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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−136(正平一統の破断−1)

41.正平一統の破断

このころ、南朝の最高指導者は北畠親房(「神皇正統記」の著者)であった。

親房は最初から、尊氏も直義も信用しておらず、ただ南北朝合一のために利用する気であった。

尊氏が直義を追って、関東に下っている間、南朝は北朝に対して様々な要求を行っている。

12月23日に南朝は北朝に在った三種の神器を取り上げ、北朝が与えた官位は無効とした。

実質的に、これは北朝方の南朝側への無条件降伏であった。

また、天台座主や岩清水八幡宮別当なども南朝側の人物に変更し、公家の家督にまで干渉を始めた。

さらに、南朝の要求は幕府にまで及び、尊氏が任命した地頭を後醍醐天皇の頃までに戻せと、要求した。

そして、直義が鎌倉で息を引き取った正平7年(1352年)2月26日、ついに南朝軍は京を奪還するために賀名生を出発した。

 

わずか4ヶ月で正平一統は破断したのである。

 

41.1.南朝軍の京都侵攻

南朝の後村上天皇は皇居の賀名生から河内東条(大阪府富田林市)に進み、28日には住吉神社に行宮(行幸時の宮殿)を定めた。

翌閏2月6日、南朝は宗良親王を征夷大将軍に任じた。

これは尊氏が征夷大将軍を罷免されたことを意味している。

同15日、後村上天皇は天王寺に移り、19日に石清水八幡宮に入った。

これを知った義詮は使者を後村上天皇のもとに派遣して、状況を確認したが、確答しなかったという。

南朝は挙兵までの時間稼ぎをしたのである。

 

同閏2月20日、楠木正儀(楠木正成の三男)と北畠顕能(北畠親房の三男)を主力とする南朝軍が京の攻撃を開始した。

細川顕氏以下の幕府軍がこれを迎え撃つが敗退する。

わずか一日の戦闘で義詮は近江へ逃れた。

南朝方は南北朝分裂以降初めて京都を奪回したのである。

このとき、義詮は北朝の光厳(北朝1代)・光明(北朝2代)・崇光(北朝3代)の三上皇と廃太子された直仁親王を京都に置き去って、逃げている。

光厳・光明・崇光の三上皇と直仁親王は、南朝に拉致されることになる。

これは失態と云うべきもので、このことは幕府を後々苦しめることになる。

 

南朝軍は持明院の三上皇と直仁親王を石清水八幡宮に連れ去り、さらに楠木の本拠地河内東条を経て、南朝の本拠地賀名生へ送られた。

正平の一統で、北朝側の三種の神器は南朝側に渡っていたので、ここに北朝は消滅したことになる。

室町幕府の存続論理が崩れたのである。

北畠親房は17年ぶりに京都に戻り、後村上天皇から准后の待遇を与えられた。

准后とは、三宮(太皇太后、皇太后、皇后)に準ずるという意味である。

 

同じ時期、関東でも新田義貞の遺児新田義興・新田義宗らが征夷大将軍に任じられた宗良親王と共に挙兵し(武蔵野合戦)鎌倉を平定している。

これにより、一時的に京都・鎌倉の双方が南朝方の支配下となった。

 

41.2.八幡の戦い

近江へ逃れた義詮は、各地の守護の力を結集し、勢力回復を図る。

2月23日、義詮は「正平」の年号を破棄して「観応」に戻した。

義詮は「宮方合体御違変(南朝が和議を破った)」として、諸国の武士に動員令を発した。

佐々木道誉、細川顕氏、土岐頼康らに加え、足利直義派だった斯波高経らも義詮の味方となった。

義詮は近江四十九院(滋賀県豊郷町)辺りに陣していたが、3月9日に出発し京都に攻め上った。

そして西からは阿波の細川清氏、播磨の赤松則祐が京都に攻め込んだ。

3月15日、南朝軍は石清水八幡宮のある八幡に退き、義詮は1カ月足らずで京都を奪還した。

3月21日、義詮は本陣を東寺に置き、石清水八幡宮の南朝軍攻撃を開始する。

石清水八幡宮は難攻の要塞であったため、幕府軍は包囲し兵糧攻めを行った。

南朝軍は幕府軍の攻撃によく耐えたが、南朝軍を悩ませたのは兵粮の欠乏だった。

南朝軍は兵粮の欠乏で兵の逃亡が相次ぎ、ついに5月11日の幕府軍による総攻撃で石清水八幡宮は陥落した。

後村上天皇は側近とともに包囲を脱出し賀名生に引き上げた。

 

この八幡の戦いに、石見に下向していた「石見宮」も上洛して参戦するが、討ち死にする。

また「石見宮」に付き添っていた胡簶局もこの戦いで討ち死にする。

石見に、これらに関する逸話が残っているが、これは後述する。

 

 

41.4.北朝の復活

幕府は京都と鎌倉を取り戻したが、状況は以前とは全く変わっていた。

即ち、正平一統の前は、北朝が存在し光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王(皇太子)が京にいたが、この四人の主要人物は南朝に拉致されて現在賀名生に住んでいる。

また、三種の神器も南朝に奪われていたのである。

もともと、室町幕府は、光厳上皇が率いる北朝から正当性を認められ、政治を行っていた。

しかし、光厳上皇らは拉致されているため、幕府の正当性を認めてくれる天皇がいないので政治をまともに行うことができないのである。

というのも、政務の中心たるべき治天の君・天皇が不在ということは、全ての政務・人事・儀式・祭事が停滞することとなったのである。

そこで、幕府は新しい天皇を擁立し、北朝を復活させることを考えた。

南朝と手を組み、北朝を潰したり、都合が悪くなると北朝の復活を考えたり、いかにも身勝手な振る舞いである。

しかし、北朝の復活は北朝側としても望むところであった。

幕府は新天皇の候補者として光厳天皇の第三皇子の三宮を立てた。

しかし、三種の神器は南朝が持っているため、天皇の即位を工夫する必要があった。

かつて、三種の神器がない状態で即位した天皇がいた。

平安末期、平家が都落ちしたとき安徳天皇と三種の神器も一緒に都から出ていった。

この状態で即位したのが後鳥羽天皇であった。

後鳥羽天皇は、当時の治天の君であった後白河法皇の院宣によって即位したのである。

院宣があれば、三種の神器がなくても天皇を即位できるという前例があったのである。

このようにすれば、三種の神器がない問題は解消できるが、次は肝心の院宣を出す人である。

だが、治天の君となれる人物は、いま全員拉致されて南朝にいるのである。

そこで、幕府は異例中の異例ともいうべきことを行うのである。

それは、弥仁親王の祖母である広義門院が治天の君の代理として院宣を出すようにしたのである。

 

広義門院

広義門院(西園寺寧子 当時62歳)は第93代後伏見天皇の女御で光厳上皇、光明上皇の実母である。

広義門院は幕府から依頼されたが、自分の子供である、光厳上皇、光明上皇を置き去りにして、南朝に拉致された義詮に対して激怒し、一旦はその要求を拒否する。

しかし、天皇が不在となると皆が困る。

彼女は、北朝を存続させるためしぶしぶ幕府の要求に従った。

女性で事実上の治天の君となったのも、皇室の生まれでなく治天の君となったのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一である。

 

出町妙音堂「辨財天」

出町妙音弁財天(京都市上京区青龍町)のご本尊は、鎌倉時代に西園寺家の「西園寺寧子」が、第93代後伏見天皇に嫁いだ際に、持参した「弁才天画像」である。

この画像は、西園寺寧子から、その実子の光厳天皇、孫の崇光天皇を経て、伏見宮家に代々伝えられてきている。

江戸時代の伏見宮家は出町にあったので、「弁才天画像」もその屋敷内に祀られていた。

この画像は、明治時代に伏見宮家の移転に伴い一旦は東京に移されたが、出町住民の強い請願により京都に戻され、宮家の跡地に新たに六角のお堂を作って祀られた。

現在「弁才天画像」は、相国寺にある「承天閣美術館」で保管されているが、妙音弁財天の春季大祭(4月)とお火焚祭(11月)の時には、出町で御開帳されるという。

 

弥仁親王

観応3年/正平7年(1352年)8月17日、三宮(後光厳天皇)は15歳で践祚する。践祚の直前に行われた元服にて、三宮の諱は「弥仁」と定まった

​​観応3年9月27日に元号を文和と改元する。

 

 

<続く>

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