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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−194(戦国の石見−4(続き−4))

戦国の石見−4(続き−4)

61.4. 尼子・毛利の対決

61.4.1.元就小早川・吉川 両家を掌中にする

小早川家

当時安芸の小早川家は分かれて、本家沼田小早川は正平、分家竹原家は興景が当主となっていた。

天文9年(1540年)尼子晴久の吉田攻めの時、小早川興景は本家の正平が病気であったので代わって出陣した。

この戦で殊勲をたてたが、 天文10年1月、元就に従い尼子与党の佐東銀山城(広島市安佐)を攻撃中に、病にかかり陣没した。

また、小早川正平は天文12年、 大内義隆の富田攻めに従軍し、総退却の際に鳶巣川(平田市美談町西谷)で壮烈な最後を遂げた。

 

竹原小早川家では興景没後、嗣子がいなかったので、毛利元就の三男隆景を迎えて後嗣とした。 

天文13年、隆景12歳をもって竹原に入城した。 

一方、沼田小早川家では正平の子繁平が家を嗣いだが眼疾にかかり仏門に入った。

そこで、家臣が協議し隆景を竹原に迎え、繁平の妹と婚せしめて家督を相続させることにした。 

吉川隆景は、天文20年(1551年)19歳で沼田本郷の高山城に入り、小早川本家を相続、鎌倉時代以来両流に分かれていた沼田・竹原両小早川家はここに併合されることとなった。

<小早川隆景>

 

 

吉川家

安芸山県郡大朝新庄の吉川家では、当時攻城野戦の勇将であった吉川興経が当主であった。 

吉川興経は天文10年(1541年)の郡山合戦では、尼子方に陣した。

吉川氏は大内氏に対し詫びを入れ、恭順な態度を示し大内氏陣営への復帰と当知行安堵を懇願した。

翌年天文11年に大内義隆は大朝、新庄、北方・寺原(北広島町)の知行を安堵した。


天文12年(1543年)の大内義隆の広瀬富田城攻めには、大内軍に加わって進発した。

しかし、天文13年4月、吉川興経は三沢為清、三刀屋久祐、本庄経光等と寝返り富田城に駆け込んだ。

この寝返りにより、大内軍は全面撤退することになり、毛利元就も惨めな退却を余儀なくされている。


出雲国から帰国した大内義隆は吉川興経の伝来の所領を、すっかり元就に与えた。

大内氏による吉川家没収・取り潰しであった。

しかし、元就は大内氏にとりなして、興経が吉川氏当主として富田月山城から帰国することを許した。

おそらく、これは留守をし行政の実権を握っていた興経の叔父吉川経世と、宿老森脇祐有から懇願されたためであろうと思われる。


当主興経を補佐・後見する「隠居」の祖父国経が健在であった当初においては、毛利元就の妻となっていた国経の娘(興経の叔母)を通じて毛利氏と協調し、毛利氏による吉川氏の吸収・併合を防ぎつつ、近い将来における処分撤回を求めていたと思われる。


しかし、天文13年(1544年)に国経が死去すると、興経は、毛利氏と決裂し尼子氏方の旗幟を鮮明にして、郡山合戦の戦後処理の一環で奪われた与谷城に替わる山県表侵攻の拠点として日山城を築き入城する。

国経の死により権力を一元化した興経は、大朝新荘と山県表との境目にある火野山に築城することによって、山県表で勢力が拮抗する毛利氏を攻撃する意思を表明したのである。


これに対し毛利元就は、吉川家の実効支配に向けて乗り出す。

事前に陶隆房を通じて大内氏に伺い、同意を得ると、妻を通じて吉川経世(国経の三男、興経の叔父)と交渉する。

程なく元就の妻は死亡するが、吉川経世らは父国経の遺志を継ぎ、毛利氏との協調路線を進むべきとして反興経の立場を取り、与谷城を拠点として毛利元就の次男元春を擁立する。

こうして吉川家中が分裂したのである。


毛利元就の次男元春が吉川興経の「養子」となる契約の交渉は、天文15年(1546年)に始まり、翌年2月11日以前に内定していた、という。

しかし、肝心の興経の隠居所や隠居分は定まらないままであった。

天文16年7月、毛利氏は、起請文を興経に提出した。

その内容は、次のとおりであった。

①元春の新庄居住(日山入城)と興経の「愚領御出」(毛利氏領移住)の要求
②興経の「御隠居分」として「所帯」を与えること、その「所帯」は「興経御一代之後」に「千法師殿」へ与える。
③「防州」(大内氏)や「備後」(山名氏)に身柄を渡さない。

興経は、同月19日付けで、「元春契約」(元春の家督相続=日山入城)と引き換えに「御領中居住」(毛利氏領移住)を約束し、「元春・隆元・ 元就」に対しいささかも「別儀悪心」を抱かないことを起請文で誓っている。

 

しかし、興経は天文16年の「興経元春契諾」締結後も下城せず、約二年半にわたり日山城に居座っている。

天文18年(1549年)3月、元春は弟の小早川隆景とともに父毛利元就に連れられて周防国山口を訪問し、5月まで滞在する。

元春の吉川家相続と隆景の竹原小早川家相続について、大内氏から承認を受けるためである。

4月22日、元春は「吉川家督」を認められるとともに、吉川氏家督の官途である「治部少輔」の任官を推挙された。

大内氏によって取り潰された安芸国衆吉川家であったが、このとき「復活」を果たしたのである。

漸く天文19年2月、元春は、福原元正・桂元貞ら36人の家臣を従えて日山城に入城した。

そして深川(広島市安佐北区)より出向いた興経から吉川領の引継ぎを受けた。

<吉川元春>

しかし、毛利家の吉川家家督相続は、これだけでは終わらまかった。

毛利元就は9月、熊谷信直・天野隆重らをして深川に興経を急襲させた。

興経衆寡敵せずついに三十三歳を一期として壮烈無念の最後を遂げた。

後嗣千法師も殺され、近臣すべてこれに殉死した。 

 

興経の最後は妻の縁につながる小笠原長雄にとって大きな衝撃であった。

それから8年後の永禄元年、小笠原長雄が尼子を背景に元就と一大決戦を展開する要因の一つになっていた。

元就による小早川・吉川両家乗り取りの「武略」はここに終了し、さきの高橋家横領とともに安芸一国の統一事業はほとんど完成の域に達した。 

しかもこれら三家がともに毛利家と深い親戚関係にあったことは興味深い。

高橋興光の 姉は元就の兄興元の妻、 沼田小早川の繁平の妻は興元の娘、 吉川家では興経の母は元就の妹であり、 元就の妻は興経の叔母であった。

 

<毛利・吉川・小早川・小笠原家婚姻関係図>

 

 

余談

吉川元春は、元就の次男である。

長男は毛利隆元、三男は小早川隆景。

元春は14歳で元服したが、元服前の11歳の時に初陣に出ている。

元春は、自分の嫁は自分で決めると言って、家臣の熊谷信直の娘を嫁にした。

しかしこの娘がいわゆるブスだったらしい。

なぜブスの娘を嫁にするかと聞かれた元春はこう答えた。

「女は顔だけじゃない、 家の中をまとめてもらうのに顔は関係ない。

美人だったら浮気とか家臣の視線とか気になるが、不美人だったらそんなことはない。

信直も『ウチの娘はブサイクって言われてるから、嫁の貰い手がないんじゃないか』って心配だろうし、そこでオレがもらえば喜ぶだろ。

そして元春は生涯側室を持たず、4男2女の子宝に恵まれた。

一説によると元春の妻(新庄局)は幼少期に疱瘡(天然痘)に感染したことがあると言われている。

疱瘡はあの伊達政宗や山本勘助の目を奪い、顔に醜い後遺症をもたらす病気であった。

その後遺症で顔にブツブツと痕が残ってしまい、不美人になったともいわれている。

元春の兄の隆元が亡くなった後は隆元の息子輝元を支えて守りたてた。

時を経て、毛利家が秀吉の臣下になった時は「俺はあんなサルに仕えたくない」と言って隠居した。

元春は戦が強かった。

生涯の戦の通算成績は74戦64勝12分けと言われている。

陰徳太平記に元春が熊谷信直の娘を選んだ経緯が記されている。

古今東西の例を示して、容貌に拘ってはならないと元春に云わせている。

ただし、この部分は、「陰徳太平記」の作者ではる香川正矩の創作又は誇張したものと思われる。

 

陰徳太平記 巻十六 元春娶熊谷信直之女事

毛利元就、児玉三郎右衛門就忠を召して、吉川伊豆守、森脇和泉守より、元春妻女の事を願う。
誰やの人の娘かと婚姻を結ぶべき。
好きたぐいもかなと思案を回らすに、指当
(さしあた)りて思い設る所なし。
汝先ず元春の内意を聞き伺い候へと宣ひければ、就忠畏って、軈て元春へ参ってかくと申し上げれば、元春聞き給ひて、吾が妻女に望み無し。
兎も角にも元就公の仰せにこそ従わしめ。
去乍
( さりながら )吾が心に任すべしと御内意を承る上は、脳裏を残すべきにはあらずが、吾望むところは、熊谷信直の嫡女なり。
就忠承って仰せの趣き元就公へ申すべきにて候。
去乍信直の嫡女は世に又なき悪女
(醜女)也と承り及びて候。
若し御容色の聞きし召し及ばたらんに、近劣りし
(近くで見ると遠くで見るより劣って見える)給ひなば、御後悔や候べきと申しければ、元春にこっと笑って、吾彼れが容貌美麗なりと聞いて望むように思ふらんこそ、就忠が心も恥ずかしけれ。
其れ一家一国をも治めん者は、第一に慎むべきは、好色なり。
書に曰く、不邇聲色
(顔色に出さない)、礼に曰く、飲食男女は、人の大欲存すと云へり。
蛾眉の性を伐り、牝鶏の家をつくす​​、徃聖古賢の戒める所なり。
夏桀王、周幽王、陳皇后
(前漢武帝の皇后)、唐玄宗皇帝、その他美色の為国を亡ぼし、国を乱りし例、不可勝計(例が多くて数え切れない)近く。
本朝を引かば、平清盛は常磐を愛するに因りて牛若を誅せざりしかば、終に一門の滅びをなし、新田義貞は、勾当内侍の寵に溺れて西国発向を延引きせし故、尊氏に戦負けたり。
上一人、下諸臣万民に至るまで戒むべく恐るべくは、この一つの惑なり。
我元就の二男と生まれし​​造次顛沛
(ぞうじてんぱい:僅かな時間)にも武事の志に怠らず、仮令(たとえ)攻取戦勝の功勲を建て当世の諸将に独歩の名を得るとも、厳君(父君)に比せば猶雲壌の差や有るべき。
楠正儀は其時勇将と聞こえし、細川清氏、桃井直常等には、十倍せりと誉を得しか共、父正成に準ずれば、尚を未だ半徳にも及ばずと。
人嘲哢す、とかや。家君の武徳は正成に前歩を恥じず。
(われ)豈に彼の正儀に企(つまだて)及ばんや(つま先立っても(背伸びしても)及ばない)
予頑愚也とても、何ぞ負荷の思いを浅くせんや。
今信直が娘を望むは全く容顔嬋娟なるを以てせず。
(かれ)が形色の黄頭黒面孔明が婦にも過ぎ、傍行傴姨、登徒子が妻にも越えたりときく。
されども心行は容貌に因らず。
鍾離春、斉の宣王の后となりて国収まり。
孟光、梁鴻が妻と成って礼儀あり。
信直が嫡女、形醜ければ、人是を娶らず父の嘆き又何許
(いかばかり)ぞや。
然るに今、予是を嫁せば信直吾が志を感悦して、世の人の聟よ舅よと珍重
(もてはやす)に百倍せんか。
左あらば信直この志を報ぜんに、争でか身命を抛たざらん。
中国に信直に勝る士
(さむらい)大将なし。
予是を伴って元就の先陣に進まば、如何なる強敵大敵たりとも、などか挫
(とりひし:くじける)がではあるべき。
然らば元就の武徳に於いて、髄骨をこそ得ざらめ。
皮か肉かは争か得ざるべき。
信直無二の忠志を励まれなば元就の御弓聖日を逐うて盛んなるべき事、掌をさして覚えたり。
これを思えば悪女を嫁せん事、父に対して孝なり。
又身を立て武名を発すべきともなるべし。
何ぞ色を好み情に酖りて、婦女の擇
(えら)みをば成すべきやと有れば、児玉、この一言を聞いて、かかる大丈夫の志気ましますをば露ばかりも存じ候はで、徒事を申しつる事。御心裏誠に恥ずかしくこそ候へ。
げにや公は天の縦
(ゆる)せる大丈夫の器にて渡らせ給う。
斉の閔王は宿瘤が一言を以て賢女として后と為し給ひしかば、期月の間に化を行い、諸侯之に朝し、三晋を侵し、秦楚を懼
(おそ)れしむ。
公も信直の息女を嫁し給はば、賢女内を輔けて家事を治め、勇士外に従いて戦功を盡さば、武名を扶桑六十余州に震い給はん事、何の疑か候べき。
元就公もこの金言を聞き召しされば、如何許りかは悦ばせ給べき。
急ぎ云々の趣き申し候はんとて、立ち帰って元就へかくと申しければ、最も神妙なる志也。
この一言毛利・吉川両家の弓矢益々盛になるべき前表也。
元春は竹馬に策
(むちうち)し時より、龍駒鳳雛の器ありと思いしが、愚眼毫髪も違はざりけりと、大きに悦び給ふ、軈て信直の息女元春へ嫁娶の儀宣いければ、信直斜めならず喜び、婚姻の祝儀をぞ執り行はれける。
元春の宣いし如く是より信直元春に対し身命を惜しまず戦功を励しける故、勇将の名衆群の上に在って、遠くは先祖吉川駿河守経基、鬼吉川と唱えられし蹤
(あと)を追い、近くは実父元就の明将の名を継ぎ給うぞ有難き。

 

<続く>

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