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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−119(南北朝動乱・石見編−10 豊田城の戦い)

36.南北朝動乱・石見編

36.4.戦線の拡大

36.4.7. 豊田城の戦い 

建武4年/ 延元2年(1337年)4月の北朝軍の三隅城の侵略は不成功に終り、その余波で美濃の横山城の争奪戦が起こり、美濃は不安定な状況に陥っていた。

暦応元年/延元3年(1338年)、8月11日に足利尊氏は、光明天皇から征夷大将軍に任ぜられ、名実共に室町幕府が誕生した。

実質的には、その2年前の建武2年/ 延元元年(1336年)九州から上洛した尊氏が「建武式目」を制定した11月7日に始まったとされている。

石見北朝軍の大将上野頼兼に、京都から石見平定の檄が飛ぶ。

北朝の石見守護上野頼兼は戦力の養成と拡充を図った。

1年後の暦応2年/延元4年(1339年)10月、上野頼兼は内田到景が守備する美濃郡の豊田城を攻撃する。

 

内田致景(むねかげ)

石見内田氏は遠江国内田庄を発祥とし、承久の乱後、内田致茂が新甫地頭として石見国長野荘内豊田郷を宛がわれている。

承久の乱に勝利した鎌倉幕府は、後鳥羽上皇方から没収した所領3,000余か所を御家人に与えた。

いわゆる新補地頭であるが、内田氏も貞応元年(1222年)に承久の乱の勲功の賞として、石見国貞松郷と豊田郷(島根県益田市)の地頭職を給付された。

また、嘉禎2年(1236年)6月内田致茂は致員に領地を譲り、鎌倉政所の認許を得た書状が残っている。

(内田才右衛門蔵)
将軍家政所下    致員
可令早領知石見國豊田郷田畠在家地頭職之事
右人任父致茂今年六月日譲状、可領知之状所仰如件、以下、
嘉禎二年十二月十五日    安主左近将監
令左衛門少尉藤原
別當修理権大夫兼相模守平朝臣
武蔵守平朝臣

しかし、石見国美濃郡の豊田郷等を得たが、内田氏の活動の拠点は遠江国内田庄下郷にあり、その石見国への本格的入部は致員の孫朝員が内田圧下郷を嫡子致景に譲って移住した14世紀初頭の頃である。

西遷御家人といって、鎌倉時代後半から南北朝期にかけて、東国の本領を離れて承久の乱で得た西国の所領に本拠を移す御家人が現れてくる。

駿河国から安芸国に移った吉川氏、遠江国から肥後国に移った相良氏などがそれであり、内田氏もその例である。

石見内田氏は致茂-致員-致親-致直-朝員ー致景- 致世と続き、致景の代に豊田城を築いたとされている。

益田市誌に内田致景に関して次のような記述がある。

1.内田致景は、新田義氏の配下で戦っていた。

2.建武3年4月8日新田義氏が官軍を率いて三河へ「乱入」した際、内田致景も参戦したという。

3.その後、石見国に移り豊田城を本拠とし、勤王の義旗を高く掲げ、地方の士気を鼓舞作興した。


上野頼兼の豊田城攻め

暦応2年/延元4年(1339年)10月13日上野頼兼の命を受けた吉川経明は、豊田城を攻めた。

北朝軍は豊田城を、昼夜の別なく戦をいどんだ。

しかし、致景もまた防戦に努めて、容易に屈することがなく、攻防戦は続いた。 

十月十三日、頼兼とその配下の吉川経明が豊田城に肉薄し、抜群の奮闘をしたことは、彼の軍忠状に見えている。 

(吉川家什書)

吉河太郎三郎経明中軍忠
右今月十三日押寄石見國豊田城(内田公藤三郎構之)合戰之時、致軍忠畢、此子細上野四郎殿御見知之上者、給御判欲備後證、仍(よって)言上如件、
     暦応二年十月 日
                    承了 花押 (上野頼兼) 

 

(軍忠状とは)

軍忠状とは戦功を記した書状で、戦闘終了後の、大将と武士双方の証拠補完のために採られた手続きである。

武士にとって最も重要なことは、命がけで戦った、戦功を認めてもらうことであった。

蒙古襲来の頃までは、大将に口頭で申告し、そばに控える執筆人がそれを文書にして鎌倉の侍所に報告し、将軍の耳に達するという方法をとっていた。

しかし、南北朝時代になると軍忠状とよばれる自分の戦功(軍忠)を申告した文書によってその認定が行われるようになった。

軍忠状には所属した指揮官名、合戦の場所と日時、自分の戦闘を確認した証人と戦功の具体的内容を記して申請した。

敵の首をとる分捕りや生け捕りのほか、敵陣に最初に突入する先駆け・討死・手負いも重要な戦功であった。

軍忠状を提出すると、実検帳にその内容が記され、確認の証判を与えられ本人に返却された。

 

豊田城を簡単に攻略できないと悟った頼兼は、ついに長囲の策を取り、膠着状態となる。

頼兼は大軍をもって豊田城を攻略するため、援軍の招集を始めた。

 

北朝軍、豊田城を包囲する

翌年の暦応3年/延元5年(1340年)7月3日上野頼兼は、高津川を渡り、豊田城から遙かに隔てた円嶽山に陣を張った。

北朝軍の援軍が次々に到着する。

7月13日に長門の三井孫五郎資基が到着し、25日には周防の主護代土屋定盛の軍も着いた。

さらに、8月3日には周防の平子親重・時重の親子、長門の守護代但馬守弘貞などが着順した。

安芸・長門・周防の精鋭が到着して配陣し、豊田城を包囲した。

在地の益田兼見一族も参戦したので、豊田城は孤立状態に陥ることとなった。

8月13日には、益田兼見は豊田城下に迫り合戦に及んでいる。

 

南朝軍の援軍

豊田城の危急を知った高津長幸は、石見国司日野邦光・新田左馬助義氏・在地の豪族吉見八郎頼基・津野神主・周布兼宗・三隅兼連らに激を飛ばして、豊田城の危急を告げ、即時に石見の南朝軍を糾合した。

8月18日南朝軍は、大挙して敵の虚をつき豊田城の窮状を助けた。

続いて同日夜も、北朝軍を後巻きにして奇襲した。

この夜襲戦における、双方の死傷はおびただしかった。 

中でも高津長幸の子二郎三郎の奮戦ぶりは、敵味方の区別なく絶賛の的となった。

しかし、二郎三郎は敵方に生けどりにされ、殺されてしまう。

上野頼兼の北朝軍は、一旦豊田城下を退き、豊田原に退陣し、さらに隅河に陣を移した。

この役に関して次の軍忠状がある。

(長門益田家文書)

石見國御神本孫次郎藤原兼躬(兼見)申軍忠事

右今年七月六日、爲追伐當國凶徒、大将軍御發向之間、令御共仕、於丸竹山御陣、致日夜警固畢、同八月十三日、押寄豊田藤三郎致景城、及合□□□、同十八日夜、日野左兵衛佐國光、高津與次長幸以下凶徒、爲後巻寄來之間、翌日於大手致度々□□□追落畢、同日馳向高津城、於山手捨一命抽忠節、□□□田御陣致警固忠切畢、如此所々軍忠之段、侍所松田左近将監令見知之上者、賜御一見状、爲備後證、恐々言上如件、
      暦應三年八月廿七日
                        承了  花押(上野頼兼)

​​(長門三浦文書)
周防國仁保多々良兩庄一分先地頭平子孫太郎親重申軍忠事、
自最初屬御手、去八月十八日、令發向于石州豊田城、小山陣取之處、御敵日野左兵衛佐、高津與次豊田公藤三郎以下凶徒等、夜討寄來之間、捨身命致合戦、同十九日、自山手御敵追拂畢、其後豊田原取陣、致夜縮警固之處、同十月十五日夜、彼城内之凶徒悉責落畢、如此致忠勤之條、後見知之上者、賜御一見状、爲備後證之龜鏡、恐々言上如件、
    暦應三年十月 日
                    承了  花押(但馬権守)

豊田城の陥落

上野頼兼は円嶽城を下り、再び豊田原に陣を張り、最後の雌雄を決しようと攻勢に出た。

南党もまたこれに応じて強く陣を張った。

両軍は対陣数日にわたって激戦を交えたが、北党軍は次第に南党軍におされ、一旦陣を払って高津川を渡り、隅河まで退却せざるを得なくなっ た。

こうして川を隔てたまま両軍は持久戦に入り、対陣すること二ヶ月が経過する。

この間益田兼見の軍の一部は、高津長幸が立て籠もる高津城の攻撃を攻撃している。

10月に入り兵力を増した頼兼は、再び豊田城を攻めたて、10月15日、終にこれを攻略した。

包囲戦二ヶ月に亘る苦戦の後であった。

これにより西石見における南北両党の大勢が決定した。

豊田城の陥落後、石見南朝軍の諸将は急ぎ各々の自城に帰り、北党軍の守りに備えた。

同23日平子彦四郎重嗣は南朝軍を追って須子原に陣をとり、益田兼見の軍と共に高津城の攻略に向う。

(長門三浦家文書)
平子彦三郎重嗣軍忠事、

去七月廿五日、差進周防國守護代土屋四郎左衛門尉定盛於石州之處、相副重嗣代官平子彌九郎時重、八月三日、馳参大将軍左馬助殿御陣圓瀧、令警固所々役所、同十三日、取巻豊田公藤三郎城之刻、重嗣相加弘員令發向、同十八日夜(丑刻)、日野左兵衛佐、新田左馬助、高津餘次以下凶徒等、爲後巻致夜討之處、重嗣致随分合戰追拂之、生捕高津次郎三郎、則誅伐候畢、次取陣于豊田原、経數日取移隅河之陣送両月、到連々合戦、固水通過、抽夜措以下之忠、
中間彌四郎被疵、十月十五日、攻落凶徒等、同廿三日、發向高津取陣干須子原、至于今致拔群之軍忠候、此條若僞申候者、八幡大菩薩御罸於可罷蒙候、以此旨可有御披露候恐惶謹言
   暦應三年十二月十二日        但馬權守弘員(裏花押)
進上 御奉行所

 

豊田が落城して、 稲積城も風前の灯となった。

 

 

<続く>

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