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東京都職員から夕張市長

2014-02-04 14:20:10 | 子どもたちが社会人になって
2014/2/4日経新聞より

東京都職員から夕張市長
人生を変えた決断
夕張市長 鈴木直道

 市長になってから、時々「政治家になりたい」と相談されることがあります。私は最初から政治家になりたい、と志していたわけではありません。


鈴木直道(すずき・なおみち)
1981年埼玉県生まれ。1999年東京都入庁。2004年、都庁に勤めながら4年で法政大学法学部法律学科を卒業。2008年夕張市へ派遣。2010年11月、夕張市市長選の出馬を決意し東京都庁を退職。2011年4月、夕張市長に就任(写真 編集委員 嵐田啓明)
 2年2カ月夕張にいて、やりたいことの延長線に「政治家」という仕事があった、ということが一番近いのかもしれません。企業に就職し、やりたいことを働きながら見つけていく、仕事とは切り離してやりたいことを見つけていく。様々な生き方があると思います。一方、政治家は、「この地域・国のために何かしたい」という強い思いがあって初めて選ぶ仕事です。まず「政治家という職業になる」ことを目的にしないほうがいい。出馬し、選挙に出るということはやはり人生を変える特殊な決断だと思うからです。

■出馬を決断した理由

 私は2010年11月末、夕張市長選挙に立候補するため東京都職員を退職しました。夕張市の市長の月給は25万9千円。手取りにすると20万円に満たない。東京都職員の年収より200万円近く減ってしまいます。

 東京都職員として夕張市に派遣された私に、市長選への出馬を働きかけてきたのは仕事やボランティア活動で知り合った仲間たちでした。それ以降、人生で初めて夜も眠れないほど悩みました。

 当時、私は婚約者との結婚を控え、埼玉県内にローンを組んで家を買ったばかり。そもそも、選挙に勝てるのだろうか。落選したら無職。仮に当選したとしても年収は大きく減る。生活への不安は次から次へとあふれてきました。

 これだけ多くの不安があるのに、なぜ断ることを迷っているのだろう――。

 思えば私は夕張に派遣されてからの2年2カ月間、仕事やボランティア活動を通して、少しでも夕張をよくしたいという強い思いを抱いてきました。ともに過ごした仲間たちの姿も常に頭にありました。そんなことを振り返るうちに、私でも夕張でやれることがあるのではないか、と思えるようになったのです(前回「夕張の現実は日本の明日」)。自分が市長になることで、夕張にプラスを生み出せるかもしれない、それなのに私は何を小さなことで悩んでいるんだ、と。

 東日本大震災などもあり、世間の目は破綻した夕張から離れていました。選挙を通して「夕張問題が忘れられることが怖い」との声も聞くなかで、もし私が当選すれば、(当時)最年少市長の誕生として世間がまた、一瞬でも夕張に目を向けてくれるかもしれない、とも考えました。

 学生時代から、工事現場、宅配、酒屋など、飲食店以外のアルバイトはほとんど経験していました。幸い、親が健康な体に生んでくれたので、(もし選挙がうまくいかなくても)仕事を選ばなければ自分と妻一人を養うくらいなんとかなるかとも思いました。

なぜ安定した仕事を捨てて出馬を決めたのですか、とよく聞かれます。私もどこにでもいる普通の29歳(当時)の若造で、不安だらけでしたが、「やりたいか」「やりたくないか」を、夜も眠れないほど悩み自問自答した結果、「やりたい」自分がいるからこそ、多くの不安があるのに断ることのできない自分がいるという答えに行きついたのです。人生は一度きり、バカと言われてもかまわない。ぜひ挑戦をしたいと心に決めた瞬間でした。

夕張市長選で初当選。投票率は82.6%という高いものだった(2011年4月24日、北海道夕張市)
 それでも、私が東京都職員を辞め、夕張市長選に出馬したころは新聞記者にもまともに話を聞いてもらえませんでした。

 「負けそうな鈴木候補をなぜ応援するんですか」。事務所で選挙を手伝ってくれていた仲間は、大手新聞の記者からこう聞かれたそうです。社会の公器たる新聞社の方にそんなことをいわれて、本当にがっくりしたと思います。やっぱりだめなのか、と。

■ネガティブな人を説得する力が必要

 「29歳・無職・金なし・政党推薦なし」の私が、なぜ投票用紙に「鈴木直道」と名前を書いてもらえたのか。今振り返ると、「とにかく夕張のみんなに会って話したこと」。それに尽きると思います。

 全世帯である約6000世帯のうち延べ5700世帯以上の方々と会うことができました。雨の日も雪の日も吹雪の日も、1日も休まず朝から晩まで約4カ月間、ずっと続けました。2年間しか住んだことがなく、知名度もなかったので「私はこういう人間です」と、知ってもらうことが必要でした。

 選挙というと「○○に一票をお願いします」というイメージがあるかと思いますが、告示日より前に「一票を入れてください」とお願いをすると選挙違反になります。それまでの期間に私の人となりと夕張への思いを知ってもらわなければいけません。

 事務所に貼ったカレンダーと地図にどこを回ったか、何人と会って話をしたのか、マーカーと鉛筆で一日一日記録を付けていきました。これ以外にやれることがなかったし、候補者のなかで一番若い、体力で負けるようならダメだと自分に言い聞かせて歩き続けました。

 「政治家になりたい」と思って、誰かに相談するとします。相手から「やめたほうがいい」と言われたら、本人が悩んでいるのなら、きっと心が動いてしまうと思います。相談相手が、尊敬し信頼している相手だったらなおさらです。だから私は誰にも相談しませんでした。

当選しても落選しても、その人が責任を取ってくれるわけではありません。本気で政治家を目指すのなら、ネガティブな発言をする人を説得できるくらいの気持ちがなければ、誰もその人の名前なんて書いてくれない。「大好きなこの町をこの人に託したい」。そう思ってもらわないとダメだ、と私は思います。

■両親の離婚、大学進学断念

 私が東京都職員になったのは、決して高い目標があったからではありません。

 高校卒業当時、私は経済的な事情から大学に行くことを諦めざるをえませんでした。両親が離婚し、姉も当時通っていた大学をやめて、酒屋でレジを打っていました。もともと割と頭のよかった姉は、レジを打ちながら勉強して公務員試験に挑み、地元の市役所に1回で合格しました。それを見た私は、公務員ってそんなに勉強しなくてもなれるのかぁと単純に思いました。公務員試験について、それぐらいの知識しかなかったのです。

 高校を卒業したら働かなければいけないことはわかっていたので、進路志望に「公務員」と書きました。そのことを受け、進路指導の先生から「公務員は難しい。まず模試を受けてみなさい」と言われました。

 模試を受けてみると、三千何百人か受けて三千何番だった。当然、判定結果は最悪なもの。先生からは「民間企業へ切り替えるのなら早い方がいい」とやんわり諦めろと言われました。

 私は無理だと言われると火が付くタイプなのかもしれません。絶対大丈夫です、必ず合格します、と根拠のない自信をみせておいて、翌日から「根拠ある自信」をつくるべく猛勉強をしました。その甲斐あって無事合格。なんと受験者中3番目の成績での合格というおまけつきでした。

■東京都職員に、そして大学へ

 東京都を目指したのは、高卒で就職するなかで一番条件がよかったからです。国家公務員だとキャリア制度があって、大学を卒業して入った人と高校を卒業して入った人で出世が全然違ってくる。一方で東京都は学歴によって区別されることのない人事システムを取っていて、一定の年齢になったら昇進試験を受けることができる。

 また、東京都は国に先駆けて多くの事業を行っていたことにも魅力を感じました。だから、18歳で公務員になるのなら東京都に入りたいと思った。特に高い志があったわけではありませんでした。

 実は私は都庁に入庁するとき、面接試験で「東京都でまず何がやりたいですか」と尋ねられ、私は「大学に行きたい」と答えました。経済的な事情から諦めた大学を経験したかったのです。仕事にも少し慣れ、入学金などの準備も整った2年目、19歳のとき、大学の夜学に通うことにしました。職場の上司も勤めながら夜学に通っていたこともあり、理解してくれました。職場に迷惑をかけないこと、4年間でしっかりと卒業することを条件に法政大学法学部を受験し、地方自治を専攻しました。また、体育会のボクシング部に入り、部活動もやりました。ただ動機は不純だったかもしれません。

当時、体育科目は必修科目でした。単位を取得するためには体育の通年授業を取るか、冬期のスキー合宿等に参加するか、体育会の部活に入るかの「三択」でした。私は仕事をしていたので通年授業への参加は難しく、スキー合宿等は時間的にも金銭的にも厳しかった。そんななか、「入部すれば単位はもらえるぞ」との甘い勧誘を受けて私はボクシング部に入部しました。

 体育会の部活はサークル活動と違う厳しさがありました。練習は土日も含めて毎日。また、当時私は実家のある埼玉県三郷市から職場のある新宿まで1時間半以上かけて通勤していました。そのため、朝5時に起床、夜は大学があり残業ができないため、8時前には職場で仕事開始。ボクシング部での試合が近くなれば減量のため昼食時間にサウナスーツを着てロードワークをこなしました。大学で21時30分まで講義を受け、23時まで開いている会館で部活動。これに仕事の繁忙期と大学での試験時期が重なると心身ともに厳しい状況になります。そんな生活は続くわけもなく、帰宅途中のJR武蔵野線車内で意識を失い倒れたこともありました。

 大学2年生のときからは都内の独身寮に入ることができ、通勤時間を短縮できたことで少し負担を減らすことができ、4年間で無事卒業することができました。本当に過酷なキャンパスライフでした。よく「市長は激務で大変ですよね」と言われますが、肉体的には大学時代の方がきつかったかもしれません。

■政治家は「愛さえも得られる仕事」

 政治家は人気のない仕事だとよく言われます。人気投票で選ばれる仕事なのに人気がないなんて矛盾していると思いませんか。なんと「なりたくない職業ランキング」の上位になってしまう仕事でもあります。

 政治家は住民にとって耳ざわりのいいことばかりを言うわけではありません。特に夕張は、市民の皆さんに厳しいお願いをすることが多い地域です。「鈴木がいうならきっと理由があるんだろう」と言ってもらえるためにはちゃんと説明を続け、関係を構築していくことを積み重ね、繰り返していくしかない。