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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−138(正平一統の破断−3)

 

41.3.石見の宮(2)

暦応元年/延元3年(1338年)胡簶局(やなぐいのつぼね)は、兄の三隅兼連を頼って花園宮満良親王の若宮皇子(後の石見の宮)を安全に養育しようとして、石見国三隅に連れ帰った、ことは既述した。

観応2年/正平6年(1351年)尊氏と南朝の和議が成立すると、南北朝は一時統一された形になった。

この年、この若宮は13歳になっていた。

南北朝統一によりこの若宮を中心に、これまで争っていた石見の南北両党の者が一旦仲直りすることになり、翌年の正平7年の正月元日に国府で和議が結ばれた。

 

41.3.1.石見宮の上洛

そして、若宮をお守りしていた三隅一族をはじめ、 そのほか石見国内の武将が若宮を奉じ、正月の14日に吉野へ向け旅立ちした。 

その日は、邑智郡今田村(現、江津市桜江町今田)の山神社(​​大山祇命神社)が泊りの本陣に当てられた、といわれている。

地元の人が、足がための餅を搗いて若宮のご運を祝ったという。

<大山祇命神社>

 

翌15日は旅姿も甲斐々々しく、一行は今田村を発ってなごやかな旅についた。

若宮と生母の小舞ノ典侍のお側には胡局が附添い、前後に三隅兼知・兼春・ 周布兼家ら一族が近衛に当たり、行列は五百余騎とも見られた。

一行は大貫村(江津市桜江町)へ出て坂本で江の川を渡り、牛市(智郡邑南町の廃村)を通り矢上から三坂峠を越え安芸路に入った。 

 

一行が吉野の賀名生へ到着したのは、まだ雪も深い二月半ばであった。

ところが、そのとき既に後村上天皇は、賀名生の行宮を発って京都の岩清水八幡に行在していたのである。

そこで、若宮はここで武装し、胡簶局も男装して、早速若宮の一行は直ちに京都へ発向した。

 

石見宮

岩清水八幡に行在中の後村上天皇は、甥にあたる若宮のことは兼がね耳にしていたようであった。

石見から遙ばる上ってきたことを非常に喜び「満良親王のお子かよ! 苦労されたのう」とやさしく言葉をかけ、その成長ぶりをつくづくながめた、という。

そして、「これより石見の宮と称するがよいぞ」と若宮に称号を与えた。


5月11日、北軍は佐々木道興・細川頼之・仁木義章らの数万騎が、岩清水八幡行宮をめがけて総攻撃をかけたので、南軍は混乱に陥り大くずれに敗散した。 

北畠顕能や千草顕経らが後村上天皇を脱出させるために、数万の敵前を無理に横切り、その中に若宮を守っていた石見軍もいた。

この防戦に努めていた石見軍は敵に取り巻かれ、このとき傷ついて自刃したものや討死したものが、石見軍だけで三百余人と史に記されている。

中でも、石見宮を守って胡簶局は、長い黒髪を後ろへ束ね、前金をはめた白鉢巻をきりりと結び、藤紫の直垂に萠黄の鎧を着けた出立ちは、夜空を焦がす戦火の明りにひときわ目 につく女武者とわかったという。 

臂力は並にすぐれて大薙刀を打ち揮い、寄り来る敵を斬り立て薙ぎ立 て、「若宮を守れませ!」と味方へ呼びかけ、馬を蹴立てて奮戦した。

しかし、敵の重囲にあって少年石見宮は討たれてしまった。

胡簶局も討たれてしまう。

石見宮も伯母である胡簶局も討ち死にしているのを見つけた、三浦兼顕は宮の遺髪や胡簶局、岡田則貞の遺髪を切り取り落ち去った。


「太平記」には石見の宮のことも胡簶局のことに関する直接敵な記述はないが、次のような記述がある。

さらば今夜主上を落し進よとて、五月十一日の夜半計に、主上をば寮の御馬に乗進せて、前後に兵共打囲み、大和路へ向て落させ給へば、数万の御敵前を要り跡に付て討留進らせんとす。

依義軽命官軍共、返し合せては防ぎ、打破ては落し進らするに、疵を被て腹を切り、蹈留て討死する者三百人に及べり。

其中に宮一人討れさせ給ひぬ。

四条大納言隆資・円明院大納言・三条中納言雅賢卿も討れ給ひぬ。

この討たれた宮が石見の宮である。

それは、5月13日尊氏が八幡南軍敗退の由を伊予・筑紫に告げたる河村文書に、

八幡凶徒事、
一昨日十一日夜悉没落之間、

石見宮幷四條一位隆資以下數百人或打死或生捕候畢、

於所遁御敵等重而所差遺討手也、

其境之事相觸同心之輩急誅伐賊徒等可申沙汰之狀如件、

 觀應三年五月十三日      (御判)

河野對馬入道殿

とあり、「石見宮幷(あわせ)四條一位降資以下數百人或打死生捕候畢」と明記しており、これと太平記と照らし合わせると石見宮の最後の様子が書かれてあることが分かる。


41.3.2.遺聞

笠取りの墓

その後、その遺髪を持ち帰り、那珂郡黒沢村大ヶ峠(浜田市三隅町黒沢)の西南に埋葬した。

現在、笠取の墓と称して三基の古い小さな五輪墓があるのがそれである。

通行人はこの墓前を通過するときは必ず冠物を脱いで一揖(いちゆう)の後、立ち去るのが慣例であった。

いつしか、この地を笠取というようになった。

墓の説明板は道路脇に建っており、その右横を上っていくと、およそ30m先に墓地がある。

この墓地の一画に三つの小さな五輪墓が座っている。

 

若一王子神社(石見)

浜田市宇野町に「熊野久須那比神と花園宮」を​​併せ祀っている若一王子神社がある。


境内にある石碑に次のように刻まれている。

南朝の忠臣三隅兼連公の妹、やなぐいの局等は後醍醐天皇の皇孫を土佐から石見に伴ひ帰って當地にて保育申し上げた。

石見の人々は此の皇孫を花園宮と申し上げた。

宮は正平7年(1352年)1月大和の賀名生に遷られ、京都にて後村上天皇に御目見えになり、石見宮の称号を賜ったが、南北朝の争いの為に13歳の頃、若櫻の花と散られた。

當時宮中では熊野大社の信仰厚かった故にて、御保育申し上げた人々は熊野久須那比神と共に花園宮を併せ祀ったのが、當社であると伝承されている。

昭和63年(1988年)7月の大洪水に依り、下府川改修工事のため、歴史的な社地を分断され止むなく大尾谷の魂の森を造成して、社殿其の他一切の建造物を新築造営するに到ったものである。

 

花園宮は後醍醐天皇の第十一皇子である満良親王であり、この石碑に「花園宮」と記載されている。

しかし、正しくは「石見宮」であるが、ここでは花園宮の若君という意味で使われているのではないかと思われる。

満良親王の子が、後村上天皇から「石見宮」と称号を与えられている、ことは前述した。

<笠取りの墓、若一王子神社、大山祇命神社等のだいたいの位置>

 

<続く>

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