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旅日記

故郷の風景(44) 天下墓

天下墓

島根県邑南町久喜と、広島県安芸高田市のちょうど境に「天下墓」と言われる古墓があります。

   

これは室町第15代将軍足利義昭の墓と伝えられています。

何故、都から遠く離れた山間地に、将軍の墓があるのか不思議です。

 

天下墓の墓碑と祠

県道6号線(陰陽神楽街道)を広島美土里町方面から北に向かって進み、犬伏山ループを過ぎて、およそ1700mぐらい行くと、左に大きく曲がる箇所の左側に小高い丘があります。

そこに「智教寺天下墓」の説明板が立っています。

その丘への上り口に「天下墓参道」碑がありました。

<祠>

<説明板>

この墳丘は室町幕府第15代将軍足利義昭の墓所と伝えられる。
天政元年将軍義昭、織田信長と争い京都を追放され室町幕府滅亡、毛利氏を頼り備後鞆の津にきたり数年滞在の後、毛利氏とも不和を生じ出雲の尼子氏を頼って山陰に向かう途中この地に病み山陰行きを断念、智教寺を建立して住すること数年、ここにて逝去、この地の住民火葬地に墓を建て天下墓と称す。
    (文政二年国郡志書出帳生田村に拠る)
平成二年十月 
美土里町観光協会

つまり、ここは室町幕府第15代将軍足利義昭の墓所と伝わっているということです。

しかし、足利義昭は通説では大阪で死去したことになっており、次のように記録されています。

 

足利義昭について

​​天正16年(1588年)1月13日、義昭は関白・豊臣秀吉とともに参内して、将軍の地位を朝廷に返上するまで征夷大将軍であったと『公卿補任』に記録がある。

晩年の義昭は秀吉から厚遇された。

義昭は前将軍ということもあって、徳川家康や毛利輝元、上杉景勝といった大大名よりも上位の席次を与えられた。

足利義昭は慶長2年(1597年)8月、病床に伏し、病から回復できぬまま、28日に大坂で死去した。

享年61(満59歳没)とされている。

死因は腫物であったとされ、病臥して数日で没したが、老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされている。

但し『細川家記』は没地を備後の鞆としており、久野雅司は「慶長の役で名護屋城に出陣し、帰洛する途中に鞆にて病没した」としている。

 

これらの事から、「天下墓」の話は足利義昭とはどうやら無関係であると思われます。

 

足利直冬

ただ、この「天下墓」は足利直冬の墓であるという、別の伝説もあります。

ただし、足利直冬が死去したのは、足利義昭が死去する約200年前のことです。

足利直冬は、室町幕府初代将軍足利尊氏の庶子(正室でない女性から生まれた子供)です。

足利直冬とは

越前局と呼ばれる女性を母とする足利尊氏の庶子であるが、父尊氏、その嫡子義詮とは生涯を通じてほぼ敵対関係に終始した。

叔父の足利直義(尊氏の弟)の手によって還俗,その養子となり,1349年(貞和5・北朝/正平4・南朝)長門探題として下向する。

直義の失脚後も反尊氏・高師直の兵を九州に広げ、1351年(観応2・北朝/正平6・南朝)直義の勝利後鎮西探題に任ぜられた。

翌年直義が敗死後は宮方、武家方とならぶ佐殿方(直冬は左兵衛佐)として九州・中国地方に勢力をもったがしだいに非勢となり、旧直義党の石塔頼房らを頼って南朝に下った。

1354年(文和3・北朝/正平9・南朝)12月、山名時氏らとともに京都へ侵入し、足利尊氏は京を脱出して、近江に退避する。

が敗退する。

翌1355年(文和4年・北朝/正平10年・南朝)2月、足利尊氏は義詮と呼応して京に攻め込む。

劣勢となった足利直冬らは、3月中旬に京都を撤退し、直冬は西国に向かった。

直冬は文和5年/正平11年(1356年)2月5日に安芸国に入った。

直冬は安芸から石見に向かったと思われるが、日付は不明である。

石見に帰って来た直冬は、戦力回復のため石見国内における反抗者の制圧と地頭の懐柔につとめ、延文3年/正平13年(1358年)に江の川河口付近の那賀郡松山に高畑城を築き、邑智・邇摩の足利方の攻撃の拠点とした。

永和2年/天授2年(1376年)7月、石見守護荒川詮頼は、益田氏、周布氏、小笠原氏ら、吉川氏、出羽氏、福光氏らを率いて高畑城の足利直冬を攻めた。

いわゆる、江津合戦である。

南朝方は三隅氏、福屋氏、都野氏らが援護した。

戦いは直冬の降伏をもってけりがけりがついた。

遂に降参した直冬を幕府では特別に情状をもって許した。 

直冬は那賀郡都治(江津市都治)に所領を与えられ、高畑山の慈恩寺に入って剃髪し、 玉溪道昭と称し信仰の生活に入った。

応永7年(1400年)3月7日、都治高畑城中において死去した。 

法名は生前の慈恩寺玉溪道昭と諡し、高畑城 の東北に面する堂床という山腹に葬られた。 享年74であっ た。

このように、直冬は都治高畑城中で死去した、とされており「天下墓」が直冬の墓だという噂も間違いであると思われます。

ただ考えられるのは、文和5年/正平11年(1356年)2月5日に直冬は安芸国に入り、ここから石見に向かう途中に、この場所を通りこのあたりの住民と何らかの関係が生まれたのではないかということです。

将軍の子供に逢うということは、地方の住民にとって異常とも言える名誉なことだった、と思われます。

直冬の死を嘆いた住民が直冬の弔いのためにこの墓を建てたのではないか、といった妄想も湧いてきます。

 

荒神社 (広島県安芸高田市美土里町生田)

近くに荒神社という神社がありました。

毎年10月に神楽が奉納されるそうです。

 

ついでながら

戦国時代この辺りは石見高橋氏の所領で、領地争いなどを繰り返していたようです。

高橋氏の領地は、石見国邑智郡の阿須那・出羽、安芸国の北半分、山県郡の東部にまで及び、巨大なものでした。

   

しかし、巨大な勢力を誇っていた高橋氏も、戦国大名にはなれず没落していきます。

永正12年(1515年)に当主の高橋元光が加井妻城(三次市粟屋町)を攻撃した時に討ち死にしてから、その勢力は秋の日暮れのように急速に衰えていったのです。

そして、終に、享禄3年(1530年)毛利元就に滅ぼされます。

高橋氏嫡流滅亡後は、庶流家が毛利氏の部将・出羽氏に属し、関ヶ原合戦後の毛利氏国替えにあたって、大林郷(邑智郡邑南町)に郷士として土着、江戸時代は大林の庄屋として続いたといわれています。

 

<完>

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