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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−189(塩冶興久の乱)

60.4.塩冶興久の乱

塩冶興久は尼子経久の三男である。

興久は、出雲源氏の嫡流である塩冶氏の養子となり、塩冶興久と名乗った。

経久は、興久に3000貫の領地を与え、米原小平内、亀井利綱(新次郎)今岡彌五郎を執事として塩冶の古城を修めてこれに居らしめ以て国の西部を治めさせた。

だが、興久は領地の寡少なるに快からず、領地の加増を経久に請うた。

この事がきっかけとなり、興久は経久に造反するのである。

 


60.4.1.塩冶氏

塩冶氏 は、宇多源氏佐々木氏流で、近江源氏の分流出雲源氏の嫡流である。

隠岐・出雲の守護佐々木泰清弘が安元年(1278年)頃、出雲国守護職を三男・頼泰に、弘安5年(1282年)頃、隠岐国守護職を次男・時清にそれぞれ相続させた。

頼泰は出雲国神門郡塩冶郷(出雲市塩冶町)に大廻(おおさこ)城を築いてここを本貫地とし、地名を取って塩冶左衛門尉を称した。

これが塩冶氏の始まりである。

 

鎌倉末期の元弘3年(1333年)、塩冶高貞のとき後醍醐天皇の討幕運動に参加、のちに佐々木道誉とともに足利尊氏に寝返った。

室町幕府が開かれると高貞は出雲、隠岐両国の守護職に任じられ家門の隆盛を見た。

だがその後、暦応4年/興国2年(1341年)3月24日、高貞は京都を出奔し、尊氏の弟である足利直義から謀反の疑いありとされ、桃井直常・山名時氏らによって討伐されて塩冶氏の嫡流は没落した。

しかし高貞の弟塩冶時綱は生き残り、子孫は出雲国奉公衆として存続した。

奉公衆:室町幕府が整備した幕府官職の1つで、将軍直属の軍事力

この出雲国奉公衆塩冶氏は塩冶貞慶の時、一族の内訌が生じて尼子経久の介入を受け、経久の三男尼子興久を養子として押し付けられる形で尼子氏に乗っ取られるのである。

 

60.4.2.塩冶興久反乱する

享禄3年(1530年)、興久は父・経久に対して反乱を起こす。

『陰徳太平記』によれば、所領加増が認められなかったために反乱を起こしたとあるが、連年に渡る遠征に伴う国人領主の負担への反発などがあったとされている。

この時に興久は出雲大社・鰐淵寺・三沢氏・多賀氏・備後の山内氏等の諸勢力を味方に付けており、大規模な反乱であった。

興久は大内氏に援助を求めており、又経久も同じ時期に文を持って大内氏に援助を請うている。

大内氏は両者から支援を求められるも、最終的には経久側を支援しており、尼子氏と和睦している。

この反乱は天文3年(1534年)に鎮圧され、興久は備後山内氏の甲山城に逃れた後、甥である詮久の攻撃等もあり自害した。

その後首検証の為、塩漬けにした興久の首を尼子側へ送っている。

興久の遺領は経久の次男・尼子国久が継いだ。

月山富田城跡地に尼子(塩冶)興久の墓がある。

案内板には次のように書かれている

尼子興久の墓
興久は経久の三男である。
原手郡七百貫の領地がもらわれなかった為に、天文元年八月父にそむき、敗れて妻の父備後胄山城主山内大和守直通にたよったが、天文三年自殺した。
年三十八歳であった。


60.4.3.陰徳太平記(尼子経久、塩冶興久不快のこと)

陰徳太平記には、尼子経久と塩冶興久が不仲となる次第から塩冶興久が自害するまでを描いている。

原手郡の領地を拒絶された、興久は、謀反を企み、それを股肱の家臣に二人に打ち明けた。

二人は中国や、本朝の逸話などを挙げてこれに反対した。

だが、興久は、「ならば死ぬまで」といって引き下がらなかった。

興久の思い詰めた強い決意を悟った二人は、命を捨てる覚悟で興久に従うことを、決めるのであった。


陰徳太平記 巻第七 
尼子経久、塩冶興久不快のこと

尼子伊予守源経久と三男の塩冶宮内太輔興久の関係は良くない状態で、父子間で怒りさえ抱く様になっていた。

それの始まりは、興久が雲州原手郡(出雲市斐川町)七百貫を領せんと思った事から始まる。

興久はこの事を亀井能登守を以て経久へ願い出た。

経久は、原手郡は、富田(安来市広瀬町)近辺なればそれは無理である。

他の場所だったら望み次第、一千貫でも与えると返答した。

興久この由を聞いて、

原手郡は我に子細有って望んだ所である。

これ以外の場所なら、何万貫賜うと雖も望むものではない。

思うに、この度の所望が叶わないのは、是れ偏に安綱(亀井能登守)が讒言の致す所ではないかと覚えたり。

と言った。

こうなったからには、亀井安綱を討って、我が本望を達すべしと、興久は地を叩いて怒った。

そのころ、武運長久の為、杵築大明神(出雲大社)の宝前に於いて、一萬部の法華妙典読誦が行われており、安綱はその奉行として彼の処にいた。

興久はこれを幸いの機会也とて三千余騎を集めて安綱を攻める様である、との風聞が立った。

経久はこれを伝え聞き、興久に愁訴(自覚)あらば、幾度も理を盡くしてこそ詫びるべきであるに、そうはせず、却って安綱を討たんとの結構(もくろみ)更に理解できない、と言った。

また、安綱を討たんと云うに託して、軍士を集め、実は我に向かって弓を引くべき陰謀ではないか、とも思った。

経久は、安綱を討たせてはならないと、牛尾遠江、同じく三河守、卯山飛騨守に二千余騎を付けて、杵築(出雲市)へ遣わし安綱を警固し富田へ引き取った。

興久は、これを聞いて、経久が興久から安綱に心がわりしたことを口惜しがり、色々な理由があると云えども、子を捨て臣に与する様なことがあって良いはずがない、と躍り上がって怒った。

興久は乳人の米原小平内、亀井新次郎(亀井安綱の弟とされている)を呼んで、こう言った。

経久は、安綱が讒に因って、原手郡を興久に与えないのみか、今においては安綱と同類と考えざるをえない。

そして、安綱の讒譛(ざんしん:いつわる)が日を追って酷くなるならば、此の上は我が如何に嘆くとも、経久にはもう、原手の地を興久に与える事は無いだろう。

こうなったら、唯一筋に思い切り富田へ押し寄せ、晴久(経久の孫、興久の兄政久の子)を討って、経久を押し込め申し、悪(にく)き安綱を搦め捕って頸を鋸挽きにし、我が鬱念を散ぜばやと思うが如何、と米原小平内、亀井新次郎に問うた。

米原と亀井は、目と目を屹と見合わせ、暫しは口を閉ざしていたが、ややあって申し始めた。

五刑之属三千罪、不孝より大なるはなし、難報経(仏説父母恩重難報経)にも父母を左右の肩上に持して、千年を歴るとも其の恩を報ずるは能わず、と述べられ、涅般経にも、父母を生育して大苦難をなす、まさに恩を報じて随順すべしと候。

「五刑之属三千、而罪莫大于不孝」
重い刑罰で処罰される人が多いが、その中でも最も重大な罪は不孝であるという意味の諺。
「五刑」とは、古代中国で行われていた刑罰の種類で、墨、劓、剕、宮、大辟を指す。この5つの刑罰の条文は約3,000あり、その罪のうち最も重大なものは不孝であるという考え。

此の他、増一阿含経、心地観経、梵網経等に父母の恩の報じ難きことを説けり。

古の王祥は、親の願いを叶えんと、氷に伏して魚を求め、楊香は父の命に代わらんとて、天に祈りて虎に向かう。

かかる至孝をこそ盡くさせ給はざらめ。

此の他、増一阿含経、心地観経、梵網経等に父母の恩の報じ難きことを説けり。

古代の王祥は、親の願いを叶えんと、氷に伏して魚を求め、楊香は父の命に代わって、天に祈って虎に向かう。

かかる至孝をこそ盡くさなければならない。

と言って、五逆罪について思いを述べ始めた。

五逆罪は、殺父、殺母、阿羅漢を殺す、僧の和合を破ること、仏身を傷つけることの5つの罪を指し、これを犯すと無間地獄に落ちるとされている。

衛の宣公の子に伋(きゅう)と云う者がいた。

父の宣公は後妻の讒を信じ、伋を斉国へ使として遣わし、その路上に於いて殺そうとした。

伋の弟の寿は、この謀略を知り、伋に行かないように勧めたけれども、伋は、父の命に逆らってまで、生を求むるはできない、と言って出かけ遂に殺された。

又、晋の文公が重耳と云いし頃、父の献公が驪姫(りき)の讒に因って人を蒲城(中国山西省)に遣わして討たんとした。

蒲城の人達は防戦しようとしたが、重耳曰く、「君、父の命には校(手向)せずとて、諸士に徇(とな)へて曰く、校する者は我が讐(あだ)とせん」と、言って垣を越えて逃走したという。

また、本朝(わが国の朝廷の)むかし、延喜の帝(第60代醍醐天皇)は、古今の聖主にて、御座しけれ共、菅家(菅原道真)左遷の事に付いて、寛平法皇(第59代宇多天皇の出家後の称)、諫言を納れ給わんかったことなどで、無間地獄に堕在されたといわれた。

延長8年6月(930年7月)に清涼殿落雷事件が起きる。

醍醐天皇自身は難を逃れたものの、心労が重なったこともあり、これ以後体調を崩し、9月22日にはいよいよ病篤きによって皇太子寛明親王に譲位する。
譲位に伴って、後院である朱雀院への遷座が決定されるが、病状の悪化に伴って27日に急遽内裏から右近衛府の大将曹司に移される。28日は急遽宇多法皇の見舞いを受けるが病状は回復せず、翌29日(譲位から7日後)に出家すると同日未刻に崩御した。

又源義朝は勅諚に背き難きに因って、父為義を討ってしまい、末代に至って悪逆の例に引かるるのみか、義朝は忽ち天罰を蒙って、その後家来の長田にあっさりと討たれた。

心なき鳥類ですら、「鳩に三枝の礼あり、烏に反哺の孝あり」とて、親に孝をなし、兄を尊ぶ。

鳩は親鳩より3本下の枝にとまり、烏は雛(ひな)のときに養われた恩義に報いるために、親烏の口にえさを含ませて返すといわれる。

それ故に、梟をば不孝の鳥也とて、諸鳥是を憎むとこそ申し候へ。

古代の日本と中国ではフクロウは母親を食べて成長すると考えられていたために「不幸鳥」と呼ばれていたという説がある。

増して人間に於いてをや。

父に向かい弓を引き矢を放ち、嫡家に対して楯を突き、剣を振るい給はんこと、仏神の照覧するところである。

只宜しくは幾度も孝悌の義を専らとして先非を悔い、例え一旦の憤りに依って経久公がその様に言われたとしても、親子の御中なれば、思い直すべきである。

ところで、虞舜(中国、古代の伝説上の天子)の父は頑なであり、母は​​嚚(おろか)(弟の)象は傲慢な人たちであった。

彼らは一緒になって、舜を殺さんが為、或時は、(舜に)井戸を掘らせ、その上からて土を下し舜を埋め殺そうとした。

或る時は(舜を)(の上に登らせ屋根壁)を塗らせ、(下から)火を放った。

けれども、舜は知略をもってその難を逃れ、敢えて之を恨まず却って​​旻天(びんてん:そら)に号泣し父母の我を愛せざることを​​怨慕し、孝を盡くし、終に彼らは悪巧みを止めたという。

宋の羅仲素(宋の思想家、作家、哲学者)も之を論じて「天下無不是底父母」といった。

是は天下に子を愛せざる父母無き時は、子たる者、孝をだに盡くせば父母の心自ずから悦楽して少しも、悲観、絶望する必要がないことを論じたものである。

但し、子の心に孝なきが故に、父母の所為を不是(認められない)と思うよりことから起こって、ついに其の父を殺すに至ると説けるは、了翁(黄檗宗の僧)の所論である。

今、経久公の御心に不是(過失)は無いが、君の御心に不孝の兆しに因りて、却って経久公の不是が有るように思い召されてかかる大逆無道を考えつかれた。

公、孝心をだに懐き給わば、原手郡の御望み叶い候はず共、何ぞ遺恨と思うべきではない。

曽子曰く、「父母愛之喜而弗忘、父母悪之恐而無怨」

父母が子を愛していたら、子は喜んで、しかも忘れず。
例え父母が子を憎んでいても、子は自分の至らなさを恐れて親を恨む事がない。

之あるを思えば、経久公を恨み給うことを閣(さしお)いて、却りて猶孝行をだに盡くされ候はば、御望みもなどか終には叶うであろう。

且つ原手は富田近辺なれば、御許容なき事、道理に沿ったものであると思う。

昔もさる例(ためし)あり。

鄭の荘公が弟の共叔叚は国を奪はしことを思うが故に、兄の荘公に制と云う所を請う。

しかし荘公は、制の地は巌嶮なるに因りて虢叔(かくしゅく:周の文王の弟)が此の地を恃(たの)んで徳を修めず乱を興さんとした先例があり、この事を恐れて弟に之を与えなかった。

だから、経久公もかかる旧例を思って、興久に原手の土地を与えなかった。

此の心を察すれば、今は却って原手を所望したことを、自ら後悔し、御心を抑えて、経久公の命に任せて、早く他の地をこそ望み給うべきである。

そうせずに、却って、怒りを抱き、安綱が讒言に託して、御父上に向かい、弓を引き給はんとの御結構は、とんでもないことである。

このような事をすると、今生に於いては、天罰冥罰を立ち所に蒙り、武名を朽し給うの三力(仏教用語で、我功徳力・如来加持力・法界力の三つの力)不義不孝の臭名(悪い噂)を盡未来(未来の果に至るまで)に残す。

また、来世に於いては八大地獄に堕在し、阿僧祇劫(あそうぎこう:「数え切れないほど大な数」を意味する阿僧祇に、インドの時間的な最長単位である劫が結びついた語で、途方もなく長い時間を意味する)を経るとも苦患(くげん)を免れることはできない、であろう。

只、御父子が和睦するならば、安綱は自ら亡び果るであろう。

安綱はかく申す新次郎が兄たるに因って、こう申すと疑いが有ると思うが、仏神の照覧全く其儀にあらず。

御父に弓を引かせ給へば、臣も亦同じである。

兄に矢を放たん事何の恐れることあろうか。

安綱を討たせ給はんと思い召し候はば、我等彼が宿所に向かいて、兄弟刺し違える所存である。

家臣二人は、興久の怒りを収め、尼子父子の不仲を解消させようと、一度は言葉を荒くし、怒ってみせ、一度は面を和らげ気を屏めて宥めた。

しかし、かかる悪逆を思い立つ程の人なれば、忠言は却って耳に逆らい大きく腹を据えかねた、ようである。

汝らが意見を容れざるもいかがなり、又生きて在らん程は、此の弓矢をどのようにして思いとどまるべきか。

結局、我ここにて、自害すれば諫言を受けることになり、又、父に向かい弓を引くことにもならない。

はや我が頸取って経久へ捧ぐべしとて、興久は刀に手を掛けた。

二人共、慌てて急ぎ袂にすがり止めたが、もうこれ以上お諌め出来ないと思った。

そして、二人は興久に疑われる事を心配した。

というのも彼らは若年の昔より、経久公の御厚恩海山の如く蒙り、また其の上一門盡く富田に居るからである。

二人は、君(興久)が幼少の昔より、片時も傍を離れず召された御厚恩や愛着があるり、どうして二心などを抱くものか、と思った。

此の上は、例え骨を粉にせられ、肉を膾にせられし共に、全く恐るべきことはない。

いよいよ(興久の)御心を安心させる為なればとて、妻子を證人に出し、今度の合戦には、必ず討ち死にを遂ぐべし、と思った。

杵築大明神の牛王(ごおう)を翻し、天神地祇を驚し奉り、一紙の告文を書きて、灰に成し、酒に入れ、三度飲みて只一筋に思ひ定めければ、興久も快気に打ち笑い、金作りの太刀を両人に与えた。

 

 

 (以下略)

 

<続く>

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