36.南北朝動乱・石見編
36.4.戦線の拡大
36.4.6. 石見に来た新田の武将たち(続き)
36.4.6.2.渡利新左衛門忠景
渡利新左衛門忠景とは、延元2年正月、敵に包囲されている越前金ヶ崎城に、後醍醐天皇の勅書を届けようと、海側から泳ぎ城にたどり着いた亘新左衛門忠景のことである。
「南北朝石見軍記」によると、渡利新左衛門は遠矢の名人で市山城合戦でも活躍したとある。
この渡利は、江津市桜江町川越の渡地区に居を構えたという、伝承があった。
ただし、今はこの伝承を知る人は殆どいない。
桜江町発行の「さくらえの民話」にこの渡利新左衛門の話が載っている。
「渡の由来」
渡という集落がありますわねえ。
新田義貞がおったでしょう。 南北朝時代に。 その新田義貞が死にますわね。
こんだ宮方に追われて、船で日本海をこう、こっちへ来るですわねえ。
ところが、今度は出雲へ降りるんです。 石見へ着くんですねぇ。
あちら(出雲)が武家方だからそいで石見のこっちの方は宮方が多かったから、ほいで(だから)ここに着くんだ。 江津のとこへ。
ほいで着いて、家来がたくさんおるんですよねえ。
その家来の中に渡新左衛門というのがおるんよね。
渡新左衛門は、ここへ来とる。そいで(それで)、ここへ渡城を作った。
そいでこのあたりを治めとったいうて。
そいで渡という姓があるということだね。
そいで、渡集落という名前も、あの人から出たんだろうてのが一つの説になっとる。
また「桜江町誌」に
文和3年/正平9年(1354年)、足利直冬が上洛する時に、亘新左衛門が住んでいた渡村に立ち寄った、という下りがある。
・・・・
直冬が石見を発して上洛したのはその翌年のことである。
彼は上洛の途次、新田義貞の旧臣で当町渡村に住居していた亘忠景を思い、ここに陣して川本の温湯城攻めを敢行することとし た。
温湯城には武家方の雄小笠原長氏が居住して勢力を張っている。
当時は尊氏から任命されて赴任した石見守護荒川詮頼もこの城中にあったのである。
直冬の本隊は那賀郡今市から井原を通って進軍する別動隊と連絡して、攻撃をかけてこれを降略した。
さらに山陰路を進み、因幡・伯耆の守護山名時氏に迎えられて丹波路から京都に攻め入っ た。
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この川越渡地区に城跡と思われる遺跡は発見されていないが、城、城館(屋敷跡)などに関すると思われる字名は3箇所ある。
それは「下城」、「下城山」、「矢城田」で、川越と牛市の間にある山岳地域である。
「南北朝石見軍記」では、この亘新左衛門は和2年/正平7年(1353年)に、新田義氏たちと石見を去っていった、と記述している。
新田神社
神奈川県川崎区渡田の新田神社の境内に新田義貞の像と亘新左衛門の墓(五輪塔)がある。
義貞討ち死に後、亘新左衛門源早勝が、義貞の「差添の名剣」「七ツ入子の名鏡」「錦の陣羽織」の3種の遺品を持ち帰り、供養して義貞を祀ったと伝えられている。
36.4.6.3.奥野弾正景秀
奥野弾正景秀に関する資料は「南北朝石見軍記」以外、全く見当たらなかった。
「南北朝石見軍記」には、奥野弾正景秀は、石見に来てから、邑智郡の青杉城主の佐和顕連の客将となって信貴(邑智郡美郷町信貴)の出城に住んだとある。
そして、観応元年/正平5年(1350年)に、北朝側の高師泰が青杉城の攻撃を始めたとき、奥野景秀は佐和顕連たちと防戦する。
奥野景秀は鼓ヶ崎城(邑智郡美郷町明塚)で敵を迎え撃った。
また、この戦いで、景秀は三吉兼範と一騎打ちをした(決着はつかず)、とある。
なお、この三吉兼範は三次の比叡尾山城主である。
36.4.6.4.瓜生源林
瓜生源林は瓜生保の弟と云われている。
弟の名前は、義監、林(源林)、重(しげし)、照(てらす)である。
但し、「太平記」には義監、重、照の名前は出てくるが、林の名は出てこない。
一説には瓜生源林は瓜生保らの伯父と云われている。
源林の詳細な経歴は不明であるので、保の経歴を述べる。
瓜生保は、日本の南北朝時代の越前国(福井県)の武将である。
保は一時、足利方として、新田義貞と戦うが、弟たちは新田方に属する。
その後、保も新田方となり、弟たちと合流する。
建武3年/延元元年(1336年)に3人の弟(義監、重、照)と越前杣山城で脇屋義治を擁して挙兵する(源林の名前はない)。
翌年金ケ崎城の新田義貞を救援にいく途中、今川頼貞と戦い、保と義監が戦死した。
その後の生き残った弟たちの消息を示す資料は見当たらない。
「南北朝石見軍記」には、貞和2年/正平元年(1346年)に北朝軍が那賀郡の都野氏を攻めた時に、瓜生は畑、渡利と共に都野氏を援護したと、のみある。
結局、「南北朝石見軍記」に書かれている義氏に同行して来たと云う武将たちが、「太平記」等に描かれている人物と同一である、という裏付けは見つからなかった。
ただ、義氏も何らかの武将を連れて、石見に来たと思われるので、便宜上「南北朝石見軍記」で書かれている名前を使って、石見の動乱の話を進めていきたい。
<続く>