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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−41(荘園−2)

15.2. 白河上皇と荘園

(白河天皇図)

 

15.2.1. 白河上皇の資産形成

白河上皇と荘園の話をもう少し続ける。

荘園の乱立によって皇室財政の窮乏に直面した朝廷は、たびたび荘園整理令を出し、不当な荘園の認可を取り消して、国庫収入の回復を図ろうとした。
しかし、許認可を与える貴族たちが、荘園の既得権益層であるため、うまくいくはずがなかった。

このような中、後三条天皇の後を継いだ白河天皇は、『よっしゃ、それなら儂も同じように資産形成をしよう』と考えた。

つまり、貴族たちが、法の網の目をかいくぐり、抜け道をさがして資産形成にはげむのなら、自分(天皇家)も同じことをすればよいと考えたのである。

しかし全国の土地と人民は天皇のものであると言う建前から、天皇個人資産を持てない立場であった。
そこで白河は天皇という公職を退いて上皇、つまり隠居して私人になった。そして、寺を利用するという奇計を立てた。

天皇は公人であり寺に関われば公務・国務となる。しかし上皇は私人であり、その上皇が自分の信心で寺を建てる分には政治的制約は生じないのである。

そこで白河上皇は、寺を建立し各地からその寺に荘園を寄付させて、その寺から見返りを得ることを考えたのである。要するに、宗教法人を隠れ蓑にした資産形成である。

さらに、上皇が出家して法皇となれば、自分の寺を持つことができる。
そうなると、寄進された荘園に関して何をしようが誰かに文句を言われる筋合いがなくなる。
こうして、面倒な法を改制定することもなく、白河法皇は莫大な資産群を形成することに成ったのである。

獲得した莫大な資産群を誰に相続させるかは院の胸三寸であり、必然的に皇位継承のキングメーカーとして君臨することになった。


15.2.2. 知行国と荘園

寄進などにより、荘園が増えた結果、朝廷の収入が減り、貴族達への給料の支払いが難しくなってきた。

そこで朝廷は、特定の皇族、貴族、寺社、後には武家などに律令制上の国の知行権を与え「知行国主」としてその国の収益を得させた。こういった方法は11世紀末から12世紀初めにかけて徐々に慣例化していった。

知行国主は、国司の任命権を持ち、国司の徴収した収益の一部を自分の収入とした。

国司は自分の担当する地域の税を集め、その一部を朝廷に収め、残りを自分の収入とすることができた。そして国司は税の徴収の責任者であり、暴利をむさぼることができたので、高い推薦料を払ってでも国司になりたい人は大勢いた。
なお、上級貴族は身分が高すぎるので、自分が国司になることはできなかった。


つまり、知行国制度とは「荘園の増加により不足した上級貴族の収入源を確保するための制度」ということになる。

このため公領は私領と同じ性格のものに変わっていった。

全国の荘園と公領を、あたかも私領であるかのようにあつかうこの状態を「荘園公領制」と呼ぶ。
知行国主たちは、豊かな財産をたくわえて上皇に奉仕し、それが院政の経済的な基盤になったのである。

摂関家のように同時に2,3カ国を知行する者もいた。平家全盛期には30余カ国が平家一門の知行国になったと言われている。

鎌倉幕府政権が樹立すると、関東の9か国が鎌倉殿の知行国 ( 関東御分国)となった。

室町時代に入って知行国支配の拠点であった国衙が守護の支配下に置かれると、知行国は消滅した。

 

【参考】石見国の知行国主

史料によると石見国には8人の知行国主がいたという。

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知行国主・院分国守 役職等 初見
石見 藤原為通 太政大臣(正四位下) 久安元年(1145年)1月26日
  藤原光雅 権中納言(正二位、後白河法皇の近臣) 治承3年(1179年)1月6日
  藤原宗家 権中納言(正二位) 文治元年(1185年)12月27日
  藤原兼房 太政大臣(従一位) 正治元年(1199年)7月13日
  土御門定通 内大臣(正二位) 元久2年(1205年)4月10日
  徳大寺実基 太政大臣(従一位) 宝治2年(1248年)11月22日
  吉田経藤 権大納言(正二位) 正嘉元年(1257年)11月14日
  三条実重 太政大臣(従一位) 正応元年(1288年)10月27日

 


余談だが


日本の天皇の崩御後の称号には、諡号や追号等があり、諡号はその人の高貴さや具体的な高徳を表わした美称を死後に贈るものであり、追号は宮号や陵名などを用いたものである。

諡号として国風諡号・漢風諡号の2種類がある。
当初は国風諡号・漢風諡号が奉られていたが、代わって追号が奉られるようになっていった。

一方「天皇」号は死後追号で称するものであったが、10世紀の第61代村上天皇(在位期間946〜967年)を最後に「天皇」号を追号する伝統はずっと絶えていた。

その号が復活したのは江戸時代の第119代光格天皇(在位期間1779年〜1817年)である。
復活するまでの間は「院」号を追号していた。
つまり、中世の日本では天皇陛下を「何々”天皇”」と称する習慣は無く「何々”院”」と称していたらしい。

また追号には在所号、山稜号、加後号、元号などがあり、(鳥羽、白河、嵯峨)等は在所号、(醍醐、東山、村上)等は山稜号、(後鳥羽、後白河、後醍醐)等は加後号、(明治、大正、昭和)等は元号に区分される。

 

<続く>

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