、ショックを受けてしまいましたね。、、、

        戦前の教育の受け取り方は個人差があったとは思いますが

        「富国強兵」「人間弾丸」「肉弾三銃士」「特攻隊」

          教育されるものの人格はどこにあるのでしょうか?

       「欲しがりません勝つまでは」、、、、

         小さな日本が、、、大きなアメリカに挑んでしまった敗戦の痛手のように
        自主自立、、自己実現、、あるいは母のように音楽大卒の女性、、、

          女性の中でも、、こういう人たちのお相手になれる男性は

           底抜けの包容力と大金持ちといわれるスポンサー力がないと

          手におえない、、、怪物並みのエネルギーを吸い取るので

        我が家のような、、疎開先から、、
                 やっと
                   父の生まれ故郷の東京に、、

                     しかも、、、

         実家が焼けて、、、人のものとも、、わからなくなっていて。。。、、大きなホテルが建っていたという

         一文無しから信用だけで、、銀行さんから借りての開業医の継承者の長男なんて

         弟妹も、、親も背負って、、、私立医科大学の、、、坊ちゃまたちとは

        家という、、、バックに強さもよくはなkったb、

        自己実現んで、、自分中心に生きている女性が

          質素な開業の家に来るほうが、、おかしいと、、、

            妹の私は、、

         「家に連れてくるのは、、いなかっぺの大将の、、兄貴だと、、軽く会釈してすれ違った。」

        こうして、、東大にも、、初恋にも及ばなかった兄貴は

           相手が自分を拒否したのではなくて、、、相手は、、おとりまきは拒まないという

          化け物級のスケールの自己実現派の女性だと、、、

            私は、、会釈だけで深入りしなかった。

             兄は、、拒絶されたとうぬぼれているが、、
              この手の女性は人を心に入れたり

           恋をしたり、、、人を拒絶したりはしないはず、、、

           野球で言えば、、、一郎さんみたいに、、
          、神がかった盗塁をできる人です。

          女性とか、、男性とかの区別はできません、、、

         自己実現あるのみの、、、ブレナイ、、自分あるのみの女性です。

            小松川高校の同級生の中にも、、、何人もいました。

           自己実現派の女性がね、、、


          母校の校長先生になって戻ってきたり、、、

             学者番号を煌めかせながら、、、教授になっていたり、、、

          そういう女性の学生時代は、、、多くの男子学生のマドンナになっているから、、

          公的助成として、、、恋をするのはやめておきなさいと、、、

          あんなに言っておいたのに、、、

          恋に落ちた兄貴は、、、心を自爆させて、、別人のように価値観を変えて

            後半の人生は、、、勝ち組のはずなのに、、、

              心は負け組のまま、、、そばに行くとさびしくなるので

            遠くから愛する兄弟妹になりました。

           恋に破れただけではありません、、、

          入学完璧だと、、高校の先生から太鼓判だった「東大受験の失敗」も

            兄を変えてしまいました。

            100年しかない人生に、、、、東大だ、、、彼女じゃなくっちゃとか、、、

           いちいち、、こだわって生きていたら、、

            地震雷、、津波の被害やたつまく被害,、水害に交通事故、、、

             どんなに多くの人が、、挫折で立ち往生しているかを考えて

          東京大学受からなかった、、、とか、、、一方的な初恋に敗れたとか、、、で

           「自分が拒否されたと、、、自爆するような教育」だけは、、、

                  あまりにも、、、俺、、俺、、、俺、、俺のようですね。

                  戦時中だから、、、こんな、、、「ぽきん」と折れるような

                  竹やりのような教育で

                  インスタントな、、兵士に育てるだけで

          、、民間人を招集しているのかもしれない。

              「人間は、、一人で生まれて、、、一人で死ぬのだから、、」

            人を恋するな、、、
                    人を恨むな、、、

                    他人の  優しさや、、、自分への関心を
                                  ほしがらないで、、、
                                     心と心がで、、、出会って行け、、と

            父は言っていた。

           そういう意味では、、私は落第生であると、、、自覚している。

            ダンナさんとは、、、いまだに出会っていない、、結婚という形で生きてきた。

            子育ては、、したたかな、、自己実現に勝る、、女性の仕事であると、、従事した。

             どんな偉そうな男衆も、、、出産はできないのだから、、、

              神様の下さった、、、女性であるがゆえに授かった子育てを

              生き残りゲームのような真剣さで、、、人生ゲームに参加するつもりで

           その場その場で、、生き残れるという方法に精神集中させて

           保護色の服を着て、、保護色の藪に隠れて、、、草を喰い、、、

           80歳になろうとするまで、、、生き延びてきたような気がする私は、、、

         結婚を「永久就職」だと考えて、、ここで得た仕事の報酬を。公金と心得て

           会社である我が家と、、社長と、、子供の費用として

            交差点の交通巡査のように、、、家庭のエネルギーの交通整理に明け暮れました。

               

          ダンナさんも、、兄と同じ年代の戦前の教育を受けていますから

           「初恋の女性との失恋」で、、
                 呪縛された勝ち気で、、、
                       自己肯定している力が

              人生の生きる力と、、忍耐力を生んでいるという

           戦前の日本の男性族の、、刷り込まれた、、自己肯定と自己否定という
           ストラグルに明け暮れる、、、「独楽」のように、、、

             読んで字のごとく、、

            側面に立つ女房からは,、、「独楽」のように

                  自分しか楽しめない日本の男性族の教育が
          
                       敗戦によって、、
                         アメリカナイズされて、、、

           今どきの若者は、、、今度は、、
                     どんな風な、、、教育で育てられたのでしょうね。

             聖歌も、、、ゴスペルのように、、陽気に歌うのですよね、、、きっと。

           次男は50過ぎましたが、、、
               世間は家庭に、、、年取った母のもとに、、、
                          二男が返ってくることは許してくれません。

           私立医科大学に進学してからは。。一度終わったローンに、ウワノセシテ借金をして

             35年ローンで、、私立医大の費用は払い終わりましたが、、

           実家の開業も家屋敷とも人手に渡り、、、北海道から、、里帰りできるという

                     帰る家がなくなりました。

          医師になった息子が、、結婚して、、二世帯住宅で故郷に親を迎えてくれるなどと、、、

                    夢のようなことを考えた若き日もありましtが、、、

           開業の実家を無くした私にとって、
               実家の近くの
                  市立医科大学に息子を進学させた目的の消失で

         息子は、、自分の思う通りの、、「医者バカ」人生を、
                           自分では、一生働くために医者をする?

                              独身の医師は
                                 子供を育てているわけではない
                       

        女房を養っているわけではない、、、

            自分が死んだ次の時代に、、税金を納める子供を残さないで

                      税金は、、、次の時代,、誰が、、払ってゆくのだ??

          少子化の片棒担ぐという人生は、、気が付いていたら、、月日は待ってくれなかっただけ。

             働けど、、、働らけど、、、税金に追いかけられて、、、家を買うどころではないし、、、

                結婚するには、、、仕事が忙しすぎる。

                   唯、、最先端の医師をしているつもりだったのが、、、

                        医学は残酷だ、、、どんどんすぱーな力のある若い医師が出てくるから。

                    老人のための医療ができないと、、、自分は世の中から、、、必要とされなくなると、、

                       思うようになったと。。。月日の速さを憂いているが、、、

                         50才という年齢は、、、家庭を守ってゆくには、、遅すぎるかもしれない。

             本院が医師になりたかったのだから、、、後悔はないはず、、、

                   80歳を目の前にして、、、

                       意思を志す人は、、医師になってからの、、
                              時代についてゆく運転資金がないと

                つらい人生が待っていることを、、、書いておこうと思いました。

                 医師になるのも大変なことですが、、、

                  二代目、、三代目なら、、必要とされる体制の中で医師が生まれるから

                   順風漫歩で行けそうですが、、、

                      初代の医師や、、、勤務医のお子さんで医師になる人は、、、

                         医師になって医師をすることのほうが難しいということを

                             痛感している親から、、、

                                 いろいろ聞けると思いますね。

                日本の政治家は、医療の世界の現実を理解していなくて、、、
                   上から目線で、、医療従事者は、、すべてが
                    専門家では有るが
                         「労働者の要素」で考えて制度を作っていると思いますね。

                 医師に、、、働き方改革なんて、、、通じないし。

                   忙しすぎる医師に、、転々と出張先が変わり、、地域色強い病気の研修のときに

                      スマホで申請できるまでは、、、税金の申告が、、、無理な移動体制の中で
                 やっと、、体力を維持しているという現実が、、、

                 あたら、、医師になりながら、、、
                         50歳になっても、、
                              、家庭を持とうという、
                              、心にならない状況になるという、、、矛盾。?

                 何か大きな力に食われてしまって、、、二男はとうとう、、家庭はもたなかった。

                  夫婦ともに勤務して努力を共有して、、私立の医科大学は出せても、、、

                               医師を続けてするのには、、、

                               親や、、保護者や、、スポンサー のほかに

                 大学から必要とされ続けるには、、、力が及ばない、、、

                医師になってゃ息子は、、、50歳からの、、残された時間を、、、
                結婚もできないまま、、、
                時間に追われて、、、人生を一人ぼっちで、、、自己満足の世界で過ごすのだろううか?

                     身近なわが身に起こった見えない、、、国の医療が見えない部分を

                       日勤書いておきます。

                ダンナさんと結婚した月から、、収入がなかったのですよね。

                 戦後の北海道の医師の無休時代は、、、地獄の時代でしたね。


  

                                     


             必死に生きて行っているようです。」

          卒業以来、北海道の実家には帰ってきていません。

         家も、マイカーも、、家庭もありません。

         有名私立医科大学を卒業しても、、、親には一切かかわってくれない人生に

       医師の過程は、、、理解されない政治力によって、、わからない力で

         「医療をすることだけが、、、
           医療的に満たされた高度な技術をふるえる環境を整えてくれるが、、、
             一切の収入は、、、いろいろな形で、、、社会に帰って行き、、

               医師の家内も、、医療をする医師たちの下僕のように使えて

                 老人になって現場を離れる医師には、、、一円の退職金もなく

             長い間に、、中止させられていた、、カットされていた年金は、、貯金に回ることもなく、、、

            世間の人たちにならって、、群衆の波を乗り越える知恵もなく、、、

            なんとなく、、、あげ奉られらレタ、、おみこしの上で

            きれいな着物で、、、そこにいる理由もわからないままで、、、

             
           価値ある人に見える位置の案山子となって、、、民衆は、、医師は恵まれた特別待遇の人たちだと

         認めるが、、医師の家族は疎外という、、、不思議??

           

         医療組織を乗せた大きな船で働く旦那を頭上に乗せて、、、船底で、、櫓を漕ぐような人生でしたね。

         日記を書きながら、、、
            一生、、NHKのテレビのおかげで、、
                        、頭脳の世界は自分のものだったから。。。

           船底の、、炉を各人生も、、、奪われた自分の時間が、、、そっくりそのまま

                テレ美を見ながら、、パソコンしながら、、孤独の空間で

                  世界を飛びまわているような、、、

                    自分だけに、、自分が見える、、、

                      閉ざされているのに、、、精神は 世界見物をして回れている

                     TVに恵まれた、、、知識には事欠かない人生でしたね。

                    ダンナがわつぃを撮影した写真はありません。

                   妊娠して衆参までのわつぃの写真もいちまいもありません。

                 子供は高校生あたりからは、、ダンナさんの子として

                  ダンナさんは認識するようになり、、、親はバトンタッチです。

                 日本の男尊女卑は、、半端なものではありません。

                 戦前の教育を受けた旦那さんの頭脳は、、、パーソナリティではないのですが

                女房は、、残飯を残さないように、、、食事は残り物を整理する残高整理版です。

              子育ての時は、、車はおいて言ってはくれません。
               雪かきゴミ捨て、、掃除は、ダンナさんは絶対にしません。

                 アルバムは、、仕事上の仲間との合同写真で埋まっています。

                  奥さんという存在は一切、、写真には残っていません。

                  誕生日のケーキのろうそくを吹き消すようなシーンは

                  子供とダンナさんの写真だけで
                   奥さんの写真は一枚もありません。

                  誕生日に、、人に集まってもらったことも、、、レストランに行ったこともありませんでした。

               子供が独り立ちして、、、孫ができてから、、、
             孫の誕生日に、、家族集まって、、会食パーティを、ファミリーレストランで

             必ずするように、、私がセットアッパーになりました。

            嫁さんとは、、、この時以外は二人だけの私語はしたことはありません。

            お嫁さんとは一度も買い物に、、、二人だけで行ったことはありません。

            できるだけ、、、嫁さんは自分の実家に親しくするようにと
            姑のほうは かまわないようにと
                 私のほうで推進してきました。

            お嫁さんの実家の子供の扱いは

              一緒に、、ジャガイモを、、孫と収穫しにいったり

               じいちゃんは、、一緒に孫と公衆浴場の広いところで遊ばしてくれたり

             スキンシップの子育てが、、、私たちのような夫婦にはできないからです。

           孫は、、とても、、、あたたかな、、、庶民の心を持った

           常識人為育っています。

           わつぃたちがしてきたことは、、、定期的に、、バランスの良い食事がとれるようにと

           月に2回は、、一緒にファミリーレストランなどに会食を楽しんだだけの付き合いでした。

          孫は、、ダンナさんの誕生日には、、

           「じいちゃんの大好きな、、アップルパイを買ってきたよ」

           届けてくれます。

           藤棚が、、柱が腐ってきたので、、取っ払いたいのだけど、、といえば

           アルバイト時給だすよ、、、と頼んだら、、、

            OK!!張り切って大工さんの前度としてくれるし、、、

            医師の家庭の、、100パーセント、、患者時間のダンナさんの変則結婚生活も
            開業医に育った私にとって、、、父との思い出は

           やけどの手当以外には、、、「那智の滝に、、、お参りに行ったこと」

            たった一度、、、古座川に、、一緒に連れて行ってもらったこと

             母には、、、学校行事の全紀州弁論大会に出席する学校代表の時に

              和歌山市まで父兄同伴で来てくれただけで、、、あとは

                地域のお子さんの音楽教育にささげた、、、母の姿しか、、、思い出されませんね。

          医師の家庭に育つということの、、、有意なこと、、、マイナスなこと、、、
               陥りやすい風評被害の誤解の重なり、、、

                  父が大衆相手に受け入れられているという地域貢献型職業である以上

             感謝も、、誤解も、、理解不足からくる、、助けられない病気で亡くなっても
              かかりつけの医師を逆恨みして

                  坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと、、、子供が被害にあうこともあった問ことです。

           神様のように、、父を尊敬する人もいれば、、、

             医師の家の娘だからと、、、先生がひいきしていると、、、誤解して

              執拗に、、私を階段から突き落としに来たりするクラスメートもいたりした。

            何でもありのことは、、親から言って聞かされていたこともあり

             感度の薄い応対で、、、友人を作らないという、、癖がついた。

            いろいろなことをしてくれるつもりの、、友人になろうとしてくる子らも

             私の中では,感情が動かない、、、時間待ちの状態だった。

               大人が両親の前で。。私をほめることがあった時などは

              無感動になって、、、嫌な時間だった。

              丁寧に、、無難に、、、空きまりの反応を覚えて、、ロボットのように

                作り笑いで、、頭をぺコント下げて挨拶だけは、、終止符だと心得ていた。

          医師の娘に生まれたからには、、、医師になって父の後を継ぐ以外に

               自分の座る座布団はなさそうだと思いながらも

              臨床医としてやってゆける自信はさらさらなかった。

              基礎の医師になりたいと思った。

        結果的には薬剤師になって、、、東京大学の医学部の基礎の教室の職員になったけど

             20000円と少しの給料では、、、生活ができなくて、、、

              自分には向いていないかもしれないと思いつつ、、、

             大学病院のやくざい化に勤務しなおして、、臨床薬剤師になり、、、

             医師の奥さんだけにはなるまいと、、、自立の道を選んだつもりが

              母親の、、、外科医と結婚させるという、、、強引なまでの母の希望で

                 付き合ったことも、、見たこともないダンナさんと、、、

                     博士号を取得したら、、我が家の実家の開業医として

                        我が家で働くという条件で、、、

                           結婚という、、、手段の、開業医に石を連れてくるという

                          実家のための仕事としての結婚を、

                        することになったのは、、、
                      父が54歳で、、患者さんの手術をした翌早朝、、
                    過労死したばかりの直後に、、

                  ダンナさんという外科医の卵が、、
                向こうから、、我が家で働くという約束を
                母に取り付けたのが、、、結婚という、、縁ができたのでした。

                人生などに、、恋とか、、愛とか、、ややこしいものは、、、

               なくても、、、子供を産み育てるということは、

                したたかな手ごたえと、、、女性にしかできない天与の仕事だと思いますね。

              来し方の取得した知識も、、体力も、、、研究心も、、、忍耐力も

               労働力も、、緊迫感も、、恐怖も、、喜びも、、、すべて体験できるのが

              子育てでしたね。

              医師をすること以外には、、、作動しない旦那さんだったことが

              見知らぬ土地の北海道で、、、あと一年で、、実家に来てくれると、、、

               限りある忍耐だと思いながら、、、55年過ぎて、、、

              やっと、、ダンナに騙されたのだと、、、このごろ、、、

              男の狡さには舌を巻きますね。

             お母さん、、、あなたも、、、

              嫁にはゆかないと、、、自己実現型だった私をだましたのですね、、、

            子供だけは、、真実でしたね、、、

             私、、自身の畑で育てた、、、大輪の花のように

             私にとっては、、神様の約束事のように

            子供には敬意を払って、、、全力で対峙しましたね。

            子供を産み、、育てたおかげで、、、

            誰も恨まず、、、みんなに存在だけでも、、、感謝して、、、
            神様はいらっしゃると、、、感謝することも、、しばしばでしたね。

         男同士、、男と女   母と娘、、父と息子、、、地域と東京、、、地域と国

            国と国、、、  考えようと、、長い時間をかけて、自立してゆけば

            戦争以外に、、、悪魔はいないのかもしれません。

             戦争をしない政治家さんであれば、、、国は守れるのかもしれません。

           生きねばならない、、、産み落とされた命ですが

             自立して、、人を頼まず、、人をねたまず、、、差別をしないで

              差熱を無視して、、、 状況によって人は変わるというむなしさを

             人の世の世渡りの術と、、思い直して、、気持ちを揺らさず

            一人ぼっちが原点だと認識して、、、ダンナさんとは

            世渡りは、、一人より、、二人がいいね、、、

              結婚は、、お互いに、、保証人になれラバ100点だね、、、と言いながら

             お互いに都合のよい時間に働きあって、、日ごろの擦れ違いはものともせずに

                お互いに、、80歳まで元気で来れたから、、、

               この結婚は、、成功なのよね、、、

               あとは、、食べて行ければ、、それで人生卒業よね、、、

              ぼろぼろの家具も絨毯も、、、服も  古い車も、、生きた証、、、

                  明日は散るかもしれない花、、、二輪

                 よく生きてこれたね、、、80歳まで、、、

              結婚の一つのパターンを、、、書いてみました。

                   自分自身の日記のために。

                   笑って読んでいるhとがいても、、、かまわないよ。。


            

             

         

            


         
          

       

               

              

           

           

         
         

            

           

        
                

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