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旅日記

望洋−25(自決)

14.自決

自決に関する話を、文脈なしで述べてみたい。

戦争体験証言

沖縄県史では、地域別に戦争体験証言を集めている。

その中の慶良間諸島の戦争体験証言集の書き出しに次のような文が記されている。

 

  

この記事の最後に『慶良間諸島の戦争記録のなかには 、渡嘉敷島の集団自決の記述なども含めて 、誤記と欠落が少なくない。』と例を挙げて示している。

言わんとすることは、「伝聞などではなく、体験談などの根拠のある証言を尊重して欲しい」ということであろうか。

ところで、この証言集の中に記されている証言をみると、自決は軍の命令によった、との証言は見当たらなかった(見落としもあるかもしれないが)。

ただ、慶良間諸島の阿嘉島に駐屯していた部隊の第二戦隊長は住民を殴ったり、処刑したりしており、住民から反感を持たれていたという証言が、数件あった。

懲罰・処刑の理由は、食料の盗み、スパイ疑惑、規律違反等らしい。

 

14.1.民間人の自決

大東亜戦争では、日本側の軍人をはじめ、戦闘に巻き込まれた民間人などの間で多くの自決が行われている。

戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」という一節の影響なら、軍人だけのはずである。

かつて武士は切腹という自決の手段を教育されていたこともあり、軍人もこの影響を受けたことは理解できる。

切腹について

切腹するとは、自決することである。

では何故切腹自殺するのかというと、「武士は武勇を誇示することを信条とした。この武士が自ら自分の生命を絶たねばならぬとき、最も気力を要する切腹を選択し、勇名をはせようとした」からである。

自ら腹を切って死ぬという、自分の胆力・勇気を示したということである。

ただ切腹してもすぐ死ぬわけではない、悶え苦しみ絶命するのである。

そこで本人が醜態を見せることのないよう、背後から首を斬って切腹を手伝う者が必要になった。

後に切腹の儀礼化が進むと、介錯は切腹の一部となり、足の運びや刀の構え方などの作法も確立した。

江戸時代になると、切腹というのは、武士にだけ許された。

なぜ武士にだけ許されたかというと、武士というのは支配階級としてきちんと道徳が身についており、自分の出所進退を自分で決めることができる、という合意があったからである。

 

しかし、何故、民間人まで自決するまでに至ったのか。

やはり、捕虜となった時の虐待を畏れたのであろうか。

明治時代以前では、武士の階級以外で、集団自決した例は見当たらなかった。

海外では民間人を含んだ自決の例があり、何れも敵に攻め込まれた状況下で起こっている。

マサダの集団自決

史上初めて集団自決したのは、死海のほとりの砂漠にそびえる切り立った岩山の上に建設されたマサダで行われた、といわれている。

紀元70年ティトゥス(後のローマ皇帝)の指揮するローマ軍団によってユダヤ側の本拠地であったエルサレムが陥落(エルサレム攻囲戦)した。

だが、967人のユダヤ人集団は包囲を逃れマサダに立てこもった。

この集団には兵士だけではなく、女性や子供も含まれていた。

ユダヤ側は2年間籠城し必死に防戦したが、やがて山腹は徐々にローマ軍によって埋められ、やがて陥落は目前となった。

敗北が確実となったある日、指導者たちは集まって今後の方針を協議した。

抵抗を続ければ全員が殺され、降伏すれば全員が奴隷となるのが当時の慣習であったためみんなで自殺することにした。

73年5月2日、ローマ軍部隊が城内に突入する。

ローマ兵は死にもの狂いの抵抗を予想していたが、当然防戦する者は1人もいなかった。

ユダヤ戦記には穴に隠れていた2人の女と5人の子供だけが生きのびたと書かれている。


しかし、その後の発掘によっていろいろなことが分かってきた。

純然たる自殺ではなかったようである。

まず、家長である父親が妻子を殺した。残った男たちも順番に殺し合い、最後の10人になって籤を引いて、最後に残る1人が他の9人を次々と殺してから自殺した。

つまり、集団自殺どころか、1000人近くのユダヤ人のうち、自決したのはたったひとりということのようである。

その他は「殺された」のである。

<マサダの要塞>

 

14.2.戦陣訓

日本兵は降伏して捕虜になる選択肢は許されていなかったようだ。

当時の日本兵を呪縛したのは、昭和16年(1941年)年1月に東条英機陸相が全陸軍に通達した「戦陣訓」のようである。

『戦陣訓』「本訓 其の二」、「第八  名を惜しむ」

恥を知る者は強し。

常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励してその期待に答ふべし、生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ。

このことは米英の兵とは、対照的である。アメリカやイギリスでは一兵卒に至るまで、降伏して捕虜となれば保護されることを熟知していた。

そのため米英の軍は全滅する前に降伏するのが常であった。

例えば昭和17年(1942年)の4月に日本軍がバターン半島を占領した際、米比軍は早々に降伏し、実に7万6000人もの捕虜が出た。

日本軍の予想を大きく上回る捕虜の数に食糧の配給もままならず、やむなく食料があるところまで捕虜を強制的に移動させるよりなく、その過程で起きたのが「バターン死の行進」である。

7万6000人が自主的に捕虜となった米軍と、捕虜となることを拒絶し、レイテにて8万を超える死者を出した日本軍との違いは明らかである。

しかし、戦後日本兵が被った虐待を考えると、一概に日本兵が愚かであった、と断定できない面もある。

 

14.3.連合国軍の虐待

敗戦後日本人戦犯に対する凄まじい虐待の一面について少し記することにする。

「戦犯裁判の実相」(巣鴨法務委員会 編)という本がある。

この中で、グアムやアジア各地で行われた連合国軍による裁判の様子と日本人容疑者に対する凄まじい蛮行の限りが詳細に書かれている箇所がある。

その例を一部記す。

1.殆ど毎日、午前中はフンドシだけの姿で直立不動の姿勢を保たせ、午後は懸垂運動、跳躍運動を一同が失神するまで繰り返させる。

2.シンガポールでは戦後、イギリス将校による凄まじいリンチが待ち構えていた。オートラム収容所では、多数の日本人収容者がイギリス兵によって拷問され、撲殺されている。

3.取り調べの際には、全裸にさせられ、後ろ手に手錠をかけられた挙句、三日間一切の水も食料も与えられぬまま放置。

4.訓練と称して素足のままガラスの破片、ブリキの破片を捨てた穴を行進させた。

5.戦犯容疑者として送られてきた大佐は顔が変形し松葉づえをつきながら処刑台に上った。

上記の例は日本兵の戦犯容疑者に対するものだけであるが、その他の日本兵や一般日本人に対する残虐行為は数限りなくあるという。

また、満州におけるソ連兵の残虐さは類を見ないものであったという。

 

米兵やCIAが捕虜を拷問するという事件は現代でも起こっている。

2004年5月6日付けの「ワシントンポスト」、同年6月28日付けの「タイムズ」で、米兵がイラク兵に拷問を加えたと報じている。

日本軍の蛮行は今まで色々な媒体を通じて目にしてきたが、連合国軍の蛮行は殆ど知る事がなかった。

これは、戦勝国である故に罪に問われなかったし、指摘もされなかっただけの話であろう。

近年、ネットの情報空間が広がったことにより、情報収集が容易になった。

大手マスメディアが提供しない情報も簡単に入手できるので、疑問と思うことに対しそれなりの回答を得ることが出来るようになった。

しかし、事例としたものが、虚偽や捏造・改竄したものと、後で判った例も沢山ある。

それゆえに、ここでは、「こういう例も知られている」という意味で記載するものである。

 

14.4.アメリカ軍人の残虐性とその報道の煽り

マスメディアが、米兵残虐ぶりを大きく取り上げた出来事があった。

大戦中のアメリカの軍人は、戦死した日本兵の遺体を切断する行為に及ぶことがあり、これらの事例は日本国内でも反米意識を植え付けるために盛んに報道された。

ライフマガジン誌は昭和19年(1944年)5月22日に、アリゾナで勤労動員されているアメリカ人女性が海軍将校のボーイフレンドからプレゼントされた「日本兵の頭蓋骨」トロフィーの横で手紙をしたためている画像を配信した。

 同年6月には、フランクリン・D・ルーズベルト大統領がペンシルベニア州選出フランシス・E・ウォルター連邦議会下院議員から、日本兵の腕の骨で彫ったペーパーナイフを贈呈されたという。

日本でもこの記事が報道されると、外務省を含め、各方面から抗議の声があがった。

日本の新聞は以下のように反応した。

日本産業経済新聞 「我勇士の遺骨で戰線土産物/鬼畜に劣る米兵の正體!」

毎日新聞 「この米奴を叩き殺せ」と紹介し社説で解説

讀賣報知新聞 「見よ米鬼の殘忍」

朝日新聞 「野獣を抹殺せん/國際法以前の問題/何より勝つこと 負ければ一億がペン軸だ/      重傷のわが兵士を逆さに生埋め 血を絞られた抑留邦人/これが米鬼だ」

などの表題や見出しの記事を掲載しアメリカ兵は「野獣、野蛮、悪魔」として描写した。

また日本の各新聞や雑誌はライフ誌が昭和19年(1944年)5月22日に掲載したくだんの「女性と頭蓋骨トロフィー」の画像にも言及した。

讀賣新聞は「米鬼の蠻行はこれだ 復讐に我らの血は沸き返る」、朝日新聞は「屠り去れこの米鬼」「仇討たでおくべき」(昭和19年8月11日朝刊)等の表題や見出しをつけた。

これら日本人の遺体を切り刻み持ち去る行為は、日本の軍部やメディアがおこなった報道や反米宣伝により、日本国民にも広く知られていく。

誇張と部分的な真実が結びつき、アメリカ軍は「悪魔」「殺戮者」として描かれるようになったのである。

こうした報道は連合国軍への敵意と恐怖を煽り、捕虜になれば、残忍な仕打ちを受けると信じ込むようになった。と思われる。

 

今でもそうだが、新聞記事やテレビニュースをそのまま信じる人は圧倒的に多い。

結果的に、沖縄や連合国軍上陸後にサイパンで発生した民間人の集団自殺などにつながった要因の一つになったのではないかと思う。

 

サイパン島の集団自決

昭和19年(1944年)7月、サイパン島の居留民は戦闘に巻き込まれ、米軍に追撃されてバンザイクリフ断崖やスーサイドクリフ絶壁から飛び降りるなどして「集団自決」した。

バンザイクリフとは、​​多くの自決者が「天皇陛下、万歳」や「大日本帝国、万歳」と叫び、両腕を上げながら身を投じたことから、戦後この名で呼ばれるようになった。

平成17年(2005年)6月28日、現上皇、上皇后陛下がバンザイクリフを慰霊のため訪問された。

<バンザイ・クリフ>

満州の集団自決

昭和20年(1945年)8月、ソ連軍が満州に侵入すると関東軍は逸早く前線から後退した。

置き去りにされた満蒙開拓移民、満蒙開拓青少年義勇軍、民間人などは膨大な数にのぼり、多くの団体、家族が終戦後も続く「集団自決」に追い込まれた。

 

<米軍に追いつめられて、自決するため身を投げたという、沖縄県喜屋武岬(沖縄本島最南端)>

 

<続く>

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